第4話

  4

「ふたりだけにしてくれないか。きみ」

 クオーターのすぐそばで、シーマの男は道夫に声をかけた。年のころは多分、二十七、八だ、と道夫は思った。短髪で精悍だ。テレビの青春スターみたい。金持ちだし、きっと女の子にモテモテだ。

「彼はタンデムなの。一緒に戻るから、わたし一人にはなれない」

 ジュンは毅然とした。

「そうか。分かった」

 男はサラッと反応した。

「じゃあ、話そう」

「わたしは、いま、話すことないよ」

「うん、ぼくにはある」

 男はフッは笑った。

「何が、おかしいの?」

「いや、ジュンが少年とタンデムしているのが、想像できなくて」

「彼はノッくん。ツーリングの相棒よ」

「相棒?」

「タンデムしてるんだから、そうでしょ」

「でも、彼のようなまだこどもに、ぼくたちのことを洗いざらい聞かれて、いいのかなあ」

「わたしに隠し事なんかないよ。それは、あなたでしょ」

「うん、確かに。婚約する前に、付き合っていた彼女の話を、きみにしておくべきだった。謝るよ」

「それで?」

「ジュン、もう許してくれないか。彼女とはきっぱりと別れたんだ。二度と会うこともない。過去を引きずったまま、きみと付き合い始めた自分を、とても後悔している。それだけは分かってほしいんだ」

「なぜ、わたしはそのことを、あなたの友だちから聞かされたの。わたしがどれほど驚いたか、分かる?どれほど傷ついたか、知っている?」

「話すつもりだったんだ。ホントだ。ぼくだって、それを知って驚いたんだ。おしゃべりなヤツが」

「それが本音でしょ?」

「違う!言葉尻を捕らえて責めないで、ジュン」

「もう、寝る時間よ。わたしの心の整理がついたら連絡します」

「…待っているよ。ぼくはきみを愛している」

「ノッくん、行こうか」

「はい」

 道夫は小さな声で応えた。

 クォーターのエンジンはかかったままだ。ゆっくりと男を後にした。

 ぼくはきみを愛している…道夫は頭の中で反芻した。ぼくはきみを愛している…それなら、ジュン、ぼくもあなたを愛している…気恥ずかしかった。

 駐車場の少し手前で、ジュンはクォーターを止めた。もうキャンプ場は寝静まっている。森閑とした中で、エンジン音を消すのがライダーのルールだ。道夫は降りた。

「ぼくが押して行きます」

「サンキュー。余計なこと、聞かれちゃったね」

「ぼくには…関係ありませんから」

「そうだよね。女と男は、めんどくさいね」

 道夫はクォーターのグリップに力を込めて、長いアプローチを進んだ。空気は澄んでいる。真夏の深夜だが、冷える。意を決して訊いた。

「愛しているんですか、あの人のこと」

「えっ?」

「……」

「いまは、ノッくんといるほうが、楽しいよ」

「からかわないで下さい」

「ホントよ。からかっていないよ、わたし」

 ジュンはケラケラと笑い声を立てた。慌てて、両手を口に当て、押し殺した。その仕草が道夫には、とても愛らしかった。小さなこどものようなあどけなさを感じた。

「明日も、楽しくツーリングしようね、ノッくん」

「はい」

 駐車場でクォーターを止め、道夫はエンジンに手をかざした。まだ、少し熱はある。でも、自分の胸は高鳴っていた。


 キャビンにそっと足を踏み入れた。ベッドから高橋さんのいびきが聞こえた。道夫はトレーナーとGパンを脱ぎ、ランニングシャツとトランクスで、シーツに滑り込んだ。糊のきいたシーツが気持ちよかった。

 すぐには寝付けない。ジュンのフィアンセの存在が道夫を悩ませた。シーマの男とセックスはしたのだろうか。自分は、ばかだ。生身の男と女が、まだプラトニックと考えるほうが、ドンくさい。

