第2話 柘榴
「それにしても、喋らんのだな」
青年が言うように、幸也はこの屋敷についてから、咲桜の名前を呼んだきり口を開いてなかった。
「俺と二人旅なせいか、どんどん無口になってしまった」
「そうか、早く親元に帰れるといいな」
青年は真っ白な手で幸也の頭をよしよしと撫でた。腹が一杯になったらしい幸也はされるがまま大人しくしていた。先ほど翁が弁当まで用意してくれた。
「ああ、世話になった。後日必ず礼に来る」
咲桜は座っていた縁側から腰を上げた。眠っていた時間は日の高さからして、大した時間ではないようだが、グズグズしていては、秋の日はあっという間に暮れてしまう。しかし歩き出そうとした瞬間、態勢を崩した。適当に結んだ草鞋が緩んでいたのだ。転げそうになったところを、青年に腕を取られ、もう一度縁側に戻された。
「どれ、」
青年は咲桜の足元にしゃがみ込むと、するすると器用に結びなおした。
「痛くないか」
訳もわからず、顔が赤く染まる。近くで見た青年の顔があまりに整っていたせいだろうか。まつ毛は影を落とすほど長く、繊細に目元を飾っていた。顔を上げた青年は真っ赤に顔を染めた咲桜を見て苦笑した。咲桜が見惚れていたことに気が付いたのだろう。恥ずかしさに、余計に顔が赤くなる。
「いとけないな……」
「え?」
青年は自分の髪を束ねていた髪紐を解くと、咲桜の後頭部で結んだ髪に触れた。きゅっと結ばれる感覚がする。
「な、にを」
「お守りだ。無事にこの峠を越えるように」
青年はぽんぽん、と幸也にしたように咲桜の頭を撫でた。青年にとっては幸也も咲桜も大差ない子供なのかもしれない。
「さあ、引き留めて悪かった。日が落ちる前にお行き」
「……必ず、礼に来る」
会いたいと思った。無事に幸也を送り届ける役目を果たせたら、もう一度、この青年に会いたい。だが、それまで無言だった幸也が唐突に青年に向けて口を開いた。
「助けてくれて、ありがとう。でも僕たちはもう、ここには来ない」
ぷちん、と何かが途切れるような音が耳元で聞こえた。咲桜は音の出所を探して視線を彷徨わせたが、辺りには何もなかった。幸也と青年には聞こえなかったのか、微動だにせず向かい合っていた。
「……ああ、そうだな。それでいい」
幸也は青年に頭を下げると、小さな手で咲桜の手を握りぐいぐいと引っ張っていく。咲桜も急がなくてはいけないことはわかっていたが、何故か無性に去りがたかった。門の前で青年を振り返ると、何か言いたげな青年と目が合った。
「少し、待て」
青年は庭に植えられた柘榴の木へと足を進め、真っ赤に色づいた実を一つもいだ。それを咲桜へと手渡す。
「一つ、持っていけ」
「食わぬほうがいいと言わなかったか」
「ああ。だからお主の好きにするといい。捨てるも、食うも自由だ」
咲桜は手に持った果実に鼻を近づけて、すん、と匂いを嗅いだ。仄かに甘酸っぱく瑞々し香りがする。いい匂いだ。当たり前だが血の匂いなどするわけがない。
「頂く」
笑って頷く青年に頭を下げ、咲桜は幸也の手をしっかりと握り直し峠の屋敷を後にした。
峠の道はいよいよ段差が激しくなり、幸也を背負ったままでは進むことが出来なくなった。手を引いて歩き、時には自分を踏み台にして、崖のような場所をよじ登らせる。お互いに息を切らせ、手を泥だらけにして前に進んだ。
秋の日が傾き、辺りが茜色に染まるころ、木々の開けた場所に出た。咲桜は頭上で羽音を聞いて、咄嗟に幸也の頭を抱えて蹲った。ぶわっ、と髪が巻き上げられる。一瞬反応が遅ければ、幸也の頭がその爪で抉られていただろう。巨大なカラスだった。
咲桜は幸也を地面に蹲らせ、腰の刀を抜いてカラスに向けて振るった。真っ黒な羽が散る。
