私はUFOにさらわれた

一沢

第1話

 きっと私はUFOにさらわれた。そう確信したのは、母が死に、高校に入学した直後であった。

 私は推薦を得られる程、真面目に勉強も部活も頑張っていなかった。その結果、実力の重みが物を言う一般入試という秤にかけられる事となった。これが失敗すれば、私は高校浪人、或いは中卒労働者。

 それらの存在は、現代では許されざる地位に他ならない。差別的な事など言いたくないが、それは紛れもない事実なのだと漠然と理解していた。無論、そこから芸能に長けた者が生まれる可能性も有るにはあるが、それでもごく僅かな存在しか見出されないと、私は知っていた。

 私の親はよくそう言い聞かせた。

「良い学校に入って、卒業さえ出来ればいいんだ。そうすれば抜け出せる」

 と。これは母の言葉であった。そして抜け出すとは父の監視だと語外の意で伝えていた。けれど────私にとってはどうでもよかった。だって、生まれた時からそういう風に扱われて来たのだ。我慢も何もしていない、そういう生活こそが私の人生の十割を占めていた。それに、そう悪くはなかった。

「学校は楽しいか?俺は運動が苦手だったから、お前には苦労させているかもな」

 そう、苦笑いしながら呟く父の姿を、決して嫌ってなどいなかった。むしろ、「ああ、やはり」と頭の中だけで頷いていた。だから私は父に対して首を振る。その姿にホッとする父の顔も嫌いじゃなかった。

「そうか。それは良かった。体育も立派な科目の一つだ。タイムに拘らず、真面目に受けてくれ」

 この言葉に少しだけ心臓が高鳴ったのを覚えている。何故、タイムが伸び悩んでいると知っているのかと。中学2年の当時、個人により成長の方向性が決まりつつある頃。足の長さや肉付きの具合の結果、足の速さに限らず、あらゆる場面で今までとは違う動作が求められる。その最たる例が体育のそれだ。

「ん?どうした?」

「‥‥小学校の頃と比べると、思うように結果が縮まらなくて」

 そう伝えると、父も父で「ああ、やはりな」と口には出さないが髪をかき上げながら顔を歪ませる。

「俺も、小学校の頃は周りに着いて行けていたが、中学校で自分の限界を悟ったよ。あの頃はタイムなんて気にしないから頑張れたんだろうな。────だけど、手は抜くなよ。それをすると何もかもが面倒になるからな」

「どういう意味?」

 間髪入れずに、言葉が口を衝いた。けれど、この問いに父は何も言わなかった。

 私は、この時の感情を今も忘れていない。子供の時にだけ理解出来る物は確かにある。けれど、成長したからこそ培った経験が応える物もある。これは紛れもなく、父からの贈り物だった。それは少しだけ不可思議で、少しだけ鋭くて危険な物だった。そして父は朝の玄関へと足を運んで行った。

「‥‥余計な事を」

 母がそう呟いた。

「いい?あんな話、真面目に聞いちゃいけないからね。一度も転職も役員にも成れてない人の言葉なんて信じないで。あなたは自分の得意分野を増やしていけば良いんだから。その中で大学の、」

「役員?でも、お母さんも会社の社長とかじゃないじゃん」

 またやってしまった。目に見えて母の瞼が吊り上がっていく。また始まる。早急に嵐が来ると悟った私は、自分の生存本能に従って朝食を胃に流し込み、部屋へとYシャツを握り締めながら逃げ込んだ。

「あーあ、また始まった‥‥」

 母の奇声は留まる所を知らなかった。一体いつから始まったのかと考えるのも面倒だった。お気に入りの柔らかいヘッドホンを耳に付け、朝の身支度を開始する。鼓膜の中だけで響く女性シンガーの声は一切の澱みなく、自分を夢心地へと誘ってくれる。外界から響く金切り声をかき消してくれる。

「だから、誰からも相手にされなくなるんだよ。おじいちゃんもおばあちゃんも、アイツが来るなら帰って来なくて良いって言ったぐらいなのに。どうして気付かないのかな?お父さんも諦めてるし」

 昔は年末年始、夏休みは祖父母の家へと遊びに赴いていた。優しい祖父母は私の話を良く聞き、一緒に遊んでくれた。少しだけ大人になってしまった私は、今だからこそ祖父母のセンスの良さに気付いた。

