第13話
準備を整えるのに十日ほどかかった。
週明け火曜日にはお盆休みが始まる。
各地で夏祭りや花火大会が開かれて、今日もサロンの前を浴衣姿の男女が笑いさざめきながら通り過ぎていった。そんな喧噪も一段落した午後十一時頃。健一はひとり、教室の入り口で上島社長を出迎えていた。
「遅くに呼び出してすみません。実は、社長にお話ししなくてはならないことがありまして。」
健一からの電話でやってきた上島社長に、健一は切り出した。
「ほお、何だろう」上島はにこにこ顔だ。健一が電話で「箱のことで話がある」と伝えたので、ついに箱の秘密を話す気になったのだと予想してやってきたのだ。
「この間、リラクボックスの仕組みをお聞きになったとき、ぼくがはっきり答えなかった理由なんですが…実はあの箱、公園で拾ったんです」
「は?」
「すぐそこの公園で、ベンチに置いてあったんです。空っぽのただの箱なんですけど、一度覗いたらすごく気分が良くて、友だちにも見せたら、やっぱり同じように、気分が明るくなったと言うので、もしかしたらこれは、何かあるのかと思って、拾ってきたんです」
「…」
「だから、仕組みと言われても説明できないんです」
上島から笑顔が消えた。
「そんな…健一君、いくら何でもそんな話で納得できるわけがないだろう」
健一はしおらしくうなづいて
「そうですよね、信じてもらえませんよね。でも事実なので仕方がないんです。どうぞご自分の目で確かめてください」
健一と上島はリラクルームに移動した。健一はポケットから出した鍵で南京錠を開け、箱を固定しているチェーンから外して上島に手渡した。
「どうぞ、持ち帰ってしらべてください」
上島は箱を受け取った。片手で持てるくらいの大きさの木の箱で、前面に穴がある。振ってみたが何も入っていないようでとても軽い。
「わかった。」
「箱がないとお客さんが不安になるといけないので、よく似た箱を代わりに置いておきます。一度体験すればあとは必要ないので。」と健一は説明した。「だけど、そちらの本物が戻るまでは新規の予約は取りませんので、調査が終わり次第、返してくださいね。一週間くらいでいいですか?」
「ああ、わかった。いいよ一週間で」
上島はあいさつもそこそこに箱をかかえて帰って行った。
会社に戻ると、上島は、上島工業の開発課の技術者に頼んで箱を綿密に調べ始めた。内側も小型カメラを入れて隅々まで観察した。磁場や熱、放射線量までチェックしたが、異常はなし。材木の内部に何かが仕込まれているか、なんらかの化学物質がしみこんでいる可能性はあったが、さすがにそれは専門機関に依頼しないと調べられない。
「どう見てもただの巣箱にしか見えないな」
井上が言うと、調査を手伝っていた開発課の山田も
「副社長、これ、ホームセンターとかで売ってる野鳥用の巣箱とちゃいます?穴があいてるし、中をのぞけるように天井板外せるようになってますやん。」
と言う。関西出身らしい。
「よく似た箱、アマゾンに千円で売ってますけど」とパソコンの画面を見せる。
「ほんとだ…ただの巣箱がどうして?どうもおかしいな。」
「だってこの箱、隅に小鳥のマーク入ってますやん、絶対これ巣箱ですて」
井上は、箱の隅のちいさなマークとアマゾンの画面に掲載された写真を見比べた。たしかにどう見てもまったく同じ巣箱のようだ。
上島は考えを巡らせた。
待てよ。この箱が本物だという証拠はどこにある?おれが教室に行く前に、あいつが本物の箱を偽物のこの箱と取り替えておいたのではないか?どうせ効果は目に見えないから偽物でも分かりはしないと、あなどられたのではないだろうか。
上島はふと思いついて自分の携帯を取り上げた。教室に設置しておいた防犯カメラの映像はインターネット回線で遠隔地からでも見ることができることを思い出したのだ。
「まさにこういう時のために設置したんだ。ようやく活用できるな」
