第12話

 午後は出張なのでこのまま喫茶店で昼食を済ませてしまおうと考えていた健一だが、上島からの宣戦布告に食欲など吹っ飛んでしまった。教室に戻って、出張ワークのために箱をチェーンから外してナイロンバッグに入れると、目的地の寺までタクシーに乗った。ショックが強すぎて、ぎらぎらした日光に焼かれながら灼熱の舗道を歩いたり、地下鉄で移動したりする元気が出なかったのだ。健一はクーラーのきいたタクシーで、膝の上にのせたナイロンバッグをかかえて放心状態だった。

 上島社長とはもう五年ほどの付き合いになるが、いつも兄貴のように声をかけてくれて、公私にわたって世話になった。上島が紹介してくれた何人もの社長から新規の広告の仕事をもらったこともあったし、胸のあいたロングドレスを着た美女のいる高級なクラブに連れて行ってくれたのも上島だった。そんな仲だから、教室を開くときに資金を出してやると言われて、何も聞かずに甘えることができたのだった。

 それだけに、さっきのような言われ方は辛いものがあった。

 

 今日の出張は、善通寺という寺で行われている座禅道場だ。教室に来たお客さんがこの寺の住職の奥さんだった縁で、出張ワークをすることになった。五十代とおぼしき、えびすさんのような笑顔の優しい住職は。座禅に入る前の子どもたちに集団でリラクボックス体験をさせたいという希望だった。座禅道場は年中やっているが、夏休みの座禅道場は子どもだけが対象なので、毎年、子どもたちが走り回って収拾がつかなくなるらしい。リラクボックスで少しでも落ち着いて瞑想にはいる準備ができれば、と住職は言う。

 予定より早めに到着した健一は、薄暗い本堂に上がり、太い柱の脇に持参した箱と、自前の家庭用プラネタリウムを置いた。少しでも動く映像があったほうが、集中に入りやすいだろうと思ったのだ。奥さんに借りた電源コードをつないでスイッチを入れると、本堂の中にぼんやりとした光がうごめいた。ご本尊や柱や高い天井にはピントが合わないので正確な星図は映らないが、淡い光がゆっくりと移動していくのはそれなりに幽玄だ。静かでひんやりした本堂の床に座って、薄い光を見ながら、健一は自分の煩悩に身を委ねた。


 最初の煩悩はもちろん、上島社長にどう対処するかだ。

 社長はおれが箱の仕組みを知っていると思い込んでいるから、それを言わないのは隠すつもりだとしか思えないだろう。ここで、あれは宇宙人の技術で作られた箱だなんて言ってみろ、ばかにするなと激怒に決まってる。火に油。泣き面に蜂だ。さすがのおれも、この件をどう言い逃れるかまったくアイデアが浮かばない。箱の秘密を話さずになんとか穏便に済ます方法はないだろうか。

 次の煩悩は、実家のことだ。昨日また母親から電話があった。

 父親が心配だから不動産業の後始末だけを先にやりたいと言うのだ。無理もない。母親は不動産業にはノータッチだっただけに父親がいるうちに廃業してしまいたいのだ。だけど、本当にそう思ってるならさっさとやったらいいのに、なぜ何度もおれに電話してくるのだろう。もしかしたら母親はおれに跡を継いで欲しくて、こうしてプレッシャーをかけてくるのではないだろうか、とも思える。健一は故郷の町を思い浮かべた。確かに廃業するかどうかはとうさんが決めることだけど、おれにひと言の相談もなく廃業したら、おれはなにか理不尽なことをされたように感じるだろう。このことはやはり、自分にも関係のある大切なことなのに違いない。

 そして最後の煩悩は小島さんのことだった。

 小島さんはきっとおれのことを「好き」だけど、正直、おれの頭の中にちらつくのは「結婚」の二文字だ。これ以上彼女に近づいたらおれは多分、結婚したいくらい小島さんを好きになってしまうだろう。だけど、おれが今、誰かと結婚するなんてことがあり得るだろうか。これからどこで何をして暮らすつもりか、自分でも分からないのに、何も言えるわけがない。うんと若い頃のようにちょっと付き合うだけってことならいい。でも、確かな約束もできないのにこれ以上近づいて、もし後戻りできないくらい小島さんのことを好きになってしまったらどうしよう。または、万が一だけど、小島さんのほうが結婚したいくらいおれのことを好きになってしまう可能性もあって、それはそれでやっぱり、おれはどうしたらいいか分からない。そんなことを少年のように悩むのはどうかと思うが、やはり考えずにはいられない。


 どの問題も一様に、健一に何らかの選択を求めているのに、今の健一には答えるすべがない。今までの人生でも、受験とか、就職とか、あるいは仕事が思うように取れないとかいろんな課題に直面して、その都度ひとつひとつクリアしてきたつもりだが、今直面している問題にはどう対処したらいいのかさっぱり分からない。いったいどこから手を着ければいいのだろう。解決の糸口は見つかるのだろうか。考えれば考えるほど迷路にはまる健一だった。



