雪神の宿

御餅田あんこ

雪神の宿

 音もなく降り続ける雪が、山も裾野の町も白く染めていく。家々の軒先には雪神のための宿、人が「おやどさま」と呼ぶものが吊されている。あの家も、この家も。せっかく来てやったものを、と腹立たしく思っていると、たった一軒、軒先に何も下がっていない家を見つけた。町外れの古民家だ。看板を出しているから商家らしい。

「夜分遅く申し訳ない」

 戸を叩くと、ぎょろりとした目のいかにも欲深そうな若者が出てきて、興奮を隠すように言った。

「どうなさいましたか」

「山で道に迷ってしまって、これ以上歩けそうにないのです。どうか、一晩泊めていただきたい」

 まるきり、こう言われるのを待っていたように、男は薄ら笑いを浮かべて「どうぞ、どうぞ、お上がりください」と言うのだった。男は富が欲しいのだろう。去年泊まった家の主人と同じ顔をしている。去年の家は、今やもう更地となった。

 退屈窮まる。

 愉快な遊びはないものか。


 *


 しゃん、しゃん、とん、とこ、とん。

 温泉の帰り、大伍は夕暮れ時のアーケード下で足を止め、音のする方へ目線をやっていた。

「来た、来た」

「雪神行列だ」

 囁き合う声が聞こえる。

 はらはらと雪が舞っている。土産物屋や喫茶店が軒を連ねる通り沿いに、右も左も道路の向かいも、気がつけば見物の人だかりが出来ていた。通行止めにした道路の真ん中を鈴や太鼓の音とともに行列がやってくる。提灯の灯りに囲まれた白装束の女性が、厳かな足取りで行く。さらに鈴や太鼓を持った数人がまた続き、一団は大伍の前を横切って、今年の宿に入っていった。

 アーケードに密集した見物人の群れは、行列の感想を言い合いながらやがて散り散りになっていく。大伍も自分の泊まる宿へ向けて歩き出した。

 昨晩のどか雪の影響により、各所で渋滞が発生している。この先、大伍が通るはずだった道もその一つだ。知人の結婚式の帰り、電光掲示板の渋滞情報に嫌気が差し、ここは一つ近場の温泉地で一泊しようとやって来たのがここ、乙鶴温泉郷であった。

 ちょうど乙鶴地区の観光名物となっている乙鶴祭りの日に被ってしまい、当日宿泊可能という宿がなかなか見つからなかったが、運良く町外れの古民家宿に泊まれることになった。なんでも、祭りを見に来るために予約をした遠方の客がこの雪のせいで辿り着けず、キャンセルとなってしまったのだという。雪のことは仕方がないにしても仕入れた食材が無駄にならずに済んで良かった、と、宿の主人は大伍を快く招き入れてくれた。夕食まで間があるからと町に点在する温泉施設を勧められ、出かけた帰りに行列に行き合った。

 雪神行列は、この地方独特の雪害除けの神事なのだという。この地方に伝わる雪神伝説の再現で、神社から来た一行は宿で一泊し、また翌朝神社へ戻っていく。この間、他の家々はおやどさまと呼ばれる稲穂と布を編んで輪にした物を軒先に吊しておくのだと、温泉施設の土産物屋のおばさんが言っていた。なるほど、布の色や輪の大きさはまちまちだが、民家であろうと商店であろうとその軒先にはおやどさまが揺れている。コンビニにも、交番にも。


 町外れにある古民家宿は、祭り提灯の明かりに彩られた通りに比べると、うら寂しい。宿の向こうには山が黒々と聳え、細い道路には雪の垂れ下がる今にも消えそうな外灯一本がぼうっと闇に浮いている。

 こんな場所では客入りも悪かろう。大伍を快く招き入れた温和な主人を思いながら、硝子の嵌まった玄関戸の前に立った。中から明るい橙色の光が漏れ出ている。ふと軒先を眺めたが、ふるると身体を震わせて戸を開けた。

 三和土で細かい雪を払い、靴を下足棚に入れてスリッパに履き替える。

 古民家を改装した宿であるので、客室は少ない。二階に四部屋、一階に大部屋が二箇所。そのうち、大伍は二階の一室を借りられる事になっている。今晩は大伍しか宿泊客がいないと聞いていたので、その場で「戻りました」と声を張る。すぐに玄関脇に設えられたカウンターの奥から返事があって、主人が顔を出した。

