第10話
上島浩一は急いでいた。
あと三十分で新幹線に乗らないと午後一時からのセミナーに間に合わない。参加するだけなら遅れてもかまわないが、自分は講師として招待されている。遅れるわけにはいかない。
上島は地下鉄の通路を早足に歩いた。上島工業の社長である父親の宗一郎は今でも黒塗りの運転手付き社用車を使っているが、浩一はもっぱら地下鉄とタクシーで移動する。渋滞の道路でイライラするより、そのほうが速いし健康的だ。
来年四十歳になる浩一は、ちょうど十年前に、ゆくゆく会社を継ぐという暗黙の了解で専務として上島工業に入社したが、実はそれ以前から新規事業に興味があった。大学を卒業したあと、すぐに父親の会社には入らず、雑貨を扱う商社や化粧品販売会社、アパレルメーカーで働いたのも、いろんな職種に興味があったからだ。本業の上島工業は創業時こそ鉄鋼を削った部品を作っていたものの、その後の自動車の性能向上に合わせて電子部品を扱うようになり、昨今では自動車以外の電子器機の部品が売上の大半を占めている。正直、浩一には扱っている商品の仕組みがよく分からない。それに販売先はメーカーで、エンドユーザーには会うこともない。浩一はもっと消費者に近い商品を売りたかった。もっと言えば、浩一はたくさんの人を前にして講演やセミナーをするのが大変好きなのだ。化粧品販売会社では全国の販売員を集めたセミナーを担当していたが、人前に立って話し始めると、何かが「降りてきて」よどみなく話し続けられる経験をした。そして、セミナー修了後に受講生からサインや握手を求められ、自分を中心に記念撮影をされたりするのが、こよなく好きになったのである。
その後父親の希望で上島工業に入ったものの、地味な研究開発とルート営業に飽きたらず、技術スタッフに頼み込んでは美顔器やマッサージ器を作らせて、雑貨販売のルートに乗せて細々と売ったりし始めた。大手の先行商品に対抗するために、面白いデザインやネーミングの商品を低価格で販売したから、雑誌に掲載されたりテレビの取材が入ったりして、それなりの反応があった。そうした活動のためにウエシマックスという会社を作った時も、父親も「まあ、浩一の道楽としてやらせておけ」というスタンスで黙認。浩一は父親の人脈を生かして地元の経営者の団体や商工会議所の勉強会に積極的に参加し、機会をとらえて壇上に立つうち、持って生まれたパフォーマンス力で注目を集め、いつしか起業や商品開発のプロとして各地から声がかかるようになっていた。
今日の大阪での講演はネット販売の勉強会からの依頼である。浩一は大阪までの二時間で講演資料を作る予定だ。でも大丈夫。先週使ったスライドがある。細かい部分を修正すればそのまま使えるだろう。
気鋭の青年実業家上島浩一はプラットフォームに停車中の新幹線にさっそうと乗り込んだ。発車五分前。余裕だ。浩一は座席に座るとすぐにノートパソコンを開いた。そして新幹線が走り出す頃には、スライドはそっちのけで、税理士から届いた健一の教室の月次報告をくいいるように見つめていた。
一方、ヒョウ柄女改めモデルのRINAは、あれから教室の常連になってしまった。
「だあって仕事ないし。暇なんだもん」
予約のあるときもないときも受付のソファーを占領して、入ってくる客に話しかけてうるさくて仕方がない。しかし健一と成沢が忙しい時は電話の応対も、受付業務も見よう見まねでこなしてくれるので来るなとも言えなかった。
その日も受付にはRINAがいた。受付嬢姿の宇宙人内田かおるは電話の応対中で、グループワークの予約客が三人、ソファーで雑談をしていた。
受付嬢姿の内田かおるが電話を終えてやってきた。最初の頃より顔が小さく、目は大きくなったように見えるが、はたしてRINAから手ほどきを受けたメイク術の効果か、それとも宇宙人の技術で外見を操作しているのか見分けがつかなかった。かおるは
「お待たせしました、こちらへどうぞ」
