第11話

 約束の喫茶店に、上島浩一は遅れてやってきた。

「コーヒー。ホットね」

店のウェイトレスに声を掛けて健一の向かい側に座った。

 健一はその声ではっと飛び起きた。上島に電話をもらってすぐに隣の喫茶店に来て、ランチを食べ終わってコーヒーを頼んだあたりで居眠りしてしまったらしい。

「久しぶり。お疲れのようだね」

「ああ、社長、すみません、ご連絡もしなくて」

「相当忙しいようだね」

きれいに日焼けした上島は、白いポロシャツに紺色のコットンジャケットを着て、すっきり涼しげだ。いつの間にか梅雨も明けて窓の外がまぶしい。健一は顔をごしごしこすった。

「そうなんです。予約も二ヶ月先までびっしりで」

「すごいじゃないか、大成功だね」

「いえいえ、まぐれのようなものですよ」健一は冷めたコーヒーをすすった。

「まぐれってことはないだろ。実力だよ。ところでタイアップ商品のサンプルを持ってきたんだ、教室で使ってみてよ。」

教室のメニューに「もみもみ」を使ったヒーリングを取り入れるというのは当初からの計画である。

「ありがとうございます。」

「診療台に取り付けられるようにベルトをつけたんだ、あとで説明するよ。」

「はい。」

「それでね、ひとつ相談なんだけど」

上島はそこで言葉を切って、運ばれてきたコーヒーに口をつけた。

「君、この教室、いつぐらまでやる予定?」

「え、ええっと…」

健一は答えに窮した。

「今のところ多分、一年くらいかな、と思ってるんですけど。…あ、もしかしてお金のことでしょうか。うっかりしてしまってすみません、立ち上げでお借りした分、もう返済できると思うんで金額を教えていただけます?」

「いやいや、返済の話じゃないんだよ。実は業務用「もみもみ」の医療器機の申請が通ってね。本格的にプロ向けの販売を始めるんだけど、なにしろうちはマッサージ器として後発だろ?一般向けの「もみもみ」を雑貨店や家電量販店でも扱ってもらってるのは儲けより知名度を上げるためで、それなりに効果があるとは思うけど、業務用として売るには何か、他とは違う取り組みがないとダメだと思ってさ、それで器具の販売だけじゃなくてそれを使ったサロンを運営したらどうかと思っていたんだ。そんなところに君の教室の話が出たから、とりあえず準備を手伝わせてもらったわけさ。」上島はコーヒーカップを皿に戻した。「それでね、君がもし、教室を長く続けられないなら、あとをうちが引き継いでもいいと思うんだけど、どう?」

「…はあ…しかし」

どうしてこういう展開を予想していなかったのだろう。健一は自分の間抜けさに自分であきれた。そういう腹づもりがあるからぽんと金を出してくれたに決まってるじゃないか。最初に気づけよ、おれ!

「もちろん、続けていただくのは構わないんですが、実は…」

実は、なんていうつもりだ? あの教室は宇宙人のノウハウを使っているので…とか?

「実は…ほんとうのことを言うと、カウンセリングの内容はその場の勢いでやってるので、ちゃんとしたノウハウがないんですよ。…ここだけの話ですが」

健一はここで、とても気まずそうな顔をしてみせた。もちろん本心から気まずかったのだ。

「そんな、いいかげんな教室でも、続けていただけますか?」


 その頃教室では、一瞬、客足が途切れて店内が無人になっていた。宇宙人の内田かおると、ホームレスの成沢は、ここぞとばかり奥の休憩室に逃げ込んで、手足を伸ばした。

 成沢は丸まった背中をうーんと反らせてストレッチをしているが、内田かおるのほうは、床に寝転がって文字通り「手足を伸ばし」ている。

「うわぁ、何度見ても気色悪い」

成沢が、迷惑そうにつぶやく。

「ごめんね、受付嬢になりきるのって、けっこう肩がこって」

内田かおるは、ひゅん!と元のサイズに戻って上半身を起こした。

「おかげであたし、肩がこるっていう意味が分かるようになったの。昔、地球の文化を勉強してたとき、どうしても理解できなかったのよね、肩こりって。すごいなぁ、あたしも成長したなぁ」