上島は日付けをさかのぼってリラクボックス内の映像を見ていった。そして、土曜日の、上島が教室に顔を出す直前の十時過ぎに、健一が箱を持って入ってきて、前からあった箱と取り替える一部始終を目撃した。
「あの野郎…」
画面の様子では店内は真っ暗になっている。防犯カメラが作動しないように、カメラの電源だけでなく、店のブレーカーを落としたのだ。その証拠に懐中電灯を持って歩いている。
「ふん。停電の時は非常用電源に切り替わるのを知らないんだな、あの野郎。今度はこっちが出し抜いてやる」
上島はにやりと笑い、携帯電話でRINAを呼び出した。
「っていうわけで、さっき上島から電話があったからさー、あんたに言われたように答えておいたよ。本物の箱には小鳥のマークなんて入ってないってね」
RINAからの電話に健一は満足そうにうなづいた。
「ついでに、教室の入り口の鍵と、箱についてる南京錠の鍵をコピーするのも頼まれたから引き受けておいたよ。明日中には作って上島に渡す。」
「ありがとう、協力に感謝するよ」
「どういたしまして。あの野郎にぎゃふんと言わせるならなんだって手伝うよ。もっと他にやることないの」
「今のところだいじょうぶ。何かあったらまた頼むよ」
健一は電話を切った。相手は予想通りに動いている様子だ。
RINAが上島と不仲らしいという情報は、意外にも小島さんからもたらされた。というか正確には、小島さんがそう言っていたと、内田かおるが健一に伝えた。内田かおるは宇宙人のくせに、勝手に小島さんとランチしたり買い物に行ったりして、今や健一より頻繁に小島さんと会っているらしい。
「なんだおまえ、抜け駆けすんなよ」
「なによ、あたし健一みたいにすけべな下心ないもん。女同士の友情だし」
内田かおるはそう言って、ぷぷ…とひとり笑いをした。
(うぜぇこいつ)
ともかく、小島さんが駅前を歩いていたら大きな袋をかかえたRINAにばったり会ったというのだ。
「RINAさんね、上島社長にもらったブランド品を買い取り屋に持って行くってぷんぷん怒ってたから、社長とケンカでもしたのって小島さんが聞いたら、上島社長があたしに近づいたのは教室の様子を調べるためだった、自分は利用されたって。それでもって、健一さんに会わせる顔がないから教室には顔を出せないって言ったって。」
その話を聞いた健一はただちにRINAに電話を入れた。そして計画に一枚噛んでもらうことにしたのだった。
上島がこうしてRINAに鍵を要求したからには、教室に侵入するのは間違いない。次のステップに備えて、防犯カメラにも少し細工をしてある。
防犯カメラの映像は、ハードディスクに録画されると同時に、インターネットにも流され、管理者のパソコンでも遠隔でモニターできる。そこに健一は自分のアカウントを追加してもらった。作業をするのはあのIT技術者の藤岡拓真くんだ。小島さんに恋心を抱いて健一をあわてさせた藤岡くんはその後、同じ事務所の坂井さんという女性エンジニアにも恋をした。プログラミング用語で会話できるふたりは、いっしょに技術系のカンファレンスに行ったりして技術系デートを楽しんでいるという。この教室の三回のセッションはこんなにも人を変えるのかと、話を聞いた健一は驚いた。
「まかせてください、ぼく配線も好きだし、ソフトウェアの改造も趣味なんで」
意外に頼りになる藤岡君なのだった。
それから数日の間、健一は毎晩自分のマンションで防犯カメラの映像をチェックしていた。睡眠不足でもうダメだと思ったある日、深夜二時頃に画面に動きがあった。
真っ暗な画面に白く映るその人はまぎれもなく上島社長で、思惑通りに箱を取り替えるところだった。眠気は一瞬で吹き飛んだ。
健一はただちに一一〇番に通報し、自分も部屋を飛び出した。
まさか警察が来るなんて予想もしていなかったのだろう、上島はのんびり作業をして帰る前に戸締まりまでしていたので、箱を持って外に出たところを警察官に職務質問され、そのまま警察署に連れていかれたらしい。驚くような早業だが、たまたま近くをパトカーが通りかかっていたためすぐに対応できたのだと、あとで警官が教えてくれた。