と予約客に声をかけてワークルームに案内すると、すかさず奥に引っ込んで、中年の女性指導員に化ける。中肉中背、紺色のスーツを着て、普通の髪型、普通の顔。四十代の女性を全員足して人数で割ったらこうなるだろうというような、どこと言って特徴のない姿形である。(こんな特徴のない人、どこを探したって見つからないよね。平凡すぎて逆に目立つんじゃないの。と健一は言ったが、今のところ、目立ちすぎている様子はない。)女性の相談者には少し年上の女性カウンセラーが対応するのが最も効果的なことから、内田かおるは時々、この外見を使う。名前もある。心理カウンセラーの白鳥麗。せめて名前くらい派手に、ということらしい。カウンセラーの肩書きは偽物かと思いきや、どうやら本物の証書らしきものを持ってきた。
「どうしたの、この証書」
「受講したんだよ。ちょっと時間早回ししたけど」
「なんだって?」
「今度、臨床心理士の試験受けようと思って、大学の講義を早回しで受講中。」
宇宙人の言ってることは時々、意味が分からない。
無人になった受付で、RINAは広げた雑誌をめくった。毎シーズン、ファッションの傾向をつかむのにファッション雑誌はかかさず目を通していた。最近は雑誌だけでなく、人気モデルや読者モデルのブログも要チェックだ。しかし正直、ファッション雑誌より芸能ニュースのほうが面白い。RINAは教室に置いてある女性週刊誌の人気女優の離婚報道に読みふけった。
そこへ、ちりんちりんちりん…とけたたましくドアベルを鳴らして、女がひとり、男の子を引きずって入ってきた。
「所長さんを呼んでください。今すぐっ!」
RINAは読みかけの雑誌を取り落とし、ワークルームからは内田かおるが飛び出してきた。
「いったいどういうことですか!うちの子を勉強もさせずに働かせていたんですって!」
金切り声で叫んだのはあの遠藤美奈子、博樹の母親である。息子はうしろに小さくなってつかまれた手をふりほどこうと必死だ。
「すみません、所長は今、外出中で…」
健一はその頃、すぐ近くのイタリアンレストランで小島さんと食事を楽しんでいた。
というか、楽しんでいるふりをしていた。内心は、言いたいこともまとまらず、かといって何も言わないのも耐えられず、心は千々に乱れた状態である。
「きゃぁ、墨が出てきたよ、健一さん」
オードブルの盛り合わせに入っていたイイダコをフォークで刺したら黒い墨がぷしゅっと出たというので、小島さんは大騒ぎだ。
「おいしい。健一さん、おいしいですよ、これ」
むしろ、不自然なくらい機嫌の良い小島さんである。健一がずっと連絡しなくてごめんね、と言うと、「ぜ~んぜん、大丈夫です。健一さんの教室、すごく賑わってるっていうのは聞いていますから」
無邪気に食べる小島さんは、本当のところ何を考えているのか分からなかったけれど、最近の仕事の話とか、オフィスで起きた面白い話などをくったくなく話す小島さんを見ているだけで楽しい気持になる。だから次の質問はやめておこうかと思ったのだが、やはり聞いてしまった。
「新しくできWEB部門に藤岡君って人、いるでしょ。彼、どう?」
なるべく自然にさらっと流したつもりだ。
「ああ、藤岡さん、いい人ですよ。意外に面白くて」
「…へえ、そうなんだ。…面白い?」
「そうなんです、彼、お料理が得意で、毎日可愛い手作りのお弁当を見せてくれたりして。みんなに人気です」
みんなに人気、というひと言になにやら救いのようなものを感じた健一である。別に、藤岡君と小島さんの仲を取り持つつもりは全然ない。むしろ邪魔したいくらいだ。藤岡君が自然に小島さんをあきらめてくれるような持って行き方はないのだろうかと、ちょっと、思っただけだ。
「パスタ来ましたよ…うーん、おいしい」
旺盛な食欲を見せる小島さんに、もっといろんなことを話しておきたかった。教室にいるのは宇宙人で、箱の宇宙パワーが教室の要だということとか、宇宙人が帰るまでの間しか教室はできないこととか、あるいは、近い将来、自分がこの街を去って故郷に帰るかもしれない、あるいは帰らないかもしれないこととか。
「健一さん?食べないんですか、伸びちゃいますよ」
