三話 いきなり事故に巻き込まれて、僕は意識を失った。

 呆然と、外の景色を眺めていた。

 乗降口のガラスの向こうに見えたのは、半年前に地上から失われて久しい、植物の緑だった。バスの走る速度に合わせて、緑が視界を猛烈な早さで流れていく。


「ここ……どこ?」

 呟きが口から漏れる。

 すぐ前を街灯が流れていった。途切れた木の隙間から高層ビルが見えた。そして防護服の中、上着のポケットの中で携帯電話が通知音を鳴らす。

 無意識のうちに防護服の上からポケットに入っている携帯電話を掴んでいて、そもそも携帯電話の画面を確認できないことを思い出して、思わず苦笑いを漏らした。


 何やってんだろうね、僕。

 でもちょっとだけ冷静になれた。


 状況は、たぶん最悪っぽい。

 運転手不在の暴走しているバスに、未だに重くて思い通りに動かない体。おまけにここがどこだか分からないし、防護服がいろいろと動きの障害になっている。


 性能はいいんだけどな。防護服。

 空気浄化機能があって、緊急時用の酸素ボンベも搭載されている。耐衝撃性能は最高クラスらしいし、何ならこのまま宇宙にだって行けるとか。まあその分、脱着にコツがいるから今の僕の状態だと脱ぐのに数十分はかかりそう。


 そもそも防護服を脱いでも大丈夫なのか、ちゃんと確認できていない。緑にあふれているように見えて、もしかしたら酸素がない空間かもしれない。もしかしたら見えているのは幻覚で、防護服を脱いだとたんに、世紀末の世界が広がっているとか。

 まあ、さすがにそこまでは状況は悪くないか。


「うわっと――」

 カーブに差し掛かったのか、体にかかる重力が変わって背中が座席にぶつかった。これは、相当な速度が出ているな。思った以上に危機感が募る。

 そもそもがここはどこなのか――前方向に顔を向けると、いつの間にか外周側にビルが建ち並んでいた。カーブの内側には森があった。木々の並びが等間隔だから、きっと公園か何かなのかもしれない。


 胸元の携帯電話が、何度も通知音を鳴らす。

 バスはさらに走る速度が上がる。


 その後も二度三度、直進に変わったり逆カーブに差し掛かるたびに、曲がる方向に体が持って行かれる。体に力が入らないから、どうやっても踏ん張りがきかない。これは、衝撃があまりないにしたって、結構きついな。だんだんと胃のあたりが重くなってきているのを感じる。




「……えっ?」

 油断してた。

 いや、そもそも油断する以前に、体が思うように動かないんだった。


 衝撃を感じた瞬間に、僕は宙を舞っていた。

 なんだか時間がゆっくりと流れているような、そんな錯覚に陥った。


 粉々に吹き飛んだバスのフロントガラスが、土砂降りの雨のように体に降り注ぐ。バスの前面が潰れて、その先にあったのはビルの壁だった。

 時間差で、自分の体がバスの進行方向に吹き飛んだ。すぐ前にあったポールにお腹の辺りがぶつかって、くの字に曲がる。咄嗟に胃の中のものを吐かなかった自分を褒めてあげたい。


 当然の結果というか、暴走したバスは盛大に衝突事故を起こしていた。

 ポールに引っかかったまま、ゆっくりと横転していくバスを見ながら、それがなんだか夢の中の出来事のようで、路面に衝突して砕け飛んだ窓ガラスが、光り受けてきらきらと綺麗に輝いて見えた。

 それはまるで、映像をスローモーションで見ているような、そんなゆっくりとした世界。


 そして相変わらず、胸元で携帯電話が通知音を鳴らす。

 いい加減にうっとうしい。


 衝突の振り戻しでポールから離れた体が、ゆっくりと落ちていく。

 そして横向きの座席に落ちた時点で、視界が止まった。


 視界だけじゃ無い。

 バスの動きも、音も。すべてのものが停まった世界は、まるで時間が止まったように感じる。


 ……時間が、止まってる?


 周りを見ようと思って首を回す。普通に首が動く違和感。

 その時点で、自分がこの停まった世界の中で動けていることに気がついた。


 胸元の携帯電話が、通知音を鳴らす。

 ……って、なんで携帯電話が鳴ってるんだ?


 周りの音は、時間の流れがゆっくりになるにつれて、徐々に聞こえなくなっていた。バスが横転して路面と擦れる音も、ガラスが飛び散って壁や体にぶつかる音も、間延びして遅くなっていく時間の流れとともに聞こえなくなっていったのに、携帯電話の通知音だけは変わらず耳に届いていた。

 そして今、時間すら完全に停まっているこの世界で、通知音が聞こえる。


 この異様な事態に、何だかゾッとした。


 心なしか周りの景色が色あせてすらいる。


「どう……なってるんだ?」

 つぶやいたはずの自分の声は、音にすらならない。

 体は動く。でも周りがすべて停止していた。なんだこれ、どうなってるんだ?


 バスの座席に触れて見るも、防護服越しの触感が硬い。首をかしげつつ、両手のひらを確かめてみると、逆に柔らかい防護服の触感。これは、つまりあれか。もしかしたら防護服までは、停まっている世界で動ける僕の影響があるってことか。

 でも触感だけで、音は聞こえない。拍手をするも無音。でも、携帯電話の音だけは聞こえる。


 でも何で、僕の声は僕の耳に聞こえないんだろう?

 何でだろう……?




