ミネストローネ

花束

僕の最寄りの駅は、バスロータリーから2本の道が伸びていて、その2本の道が分かれる丁度真ん中に、小さなお花屋さんが建っている。

小さい頃は、その花屋の店主とうちのおばあちゃんが仲良くて、よく手を引かれて店に行ったが、この歳になると全く行かなくなった。どうやら孫が店番をすることが多くなったらしいと、いつかおばあちゃんから聞いたきりだった。

僕の両親は共働きで、2人とも全国を飛び回る仕事をしているおかげで、年に数回しか家に帰って来ないような生活をしていた。

だから僕の育ての親は、おばあちゃんなのだ。

おばあちゃんは花が大好きだった。派手な花も雑草みたいな花も、分け隔てなく好きだった。庭園巡りも生花の展示会もよく行っていたし、かと思えば道端に咲いているタンポポや、名前も知らないような小さな花を愛でてたりする。そんなおばあちゃんの家は、庭も家の中も花だらけだった。僕はそんな家で育った。

花壇や鉢に植えられた花、花瓶に生けられた花。花に囲まれて育ったおかげで、僕は花に全く興味を持たなくなった。

でも小学生の時、理科の授業で朝顔を育てた時、衝撃を受けた。

僕の朝顔は、たった数日で枯れてしまったのだ。

水はあげたし、観察日記もちゃんとつけてた。それなのに夏休みを迎える前に、僕の朝顔は土もツルも葉っぱもカスカスになってしまった。軽くなって何者にもなれなかった塊を持ち帰って、庭の隅にひっくり返した。