「お帰りなさいまし。お湯はいかがでしたか」

「とってもよかったです。そうそう、帰ってくるときに行列を見ましたよ」

「雪神行列ですね。この地区は温泉のおかげで賑わっていますが、華やかな行事らしいものが他にないので雪神行列だけは派手にやるんです。今年はこんな大雪になってしまって、楽しみにしていただいた遠方の方には残念でしたが……」

「そういえば、お風呂屋さんで教えてもらったんですが、ここでは飾ってないんですか、おやどさま」

 どこの家にも飾ってあったが、ここの軒先にはおやどさまが吊されていなかった。

「そうですね、ここでは飾っていません。飾っている家がほとんどでしょうけど……。おやどさまは、雪神除けなのです。訪ねてくる雪神を家の中まで入らせないために、宿代わりを軒先に吊すんです。なんといっても雪害の神ですし。だからおやどさまを吊さないのは、雪神行事の当番を務める宿だけ。そこだけは、雪神が人の身体を借りてやってくるという建前上、吊せないのです」

「でもここは当番じゃないですよね」

「ええ。実はこの家には、雪神と思しき人が訪ねてきて朝方に消えた、という言い伝えが残っていまして。それで今でも祭りの夜には部屋とお食事を用意しておくんですよ」

 主人は「私も実際に遭ったことはないですが」と苦笑した。

「長話をしてしまいましたね」

「いえ、構いません。地方の伝説とか好きなたちなので」

「そうですか。よろしければ、二階の展示室に雪神行列で当宿が番をしたときの寝具や食器の展示もありますから是非見ていってください。古いですが、曲がりなりにも神事の道具なのでどれも逸品ですよ」

 二階に上がったところに襖の取り払われた座敷があったのがそれだろう。

「お食事はもうすぐご用意できますから、それまでゆっくりなさってください」

 主人は会釈して、奥に引っ込んだ。出汁の良い香りが奥から漂ってきて、思わず腔内に唾液が溢れる。

 二階へ上がり部屋でしばらく畳に転がっていたが手持ち無沙汰で、展示室を見に行くことにした。この宿には部屋にテレビがないし、電波が微弱で、手持ちの電子機器は暇つぶしには不向きだ。

 展示室は階段の正面の広い座敷で、反射板のストーブが置かれているので部屋は暖かい。腰ほどの高さの長机が各所に置かれ、配置された物品と古い写真に説明文が添えられている。展示室らしく順路が示されているので沿って進むと、はじめに雪神伝説についてずらずらと書かれている。

 ――昔、雪のひどい晩に山で迷って今にも凍え死にそうな男が訪ねてきた。憐れに思った家の主人は男を中に入れてやり、食事を分け与え、自分の寝具も貸してやった。朝になって主人が目を覚ますと、寝具はからで、そこから入り口まで霜柱が立っている。家の外に出てみると、新雪の上に人の足跡が峠の方へ向かって伸びていた。さてはあれは雪の化生かと肝を冷やした主人であったが、春には温泉を掘り当て(乙鶴温泉郷の発祥伝説)、家の者が以後幾度となく雪害を逃れたこともあり、訪問者を雪神と呼んで祀った。以降、乙鶴地区では雪の安全を願い、祭りの日には寝具と食事を用意するようになった。

 雪神の来訪伝承は乙鶴地区内にいくつか残されているが、雪神を粗末に扱う、寝具や膳を跨ぐなどすれば家が傾き、雪害に遭いやすくなるとも伝わっている。時代が下がるにつれて、寝具と食事に見立てた物を雪神の宿として軒先に吊すようになった。

 おやどさまの写真も展示されている。白黒の写真で、おそらくはこの宿らしい外観の軒先に、今日ですっかり見慣れたおやどさまが吊されている。実物は置いていないが。

 次のコーナーには寝具が展示されている。手を触れられないように棒と紐で囲ってある寝具は、定期に手入れされているのかまるで打ち直したばかりの柔らかく温かそうな綿布団で、表地は光沢のある白い布、模様は全て刺繍で施してある。折り重なる山、川、四季の草木、おそらくはこの土地を表現しているのだろう。手工芸品の価値には疎い大伍にも、価値あるものだとわかる。品の紹介文には、「一九一〇年雪神神事の宿を務めた際の物」と書かれている。一〇〇年も昔の物とは思えないほど保存状態が良好だ。