 紳士服に身を包み、帽子とステッキを持つ祖父、淑女の嗜みを持つ祖母と出掛けたかった。

「遺伝して欲しい所が遺伝してないんだよねー」

 激しい曲調の波の中でも、決して崩れない歌声を頼りに自分はYシャツに腕を通した。そして、苦しくなってきたボタンを無理に閉じていく。タイムが縮まない目下最大の理由が、これだと自覚していた。いつの間にか自分は腰を大きく曲げて、足元を覗き込まなければ爪先が見えなくなっていた。

「爪切る時とかほんと邪魔。苦しいし、重いし。走ると揺れて痛いし‥‥」

 スポーツブラなる物を入手した私は、それ以前とは比べ物にならない程日常生活が容易な物となっていた。それはそのまま学校生活にも通じ、体育は勿論、廊下を歩く時でさえ胸を張っていられた。

 スカートでYシャツの裾を隠し、ジッパーを上げてウエストの差異を確認。昨日とは変わりない事を確認した後、迷いなくネクタイを手に取って鏡の前に立った。油断した、頭を守るヘッドホンが耳から滑り落ちてしまったのだ。

「うっわ。今日はまた一段と酷いね」

 慌ててヘッドホンを掴み上げ、縋るように耳に当てて耐え凌いだ。

 母の絶叫に紛れて、何かを投げ捨て破壊する音が響いていた。それどころか身体全体で怒りを表現しているらしく、床の上でのたうち回って地鳴りを引き起こしていた。「自分の私物が破壊されていたら嫌だなぁ」、と想像しながらネクタイを整え終える。

「うん。リボンは可愛すぎるよね。やっぱし、私にはネクタイ」

 軽く唇へとクリームを塗り付け、唇同士を重ね合わせる。この行為は我ながら色っぽ過ぎると思いながら、ブレザーのボタンを閉め終える。最終準備に重いカバンを肩に背負い、ドアノブを握り締め私室から一歩踏み出した。朝の寒気が顔に当たり、身震いをしながらも私は足を止めなかった。

「じゃあ、行ってくるね‥‥」

 小声で囁きながら玄関で革靴を履く。硬いヒールの音を響かせながら玄関のノブへと歩み寄った。

 ─────ふと、違和感を覚えた。

「あれ?」

 ふと、ヘッドホンを外した。外したというのに、あの声も音も止んでいた。

「‥‥もう機嫌が治ったの?」

 信じられない。一度でも、あの時間が始まったのなら、その日一日は誰かに当たり散らかさない限り続くというのに。遂にテレビといった高級な家電を破壊し、ようやく自分のして来た事に気付き正気に戻ったか。だとしたなら治療の余地ありと、精神科への勧めを再開するのだが。

「朝ご飯のお礼ぐらい言うか」

 革靴を脱ぎ捨て、荒らされているであろうリビングへと歩みを進めた。しん、とした家の中は無人にも感じる。何がスイッチで、あの時間が始まるかわからない私は母とは距離を取っていた所為だ、静かな家とは久しぶりだと思ってしまう。そして、何から言うべきかも、思い付かなかった。

「あ、朝ご飯ありがとう。行ってくるね‥‥」

 まるでマネキンだった。投げ出された手足と力が抜け切った身体は、人間のものとは思えなかった。

「─────」

 息を呑んだ。それが母とはわからなかった。口を半開きにした顔と焦点の合っていない眼球が不気味だったのを覚えている。リビングの扉を開いた時、皆で付く事を想定した巨大なテーブルの傍らに、それが倒れている光景が目に飛び込んだ。ぴくりともしい姿は、人間らしさなど見つけられない。

 それは、母の姿をした、ただの肉塊であった。見つけるだけで脳に焼きつくそれが恐ろしかった。




「頭部打撲────しかも、暴れた拍子にテーブルにぶつけて即死、ね‥‥」

 誰にも看取られずに、最後の癇癪を起こしながら一人逝ったのだと思うと、もっと最後の会話を続ければ良かったと感慨に耽る。けれど、それは有り得なかった。もし、仮に最後の瞬間を知っていたとしても、あの絶叫には耐え難い苦痛を感じていたからだ。これで最後だから、と耐えられなかった。

