第3話 珈琲はカタチから

 今夜は集中するために、台所も綺麗にした。お風呂にも入り、スキンケアも入念にした。灯子はソファの隣に置いていた段ボールの蓋をベリベリと開け、中身を一つずつ机の上に出していく。

 コーヒーミル、ドリップポット、ドリッパー、リネンのフィルター、コーヒーミルほうき。そして、今日、仕事帰りにお気に入りの珈琲喫茶で買ったコーヒー豆。


 灯子は珈琲が苦手だった。どうも珈琲のカフェインが合わないのか、船酔いのような感覚を覚えてしまうのだ。しかし、いつかは珈琲をスマートに飲める大人の女性になりたいと夢見ている。

 灯子が突如、珈琲道具を揃えたのにはきっかけがある。先日、出張で上司と入った喫茶店で問答無用でブラックで出された珈琲を飲んだら、今までのことが嘘のように美味しく飲めたのだ。

 嬉しくなった灯子は憧れの珈琲のある暮らしを実現させるべく、珈琲道具を一式揃えた。そして、揃えた今、実行するのが今夜ということだ。


 一杯分の水をドリップポットに入れて、コンロのスイッチをカチチッと鳴らす。コーヒー豆をミルに入れ、ゴリゴリと挽いていく。腕を回すたびに珈琲の香りが鼻腔びこうをくすぐった。ミルの引き出しを取り出し、ドリッパーにセットしたフィルターの中へ挽いた粉を入れる。くつくつ音を鳴らすドリップポットを手に取る。

 一度深呼吸をして、ゆっくりとポットを傾けた。少し入れて、蒸して、再び少しずつ時間を掛けて抽出していく。正直これが合っているのかどうかは灯子には分かっていない。


 最後の一滴がお気に入りのマグカップに落ちる。

 灯子は恐る恐るマグカップに口をつけた。


「……にっが!」


 堪らず舌を出した。珈琲のお供にと用意していたドーナツをかじる。ドーナツがぐん、と甘く感じた。

 あのとき飲んだ喫茶店の珈琲のようにはならなかった。まだまだ修行が足りないようだ。

 灯子は溜息を吐き、はちみつと牛乳を加えた。


「まあ、今は好きなように飲んだらいいか」


 テーブルの上のキャンドルに火を灯し、部屋の電気を消す。

 マグカップとドーナツがキャンドルの火でほんのりと照らされる。

 せっかくだからと、積み本を一冊引っ張り出して、ソファに腰掛ける。


 灯子の思う憧れの珈琲をスマートに飲む女性への道のりは長いが、今、好きなようにカスタマイズした珈琲と好きなおやつと本をゆったり読むこの過程も愛したい。


 今宵の独りカフェはもう少し開いていそうだ。

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深夜、六畳間のカフェで 屈橋 毬花 @no_look_girl

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