「おまえさん、まだ学生なんだろ?こんなに毎日地球にいても大丈夫なのかい?」

「うん。今、箱のワーク中だから大丈夫よ。もちろんあたしの位置はモニターされてるし」とかおるは上を見上げた。成沢もつられて上を見る。

「まさか、ホームレス生活で中学生の宇宙人と知り合うとは、予想もしなかったなぁ」

「あらま。ほんと?あたしたちみたいな学生じゃなくて、大人の宇宙人も、けっこういっぱい来てるはずなんだけど、一度も会ったことないの?」

「ないさ、宇宙人なんて。」成沢はおおげさに驚いてみせた。「宇宙人みたいなやつならいっぱいいたけどな。話がちんぷんかんぷんだったりときどき様子が変だったり。そういうおれも若い頃はよく言われたよ、おまえ、宇宙人みたいなやつだなって。」

「ふふ。人間の脳って認識の融通が効かないからね。一度人間だと思うと多少変でも人間にしか見えないから、きっと気がついてないのよ。」

「そういうものかね」

「そうよ」

「ところでおまえさん、最近毎晩、あの箱をいじくり回してるが、何をやっているんだい」

「改良してるの。性能アップ。最近、企業研修や学校の授業に出張することが多いから、ひとりひとり覗かなくても、一定の範囲内にいればコンタクトができるようにしたのよ。この教室で言えば、入り口を開けて一歩入ったらもう自動で箱とエネルギーの交流が始まるわ。」

「おいおい、そりゃあすごいね。それじゃあ、ここじゃなくて、外の通りに置いておいたほうが効率が良くないか?」

「人数としてはそうなんだけど、さすがに早足で通過されるとコンタクトが完了しないの。理想としては満員電車の中のような状況がいちばんいいかな。成沢さん、どう?箱を持って一日中、環状線に乗ってるっていうのは」

「だめだよ、みんなおれを避けて通るからさ。おかげで、いつもおれのまわりには空間があるんだ」と成沢は笑った。


 学校が夏休みに入ると、昼間から子どもを連れた親子が続々と教室を訪れるようになった。小中学生を対象にした「子どもの能力アップセミナー」のグループワークだ。基本的には子どもだけで行うワークだが、最初と最後の回は親も同伴だ。狭いワークルームはたちまち、けたたましくしゃべる母親と走り回る子どもたちでいっぱいになった。

 母親に向かってオリエンテーションをしているのはなんとあの、遠藤美奈子である。子どもの博樹が勝手に教室に出入りしていると怒鳴り込んで以来、博樹ともよく話し合ったようだ。契約した三回のセッションが終わると、健一の要請に快く応じて、子どもと母親の世話をボランティアで手伝ってくれることになった。

 美奈子は、騒ぐ子どもたちをリラクボックスに押し込み、母親五人をグループワークルームに案内した。

 リラクボックスはというと、小さな箱をのぞき込むのではなく、壁面に投影される映像を眺めるように改良されていた。記録するための箱は今もあるが、ブースの隅っこに目立たないように置かれている。ここに入ると、それまで騒いでいた子どもたちも、子ども向けに用意された可愛い動物の映像を見ているうちに宇宙エネルギーの影響を受けて、自然に、落ち着いて集中した状態になっていくのだ。

 さらに夏休みにはあちこちの進学塾から出張依頼が来ていた。手始めは同じビルの上階にある「こうま学習塾」で、受講生やその親から評判を聞いたのだろう、ぜひうちでそのリラクゼーションをやってくれと声がかかった。健一と内田かおるは、改良型巣箱と映像を持って上へ行き、セミナールームを使って「集中メソッド」を行った。なんのことはない、木箱のある部屋で映像を見せるだけだ。それでも、子どもは感応力が強いのか、突然頭が冴えて、勉強をやる気になる子どもがいたりして反応は上々。なおかつ、健一の教室では、能力を上げたい気持になった子どもには「こうま進学塾」を紹介していたので、経営者の河間氏の覚えがめでたい。そんなに効果があるのならと、商売敵の進学塾まで紹介してくれたので、どんどん仕事の依頼は入ってきた。


 上島社長が初めて教室にやってきたのは、そんな騒がしい夏休みの昼下がりだった。外の舗道は照りつける太陽で石焼き釜のよう。大きな葉で影を作ってくれるプラタナスの街路樹もあまりの暑さにへたりぎみだ。この前よりさらに黒くなった上島社長の顔は日焼けしてもなおつやつやだ。

 ちりんと涼やかな音がした。顔を上げたRINAの目に、はだけたシャツの首もとにのぞく小麦色に焼けた素肌に光るゴールドのチェーンと、歯磨きの宣伝のようなまっしろい歯が映った。もう少し視線を上げると、ちょっと下がり目のくりっとした目がRINAをまっすぐに見ていた。RINAは視線を動かすことなく素早く男の全身をチェックした。時計はロレックス。金持ち。あたし好みのイケメン中年。声はどうかしら…

「こんにちは。所長、いる?」

ちょっとハスキーなセクシーボイス。RINAはぶるぶるっと武者震いした。あたしの好みに限りなく近いこの男は誰?