僕は改めておばあちゃんの庭を見渡した。

それで初めて気がついた。不思議なことにそのどれも、幹や茎は生き生きして、葉っぱは艶やかだったのだ。

お茶とお菓子を用意して待っていたおばあちゃんに、僕はどうして花が育てられるのか聞いた。

「声が聞こえるのよ」

幼い僕に、おばあちゃんは答えた。

「喉が渇いたなぁとか、もっと日の光を浴びたいなぁとか。睦月だって言うでしょ?どうしたの?って聞くと、お腹空いたとか、眠たいとか、トイレ行きたい、とか」

それを聞いて、でも僕はちゃんと言葉で言うけどね、と思ったのを、今でも覚えている。

「それとおんなじなのよ」

おばあちゃんは微笑んだ。

それで僕は、ああおばあちゃんは花を育てる人なんだな、と何故か自然と納得してしまった。

僕には持ってないものを持ってるんだと、言葉にはできない実感で証明されような気がしたのだ。

そんなおばあちゃんが先日、倒れた。

丁度ご近所さんと話している時、急に胸の苦しさを訴えて、その場にうずくまり出したのだと言う。

大慌てで病院に駆け込むと、病院のベッドでにっこり笑うおばあちゃんが待っていた。

「甘いケーキとかクッキー、もうあんまり食べちゃダメって」

いやねぇ〜残念だわぁ〜とおばあちゃんは感嘆していた。

「今は?大丈夫なの?」

「平気、落ち着いたから。ごめんね、いらない心配かけちゃって」

おばあちゃんの、いらない心配、という言葉に、とても救われた。

ほっとして、肩にこもっていた緊張が一気に解けたのを感じた。

「ねぇ睦月、明日お花買ってきてちょうだいよ。あと花瓶も持ってきて、生けたいから」おばあちゃんは呑気に言った。

そんなこと言ってないで、早く帰って家の花の面倒見なきゃくらい言って欲しいけど、と思ったが、ただ「分かった」とだけ言った。

次のお見舞いの日、僕は久しぶりに駅前の花屋へ行った。

そこでは濃い緑のエプロンをかけた、若い女の人が店番をしていた。年は僕と同じくらいのようだった。この人が前におばあちゃんが言っていた、店主の孫だろうか。

「すみません」僕は腹に力を入れて言った。

「はい、いらっしゃいませ」

短いポニーテールがピョンと跳ねて、顔がこちらを向いた。

「お見舞い用に、お花が買いたいのですが」

「かしこまりました。何かご希望のお色味や、入れて欲しいお花などありますか」

僕は店内を見渡して、「白い薔薇と、あとガーベラ入れてもらって、なんか明るい感じで」と言った。

「かしこまりした。少々お待ちください」

女の人はササッと店全体に目をやって、花を手に取っていった。

「睦月くん?」

呼ばれた方を見ると、花屋の店主だった。

「睦月くんじゃない!お久しぶり、元気だった?」

僕は、ええまぁ、とか曖昧に答えて細かく会釈した。

「みどりさん倒れちゃって大変ね、その後お加減どう?」

「まあ入院にはなりましたけど、この前も笑ってましたし」

「そうそう、それはよかった。ありがとねうち寄ってくれて。喜んでくれてね、ちょっとでも、元気になってくれたらいいんだけど」

店主は困り眉で頷きながら、花のバランスを見る女の人の背中をトンと叩いた。

「それじゃ、みどりさんによろしくね」と言って、店主はまた奥へと戻っていった。

「祖母とお知り合いだったんですね」女の人が言った。

「あ、お孫さんだったんですね」

2人で頷き合って、変な間ができてしまった。

正直僕はこういう間が苦手だ。まず会話が得意じゃない。

「お花、こんな感じでどうでしょう」

目の前に勢いよく、束になった黄色やオレンジや白の花が飛び込んできた。

それは確かに明るくて、おばあちゃんが喜びそうだと素直に思った。

「ありがとうございます。綺麗です」

僕は答えて、支払いを済ませて花束を受け取った。


それからおばあちゃんのお見舞いの度に花屋で花束を買った。

コミュニケーション能力が高い人なら、そこから色んな話をしたり、繋がりが強くなったりするのかもしれないが、僕は生憎そんな能力を持ち合わせていないので、ただ注文して代金を支払ってお花を受け取る作業だけが繰り返された。

おばあちゃんの病状は、正直良くない。

親が久しぶりに連絡を寄越してきたので、今のおばあちゃんの現状を伝えると、僕の運動会にも発表会にも来なかったのが嘘のように飛んで帰ってきて、帰ってくるなり僕の頬を強く叩いた。

僕を責める2人に、じゃあ小さかった頃の僕は入院すれば2人に会えたのか、と言ったらどんな顔をするだろうか、と思ったが、僕は何も言わずに黙っていた。

ただ、帰ってくれ、とだけ言った。

僕とおばあちゃんには、2人だけの生活があった。それを今更血の繋がりだけの親に汚されたくなかった。

見舞いも、花を選ぶのも、僕だけで良かった。僕だけが良かった。

だけど2人はおばあちゃんの家にしばらく居座った。

一緒に見舞いに行こうとはしなかったことだけが、唯一の救いだった。

生き生きした花におばあちゃんが霞むように感じるくらいには、おばあちゃんは弱々しくなっていた。

病室にその日最初に入る前やお手洗いから帰ってきた時、チラリとおばあちゃんを外から見ると、まるで知らないお年寄りのように感じてしまう。

その時、僕の胸はキュウと締め付けられる。

だけど綺麗な花束を持って行くと、おばあちゃんはいつもとびきり嬉しそうに笑うのだ。にこにこしながら、花言葉や手入れのコツを教えてくれる様子を見ると、僕の知っているおばあちゃんだ、と思う。それで僕は安心した。


週が明けて、一気に気温が下がった。去年まではまだ出さなかったマフラーと手袋をタンスから引っ張り出して家を出た。

またいつものように、お見舞いに行く前に花屋へ向かって歩いていると、急に携帯がバイブした。

見ると、病院からだった。

血の気がスッと引く。

電話を取ると、切迫した声が耳を貫いて、それ以外街の音は全部無音になったようだった。

僕は病院まで走った。

走るのは昔から大の苦手だったが、足がもつれても絡まってもお構いなしに走った。

途中チャリに鳴らされたりしたが気にしなかった。

受付に行くと、僕を見るなり看護師の表情が変わった。即座に立ち上がり、僕をおばあちゃんがいるところまで案内してくれた。

身内の僕も立ち入れない病室に、おばあちゃんは移されていた。その前の冷たくて硬いソファーに腰を下ろして、僕は待っていた。

後を追うように親も駆けつけた。その時ばかりは、こんな人達でも隣にいてくれたら1人よりマシなんだと思った。


しかし僕は、置いていかれてしまった。

おばあちゃんは二度と帰って来なかった。


それから手続きをして書類を揃えて、おばあちゃんの葬儀の準備をした。

細かいことは全部親がやってくれた。喪主はおばあちゃんの娘である僕の母が務めた。お通夜でも告別式でも、母は誰よりも泣いていた。父も目を赤らめて母の背中をさすり、僕の目元だけがカラッと乾いていた。