健一は通報後、教室の前で警察官と落ち合い、ざっと被害を確かめたあと、警察署で事情聴取を受けた。健一の仕事内容や、今回、泥棒に取られた箱の中身についても詳しく事情を聞かれたため、意外に時間がかかった。
そのあと現場検証が行われるというので健一は教室を臨時休業にして、予約客に電話を入れるなど対応に追われた。
警察は、健一のパソコンに保存された防犯カメラの録画映像も証拠として押収した。上島は非常用電源のコードを抜いて録画が残らないようにしていたが、実は健一がカメラの電源を新しくひいて、インターネット経由でパソコンに録画するように細工をしておいたため、カメラは動作していたし、映像もばっちり残されていたのだ。
内田かおるは教室に出入りする警官たちを珍しそうに見ていたが、青い服の鑑識が指紋採取をし始めると夢中になって、後ろをついて歩こうとするので健一が見かねて引き留めた。
「やめろよ、怪しい行動」
「だって面白いんだもん。ねえ見て、粉かけてる。」
「指紋を採るんだよ」
「指紋って?」
「えっ…もしかして」健一は内田かおるの手をつかむと、防犯カメラに映らない部屋の角に引っ張り込んで、指先を確かめた。案の定、かおるの指先はつるっとして、指紋どころかシワさえない。
「手相もない…」
「あたしの手、なにか変?」
「あのさ、人間の手にはね、シワとか指紋とか、いろいろあるの」と健一は自分の手のひらをかおるに見せた。
「わぁほんと。気がつかなかったわ。すごいね、あたしも指紋作らなきゃ」
こんな会話、誰かに聞かれたら大変だ。
その日のうちに、盗まれたのは箱だけだと確認されて、教室は翌日から営業可能になったけれども、肝心の箱は証拠品として警察にあるし、さきに上島に預けた小鳥のマークが入った巣箱のほうも戻ってきていない。箱なしで営業できないこともないが、ちょうどお盆休みで予約も減っていたので、思い切って日曜日まで四日間お休みすることにした。六月にオープンして以来初めての休業日である。健一は防犯カメラの電源を落とした。もちろん二重にしかけてある予備電源も。
「これで安心!」
「よーし、祝勝会だ!」
奥のパーテーションを少し動かして休憩室のスペースを広げると、そこに隣の喫茶店から取り寄せたサンドイッチやサラダを並べた。
警官を見たとたんにどこかに姿を消していたホームレスの成沢も戻ってきて、冷えたビールやジュースを買い出しに行ってくれた。
宇宙人の内田かおる、健一、ホームレスの成沢、そして本屋に行くと言って家を抜け出してきた小学生の遠藤博樹が、即席パーティのテーブルを囲んだ。
内田かおるはひさしぶりに受付嬢の姿を脱ぎ捨てて、当初のグレータイプの宇宙人姿になったり、猫やカラスになったり、あげくに、RINAの物まねまでして「あんたら、あたしをなんだと思ってんだよ、なめんじゃねえよ」と啖呵を切ったりして一同を喜ばせた。かおるはまた、地球へ来て初めてビールを飲んで「おいしー!」と大はしゃぎ。そのうちに成沢が椅子に飛び乗って歌い始めて、健一も大いに酔っぱらった。
缶ビールを何缶か飲み干したあたりで、内田かおるに異変が現れた。動作がぎこちなくなり、ろれつも回らない。
「あれ、酔っぱらっちゃった」
「宇宙人にビールを飲ませちゃいけなかったかな」
「のびちゃったよ」
「かおる!おい、大丈夫か!」
テーブルに突っ伏したまま、溶けたチーズのように平べったくなってしまった宇宙人の内田かおるに、みんなで呼びかけたが返答がない。
「おい、かおるったら」
「急性アルコール中毒じゃない?」
「救急車、呼んだほうがいいかな。」
「えー、でもこの状態じゃあ…宇宙人が溶けちゃったんですけどって?」
「どうしよう…」
そのとき、入り口でちりんとベルが鳴った。一同は顔を見合わせた。入り口の鍵はかってあるはずだ。コツコツというヒールの音が近づいてくる。みなの視線は休憩室の入り口に集中した。