「ああ、でも、朝ご飯のお礼は言っておくべきだったかも‥‥」

「言ってなかったな。アレは、毎日お父さんが作っていたんだよ」

「え、そうなの?じゃあ、私が洗濯してたのはなんで?」

 自分の洗濯物だけではない。私は、食事を作って貰う代わりに洗濯といった水作業をしていたのに。それを聞いた父は、これで最後だ、と自分自身に言い聞かせる様に大きく息を吸った。

「ごめんな。今まで言わなくて。朝ご飯は、お母さんが作れないって言うからお父さんが作ってたんだ。それがなんでか、お母さんは自分で作ってる気になっていたらしくてな。エプロンを付けて、ユイカより少し早起きをしてキッチンに立っているだけだったんだ。私も、もう限界だったよ‥‥」

 父の口から、初めて限界という言葉を聞いたかもしれない。力無く乾いた笑いをする父は、未だかつてないほど弱々しく、ようやく肩の荷が降りたと伝えていた。私の物心付く前から、それを行なっていたとするならば、それは父にとってどれだけ苦痛であった事だろう。自尊心を傷付けられ続けていたのだ。

「そっか‥‥。実はね、お父さんより早く帰った時は、いつも私がお皿を洗ってたんだよ」

「ああ、やっぱりか。実はな、ユイカより早く帰った日は朝ご飯の食器を、いつも私が洗ってたんだ」

 思わず笑みが溢れてしまった。母が亡くなって、その日の夕飯時。食事の準備も出来ないほど、多くの人達に話を聞き、聞かされた私達は母が生前時はなかなか出来なかった外食を行なっていた。

 何がスイッチで、あの時間が始まるか分かったものではない当時、出来る限り母には家の外へと出させない為に、あらゆる手を尽くしていた。買い物も、私と父が分担。休日は掃除を担当し、母が納得するまで昼食のメニューを聞き続ける。なんでもいいは、私好みの範疇に収まれば良い、といつからか理解していた。

「ねぇ、葬儀ってどのくらい掛かるの?」

「んー、そうだなぁ。葬儀代は軽く100万ぐらいはいくんじゃないかな?葬儀屋とお坊さん、墓石に、もう一度お坊さんに世話になるんだから。後、戒名も頼まないといけないな。忙しくなるし、お金も掛かるけど─────お母さんが、前に壊したテレビとパソコン代よりは、」

 失敗した、父の顔はそれを物語っていた。私が、ああ、やはりと納得した。突然、父が衝動的に言い出した日があったのだ。それも、もっと大きなテレビが欲しいと、私が登校して帰宅するまでの時間で新たなテレビを購入して設置する程の速度で。アレには、そういう理由があったからだった。

「パソコンって、お母さんのノートパソコン?」

「‥‥それと、お父さんの仕事用のパソコンも。アレは、確か50万はしたかな」

 父の書斎。会社の部長職に位置する父は、会社での仕事は勿論、家の中でも仕事に従事していた。いわゆる仕事人間なこの人は、今思うと家に居場所がなかったのかもしれない。そして、それは私にも言える事柄であった――――あの母の時間から逃げ続けた私も、席がなかった。

「そうなんだ‥‥。ねぇ、もし、私達がもっとお母さんと」

「そうかもしれないな。ああ、だけど、それは持っちゃいけない罪悪感なんだ。そう、思う事にしたんんだよ。‥‥お母さんには、悪い事をし続けた。だけど、お母さんも私達に悪い事をし続けた。これは、もう決まっていた出来事なんだ」

 きっと父の言は正しい。正直に打ち明けられなかった私の胸をすく、正論なのだった。父も、今更遠慮する相手がいない今だからこそ、蓄積し続けた不平不満を吐露したのだと察する。

 今まで踏み入った試しのない高級な料理店。しかも、個室に通された時間。母が、あと僅かでも正気であれば、この時間を月一で甘受出来ていた筈なのだ。そう、母さえ――――。

「さて、そろそろ、」

 父がメニューを開き、何か注文しようとした瞬間だった。

 父の胸ポケットに仕舞われていたスマホがバイブレーションを起こし、画面を見つめろと宣言してきた。軽いフットワークで同時に微かに嬉しそうにも、諦めたように見える顔をした父は、