小島さんが指摘した。おいおい、ラーメンじゃないんだからそんなにすぐに伸びやしないだろう、と突っ込もうとしたとき、胸ポケットで携帯が鳴った。
教室の受付で、遠藤美奈子が叫んだ。
「先生!ひどいじゃありませんか。わたし、博樹の帰りが遅いのは上の学習塾へ行っているからだと思い込んでいたんですよ。それがまさか、ここでただ働きさせらているだなんて。博樹はまだ小学生ですよ、しかも来年の受験を控えた大変な時期だってことは、先生なら分かっているはずじゃないですか」
電話をうけて慌てて戻った健一に、遠藤美奈子は食ってかかった。博樹は美奈子の後ろで小さくなって、健一に「ごめんなさい」と手を合わせている。ここで宇宙人の手伝いをすることは母親には内緒にしていたはずだ。何かのはずみで見つかってしまったのだろう。
「ええと…美奈子さん。少し誤解があるようなので、私からご説明しましょう。博樹君はここで手伝いをしていたのではなく…」
健一は美奈子をソファーに導きながら、目立たないように博樹に目配せをした。
「手伝いではなく勉強、そうです、勉強をしに来ているんです。わたくしどもで博樹君のカウンセリング結果を分析した結果、博樹君の場合、学習したことは身についているけれども、それを表現するときに混乱してしまうという「脳の癖」があると考えました。それで、ときどき来てもらって、特殊なゲームを使って脳を活性化し、効果が出た頃にお母様には成果を披露しようと思っていたのです。そうだ!いい機会ですからこの際、よみがえった博樹君の実力をお確かめください。内田君、昨年の海星学園の模擬試験の問題を持ってきてくれる?」
そう言いながら博樹を見ると、頷いて小さくガッツポーズをしている。博樹はもともと学習には問題がなく、母親に対する反抗を表現するために学校のテストや塾の模擬試験に正解を書かなかっただけなのだ。
三十分後。難関で知られる海星学園の算数のテストの満点回答を見せられ、美奈子は一転、うれし涙にくれた。
「すごいわ、こんなに立派に…ほんの一ヶ月程度でここまで結果を出していただいて、ほんとうにありがとうございます、先生。これからも博樹をお願いします。必要ならお手伝いでも雑用でもなんでも使ってやってください、きっと本人のためになると思います。」
「分かりました。博樹君のことはぼくが責任を持って面倒をみますから」
と健一は恩着せがましく胸を張った。
誰よりも博樹が一番、ほっとした顔をしていた。
母親が何度もおじぎをして店を出ると、博樹は健一に「ごめんね先生、お騒がせして。ぼく、かあさんとちゃんと話をしてみるよ」と言って母親のあとを追って帰って行った。
教室の片付けを終えて、健一と小島さんは夜の街を歩いていた。
内田かおるとホームレスの成沢はさよならと手を振って公園のほうに消えていった。
「悪かったね、今日は」
呼び出し電話のせいで、ふたりはメインディッシュとデザートをキャンセルする羽目になってしまったのだった。
「ううん、面白かったです、健一さんとお母さんのやりとり。あのお母さん、息子さんのことをすごく愛してるんですね。だから心配で仕方がないんだわ。」
「そうなんだよね。だけど息子は自立したい年頃なんだ」
「健一さんにも、そういう年頃の時があった?」
「ああ…どうかな、おれ、そういうのなかった気がするけど」
健一は子ども時代を思い出そうとしたが、物静かな父親は声を荒げるようなこともなく、母親はよくしゃべるけれども、健一のすることにいちいち注文をつけるようなことはなかった。自分も、両親に不満を抱いた記憶がない。
「おれ、反抗期、なかったかも。…変かな」
「ふふっ、健一さんって、そんな感じ」
暗い夜の街角で、ふっと小島さんが近づいて健一の腕に身体を寄せた。柔らかい感触が左腕を包んだ。健一は小島さんの身体をそうっと抱き寄せた。編んだ髪が頬に触れた。暗闇の中で小島さんの瞳が健一を見上げた。ふたりはいつしかそっと唇を重ねていた。
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