 やがて八月に入った。季節はすっかり夏本番だ。

 早朝でも照りつける日差しが肌につきささる。街路樹では蝉の合唱が始まっていた。

「防犯カメラ?」

「防犯カメラだってさ。」

「なんで突然?」

教室前の舗道で、受付嬢姿の内田かおるとホームレス成沢が、作業員が脚立を立てて作業する様子を見上げている。夏用に、麻の作務衣といぐさの雪駄を新調してもらった成沢は、オールバックの銀髪を後ろになでつけ、まるで書道の大家か何かのような風格を醸し出している。すでにホームレスには見えない。成沢はこの小ぎれいな身なりのせいで教室で働いているのがばれて、これはボランティアだと言い張ったものの認められずにホームレス用のシェルターから追い出され、ほんとうのホームレスになってしまった。今は教室奥の休憩室で寝泊まりしている。

「防犯カメラをつけるのは上島社長の指示だそうだよ。」

「玄関に設置するのは分かるけど、リラクボックスの中につけるのはどうして?お客さんが箱を盗むって思ってるのかしら。」

「なんでだろうね」

「カメラがあるのにリラックスなんかできるかなぁ。まあ、実際はリラックスしてもしなくても関係ないんだけど。」

ふたりは脚立をすり抜けて店内に入り、開け放したリラクボックスをのぞき込んだ。

「あ、ほら、ここのは目立たないように小さいやつをつけてるよ。しかもドアの上だから、お客さんは気づかないんじゃないかな。泥棒の監視っていうより盗撮っぽいな」

「なんだかイヤな感じ。たとえ背中だろうが、勝手に撮影されたらイヤだわ。」

さらに一番奥の休憩室を覗くと、そこにもカメラが取り付けてあった。

「おいおい、おれの寝姿を撮られちゃまずいな。っていうより、おまえさんのほうが気をつけないとダメだよ。いつもみたいに床にのびちゃったらさ。正体がばれるぜ?」

「うっそ。まじ、やばい」

その時、終わりました…という作業員の声が表から聞こえた。内田かおるは

「ちょっと待って」

と彼らを呼び止め、

「これ、どこに録画されるの?ハードディスク?」

「ええ、受付の下に入れておきました。あとは、アプリをダウンロードしてもらえば、ネットからいつでも見られますので。使用法はこちらです」

作業員は、ハードディスクの操作法を簡単に説明して帰って行った。

「…成沢さん、あたしちょっと健一さんに話があるからちょっと出かける。あとをお願い」

かおるは自分のバッグをつかむと、外に飛び出した。


 店の外に立って駅のほうを見る。そろそろ健一が出勤するはずだ。どの道から来るだろう。かおるは視力の他に、宇宙人の裏技、超感覚視覚センサーを駆使して、地下鉄の五番出口を上がってくる健一を見つけた。五番出口は目の前の大通りをはさんだ向かい側である。こちらがわの六番出口まで来ないのは、多分、通りの向こう側のコンビニに立ち寄るつもりなのだろう。信号が青になると同時にかおるは横断歩道を三歩で渡って、健一を、コンビニに入る直前でつかまえた。すれ違った中年女性が目を丸くしてこちらを見ている。かおるの超高速移動を目撃したらしい。

「おおっ、なにをするんだ」

驚く健一を「ちょっと来て」と引きずるように公園まで連れて行く。

「なんなんだよ、くっつくな、暑いんだから。ちょ…離せって」

かおるの腕を振り払おうとするが、かおるにひっぱられて公園のベンチに倒れ込んだ。

「今、上島社長から言われたっていう作業員が来て、店中に防犯カメラをつけていったの」

「防犯カメラ?」

「そう。入り口と、リラクボックスの中と、奥の休憩室に。」

「…おれ、何も聞いてないよ、防犯カメラだなんて。」

「泥棒じゃなくて、あたしたちを狙ってるのかも」

「ええっ?」

「ねえ、ばれたんじゃない?あたしが宇宙人ってこと」

「えええ?まさか。それはない…と思うけど」

健一は、今までの上島との会話を思い返したが、

「あるとすれば、お前が宇宙人かどうかじゃなくて、あの箱を見張りたいんだと思う」

「箱?」

「この教室がうまく行ってるのを見て、社長、同じ教室をもっと増やしたいんだ。それで、箱の仕組みを教えろって言ってきてるんだけど、おれが教えないから…」

「なるほど。そういうことね。だから社長、君たち新しい店で雇ってあげるよ、とか言ってたのか…。でも、あの箱が力の源泉だってよく気がついたね。」

「確かに。」

「あ!分かった。あの女が、RINAが教えたに違いないわ」

RINAは、かおるが宇宙人だということを知らない。だがあの箱が何かのパワーの源だということには気づいている。

「あの女…。でもいいわ。箱ならなんとでもなるから。基本、ただの巣箱だし。だけど、宇宙人だってコトが世間にばれたら、あたし、帰らないといけないの。社会攪乱の禁止っていう項目があってね、目立つことはできない決まりなの。」