「はい、お待ちくださいませ」

RINAはとっておきのスマイルを見せると、いつもなら奥に向かって「しょちょー、お客!」と怒鳴ってすますところを、自ら奥の休憩室まで健一を迎えにいった。

「ねえ、すごいいいオトコ来てんだけど、誰。紹介して、ねえ」

「上島社長だよ。ここのオープン費用を出してくれた人さ」

「めっちゃあたし好みなの。奥さんいる?」

「さぁ…まだ独身だったような気がするけど。自分で聞いてみれば?」

健一はRINAを連れて受付に戻った。そしてRINAを上島に紹介した。

「こちらは売れな…いや、雑誌モデルのRINAさんと言って、教室の受講生なんですよ。でも今は半ばスタッフで受付を手伝ってくれています。社長、ぜひRINAさんの案内で、リラクボックスを体験してください。」

 それで、上島は眼をキラキラさせたRINAに腕を取られて、リラクボックスに入った。ものの数分で終了するはずなのに、十分もいたのはどうなのかと。健一は思った。ようやく出てきたふたりは、十年来の友だちのように親密な雰囲気になっていて、井上は

「いやぁ、なんだかやる気が出るねえ、あのブースは」

と言っただけで「じゃあ、また来るわ」と手を振って、RINAといっしょに出て行ってしまった。RINAは井上の腕をとって、ふりかえりざま健一にピースサインを出した。

「なんだあれ…ここはナンパボックスか」

健一はため息をついた。リラクボックスに入ると、ほとんどの人は元気になるが、必ずしもここに来た目的に沿う方向のやる気が出るとは限らなかった。たとえば、勉強をやる気になるようにと連れられてきた子どもが、突然、ゲームの大会で優勝するんだとゲーム漬けになるというような。そんなとき、うろたえる親をどう説得するかが健一の腕の見せ所だ。親の思惑と多少方向が違っても、前より元気になった事実にフォーカスして、納得してもらうのだ。そういうことをくり返すうちに、健一は自分が、人を説得したり、納得してもらったりすることがとても得意だと気がついた。広告代理店で仕事をしているときも、自分では広告の話をしているつもりが、実は相手を説得していただけかもしれなかった。そういえば広告の表現や効果を考えるよりも、お客さんと会って話している時間のほうが自然でラクだった。


 さて、上島社長はそれから頻繁に教室に顔を出すようになった。最初は教室に来てRINAと雑談するのが楽しそうだったが、そのうち、RINAといっしょに教室に来るようになった。RINAの持ち物がどんどんグレードアップしていくのを、受付嬢の内田かおるは見逃さなかった。

「成沢さん、見た?あのバッグ。バレンシアガの新作だよ?」

「ええ?何、オレンジ?」

「バレンシアオレンジじゃなくてバレンシアガ!バッグのブランドだよ」

「へえ。それ有名なのかい?…なんだ、どうってことないバッグじゃないか。」

「たしかに、あたしもそう思うけど、有名モデルが持ってたりするから…あれ、多分二十万くらいするわよ」

「へぇ!そりゃすごいね」

「いいなぁ、あたしも欲しいなぁ」

成沢が何か言いたげに内田かおるの顔を見たが、上島社長が近づいてくるのを見て口を閉じた。

「今きみ、オレンジって言った?いいんじゃないの、ウェイティングスペースのテーブルにフルーツの盛り合わせを置くの、いいと思うよ。リゾートホテルのスイートみたいな感じで、高級感があって。あとはもうちょっと内装をなんとかして、セレブ向けにしたいな。家具も輸入家具とか入れてさ。いや、ここじゃ狭いから無理か」

成沢と内田かおるは顔を見合わせた。ウェイティングスペースって何だ?受付の前の、ソファーを置いた場所のことか?

