鬼になった青年の話

@potisiro

第1話 捨てられた二人

 峠には人食いの鬼が住む。


 見代の国から都に向かうためには鬼が住むという峠を越えなければならない。山々が連なる険しい道だ。


 咲桜は今、四歳になる幼子を背負って、その道を歩いていた。ぬかるんだ土を踏む足は草鞋が食い込み血を流していた。


「咲桜、大丈夫……?」

「平気だ」


 咲桜が背負った子供の名は幸也といい、本家の当主の子だった。咲桜が幼い幸也を連れて危険な峠を歩くことになったのには理由があった。


「本当に、鬼がでるのかな」

「迷信だ。いる訳がない」


 咲桜は苦々しく吐き出した。峠に差しかかる前、最後に立ち寄った村で鬼の出る峠だと散々、脅かされた。幼い子供を無駄に怖がらせたお節介な村人達を思い出し、今更ながら腹が立つ。


 険しい道であることを最初から知っていた。それでも咲桜と幸也は行くしかないのだ。


「お腹、減ったね」

「………」


 腹が減っていた。昨日の昼に食事をしたきり、幸也は丸一日以上何も食べていなかった。咲桜自身はもう何日も、まともな食事をしていない。気力だけで歩いていた。



「咲桜、咲桜っ、 ねえ、聞いてる⁉」

「……悪い、聞いていなかった」


 腹が減りすぎて、頭が朦朧としていた。このままでは二人とも行き倒れる。せめて幸也だけでも助けなくては……。


「咲桜、見て。家があるよ!」

「家? こんな山奥に……?」


 まさかと思ったが、幸也の言うように細い道の先に、鬱蒼と茂る木々が僅かに開けた場所があった。近づいてみれば、それは意外にも立派な屋敷だった。


 庭木もよく手入れされ、池でもあるのか水音が響いていた。何よりも目を引いたのは、細い道に面して植えられた柘榴の木だった。熟れた真っ赤な果実を見つけ、思わず咲桜の腹が鳴った。


「柘榴を分けてもらえないか、頼んでみよう」


 咲桜は幸也を背中から降ろすと、小さな手を引いて屋敷の門に向かって歩いた。幸い、庭先に人がいたようで、声をかければすぐにシワだらけの小柄な老人が出てきた。


「ああ、あんたらも行き倒れかい。こんな険しい山道に子供を連れて来るなんて、無茶をする」


「おっしゃる通りだ。迷惑をかけてすまないが、あの柘榴を一つ分けて貰えないだろうか」


 翁は困った顔で庭に実った柘榴を見た。


「悪いことは言わない。あれは食わんほうがいいよ。腹が減ってるなら、代わりに握り飯を作ってやろう。待っていな」


 屋敷の中へと歩いて行こうとする翁を咲桜は慌てて呼び止めた。


「待ってくれ、礼の出来る当てがない」


 この辺りは貧しい土地だ。無償で親切にしてくれることなどあり得ない。麓の村でも、井戸水さえ分けて貰うのに苦労した。


「いいよ、いいよ、礼なんて。腹を空かせているんだろう」


 咲桜と老人が騒いでいると、屋敷の方から涼しげな声が響いた。

 

「どうした、客か?」

「旦那様、」


 屋敷の中から出てきたのは二十代中頃の青年だった。紺色がかった黒髪と雪のように白い肌をしていた。髪は前髪を斜めに下ろした総髪で、後ろ髪を後頭部の高いところで一つに結んでいた。