「ということは…」

「とりあえず、ほんとうの姿を見られないようにしなければ。」

「どうやって」

「あたしに考えがある。」




 この間まで毎日のように現れていたRINAはここのところぱったり姿を見せないし、内田かおるは「考え」とやらをを実行しに出かけてしまったし、今日は受付嬢がいないけど、まあ、親子のセミナーしかないので、受付はホームレスの成沢でもいいか、と思いながら健一が開店準備をしていたら、遠藤美奈子と息子の博樹がなにごとか笑いあいながら入ってきた。夏休みに入った小学生の遠藤博樹と、その母親の美奈子が、親子セミナーを手伝ってくれているのだ。

 美奈子と博樹は、最初の頃に比べるととても関係が良くなったようで、最近は普通に会話をするようになった。ふたりとも穏やかになったし、なにより笑顔が増えた。

 特に美奈子はそれまで子育てが命で、子育てに関する情報量は半端なかった。こういう場所に子どもを連れてくる親というのはおしなべて教育熱心なのだが、美奈子はどんな質問に対しても、豊富な知識を駆使して対応していく。知識の量もすごかったが、もともと、物事を分かりやすく話すセンスがあるようだ。若い母親たちから「先生」と呼ばれるようになって、本人は恐縮していた。


 今日の予約は午前中のグループワークと、夕方からの予約客が数人。こう暑いとさすがに昼日中の来客は減る。しかし税理士の高田は暑さに強いようで、昼の一時にJR駅から歩いてきたのに、ぴしっとネクタイを締めて上着まで着込んで平気な顔だ。

「高田さん、そんな格好で暑くないの」

「いえ?私、暑さ寒さには強いんです」

と涼しい顔でパソコンを開いた。ほんとうに、ねずみ男のように長い顔はどちらかというと青白く、汗の一滴も浮かんでいない。 

(この人、宇宙人みたいだな)

と健一は思ったが、そんなわけはない。

「高田さん、今までの売上、今もぼくの口座に入れたままなんだけど、これってまずい?ぼくって教室のお金を横領してることにならない?」

「横領ってことはないでしょう、あなたは責任者としてお金を預かる立場にあるし、上島さんからは、いつまでにどこに入金せよとかいう連絡が来ていないでしょう?」

「そうだけど、なんとなく、このまま放置してたらまずいのかなって気になったもので」

「ウエシマックスの決算は来年三月なので、ぼくとしてはそれまでに精算していただきたいですが、ぼくが今いただいている情報はこの教室の現金の出入りだけで、上島社長がいくら用立てたかまだ伺っていないんですよ。どうやらここの工事費や家賃は会社の口座ではなく、上島社長のポケットマネーで建て替えているみたいで、賃貸の契約書や領収書を見せていただかないと確認できあないんですよね。」

と、高田は少し迷惑そうだ。健一はおや?と思った。この教室はウエシマックスが経営するような話だったが、それなら社長個人が金を出したのは少し変だ、と健一は思った。自分はまだ中央エージェンシーに籍があって給料もそちらから払われているが、それは中央エージェンシーの社長がウエシマックスの株主だからということだった。ならなおさら、金はウエシマックスから出ていなければおかしい。そもそも、この教室の経営者は誰なのか、おれはその中でどういう立場なのか、契約書のひとつもないまま進んでいるのがおかしいのだ。

 しかし、この教室の経営者が上島社長個人であれウエシマックスであれ、現在の自分の立場は中央エージェンシーからの出向なのだとしたら、このプロジェクトが終わったらおれは「お疲れさん」と追い出されるのか。そして翌日から何もなかったかのようにまた広告の営業に戻るのだ。そんなこと…おれにできるだろうか。

 あるいはどうにかして上島社長の機嫌を取って、このまま教室の雇われて所長を続けるにしても、いずれ宇宙人は箱を持って消えてしまうだろう。このプランの目的は、それまでの間に短期でがっぽり儲けることだったはずだ。そうだ、一億円だ。誰が雇われ所長なんか、やるものか。


 ああもう、何もかもが無理だ。

 もう元には戻れない。

 おれはただ、なにか面白いことを夢中になってやってみたかったのだ。

 そして、それを通して大きなお金とか、成功した体験とか、何か確たる実績を自分の手につかんでみたかった。

 教室の雇われ所長なんてとんでもない。

 これはおれが思いついたアイデアなんだ。たかだか百万かそこらの開店資金のために、上島に脅される筋合いなんかない。

 そう思った時、事態をどう打開するか、健一の中にイメージがふくらみ始めた。

 健一は、自分の計画を実行するために立ち上がった。

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