「ごきげんよう、みなさん」
入ってきたのは紺色のスーツを着た中年の女性。黒い髪を耳の下でまっすぐに切りそろえて、背筋を伸ばしたその姿に、健一はどこか見覚えがあった。
「その子がいろいろご迷惑をおかけしました。私どもで引き取らせていただきます」
「その子って、これのことか?」
ホームレスの成沢が溶けた内田かおるをさして言った。
「はい。申し遅れました。わたくし、月基地の中学校でその子の担任している と申します。」
女は名前を名乗ったが、一同にはまったく聞き取れなかった。きっと人間の耳では聞き取れない周波数なのだろうが、なまじ変な音を聞かされるくらいなら聞こえないほうがましだ。健一は
「じゃあ、あなたもしかして宇宙人…ですか?」
「はい」
「で、この、内田かおるの先生?」
「はい」
「ああよかった、実は今、彼にビールを飲ませたらこんなんになっちゃって」
健一はぺしゃんこになった内田かおるを指さした。先生はほほえんで
「いいえ、アルコールのせいではありません。わたくしがこの子の変身能力を制限したのです。逃げ出せないようにね」
「えっ」
「この子がここにいる事情はおおよそ本人からお聞きかと思いますが、未熟な子どもたちを地表に下ろすにあたっては、わたくしどもにも多少のルールがございまして。この子は黙認できる範囲をかなり逸脱してはおりましたものの、さきほど、明らかなルール違反が確認されましたので、不本意ながら、実習は中止とし本人の回収に伺った次第です。健一さん。」
宇宙人の先生に名前を呼ばれて、健一は思わず直立不動になって「はいっ」と返事をしてしまった。
「あなたにはいろいろお世話になりました。おかげさまで、本人も貴重な体験ができましたし、私どもにとっても大変興味深いデータが収集ができました。本来でしたら本部から正式にお礼に伺うのが筋ですが、都市部では近年、あまり大規模な接近遭遇は避ける申し合わせになっております都合上、わたくしが月基地の名代としてお礼をさせていただきます。健一さん、みなさん、ほんとうにありがとうございました。」
棒立ちになっていた成沢と博樹が、先生に応えておずおずとおじぎをした。
「それでは失礼して、この子を連れて帰ります。健一さんにはこれを…」
先生が一枚のDVDを手渡した。
「面白い映像が入っていますので、記念にお渡ししておきます」
「ちょっと待ってください、かおるはいったい、どんなルール違反をしたんでしょうか」
「それは…テレビ放送を通して宇宙人である証拠を晒してはならない、通称テレさら禁止法というルールです。この者は不用意にもニュース映像の中で醜態をさらしております。」
先生が差し出した携帯画面を一同はのぞき込んだ。ローカルニュースの映像だ。今朝の現場検証の様子が映っている。
「ここです」
先生が止めた動画の左端に小さく、グレイタイプの宇宙人がくっきりと映っている。動画になってしまえば肉眼では見えないほどの短い時間だが、興奮した内田かおるはうっかり、もとの姿に戻ってしまったのだろう。
「…これは…」
確かにテレビの前で姿を変えてしまうのはまずいだろう。しかし…
「今、テレビ放送でとおっしゃいましたが、インターネット配信なら良いのですか?」
横から博樹が口をはさんだ。
「インターネットはその性質上たくさんのポイントで改ざんが可能なので、あえて禁止はしていません。実際、ネット上の動画に本物が映っていても、どうせ画像を加工したんだろうとほとんどの人が信じませんので、まあ問題なかろうという判断です」
「納得です」
「それではみなさん、これにして失礼」先生は内田かおるの抜け殻をコートみたいに腕にかけて、優雅にお辞儀をした。
「ごきげんよう。」
宇宙人は去った。
あとには、内田かおるが飲んだビールの空き缶が三個、残されただけだった。
翌日、警察から呼び出しがあった。