「ちょっと小耳にはさんだんだけど、君たち、給料をもらわずにボランティアで働いているんだって?立派な心がけだね、すばらしいよ。」上島はここで声を潜めて「これからどんどん店舗を増やすからね、君たちには、うちに幹部として来てもらいたいんだよ、ちょっと考えておいて。よろしくね」

上島はかおるにウィンクして、成沢には親しみを込めて二三度うなづいて、「じゃ」と言って立ち去った。

「じゃ、だって、成沢さん」

「え?おれじゃねえよ、おまえさんに言っただよ」

「なんか、やばい感じする。どんどん店舗を増やすって?健一からはそんな話、聞いてないけど」

「健一君、忙しそうだしね。小島さんとデートもあるし、実家からも電話がかかってたから、お父さんの具合が思わしくないんじゃないかなあ」

「へー。人間って大変ね。」

「人ごとみたいに。宇宙人は死なないのかよ。」

「まあ、ざっと四、五百年は生きるし、死んでもすぐ生まれ変わるしね」

「えええっ、ほんとかそれ」

「…もちろん」

「ちょっと、その話、もうちょっと詳しく教えてくれ。おれの寿命も延ばせるのか?どうやったら宇宙人になれるんだよ、おい、教えてくれったら…」


 上島たちが教室を出て西に曲がった直後、東側から小走りでやってきて教室に駆け込んだ女性がいる。博樹の母親、遠藤美奈子だ。

「ごめんなさい、遅くなっちゃった」

白地に紺の花柄のワンピースに、紺色の麻のジャケットを羽織った遠藤美奈子は一ヶ月前とは別人に見える。

「ワークルームの準備をしなくちゃ」

「あたし、手伝いますー」

内田かおると美奈子はリラクボックスの奥のブースのパーテーションを動かし、テーブルと椅子を運び込んだ。当初、アシスタントとして手伝うだけだった美奈子だが、数日後にはグループワークを丸ごとまかされるようになったのだった。

 今日のグループワークは五組の親子が参加する予定だ。博樹よりひとつ年下の、五年生の子どもとその母親である。いずれも進学を希望している家庭なので、リラクボックスに入ってもらったあと、ワークシートを使って各自が問題と感じていることを明確にしながら、子どもへの心理的な依存や子どもの負担になりやすい無意識の投影など、母親側が気をつければ回避できるさまざまな事例を紹介するつもりだ。今日で二回目のグループなので前回よりは気心も知れている。三回目では各自が自分の言葉で自分の思いを表明できるまでにして、親子間の風通しをよくして終わりにしようと考えている。さらに受験勉強を続けたい場合は、最終的には上のこうま学習塾を紹介して終わることになるはずだ。

 夏休み間近のある日、所長の健一から夏休みの間だけでも手伝ってもらえないかと声をかけられた時、美奈子は即座に引き受けた。引き受けたあとで、どうしていままでそれを考えつかなかったのか自問自答した。実際、美奈子はすでに何種類もの心理カウンセラーの資格を持っていてそれなりに知識があるのに、自分の問題を何も解決せず困っているだけだった。不安なことを探しては一日中それを考え続けるような暮らしを続けていた。本来は、自分の問題は自分が持っている知識で解決できたはずだ。それに、健一に言われるまでもなく、自分は相談される側にいるのが一番自然な気がした。健一はそんな美奈子の素養を見抜いていたのか、すぐにセッションの内容を一任してくれたので、美奈子はそれぞれのグループごとに要望を聞き取り、そのグループに役立ちそうなワークを考案した。

 ワークを担当し始めてこれが三つ目のグループである。毎回ワークをするたびに、次はこうしよう、あの人にはこの方法を試してみようと、アイデアが次々と湧いてくる。健一からは時給の提示があったが、自分には経験がないから夏休み中のワークはインターンとして無給でさせてくれと頼んだ。毎日の経験は時給でもらう給料の何倍もの価値があると思えた。美奈子はこの仕事に夢中だった。


 上島浩一は、照りつける日射しを避けて街路樹が作る日陰を選んで歩きながら携帯電話をもてあそんでいた。頭上から降る蝉の声がうるさい。

 今日こそ健一から教室のノウハウを聞き出さなくてはならない。

 あの教室はすごい。売上は二ヶ月目にして百万円を越え、企業や学校からの依頼が増える八月には二百万を余裕で越える見通しだと、税理士の高田から報告を受けている。宣伝といえばオープン直後に路上で配ったチラシくらいのもので、あとはどこにも、フリーペーパーにさえ広告を載せていない。口コミだけでこれだけ客が増えるというのは、今までにない、画期的な何かがあるに違いないのだ。そのノウハウをマニュアル化して多店舗展開したらどうなるだろう。まさに天井知らずだ。