「少し席外す。気に成った物を見つけておいて」

 と、言いながら退室していく。ようやく本業に注視できると言いたげな背中は、冷酷にも映ったが、今までの積み重ねを考えれば第二の人生を始められると意気揚々としていた。

「私も、何か始めてみようかな」

 メニュー表を手に取りながら、そう呟くが自分には陸上の部活があるのだった。短距離走のレギュラーではあるが、それは少ない部員だからこそ叶っている数合わせであった。いっそのこと、母の葬式を言い訳に別の部活へと転部してみようか、けれど、それは無いと被りをふる。

「それじゃあ、今までと変わらないよね。それに絵も音楽も、ましてやオカルトなんて」

 ずっと母から逃げ続けた私は、今にしがみつくより他になかった。それは言い訳の類であるのは承知しているが、根気よく何かを続けるのは、きっと充実した意義のある行動なのだ。胸に刻まれた罪悪感を消す事は、もう出来ない。だから、今の関係を大切にしていこうと決めた。

「寒ブリの照り焼き。美味しそうかも‥‥」

 母が過去に作ってくれたブリの照り焼きを思い出し、涎が口内に充満する。けれど、もしかしたらあれは父の力作であったのかもしれない。朝食は父が作り、恐らく昼食は取らないか出前で過ごしていた母の事だ。夕飯を準備する、という思考さえ落としてしまっていた事だろう。

「ジェンダー論とか、性別的役割とか言うけど、正直何もしてなかったんだからご飯ぐらい」

 不意に、何故か自分は耳に手を当ててしまった。あれ?と驚きながら、自分のした行為を振り返った。意味もなく下を向き、見た目通り耐える姿勢を取っていた自分に、溜息を吐いた。

「まだお母さんは生きてるんだね。————あーあ、いつまで続くんだろう」

 これは母への防御本能であった。自分にとって母とは、近寄りがたい存在であると同時に、常にご機嫌伺いをしなければならない恐怖の対象でもあったのだと、この期に及んで気付かされた。もう一度溜息を吐いた時、足音が迫っている事に気付きメニューを両手でつかみ取った。

「すまんすまん。忌引きについて相談してきたよ、何か気に成る物はあった?」

 優しい父の言葉に頷き、「これ」と件の照り焼きを指し示すと、父は頷いて席へと戻る。

「もうひとつ秘密があったな。前に食べた魚の照り焼き、あれはお父さんが作ったんだぞ。慣れなかったけど、動画サイトで検索して、どうにか形にしたんだ。悪くなかっただろう?」

 そう言い放った父の顔は晴々としていた。ようやく、自分の実力を誇れると謳っていた。





「ねぇ、転校とかしないよね‥‥?」

「転校も、引っ越しもしないよ。そんな事出来る程余裕はないし。それに。もう私達は中三に成るんだから、そんな事してて高校入試で落ちたら大変だから。少なくとも、中学はここを卒業する予定、かな?」

 ほっと胸を撫でおろした友人は、忌々しくも自分を優に超える胸部を持ち合わせていた。制服のブレザーが悲鳴を上げる姿を見つめていると、眼鏡からコンタクトに変えた顔で人懐っこい笑みを浮かべる。出会った当初は、なかなか言葉を発しない子ではあったが、今は違っていた。

「驚いちゃった‥‥。急な話だったね」

「うん、そうかも。私も、今も現実味がないから」

 急にキョトンとした友人の感情が読めず、「えっと」と口を濁していると、我返った友人が慌てて両手をい振り始めた。どうしたのだ?と、首を捻る姿勢を取ると友人は、周りへ視線を走らせた。そして、ゆっくりと呼吸を整える。

「‥‥ごめんね。つらいのに、無理に話させて。まだ三年生までは二か月ぐらいあるから、一緒に沢山遊ぼうよ、ね?」

 ああ、そういう事なのかと自責した。きっと、彼女はこう言って欲しかったのだ。「大丈夫だよ。私は、平気だから」と。現実味がない、などと気丈に振る舞わせた責任を感じてしまったのかもしれない。しかし、悲しかな。母が亡くなってほっとしている私が、心の中心にいるのだ。