健一はひとりで警察署に出向いた。
運転免許の更新に来たことはあったが、窃盗事件の窓口は隣の建物だと教えられた。私服や制服の警察官たちはすれ違うたび「こんにちは」「ご苦労さまです」とさわやかに声をかけてくる。たどりついた受付には警察官とは思えないごく普通の私服の女性がいて、担当者に取り次いでくれた。
私服の刑事に会うのは生まれて初めての経験だ。島岡と名乗ったその刑事は健一に告訴の意思の有無を尋ね、健一が盗られたものさえ戻ればそれでいいと答えると「わかりました」と言って隣の部屋に消えた。しばらくしてプラスチックのトレイを持って戻ってくると、健一が仕込んでおいた箱とその中身を健一に返し、受け取りのサインを求めた。
「上島さんはどうなるんですか」
と健一が尋ねると
「このあとすぐに釈放の予定です。確かに上島さんはお金に困っておられたようですが、一方で上島さんが教室のオーナーだという言い分にも一理あって、窃盗罪が成立するかどうか微妙なんですよね。まあ、オーナーなのになぜ知人女性に鍵を複製させたり夜中に忍び込んだりする必要があったのか、そのあたりに突っ込み所がなくもないですが。どちらにしても、上島さんには別件でお聞きしたいこともあったので念のために一晩、お泊まりいただいたというわけでして。松田さんに関してはこれですべて終わりですのでご心配なく。」
健一は箱をかかえて警察署をあとにした。
教室は休業日だが、他に行く所もないので箱を持って教室に戻った。
鍵をあけて中に入り、店内の照明とエアコンをつけても、店は生き返らなかった。いつもうるさいくらいに喋りながら歩き回っていた内田かおるがいないと、ここはまったく知らない場所のようだ。あんなにいろいろなことがあったのに、ちゃんとさよならも言えずに別れてしまった。健一は自分もかおる同様、ぺしゃんこの抜け殻になったような気がしてソファーに沈み込んだ。
しばらく、壁にかかった時計の針がゆっくりと動くのを見ていた。
健一の視線が、コーヒーテーブルの上の、透明なプラスチックケースに入ったDVDに移動して止まった。健一さんにと、宇宙人の教師が置いていったものだ。あれはおとといの出来事なのにちっとも現実感がない。あの人はどこにでもいそうな普通の女性に見えた。あれが宇宙人なら、そこいらを歩いている連中の誰が宇宙人でもおかしくない。本当に、内田かおるが言うように、この世界にはすでにたくさんの宇宙人がやってきて、人間になりすまして暮らしているのだろうか。そうかもしれない。内田かおるのような未熟な学生しか、自分の本性をさらすような不用意な真似はしないのかもしれない。
健一は立ち上がり、受付カウンターのパソコンにDVDを差し込んだ。そこに録画されているのは防犯カメラの映像だった。一番奥の休憩室にとりつけたカメラのものらしく、成沢と内田かおるがコンビニ弁当を食べながら何か話している様子が映っている。話の内容はよく聞き取れないが、食べ終わった内田かおるが立ち上がって身体を伸ばしたと思ったら際限なく伸び続けて、ついには部屋の端から端まで身体が伸びてしまい、その両端を成沢が持ってリボンのように結んで、かおるは身体を元に戻せなくてぎゃーぎゃー叫び、笑い転げた成沢はだんだん形がゆるんで、何かの妖怪のような姿に変わっていく、という一部始終が録画されていた。非常に気持ちが悪く、とても他人様には見せられない。
「…成沢さんも宇宙人だったのか…」
もう誰も信じられないな、と思うと同時に、どうりで成沢は内田かおるが宇宙人だって知っても驚かなかったわけだと納得もした。そういえばもうひとり、小学生の遠藤博樹も内田かおるが宇宙人だと知っていたが、もしかして彼も宇宙人なのだろうか。健一は、博樹と母親の美奈子の顔を思い浮かべた。まあ、宇宙人であろうがなかろうが、母子が円満ならそれでいいか。
「あいつら、上島にこういう姿を見られないように、藤岡君に頼んで防犯カメラの映像を差し替えていたんだな…」