 そう考えた上島はRINAから情報を仕入れ、自分でも体験して、サロンで何が行われているのか探っている。確かに健一も言うように、カウンセリングには特別なノウハウがあるわけではなさそうで、素人の主婦に代行させたりしている。しかしRINAのように、せっかく金を払って予約したにもかかわらずおしゃべりしただけで満足したり、ボランティアで教室を手伝い始める客もいたりで、上島には、何が魅力でそうなるのかさっぱり理解ができない。最後に考えられるのは、あの、来店者全員が最初に入らされるリラクボックスというスペースに置いてある小さな木の箱。あの箱に何らかの成功の秘密があるとしか考えられない。自分が体験したときに確認したら、どうということのない鳥の巣箱のような箱が、床に取り付けた輪にチェーンで固定され、鍵までかけてあるというのはどう考えても怪しい。


 いずれにしても、上島には時間がない。

 父親が作った上島工業から出資を受けて作ったウエシマックスは、マッサージ器や美顔器を販売して、そこそこ話題になったものの、売れた個数より在庫のほうが多い状態だ。利益率を上げようと、高額なプロ仕様のマッサージ器を作ったのはいいが、売り込む先が分からない。マッサージ師は手もみだから価値があるのであって、器械を使うのは好まない。客が長時間滞在する美容院やエステサロンが有望だと思うのだが、それで利用料が取れるわけではないので導入は進まない。

 それでもウエシマックスの存続には問題ない。ウエシマックスの商品は上島工業が製作して在庫も保管してくれているし、社屋も上島工業の敷地内の倉庫をほとんどタダ同然で借りて、電話番の事務員をパートでひとり雇っているだけだ。展示会などで手伝いが必要な時は上島工業から人を派遣してもらうし、営業をかける時はアウトソーシングで他の会社に発注している。もちろん自分の給料は副社長をつとめる上島工業から出ており、生活に支障はない。つまり、ウエシマックスは人件費や家賃などの固定費がほとんどかかっていないので、とりあえず現状では低めながら安定経営なのだ。上島工業におんぶにだっこの遊びのような会社ではあるが、二代目社長には経験が大切という持論の父親、上島宗一郎は大きな損失を出さないかぎり文句は言わない。しかし、上島浩一には、まとまった金が必要な事情があった。しかもなるべく早く。


 街路樹の木陰で健一の携帯に電話をかけた。

 十分後、いつもの喫茶店で健一と落ち合った。

「すみません、オフィスKへ、新しいチラシの打ち合わせに行っていたので」

走ってきたらしい健一が水を飲み干すのを待って、上島は切り出した。

「この間の話の続きだけどね、君、教室のカウンセリングにはノウハウはないって言ったけど、あの箱はどうなの? リラクボックスっていう部屋にある小さい箱に何か仕掛けがあるんじゃないの?」

健一のグラスを持つ手が止まった。

「箱…ですか」

「あの箱の仕組みを教えてくれれば、他には何も要らないよ。最初の経費だけ精算してくれれば、売上は全部君のものだ。なんなら経費と相殺でもいい。箱の仕組みを教えてくれ。頼む。」

上島は健一に頭を下げた。

健一の手が震えた。

「あの箱は…仕組みは分からないんです。ぼくにも」

「どういうことだよ」

「それは…」

健一は視線をそらす。上島はこういう煮え切らない態度が一番嫌いだ。言いたいことがあったらはっきり言ったらいい。こいつ、おれのことをバカにしていやがる。そう思った瞬間、上島はキレた。

「教えたくないんだな。そうか、そうだよな。その技術さえ持っていれば、無制限に儲かるんだもんな。分かった。そういうことならこっちにも考えがある。あの店はうちの会社の賃貸物件で、君はうちの教室の売上を横領している。もう何ヶ月もうちには一銭の売上も入っていない。貸した金の全額返金と、受けた被害に相応する賠償金として一千万円を請求する。断るなら訴訟を起こす。本気だぞ」

「そ、そんな…」

健一のうろたえた顔を見て、上島はすっきりした。本当はこの場で決着をつけるつもりだったが、もう少しゆさぶってもいいなと思った。実際、本当に訴訟になったらこっちだって時間的金銭的に負担が生じる。おまけに、運よく勝訴したとしても、こいつに一千万もの金が払えるわけがないのだ。

「一週間待ってやる。箱の仕組みを教えるか、一千万の訴訟を起こされるか、ふたつにひとつだ。いいな」

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