『終わらない季節』——石喰いの花
まだ夜明けは遠い。俺は村から続く街道を歩いていた。
リンドウが姿を消してから、まだそこまでの時間は流れていない。東の空に太陽が昇るまであと少し。内心の焦りを押し殺して、俺は暗い道を歩き続ける。
何故? 胸の奥に問いかける。答えは出たが、納得には程遠い。一度足を止めて周囲を見回したが、あの石喰いの姿を探し出すことはできなかった。これが別れだというのだろうか。これが……こんなものが。最後だというのだろうか——?
「……リンドウ!」
名前を呼んだ。滅多に呼ぶことのなかった名を叫んだ。けれど応えが返ることもなく、声だけが虚しくが暗闇に響いて消えた。いつも呼べば応えは返ってきたのに、どうしてこんな風に終わりを迎えなければならないのだろう。
それでも俺は、その姿を探し続けた。気づけば、空は薄い光を帯び始めている。もしあの太陽が登ってしまったら、俺はもう、リンドウを見つけられない気がした。
もう一度、名前を呼んだ。いつの間にか、目の前には大きな木が佇んでいる。あてもなく歩き回ったからだろうか。見覚えのない場所に俺は立っていた。
すぐに引き返すこともできたはずだった。だがそうしなかったのは、俺の中で何かしらの予感があったからかもしれない。まだ夜の闇に閉ざされた大木の下。ゆっくりと歩み寄っていけば——そこには。
「春がまた来るなら」
お前は最後に振り返った。そのことを奇跡的に思ってしまうのは、俺が拙いからだろうか。解らない。無意味に口にするための時間はもう、残されてなどいないのだけど。
「いつか、花は咲くだろう。いつか、すべては優しくなれる」
花が咲く。一瞬で散っていくほどに美しい光の乱舞。いつものように笑う顔が、俺を見ることはない。だからこそもう、手を伸ばさない。伸ばすことは、出来なかった。
「……やあ、カナン」
幻想のように光は途切れて、石喰いの手の中には石の花が咲いていた。
それだけの光景を、俺は立ち止まって見つめることしか出来ない。ここに痛みがあるというのだろうか。一体、それは誰の痛みだというのだろう。
「突然いなくなって、どういうつもりだ」
自分でも声が荒くなるのがわかった。そんな風に言いたいわけではない。けれど実際、心は揺れていた。俺たちの間に、隔たりなどないのだと思っていた。そう思っていた。
「……どうして、か」
石喰いは、静かに笑った。形だけの、中身のない笑み。そんな笑い方をするリンドウを、俺は知らない。長い息を吐き出して、石喰いは俺を見ることもなく言う。
「だって、もう君に私は必要ないだろう?」
何故、と問うのは、俺が愚かだからだろうか。しかし同時に気づいてもいる。たぶん、俺の中の何かが、リンドウを傷つけたのだろう。俺にとっては些細な、リンドウにとっては大きな何かが。
「必要ないなんて、どうして思うんだ」
「……カナン」
リンドウの手の中で、石の花がかすかに光る。痛みが形作る花。手の中の花を見つめながら、石喰いはそっと言葉を投げかける。
「もう、君の痛みは消えただろう?」
いつか、終わる旅だった。
旅の終わりはそう、俺の心の痛みが消えた時。初めから定められてきた旅路だったのだろう。けれど、簡単に納得できるほど、俺の心は容易くなかった。
「……お前の痛みは、誰が消すんだ」
呟きは、未練がましい心の現れなのだろうか。リンドウは少しだけ微笑んだ。どこか空っぽに見える笑みで、東の空を見つめる。終わりを、見定めるように。
「私の痛みは、消えなくていいんだよ」
微笑んでいることを、奇跡だとは言えない。悲しいまでの優しさは、心を温めるばかりでなく、寂しい痛みで胸を刺す。
「この痛みがある限り、私は生きていける。生きる限り、痛み続ける心があるから……石喰いは花として散ることなく、永遠であれ生きていける」
リンドウは言う。痛みが消えた石喰いは、花として散ってしまうのだと。癒されない痛みを抱え生き続けるからこそ、リンドウは満たされない代わりに散ることもない。
それは幸せだろうか。悲しみだろうか? 幸せを手に入れた瞬間、散るしかない石喰いの命。かつて多くいたという石喰いは、皆、幸せになれたのだろうか——。
「解らない。お前達にとって幸せとは、死と同義だと言うのか?」
それは、あまりにも報われない結末だと思った。生きる限り痛みに苛まれ、その痛みが消えたなら死ぬしかない。それならばなんのために生きているのだろう。それとも石喰いは人ではないから、理不尽に思える結末も受け入れられるのだろうか。
首を振る俺に、リンドウは手の中で石の花を転がした。気づけば夜明けが近づいている。光が地平線の向こうから、ゆっくりと広がっていく。
「解らなくていいんだよ。石喰い《わたしたち》の幸せとは、
生きる限り、痛みは続くのだろう。死ぬ時にだけ、永遠に近い痛みから解放されるもの。それは石に花が咲くほど困難で、けれどいつかはと願い続けているのだと。
リンドウの横顔が光の中に浮かび上がる。その薄紫に瞳には、限りない優しさが宿っているのだと思っていた。けれど本当は、ずっと深い場所で悲しみ続けるしかない心が眠っているのだろう。