一度上空に舞い上がったカラスは木にとまり、態勢を立て直すと、不気味な咆哮を上げた。幸也が堪り兼ねたように泣き出す。
バサバサ、と羽音を立て急降下してくように見えたカラスは、しかし何故か、途中で軌道を変え、また上空へと戻った。そのまま山の上の方へと飛び去った。
「助かった、」
「さくらっ」
「大丈夫だ。もう、どこかへ飛んでいった」
がくがくと震えながら縋り付いてくる幸也の肩を抱きしめた。咲桜の手も震えていた。カラスは雑食だが、まさか人を襲うとは思わなかった。
咲桜は乱れた髪を直そうと自分の髪に触れた。そこには峠の青年がくれた髪紐があった。幸い、紐は無事で咲桜は手早く髪を結びなおした。
「さあ、行こう」
泣いたままの幸也の手を取って、また歩く。一刻も早く、この山を出なくては命がない。
「さくら……、もう歩けない」
「ああ、休もう」
日が完全に落ちてしまえば、前に進むことは出来なかった。咲桜と幸也は水音を頼りに見つけた小川で岩の上に腰を下ろした。汚れた手拭を濯ぎ、頬に流れた汗を拭う。幸也の涙と汗でグチャグチャになった頬も拭いてやった。残り少なくなった水筒に水を足し、冷える水辺から離れた。木々の茂みのなかに入って腰を落ち着ける。火を焚くことはしない。野盗を警戒してのことだった。
「もう泣くな。明日にはきっと峠を越えられる」
未だ嗚咽を零したままの幸也の肩を抱き寄せた。きっと明日には日のあるうちに山から出られるだろう。そうすれば、少なくとも獣や物の怪に怯えることはなくなる。
「母上に会うんだろう?」
「……母様は幸也のこと要らないって言わないかな」
咲桜は言葉に詰まった。幸也を母親のもとへ送り届けるにあたり、前もっての打診はしていない。咲桜は主が書いた手紙だけを持たされて幸也を連れてきた。
突然、息子を連れてこられた母親は間違いなく困惑するだろう。激怒する可能性だってある。こんな命がけの旅路を行くのに、母親に受け入れてもらえる保証はない。そして受け入れて貰えなかったときは、……今度こそ行き場がない。
「もし、もしもだが、お前の母上が急なことで困ると言うなら、俺と暮らすか?」
「え?」
「都で住む場所と仕事を探そう。今までのような暮らしは出来ないが、食っていくことくらいは出来るだろう」
どのみち、咲桜は帰りの路銀を持たされていない。都についたら働き口を見つけ、纏まった金を貯めなければ帰れないのだ。幸也を送り届けるために本家から支給された金銭の半分は親が懐に入れた。咲桜は行きの路銀だけしか持たされていない。帰ってきたければ自分でなんとかしろ、と言われた。
……何か、悪いことをしただろうか。貧しい武家に生まれ、一つ年上の兄がいた。それだけで、こうも粗末な扱いを受けるのは何故なのだろう。なぜ自分は親に愛されないのだろう。
親に認められたくて、必死で勉強し剣術の稽古にも励んだ。けれどやればやるほど可愛げがない、小賢しいと嫌われた。兄を押しのけようと思ったことは断じてない。それでも邪魔になるのか……。
(大それた名前のとおり、慎み知らぬ)
兄の嘲笑う声が頭に木霊した。そんなつもりはなかったのに。
「ぼく、咲桜と暮らす。僕が咲桜を守ってあげる」
幸也はきゅっと咲桜の首筋にすり寄った。
「ばか、自分で歩けるようになってから言え」
照れくささを胡麻化すために、ワザとそっけない声を出す。両親さえも必要としてくれない自分を幸也は必要としてくれる。
「弁当は明日の朝食べような」
咲桜は峠の屋敷でずっしりと中身の詰まった弁当をもらっていた。だが行き倒れそうになったばかりだ。食料は大事にしなければならない。不満げな幸也を宥めつつ、日中あれほど食べたのに咲桜も空腹を感じていた。