 ジュンの裸体を、あの男の手がまさぐる。ああ、なんて破廉恥な想像をしているのだ。ジュンの裸体を自ら汚している。彼女を抱きしめたい。道夫の手は否応なく、トランクスに下りていった。

 そのとき、暗闇に慣れた目に何か黒っぽい形のものが見えた。高橋さんの枕元にある。ペンシルケースを二回り大きくしたものだ。道夫は興味を覚え、ベッドから身を乗り出した。目をこすって凝視した。

 それは、位牌だった。

 戒名までは読み取れない。

「大姉?」

 年寄は、道夫には考えられないことをする。キャンプ場のキャビンで位牌と一緒にベッドインかよ。当然、テントを張ったときも位牌を持ち出していただろう。

 高橋さんの寝顔は、とても安らかで満足げだ。キャンプファイアーでの若者との交歓が、よっぽど楽しかったのだろう。道夫の旅は、また、難問を抱えた。そして、朝、大変な事態が勃発した。


 キャビンの木製ドアをカリカリとひっかく音で、道夫は目覚めた。高橋さんもすでにベッドの中からドアに目を遣っていた。

「おはよう。ポチだな」

「おはようございます。ボチは木下さんのところですよね」

「逃げ出したのかもな。いやはや、年甲斐もなく飲み過ぎて、頭がガンガンしている」

「大丈夫ですか?」

 道夫はベッドから降り、裸足のままドアを開けた。ポチが勢いよく飛び込み、高橋さんのベッドに駆けあがった。

「ポチ、おはよう。こどもたちはどうしている?」

「あれっ、高橋さん、木下さんのキャビン、ドアが開きっ放しです」

「もう起きたのだろう」

「でも、外にはだれもいませんよ」

「こどもたちは?」

「声はしません」

「ちょっと、見て来るか」

「ぼくが行きます」

 外は朝モヤが、立ち込めていた。腕時計は午前5時20分を指していた。道夫はトレーナーに頭を突っ込みながら、スニーカーをひっかけて隣りのキャビンに行った。

 中は、もぬけの空だ。

 ベッドはマット、毛布、シーツがキチンと折りたたんであった。スリッパも入り口に並べてある。昨夜は急いで出発する素振りは、微塵もなかった。

 ドアの脇の壁に一枚の絵が、ピンで止めてあった。明らかに、敦の描いた絵と多分、父親の添え書きだ。高橋さん、ジュン、道夫、そしてポチが絵に並び、「みなさん、ありがとう。わたしたちは天国に行きます。さようなら」と。

 天国!

 道夫は驚いて、その絵をはがし、高橋さんの待つキャビンに走った。

「高橋さん、この絵、大変、大変です」

 道夫はすっとんきょうな声で叫んだ。

「どうした?」

「絵、見て下さい!」

「これはっ」

「敦くんの絵ですよ」

「天国に行くとは、これは、おやじの字だな。何を考えているのだ、あの男は。ただ事でないぞ。どうも心配だった。野島くん、これは、心中かもしれない」

「心中?」

「そうだ」

「こどもですよ、二人は。そんなこと、無し、絶対に無しです」

「管理人に知らせよう。警察に捜索願を出したほうがいい。まだ、それほど遠くには行っていないだろう。何としても、探し出さなければ、いかん。きみの彼女も叩き起こせ」

「はいっ」

 きみの彼女の響きは、道夫に心地よかったが、そんなことは、この事態に不謹慎に思えた。

 道夫はジュンのキャビンのドアを思いっきり叩いた。すぐに中からジュンの寝ぼけた声が返って来た。道夫はドアが開く前に、大声で木下さん親子が行方不明になったと告げた。その足で管理事務所に走った。

 管理人はすでに起きていた。道夫は絵を見せ、説明した。高橋さんとジュンが駆けつけた。管理人は地元の警察署に電話した。

 電話口で高橋さんが、木下さん親子の人相、服装、ワゴン車の色やナンバーを伝えた。高橋さんは念のためにとナンバーをメモしていた。それだけに、昨晩、飲み過ぎて木下さん親子の出発をキャッチできなかったことを悔やんだ。