 その次は、食器が並んでいる。膳の上に食器が並び、それぞれの皿には、実際に料理を盛り付けた白黒写真に合わせて料理名の書かれた札が乗っている。大伍の経験上、旅館の料理品目というのはそもそも品数も豊富で豪勢な食事というイメージだが、ざっと倍近い皿が並んでいる。数は大小三十皿ほどあり、これに実際に料理が並んでいたら圧巻であろう。膳や椀は朱漆で、皿は産地も真贋も定かではないが、いかにも高級そうな派手な絵皿だ。

 さして民俗資料が好きというわけではないが、地方の独特な習俗には興味を引かれるたちで、見ながらあれこれと考えているうちに時間が過ぎていた。

「こちらでしたか。お食事の用意が出来ましたよ」

 順路を辿り終えた頃、ちょうど主人が顔を出して言った。

「どうでした」

「面白かったですよ。この宿は雪神ための支度をしているっていう話でしたけど、せっかくだから見せていただくなんてことは……」

 大伍が言うと、困ったように主人は眉尻を下げた。

「申し訳ないですが……。雪神は伝承のように実体を持ってやってくるものではなく、おやどさまがない、応接の支度のある家には目に見えないけれど訪れるもの、と信じられています。だから、膳や寝具を用意して部屋を閉ざした後は、夜明けまで開けないんです」

「いえ、無理なことをお願いして申し訳ないです。気にしないでください」

 せっかくだから用意された膳や寝具が見てみたかったが、跨げば家が傾くという言い伝えもあるくらいだから、いくら目に見えないものでも居る者として気を遣うのは当然だ。食事をしているところに、見ず知らずの人がずかずかと部屋に入ってきて興味深そうに眺め回していったのでは堪らない。

「朝なら構いませんよ。それでもよければご覧になりますか」

「本当ですか? ぜひお願いします」

 大伍が言うと、主人もどこか嬉しそうに笑んだ。本来は見せるものではないにしろ、興味を持たれたことを喜んでいるのだろうか。

「では、朝にお声がけします。夕食はお部屋の方にご用意が出来ておりますので、冷めないうちにお召し上がりください」

 主人はそう言って階下へ降りていった。

 大伍も部屋へ戻り、テーブル上に用意された豪勢な食事を堪能した。腹も膨れたところで、窓際に用意されたラタンの椅子に掛けてぼんやりと外を眺めた。部屋の灯りが、窓の外をせわしなく落ち来る雪片を照らしている。いつの間にまた降り出したのか知らないが、この調子ではまた積もるだろう。方角的に闇の彼方には高速道路があるはずだが、今は除雪車のランプや渋滞で連なる車の灯りも見えない。解消されたか、いいや、雪の夜は暗いから見えないだけで、今も長い車列がのろのろと、あるいはほんの少しも動かずにいるに違いない。長旅に疲れていた大伍は、泊まれるところを見つけられてよかったとつくづく思い、そして疲労と満腹感に、いつしかうつらうつらと眠り始めた。

 気がついたとき、部屋は真っ暗になっていた。

 ぼんやりとした頭で、真夜中なんだと思った。布団で寝直そうと立ち上がったとき、素足に触れた畳の感触の不快さにはっとした。電気を消した覚えはない。主人もわざわざ客の部屋を覗いて電気を消したりしないだろう。それに、この感触はなんだ――、こう暗くてはどうなっているか目では判別がつかず這うようにして畳を撫でると、畳であることには変わりがないが、ひどくささくれ立っていてかび臭い。おかしい。こんなでなかったことは確かだ。

 手探りでスマートフォンを見つけバックライトで室内を照らして、なおのこと驚いた。どう見たって、部屋が廃墟になっているのだ。

 夢か、さもなくば何かの冗談か。それとも、ここまでが夢だったのか。疲労のあまり廃墟に忍び込み、宿で休んでいる夢でも見ていたのか。記憶とあまりにかけ離れた現状は大伍をひどく不安にし、混乱させた。