「そうだ、」
咲桜は懐にしまった柘榴を取り出すと、爪を立てて半分に割った。月明りだけが頼りの暗闇の中で、柘榴は滴る血のように赤かった。手を汚しながら小さな実を取り出すと、幸也の小さな口に入れてやる。だが柘榴を含んだ幸也はすぐさま吐き出した。
「幸也っ、どうした⁉」
「ま、まっずい! 何これ??」
「勿体ないことをするな」
咲桜は叱りつけつつも、果実で汚れた幸也の口を拭いてやった。
「ぼく、もう寝る」
「ああ、そうしろ」
無駄に起きていると余計に腹が減る。咲桜は荷物の中から着物を取り出し、幸也の体を包んでやる。小さな幸也の体は風に吹かれているとすぐに冷えてしまう。疲れ切った幸也は咲桜に抱きしめられると、すぐに寝息を立て始めた。
月明りだけの暗闇の中、火を起こすことも眠ることも出来ずに過ごす夜は長い。咲桜は幸也の華奢な肩を抱きしめて眠気を追い払った。たとえ向かう場所に迎えてくれる人がいなかったとしても、帰る場所がないとしても、幸也のことは守らなくてはならない。しっかりしろと自分に言い聞かせる。
咲桜の目に、ふと半分に割った柘榴が映った。朝になれば幸也も気が変わって食べるかもしれない。そう思ったが、引き寄せられるように果実を口に運んでいた。口の中で小さな粒が弾け、甘さと酸味が広がった。乾いた体を心地よく癒していく。
「うまい、」
こんな旨いものを、幸也はどうして吐き出したのだろうか。疲れた体に力が湧いてくるのを感じる。去り際、この果実を持たせてくれた青年を思い出し、顔を緩めた。先行きどうなるかわからないが、必ずまた会いに来よう。
…………
「……かかった」
獲物が罠にかかった。峠の屋敷の主、月夜は庭の池に映る月を見つめながらぼそ、と呟いた。水面に映った月は姿を変え、仲良く寄り添う咲桜と幸也の姿を映し出した。
月夜の屋敷の庭では鮮やかに色づいた紅葉を眺めての酒宴が開かれていた。賑やかなお囃子が宵の空に響き渡る。歌い踊るのは異形の者たちだ。その末席には兎や狸に似た小型の獣や、真っ黒な羽を持つ妖鳥もいた。
月夜は喧騒から離れ、池の淵に佇んでいた。
「旦那様は酷な御方だ」
騒ぎのなか、月夜の声を耳にした翁が苦い顔で漏らした。振り返った月夜はくすっ、と人の悪い顔で笑った。その瞳は紺色に鮮やかな金の光が浮かんでいた。
「子供には逃げられたがな」
「子供は得てして鋭い。それにしても一度ならず二度までも旦那様の手から逃げるとは賢い童でしたな」
「全くだ」
『僕たちはもう、ここには来ない』
たったそれだけの言葉で、あの幼子は自分と咲桜にかけられた月夜の呪いをはじき返して見せた。繋がりかけた縁の糸を無理矢理断ち切ったのだ。さらには柘榴を吐き出した。だが幼児が眠った瞬間、咲桜は月夜の手に落ちた。
月夜は池の淵にしゃがみ込み、水面に指先で触れた。池は音もなく波立ち、水面に映った咲桜と幸也の姿が揺れた。
「少々口惜しが、欲しかったものは手に入った」
幼児に上手を取られたことは不本意だが、望みは叶った。
「旦那様の好みでしたかな」
老人は意外そうな顔で月夜を見た。月夜は笑みを浮かべて頷き返す。
「ああ、久しぶりに美しいものを見た」
この峠を通る者は皆、訳ありだ。その中にあって、いとけなく初心で、優しい目をしていた。摘み取って汚してみたい。
「あれは必ず俺の元に帰って来る」
宵の風が月夜の笑い声を運ぶ。
鬼になった青年の話 @potisiro
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