「ねぇ、次の大会の事なんだけどね」

 だから、私は相応しい対応を取る事を選んだ。母が死んだ事を悲しみ、別の事に打ち込む自分を周りへ見せる―――――きっと、自分への言い訳でもあった。母がいなくなって然程も悲しんでいないのは、それどころではないからと言い聞かせる為に。期間も良い頃合いだった。

「あ、うんうん!!短距離走の試合、二年最後の大会だね。これで良いタイムを取れば、もしかしたらスカウト。うんん、必ずスカウトを貰えるよ!!だって、もう推薦だって来てるんでしょう?」

「あ。もう知られてた?でもさ、体育系の推薦とかスカウトって頭残念って認めてる感じしない?」

 こう振る舞う事にした。これが正しいのだと顔色で測ったから。

 友人は頬が歪むぐらい笑みを浮かべ、私へと話かけ続けてくれた。彼女は決して悪い人間ではない、むしろ友人である私の心痛を気遣って、慣れない遊びの誘いを敢行してくれた、本当に良い友人。かけがえないの無い人。————そう、彼女は本当に大切な特別な人だった。





「すごいよ!!自己ベストどころか、歴代大会二位だよっ!!」

 我が事のように喜ぶ彼女の顔が眩しかった。それに応え、私も全力で、人前で抱きしめたかったが全身の脱力感がそれを邪魔し続けた。200mという短い距離。直走80m・曲走120mを29秒で走り切った私を、いの一番で褒め称えてくれた友人が水を振り回しながら伝えた。

「あ、ありがと‥‥」

 かすれた声で気付いた彼女が、慌てて水を手渡してくれた。ずっと握りしめていたらしく、ペットボトルの表面が温められている。しかし、それもほんのつかの間で冷却される。キャップすら邪魔だと、水を大きく呷った肩にブランケットを掛けてくれたその人と共にベンチへと戻る。

 肩が震える。走っている最中は、アドレナリン溢れていたらしく痛みも寒気も、何も感じなかった。けれど、ベンチに戻って先輩後輩、マネージャーの友人に、監督、コーチから喝さいを受けている自分の身体は酷く震えていた。自分の骨と歯が織りなす軽い音が煩わしい。

「え、大丈夫?」

「うん、大丈夫だよ。もう一本走れば、きっと新記録を作れるぐらい」

 息が冷たい。心臓が重い。肺が固い。胃が軋む。茨の冠でも被ったように、頭が内へ内へと縮んでいく。真っ先に気付いたのは、やはり特別な人。立ち上がった拍子に、ベンチに座る私の肩を掴み取って横へと引き倒した。咄嗟に唾液と胃液が混ざった物が口内に走ったと気付く。

「救護テントへ運んで!!担架を早く!!」

 生命を削る程の絶叫だった。見た事のない形相をし、丹精で愛らしい顔を砕いて叫ぶ彼女の姿が美しかった。白いぼやける視界の中でも、燦然と輝く綺羅星の如く、身を削って輝く流星めいた彼女の陽炎が眼球に焼き付く。揺れる視界の中、掛けられる言葉も重ねられる布も、ただただ煩わしかった。

「しっかりして!!私を置いて行かないで!!」

 必死に私の手を握る彼女が薄れていく。まただ、また私は逃げようとしている。全力で私に助けてを求めている人を置いて、どこかへ行こうとしている。ふいに、身体が浮き上がった。

「どなたか同乗をお願いします!!」

 白い服を纏う男性が叫んだ。低い大人の声に、友人がすくみ上がったのが見える。そして監督が名乗りを上げ、私と共に車両へと乗り込むとしている。未だ私の手は、あの人が握っている――――だから、私は全力で、星を掴むように手を伸ばし続けた。離せないと言い聞かせた。

「うん、うん!!」

 手は離されなかった。共に手を握り合ったまま、身体が更に浮き上がる。

「ご家族に連絡を!!危険な状態です!!」

 天井を覆い尽くす眩い光に身を焼かれる。私を囲み、回回教のように祈る姿が見えた。

 突き刺される皮膚の痛みも、自分の意思とは関係なく張り裂ける内臓の違和感も、今の私にはそよ風にも届かない。彼女だけではない、この二年間全力で私を指導した監督に、自分の使命を全うするべくあらゆる手を尽くす白衣の人間達もいる。私は、これが最後でもいいと思った。