 瑠璃の目だ……。

 宝玉のような美しい瞳と目があった瞬間、膝の力が抜けた。視界が暗くなった。


「咲桜っ、咲桜、どうしたの⁉」

「おい、アンタっ。大丈夫かい?」


 幸也の叫び声を聞きながら、地面に崩れ落ちた。そのまま、視界は真っ黒に染まった。







 夢を見ていた。夢を見ながら、これは夢だと自覚している、不思議な感覚だった。


 ガチャガチャと硬質な音が鳴る。刀や錫杖、武具が立てる音だ。その中に数珠の音も混じる。


 僧侶、か……


 暗闇の中、僧侶や武士が、かがり火を持ち隊列を作りながら山を登っていた。異様で不気味な光景だった。





 場面は切り替わり、今度は夕暮れだった。音もなく紅に色づいた葉が舞い落ちる中、武装した一人の僧侶と、やせ細った少年が対峙していた。


『その姿……、まるで餓鬼だ』 


 餓鬼だと言われた少年は燃えるような瞳で僧侶を見返した。やせ細り、頬は削げ、唇は乾燥していた。手足はあちこち乾いた血糊で汚れていた。


 何より異常だったのは少年の額には輝く一対の角があった。生きているのが不思議なほど無残な鬼は、瞳だけは爛々と光らせていた。


『坊主の分際で、この俺に向かって餓鬼だと?』


 少年の表情は逆光のせいで良く見えない。ただ瞳だけが陽光を反射して燃えるように赤い。声は燃えるような怒りと敵意に満ちていた。







 唐突に目の覚めた咲桜は文字通り飛び起きた。


「さくら⁉」


 すぐ隣に居たらしい幸也を引き寄せ、寝かされていた布団の隣に置かれていた刀を握りしめた。夢の中の少年の殺気に当てられたように、胸がバクバクと鳴っていた。


「咲桜、咲桜っ、痛いってば」

「……悪い」


 謝りつつも、咲桜は幸也から手を離さなかった。あまりに不気味な夢だった。


 それにしても、ここはどこだ……。


 部屋の欄間や障子、畳、僅かな調度品のどれをとっても控えめだが品のいいものだった。寝かされていた布団も上等なものだ。峠の麓の周囲はどこも寒村であったのに、ここは妙なほど洗練されていた。


「おや、目が覚めたか」


 半分開けられていた障子から顔を覗かせたのは、濃紺の髪と瞳をした青年だった。目鼻立ちは整い、繊細で美しい顔をしていた。変わった髪と目の色のせいだろうか。一目見たら忘れられない存在感があった。 


「俺の顔を見るなり倒れたのだが、頭は打っていないか?」


「あ……」


 そうだった……。

 柘榴を分けて貰おうと立ち寄った先で倒れたんだ。


「気分は悪くないか?」

「ああ、」


 咲桜は居住まいを正すと、青年に向き直った。


「すまない……、迷惑をかけた。庭の柘榴を分けて貰えないかと、立ち寄った。情けない話だが、もう丸一日以上、この子に食事をさせていない」


「そうか、腹を減らしていたか」


 青年はどこかほっとしたように柔らかく微笑んだ。


「食事の支度をしよう。だがまずは、その足の手当てをしようか」


 言われてみれば草鞋で擦り切れた足は血だらけで、布団を汚していた。


「すまないっ、」


 慌てて布団から出ようとし、今度は畳を汚しそうになって、たたらを踏んだ。足だけでなく咲桜も幸也も野宿を繰り返したせいで、座敷に上がるには汚れ過ぎていた。


「よいよい。気にするな」


 青年は大慌てする咲桜を見て、おかしそうに笑う。古臭い話し方だが、その顔は見とれるほど美しいかった。


「ここまで運んだものの、その子が威嚇するものだから手当も出来なかった。動けそうならこちらにおいで」


 どうやら眠っている間、幸也はずっと側に付いていてくれたらしい。よしよしと頭を撫でてやれば、ぐりぐりと頭を押し付けて甘えてくる。


手招きする青年について行けば、翁が縁側で手洗に水を汲んで待っていてくれた。泥と血に汚れた足を洗うと、軟膏を塗って包帯を巻いてくれた。


 他に怪我はなく、幸也も無事だった。そうこうしている内に握り飯や汁物が用意された。幸也は頂きますを言うのも忘れて、大きな握り飯に齧りついた。


 ようやく幸也にまともな食事をさせられた。ほっとして、無意識に幸也を見る目が緩む。


「お主も食べたらどうだ。足りなければ何か他の物を用意するぞ」


「すまない。この恩は決して忘れない」


「大げさだな。行き倒れた旅人が訪ねてくることは良くあることだ。気にしなくて良い。だが、あの柘榴は食わん方がいい。人肉の味がするぞ」


「何だって?」


 面食らった咲桜を見て、青年はおかしそうにコロコロと笑った。どうやら揶揄われたらしい。


「冗談だ。それより随分と大きな子がいるのだな。幾つの時の子だ?」


 青年はガツガツと食事を続けている幸也を見て小首を傾げた。咲桜は青年の勘違いに慌てて首を振った。幸也が咲桜の子だったら、十二、三の時の子だ。いくら何でも、その誤解は酷い。


「違うっ。この子は本家の子で、俺の子ではない」


「なんだ。えらく若い父親だと思ったぞ」


 青年は慌てる咲桜を見て、美しい顔に悪戯な笑みを乗せた。またも揶揄われたらしい。咲桜はむすっと青年を睨むが、頬はうっすらと熱を帯びた。男だとわかっていても、その顔はとても魅力的だった。


「ではどうして、こんな小さな子を連れて旅を?」


「事情があって、親元に送り届ける途中だ」


 幸也の両親は離縁していた。母親は実家である都に戻り、幸也は跡取りとして父親に引き取られた。なのに、父親は今になって再婚が決まった。


 邪魔になった幸也は母親の元に追いやられることになった。

 だが幸也の母親が住んでいる都は、陸路で行くには鬼が住むという険しい峠を越えなければならない。航路を行くためには莫大な船代がかかる。幸也の父親は船代を出し惜しんだ。


 誰が幸也を送っていくかは揉めに揉めた。押し付けあった挙句、分家にあたる咲桜の兄が選ばれた。しかし両親は危険な旅に兄を行かせるのを不憫だといい、代わりに咲桜に行くように命じた。

 

 危険であることは端から知っていた。それでも行くしかなかった。これは居場所のない咲桜と幸也の二人旅だった。



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