たとえ何かを愛しても、石喰いの手には何も残らない。生きることを望む限り、石喰いは失うことしか選べない。愛したものの傍にいることさえ、選ぶことが出来ない。
人の痛みが石喰いを生かし、人の愛が石喰いを殺す。なんて矛盾。報われることのない希望がこんなものだなんて、信じたくはなかったけれど。
「……お前は」
聞いてはいけない。本当はそんなこと解っていたんだ。
——人は誰しもエゴを持つ。それが時として偽善となり、誰かを傷つけた。
そう、そうなんだろう。俺が願うことはきっと、リンドウを救わない。だからこれは俺のエゴ。あるいは偽善。石喰いを傷つけるだけの、独りよがりな願い。
「お前は今、幸せか?」
言葉なんて無力だ。俺の言葉なんて、なんの意味もない。
リンドウの手の中で、石の花が砕けた。音もなく散っていく石の花弁。落ちていくわずかばかりの時間の最後に、石喰いはそっと呟いた。
「——いいえ」
やさしい笑顔で、リンドウは言う。
「君と別れて歩くことは、とても悲しいことだろうね」
だから、さよならなんだ。君といると、私はきっと生きられない。
今日初めての朝日が、俺の視界を一瞬奪っていった。満たされていく光の向こうで、リンドウは今も微笑んでいるのか。解らない、解りたくない。だけど答えはもう出ているんだ。
生きるために、生き続けるために。君と別れよう。
それはどんな愛の言葉よりも、深い想いを描き出す。リンドウがいなければきっと、俺はとても寂しいだろう。だけどそれがもし、リンドウの命を奪うのだとしたら。
何も——言うことは、出来なかった。この想いが、この心にある願いが……石喰いを殺すのなら。胸の中にある想いすべてを、深く沈めよう。二度と現れないように、惑わせないように……深く沈めて、そこに鍵をかけよう。
それで、お前が生きられるのなら、俺は俺の想いに意味を与えない。
ほんのわずかな間だけ、リンドウは俺の目を見つめた。そしてゆっくりと俺に歩み寄り、その手を俺の胸に押し当てる。たったそれだけ。それ以上は何も、何も起こらない。
「ほら」
リンドウは、いつものように微笑んだ。それだけのことが、俺だけに向けられていたものだと今更に気づく。もう遅すぎるけれど、何も言うことさえできないのだけど。
「もう、痛まない」
いいや、それは嘘だよ。告げたところで、お前は行ってしまうだろう。笑うことのない俺をもう一度だけ見つめて、リンドウの手は離れた。もう朝が訪れている。朝の光が、俺たちを隔てるように影を作り出す。
「さようなら、カナン。もう、会うこともないだろうけれど」
遠ざかっていく。永遠に、二度と触れることのない距離まで。石喰いは一人で歩き出す。俺は立ち尽くしたまま、その背中を見つめ続けている。追いかけることも、その手をつかむことだってまだ出来た。けれどそれが出来ない。それだけのことが、出来ないんだ。
何故って、俺はお前に生きて欲しいからだよ。それ以上の願いなんて、あまりにも過ぎたことだった。もし俺がお前のそばにいることを選んだら、お前を失うことしかできない。
「——リンドウ!」
だから、これは余計な想いだ。投げかける意味も、覚えている意味さえない想い。
「忘れないでくれ……!」
忘れていい。きっと忘れてしまうだろう。だけど今ここにあったと言う事実だけは、どうしても……忘れて欲しくなかった。忘れないで、ずっと、きっといつか——。
「俺がお前と『生きたい』と願っていたことだけは! ずっと……」
忘れないで。それだけはずっと、変わらない真実なのだと。
さよならを告げた背中は、振り返ることはない。ただ本当に届かなくなってしまう瞬間、ずっとそばにあった声音が、呟くようにその言葉を紡いだ。
「……そうだね、ずっと君を想うだろう」
花が咲く。暖かな春の日の終わりに、二人の道は分かたれた。
石喰いは一人で歩き出す。まだここが終わりではないと信じたから。
だがいつか、また春が来て。再びこの道を歩くことがあったなら——。
「春がまた来るなら、いつか石に花が咲くだろう」
カナン。君がいない道を私は歩くだろう。けれど君も覚えていて欲しい。
巡る季節の中で、私たちが共に歩いたことを。私の言葉を、私の姿を。
生きることを諦めようとした君が、生き続ける道を選んでくれたことは、私にとって唯一の幸せだ。君はそんなことかと笑うかもしれない。だけど私にとって、それはとても嬉しいことだったんだよ。
痛みを喰らうことしかできない石喰いの私。何も変えられず、生きることに執着するしかなかった私にとって君は、本当にかけがえのないものなんだ。
だから、君は生きて。ずっと長く、健やかに。私もずっと生きていくから。生きて生きて、生き続けて。その先でもし、この道にたどり着くことがあったなら——。
「ねえ、カナン」
桜の花が咲いて、緩やかに散っていく。その花の落ちるまでの時間を共に見ていた人はいない。だけどそれでも、時が流れて、もし心が導くのなら。
——終わらない季節に花が咲く頃に。きっと、君に会いに行く。
『石喰いの花 』——了
石喰いの花 雨色銀水 @gin-Syu
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