「しっかりしなさい!!まだ、走りたかったんでしょう!?」

 監督の声が薄れ始めた。どれだけ疲れ切っていても、認められたい一心で心臓に薪をくべ続けられる大人の声。自分よりも二回りの年上の、同じ目線で、経験者の視線で導いてくれた声だった。————それも、たった30秒たらずで消えつつあった。ぷつんと、途絶えてしまった。

「心拍低下‥‥。離れてッ!!」

 寒冷に胸が晒される。けれど、それも一瞬。胸を越え、心臓にまで呼びかける痛みが全身を打った。冷たいつるりとした表面から、更に激痛が撃たれる。胸を抉る痛みに、手で払い退けろと、脳と本能が命令するが腕が動かなかった。血管が凍り付き腕を痺れさせている。

 灯っていた火が燻る。それも瞬く間に全身に伝播した。心臓が言ったのだ、もう終わりでいい。脳が指令したのだ、この身体は限界だと。血流も、あと数秒もせず消え失せるだろう。

「また私を置いて行く気ッ!?」

 その声に、耳が痛んだ。

「私を無視しないで!!私は、あなたの――――――!!!」

 ああ、ごめんなさい。ああ、ごめんね。私は、また耳を塞いでいた。また、本心に気付かないフリをする所だった。私ばかり救われる所であった。彼女達は、ずっとひとりであったのに。

 小さな星々が私を見下ろした。そして手招きをする彼方の世界に、私の身体は召し上げられた。自分と身体が乖離する感覚は、決して悪いものではなかった。重い寒い肉の身体を置き去りにし、軋む過去も仄暗い未来をも無視して登れる頂きからの景色は、壮観であった。

 あれだけ仕事人間であった父がネクタイもせずに飛び込む。あの人が居なくなって以来、葬式限りで疎遠になっていた老夫婦も車で乗り込む。しのぎを削り、最後まで時刻で争っていた人間達も、あの身体を眺めに訪れる。

「ああ、ごめんね。声は聞こえないの」

 星々の中で声は響く。あちらの声は届かず、この声も聞こえない。

「ごめんなさい。私は、星に成るにはまだ早いの」

 輝く星のひとりにそう言い残し、私は肉へと舞い戻る。腕と肩を掴まれた気がした。必死に呼び掛けられる気さえした。ああ、だけど、私にはまだ帰る場所がある、まだ連れ去られる訳にはいかなかった―――――聞き覚えのある絶叫を振り切り、私は狭い世界へと降り立った。







「UFOって信じてる?正確には、キャトルミューティレーションって言うらしんだけどね」

 更に正確に言えば、血液を失った状態で放置された死体を差す言葉であるらしいが、私は若干違う意味で言った。首を捻る特別な人に、私は得意げに更に続けて言った。

「私ね。実はUFOに攫われた事があるんだよ。折角、歴代一位のタイムを残すって所だったのに。きっと、私が美人で優秀だから欲したんだと思うんだー。ほら、スカウトされたし」

「—————スカウトはスカウトでも陸上だよ。それに、一秒の差ってすごい厚いんだよ。‥‥確かにユイカ、ユイカちゃんは美人さんだけど、最近はずっと練習か受験勉強だったから、街に行くこともなかったし。もしかして、ひとりで行ったの‥‥?」

 そう、この顔だ。私が見たかったのは、この本心を孕んだ彼女の顔だった。気を使って作り出す作り笑いなどではない。彼女が、私だけに見せる柔らかくて歯形を付けたくなる顔だ。

「ちょっとだけ寝る前に映画をみたんだ。うん、きっと私はUFOに攫われた」

 両手に花束を持つ私達は、もうすぐ高校生だった。入学を伝えに向かう先へ、真っ先に制服を見せるべく足を運んでいた。私はUFOに攫われた、攫われたから、こんな真似をしている。

「あの映画、意外と面白かったから一緒に見よ。今夜、お父さんいないから」

 頬を朱に染める彼女を、もし星々が見かけたら攫ってしまうだろう。だから、今晩は私が共にいると決めていた。大切で、かけがえのない特別な人。彼女の身体を調べ上げるのは、私だった。

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私はUFOにさらわれた 一沢 @katei1217

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