だから健一が藤岡君に防犯カメラの細工を頼んだとき、あんなに手慣れていたんだ。健一は我知らずほほえんで、映像を何度もリプレイした。
さて、おれはこれからどうしようかな、と健一は思った。
内田かおるはもう戻っては来ないだろう。彼、あるいは彼女が置いていったこの箱がいつまで効力を保っているのか、その効果を測定する方法がない以上、あてにはできない。そんな不確かなものに頼って教室を営業するのは無謀というものだ。それにもう内田かおるのためにたくさんの人に箱を覗いてもらうという目的もないし、一億円稼ぐという自分の目標も、上島と金のことでもめてくじけてしまっていた。
「あのとき社長から金を借りずに、自分の貯金を使うか、借りるにしても複数の人から出資してもらう形できちんと始めればよかった」
と小さく後悔がよぎる。そういえばオフィスKの井上社長からも、金のことはきっちりしたほうがいいとアドバイスされたっけ。
しかし、もしそういう形で上島の金を使わずに始めたら、中央エージェンシーの社長が出向の形でやっていいと許可してくれることもなかっただろうから、きっと会社をやめることになっただろう。当時の自分が、海のものとも山のものとも知れない、そのうえ数ヶ月しか続けられなと最初から分かっているような仕事を、会社をやめてまで始めたかどうか大いに疑問だ。アイデアを考えるだけで実行することはなかったかもしれない。あのとき上島社長が軽く「おれが金、出してやるよ」と言ってくれたことが自分の背中を押したのだ。多分、新しいことを始めるのに必要なのは勇気だ。勇気さえあれば資金の調達はクリアすべき課題でしかない。しかし資金がどれだけあっても勇気がなければ一歩は踏み出せない。
ああ、面白かったな、と健一は思った。
ここでゲームは終わりだ。明日、上島社長に教室を閉めると伝えよう。
そのとき。健一の思いが聞こえたかのように。ドアベルを鳴らして本人がやってきた。
最後に会ったときとは打って変わってやつれた表情をしている。警察に留め置かれたのがそんなに辛かったのだろうか。健一は無言で上島を迎えた。
「よお」
上島はしんとした店内を見渡して、白いソファーに腰掛けた。
「お前、おれをはめたな。」
友好的とは言えない態度である。
「なんの話でしょう、私は何も」
「 言っておくが、おれが持ち出した木の箱はおれのものだぜ?警察でもそれは認めた。まさか中にあんなものが入ってるなんておれは知らなかったんだ。」
健一は黙って受付カウンターの下から木箱を出して、カウンターの上に置いた。小鳥のマークは入っていない。上島が持ち出したのではなく元から置いてあった箱だ。
「どうぞ。これが本物です。持って行ってください、ぼくは要りません。」と健一は言った。
「だけど上島さん、この教室は確かにあなたが出資したあなたの持ち物かもしれないけど、この箱はあなたのものではありませんよ。これはそこの公園でぼくが拾ったんです。」
健一は続けた。
「それからもうひとつ、あなたに言わなかったことがあります。この箱の持ち主のことです。」
健一はパソコンのモニターを上島に向けた。
「受付をやっていた内田かおる。実は彼女が宇宙人でこの箱の持ち主だと言ったら信じていただけますか?」
と、エンターキーを押した。
夏が終わり、空の色が薄くなっても暑い日が続いた。
ようやく秋が感じられるようになったのは、九月も中旬を過ぎてからだった。
公園の木々はよく見ると緑色のどんぐりをたくさん実らせている。
健一はさまざまな手続きを終えて、今、オフィスKで退職の挨拶を済ませたところだ。引っ越しの荷物は昨日引越屋が運び出し、マンションは今日の午前中に退去の手続きを済ませた。あとは自分が電車に乗るだけだ。
駅前の大通りに出て、教室だった場所に向かう。