 横たわった座席シートに腰掛けて、ピコンピコン鳴り続ける携帯電話に辟易していたら、唐突に視界が弾けた。

 褪せていた色が、一気に鮮やかになる。

 路面で激しく金属がこすれる音が、吹き飛んだガラス片が弾ける音が、大音量で耳に飛び込んできた。


 時間が進み始めた。

 つまりそれは、再び始まる恐怖の時間で、僕は無意識のうちに大きく息を呑み込んでいた。


 摩擦で飛び散る火花が、バスの椅子を一瞬で炎上させる。防護服を着ていてよかったと思う。瞬く間に視界が黒煙に覆われた。

 そして千切れる屋根。


「え……なんで、ミモザ……?」

 見えたのは一瞬。

 黒煙が立ちこめて視界が悪い中で、屋根だけでなく座席を吹き飛ばし、床を突き抜けていったのは間違いない、ミモザだ。

 イメチェンなのか、髪が綺麗な金色に染められていた。びっくりした顔は僕の知っているミモザ。瞳は光を反射していたのか金色に光っていた。光っていたんだよな、金色に?


 でも一瞬の間に知覚できたのはそれだけ。


 粉々に吹き飛んで砕け散った屋根が、椅子が、防護服を突き破って僕の体に突き刺さり、一気に口の中に血の味が広がる。

 着ていた防護服は、あくまでも防護服。劣悪な環境に対する性能は高かったけれど、純粋な暴力的な衝撃に対してはまるっきり無力だった。


 僕の意識は、その一瞬の間に吹き飛んだ。




『……ふむ、どうやら覚醒したようだな』

 声が、聞こえる。

 何だか懐かしい声、少し前にも聞いた声。


 でも僕は確か、死んだんじゃないのかな……?


『だがしかし普通に生きておるぞ。ただな、主の存在が書き換えられたからか、同時に我の存在がこの世界に確定された。数万年の時を越え、今の我が本体というわけだ』

 ちょっと意味、わかんないんだけど。


 声に出そうとして、声が出なかった。

 何だか呼吸が重い。まるで水の中で溺れたときに、その水を吸ったり吐いたりしているような感覚。まあ、溺れたことないんだけど。


『そう慌てる出ない。少し前に蘇生処理をしたのでな、じきにエリクシルが排出されるであろう。とはいえ、ただ待つのも暇であろう。主の言葉は考えるだけで理解できるからな、何か気になることがあれば、遠慮無く我に聞くがよい』

 コポコポと、泡が耳元を通り過ぎていくような音が聞こえる。


 そもそも、今僕はどこにいるの?


『どこ……それは、世界か? 星か? それとも、単純に今いる場所の説明でよいのか?』

 え、何その意味不明な選択肢なに?


『まず前提条件であるが、世界は越えておるな。ちなみに世界の爆発点の話は知っておるか?』

 顔が、空気を感じた。

 湿った肌が少し寒い。ゆっくりと目を開けると、水面からちょうど目が出たところだった。水中にいることに気づいて、でも呼吸が苦しくないことに気がつく。

 どうしよう、僕、水中で水を呼吸してる。


『水では無く、エリクシルだな。世界書庫によれば、ナノマシン群体型万能治癒液とある。

 開発者は小鳥遊玲二、小鳥遊アンジェリーナの二名、か。奇しくも、開発成功の直後に太平洋の海底巨大火山が噴火したのは、因果関係を感じずにはいられぬが』

 想定外の名前に、思わず水――エリクシルを吹き出した。それ、僕のお父さんとお母さんだよ。

 そして気がつく。目の前にあるガラスの向こう側に、羊がいた。白いモコモコの、大きさはメロンとスイカの間くらいかな。まん丸な目で、僕のことをじっと見ている。


『ふむ? 視力が戻ったか、今見ているそれは我だな。

 して、話を戻すぞ。世界の爆発点より同じ起点の、無数の違う世界が並行して生まれて、そして広がった。その無数の世界は全てが同じであり、そして全て別の世界なのだが。ここまでは理解できたか?』

 ……全然分からない。


『世界は観測する者がいて、そこに収束する。現在、世界書庫に記録されている並行世界数は三十二億五千三百八十五だが、まあここは別に不要だな。今回運悪く、エネルギーと因果の歪みで一時的に繋がったのが七番世界『地球』と七百七十七番世界『ナナナシア』だが、まあ、これが今回の世界事変の主要な原因だな』

 鼻から口元、そしてのどまで水位が引いていく。呼吸は、気がつけば水呼吸から空気の呼吸に変わっていた。まるっきり、切り替わりに気がつかなかった。


「あ、声がでる……」

『だが、まだそこから出られるようになるまでは、時間がかかるだろうよ。今しばらく我の話を聞くがいい。

 奇しくも、地球とナナナシアは星の大きさから始まり、公転周期や衛星、所属する惑星系の周期や銀河系の形状まで全く同じ配置で運行しておる。似たような配置の世界線は他にも数百ほどある故、そこまで珍しいものではないが、正直今回は運が悪かったのであろう』

「……まだ続くの?」

『まだ胸の辺りまでしかエリクシルが引いておらぬぞ?』

 何とか首が動かせるようになった。ただ、動きがちょっとぎこちないというか、ずっと同じ態勢で寝ていたときに、体が気怠いあの感覚が首にある。

 ただ、少し動かしていたらすぐにスムーズになった。これってこの液体、エリクシルの効果なんだろうか?


『エネルギー値が正反対であったため――』

 そしてどうやらこの羊、まだ喋るらしい。

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移民船『方舟』丸ごと転移。僕はそこでミモザを探す旅に出る。 澤梛セビン @minagiGT

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