 バックライトの小さな光で荷物をかき集め、大伍は部屋を飛び出した。

 一部屋だけ、灯りのついている部屋を見つけた。

 階段から一番離れた奥まったところの部屋だけ、わずかに開いた襖から光が筋状に漏れている。おかしな話だ、こんな有様で一部屋だけ電気がついているだなんて。手元の小さな灯りで判別できる限りでも、もう何年も、あるいは何十年も、放置された建物だと感じる。近づいてみれば、この部屋には部屋の名を示す札がない。二階には客室が四部屋あるが、これはそのどれでもない五部屋目にあたる。部屋の中を覗き込んで、大伍は息を呑んだ。

 光っているのは、人だった。

 人の形をした白い靄だ。ストロボを焚かれたみたいに目映い光の塊が、机を埋め尽くす皿に手を伸ばす。皿の上には垂涎の品々が色も鮮やかに盛り付けられていた。

 この部屋も照明は機能していないが、ここだけは廃墟の体ではない。畳も美しいまま、そして奥には寝具が、展示室で見た刺繍で飾られた寝具が用意されている。

 ああ、これは夢なのか。得心がいった。展示室で見た物が、それだけ自分にとって印象深かったのだろう。そう思うと、途端に安堵した。恐怖心が薄らぐとともに、眼前の光の塊が判然としはじめた。光は白装束を着た白髪の男の姿となり、何を思ったか箸を止めてこちらを振り返ったそれは、宿の主人の顔で笑った。

 ず、ずず、と、屋根の上で音がする。次の瞬間、騒音とともに目の前の部屋に雪と屋根の一部が雪崩れ込んできた。部屋は、何も居なかったみたいに、何も行われていなかったみたいに、やはりぼろぼろの畳とぼろぼろの家具の上に木材混じりの雪の小山が出来上がっていた。

 呆然としていると、

「誰か中にいますか!」

 声が聞こえた。家の外からだ。呼びかけは段々と入り口の方へ回り、やがて声の主が玄関の戸をこじ開ける音を、大伍はまだ夢見心地で聞いていた。



「びっくりしたよ。怪我はないか」

 交番に連れて行かれると「熱いから気をつけて」と茶を出された。

「何であそこに居たのか、自分で分かる?」

「泊まれるところを探していて……おかしなことを言うようですけど、ちゃんと宿の看板が出ていたんです。内装も綺麗だったし、料理も出されて……」

 口にすると不安になってきた。まだ満腹感はあるが、それなら一体何を食べたんだろう。

「前にも同じ事を言っている人を複数保護したことがある。しまいには、雪神を見たと言うんだ。君も見たのか?」

 警察官は笑う素振りは一切見せず、大まじめにそう言った。

「は、はい、たぶん。でも、その部屋の屋根が落ちて……」

「君が見ていた部屋だな。前もそこに居たんだ。その時は部屋の中を覗いて、魅入られたように動かなかった。引きずって家の外に出すまで夢でも見ているような様子だった。朝を迎えたら廃墟だったと言っている人も見たことがある。しかも寒さを感じることもなく快適だったと。今日みたいな雪の日に、あの穴だらけの家でだ。不思議な話だ」

 大伍も火鉢やストーブに当たった記憶があるし、温かさを感じていた。その感覚もひっくるめて夢だったとして、そもそも、なんの暖房もない家に夕方から夜中の三時頃まで居て、こんなに平気なものだろうか。

「家の持ち主にも崩壊の危険があるから撤去した方がいいと勧めていたんだが、縁起がいい家だから壊したくないと……」

「縁起がいい……?」

「あの家のおじいさんは隣町でホテルを開業して成功した人なんだが、あの家は雪神を招いた家だから壊しちゃならんと言っているらしい。そんな家だから、雪神が遊び場にしたっていう噂だよ。厄介な話だ」

 夜明けまでゆっくりしていくといい、と、警察官は席に腰を下ろし、それから思い出したようにぽつりと言った。

「君は顔を見たんだろう、雪神の。どんな性格の悪そうな面をしていた?」

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