あのあと上島は、宇宙人の箱を含めて教室の経営権やその他の権利をすべて放棄すると、税理士の高田を通して連絡してきた。高田の話から想像するに、上島が教室から手を引いたのは箱を作ったのが宇宙人だと信じたからではなく、妙な投資話に一千万円以上の金をつぎ込んでいるのが父親にばれて、すべての活動から手を引かされたということのようだ。意外だったのはオープン費用だけでなくオープン以後の売上も放棄するということだったが、この店で息子が警察沙汰になったこともあり、父親としてはこれ以上かかわりたくないからその金であとの処理を頼むという意味合いだと高田から聞いて、健一は、井上浩一が実印をついたその債権放棄書を受け取った。
それにしても、教室の閉鎖を知った遠藤美奈子が、あとを引き継ぎたいと言うとは思いもしなかった。教室名を「チャイルドボックス」と変えて、子どもと母親にターゲットを絞った能力開発教室として運営したいという。健一は秋月不動産に手数料の値引きをかけあった。備品はほとんどそのまま使ってもらえることになった。看板と新しいパンフレットをオフィスKに発注して、健一の仕事は終わった。
教室のドアをあけるとちりんとベルが鳴った。
「いらっしゃい」
と出迎えたのはこの教室に一番似合わない女、RINAである。
品のないがらがら声は相変わらずだが、派手な化粧は控えて服装もコンサバな雰囲気にまとめている。
「にいさん、そういう服だと若く見えるね」
ビジネススーツは引越荷物といっしょに送ってしまったので、健一の服装はいつもの普段着、Tシャツにジーンズ、そしてコットンのシャツだ。
「RINAも似合ってるよ。しゃべらなければいいとこのお嬢さんなのに」
健一も言い返した。
RINAが遠藤美奈子の教室のスタッフになると聞いたとき、ふたりがいっしょにやるのは絶対無理だろと健一は思ったのだが、聞くところでは案外うまくいっているらしい。主婦で子育て中の美奈子と、独身で時間の自由がきくRINAがローテーションを組んで、サロンはうまく回っているようだ。それぞれが担当する時間帯によって客層もがらりと違うのだと、遠藤博樹がメールで教えてくれた。
「上島にはむかついたけど、あたし目が覚めたよ。中途半端なとこで手を打つのはやめて、本物の金持ちの男をつかまえるんだ。」
「本物の金持ちって、どれくらい?」と健一が聞くと
「まず、惚れた女にはエルメスのバーキンくらいぽんと買ってよこさなきゃ、だめよ。実はさ、上島がくれたブランド品、査定したら全部偽物だったんだよね。その時点で、ああこの男はダメだって分かったの。ま、変な男とかかわるよりこうして美奈子さんにくっついてたほうがお金持ちな人たちと知り合えそうだしさ。あたしも将来エステサロンくらい持つつもりだから、今からお金持ちの奥様と仲良くしとかないとね。」
と答えた。どうやら売れっ子モデルの夢はあきらめて実業家をめざすことにしたようだ。
「健一さんもがんばりなよ!あんたは押しが弱いから。男はやるときゃやらないと!」
RINAに送られて健一は教室を出た。ちらっと空を見上げたが、舗道の少し色褪せたプラタナスにちいさな巣箱が取り付けられて、ときおりスズメが中を覗いていくことには気づかなかった。
来た道を少し戻り、あのベンチに座って今一度公園を眺めた。大きな樹木と低木の植え込みで囲まれた公園である。真ん中にはちいさな空き地、周辺に小さなシーソーや砂場など、幼児があそべる場所がいくつか作ってある。健一はベンチの下を覗いたが何も見当たらなかった。
上を見ると高い空に広がったうろこ雲がわずかに茜色に染まっている。あと一時間ほどで仕事を終える小島さんと、ここで待ち合わせだ。
健一は胸のポケットから小さな箱を取り出した。
上島が盗み出した箱に入っていたのはこれだ。
中には真珠とダイヤモンドの指輪。
おれの人生はまだ始まったばかり。
ここからがほんとうの勝負だ。
公園で箱を拾ってはいけません @fusigineko
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