でも何故だろう。

告別式の花を用意していた業者さんの後ろ姿が、いつも見舞いの時に花を買っていた花屋のお孫さんに似ていて、それを見た時には胸に込み上げてくるものがあった。

僕は鼻から息を吸い、大きく吐いた。

葬儀において喪主は、一番仕事量が多くて忙しい。でもそれは、むやみに悲しみに浸る間を、仕事の多さでなくせるからだと、いつか何かで見たことがある。だったら喪主を務めるべきは僕だったんじゃないかと、心底思った。二十代前半で家を飛び出して、勝手に作った子供を置いて自分は自分の好きな仕事に没頭していた女より、僕の方がずっとおばあちゃんの「我が子」に近かったはずだ。

でも言わなかった。

別にこう思ったからと言って感情的になるわけじゃなく、事実そうであるべきだと思っただけだったからだ。


それから一通り終わると、また元の生活に戻った。親はさっさと帰って行った。

僕は相変わらずおばあちゃんの家に住んで、両手じゃ数え切れない数の鉢や花壇に植えられた花に水をやり、花瓶の水換えをして学校へ向かった。あんなに色々教わったのに、僕には花の声は一向に聞こえなかった。

それのせいなのだろうか。

花はどんどん枯れていった。

きっと気温が急激に下がったのもあるだろうが、おばあちゃんならもう少し長持ちさせていたであろう花たちが、次々萎んでいってしまった。

気付けば、空の花壇と鉢が増え、庭の角の土置き場は、山を成していた。

僕は学校で勉強したり、図書館で本を読んだりして、学校が閉まってからも喫茶店で暗くなるまで過ごしてから帰るようになった。

その日もまた、僕は喫茶店でコーヒーを飲んで帰った。電車の広告が、やけにお正月を全面に押し出していることに気がついて、今日がクリスマスだと気がついた。

だから何ってわけじゃない。

僕にとって12月25日は、ただの12月の25日に過ぎなかった。

「メリークリスマス」

控えめな声がして僕は立ち止まった。

振り返ると、花屋のお孫さんだった。寄るつもりなんてなかったのに、僕はうっかり花屋へ来ていたようだった。

「メリー、クリスマス」僕はぎこちなく返した。

「もう、お花はないですけど」お孫さんは言った。

夜も遅かったし、クリスマス当日だったからだろう。確かにお店はガラガラだった。

「お花、ない、ですね」僕も言った。

言って、自分の家の荒れた庭を思い出した。「祖母は生前から、花が大好きでした。花言葉とか、育て方のコツとか、沢山教えてくれました。僕はその通りにやるんですけど、うまくいかなくて。全然ダメで。小さい頃祖母に聞いたら、『花の声がする』って言われたことがあって。あり得ないですよねそんな、花は喋らないのに」

僕は自分の言っていることがまとまりのない話だと気がついて、慌てて口籠もった。

「しますよ、声」しかし彼女は言った。

「でもひとりごとじゃないです」

「どういうことですか?」僕は聞いた。

「人と話す時も、誰かに聞かれるから答えるじゃないですか。同じです。花も聞けば、答えてくれます」彼女は言った。

「まずは自分が言ってあげなきゃ」

そして初めて笑顔を見せた。それは優しくて、温かい笑顔だった。

「祖母が入院して花瓶と一緒にお見舞いに花を買ってきてと言った時、それだったら早く帰って家の花の世話をするって言って欲しいと思いました。

でも言いませんでした。

祖母が入院したと言ったら、何年も会ってなかった親が帰って来た時、僕も入院していれば会いたい時に帰ってきてもらえたのかなと思いました。

でも言いませんでした。

祖母が亡くなって母が喪主をすると言った時、僕が喪主をやるべきだと思いました。

でも言いませんでした。

あの時思っていたことを言っていたら、祖母は死ななかったでしょうか?

あの時思っていたことを伝えていれば、僕はこんなに虚しくなかったでしょうか?

あの時思っていたことを伝えていれば、僕は何も大事なものを失わずに済んだでしょうか?」

今まで堰き止めていた涙が一気に溢れかえって、僕は人生で一番泣いた。

お孫さんは同情の顔もしなければ、引くこともしなかった。ただレジの裏へ行って、何やら作業を始めた。そして少しして、また僕の元に戻ってきた。初めて花を買った日のように、勢いよく僕の目の前に差し出してきた。

しかしそれは綺麗な生の花ではなく、ラッピングシートで折られた紙の花だった。

「枯れた花は、元には戻らない。でも種が残ってる。それをまた植えればいい。大事に大事に育てたらいい。

そしてこの花は、枯れないです」


僕は、その花束を、静かに受け取った。

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ミネストローネ @htki100me

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