 道夫たちは管理事務所で白金温泉周辺の地図を広げた。道路は北西の美瑛町、西の上富良野町、または望岳台を通って十勝岳温泉・凌雲閣に至る計3本だ。高橋さんは十勝岳温泉、ジュンは上富良野町、道夫は美瑛町の三手に分かれた。

 美瑛町まではほとんど直線だ。白樺街道を十数キロ、道夫は途中の間道や空き地に目を配りながら、クォーターを走らせた。同じころ、ジュンは麦とジャガイモ畑の丘陵を走り抜け、紫のラベンダーが盛りを過ぎた上富良野でワゴン車を探した。

 高橋さんは前日、木下さん親子と知り合った凌雲閣まで上り、また走り下りて望岳台、近くの吹上温泉周辺を調べた。

 朝から何も食べていなくても、道夫は空腹を感じなかった。道夫たちを絵に描いてくれた敦や由香のかわいい笑顔を、何よりも早く見たかった。たった一日の触れ合いだったのに、道夫には何年も前から知っている親しいこどもたちのように思えた。いや、それ以上に自分の幼い弟、妹に感じた。年が離れた兄としての責任感のようなものかもしれない。

 不吉な予感が間違いであってほしい。添え書きは単なる冗談か遊びで、木下さん親子は次の予定地に早々と出立しただけなんだ。冗談にしては、最悪だろうけど。

 美瑛の町から、さらに北の大きな都市、旭川市に道夫は向かった。国道273号は、朝のラッシュだ。ダンプや通勤のマイカーが行き交い、あの白いワゴン車を見分けるのは至難の技だ。国道を幾筋も分岐し、そのたびに道夫は、どの方向に行くべきか迷った。

 旭川の手前で、ガソリンスタンドにメタリック・シルバーのワゴン車が給油していた。車内に幼いこども二人、運転席に三十代ぐらいの男。道夫は心臓の高鳴りを覚えた。近づいた。しかし、見間違いだ。市街に乗り入れた。うだるような暑さだ。ジリジリと舗装が照り返し、徒労の時間が過ぎた。

 昼過ぎ、道夫は管理事務所に電話を入れた。管理人が高橋さんと電話を替わった。

「富良野の河川敷で、親子のワゴン車が見つかったらしい。これから富良野警察署に行くところだ。今、どこだい?」

「旭川です」

「そうか。富良野署、分かるか?」

「まっすぐ南下すると、富良野ですから、大丈夫です」

「そうか。焦らずに、気をつけて来てくれ」

「木下さんたちは?」

「分からない。警察から、車が見つかったとだけ、管理事務所に連絡があった」

「すぐ、出ます」

「先に行って待っている」


 道夫は制限速度をほとんど無視し、かなりのスピードで富良野を目指した。

 富良野署に到着したのは午後3時半過ぎだ。高橋さん、ジュンがすでに待っていた。二人の表情を見て、道夫は事態の深刻さを悟った。なんともいえない悲しい眼差しがすべてを物語っていた。

 道夫は右手に持ったヘルメットをグローブと一緒に、ビニール張りの長椅子に置いた。ジュンが涙をためた目で、道夫のもとに歩み寄った。道夫はもう、分かっていたけれど、訊いた。

「みんなは、無事?」

「こんなことって、ある?」

 ジュンは、道夫の肩にロングヘアの頭を載せてすすり泣いた。道夫は、まだ涙が浮かばない。現実のものとできない。

 高橋さんは目を閉じて立ち尽くしていた。しばらく、道夫は、その場で夢とも現実ともつかない気分で、事態の説明を待った。

 外勤課の五十嵐課長という五十前後の痩せた男性警察官が、道夫たちを小さな部屋に案内した。そこで、ひと通り、道夫たちの氏名、住所と木下さん親子との関係を質問した。道夫たちは忍耐強く、その質問に答えた。

 五十嵐課長は、木下さんの家族、奥さんといっていたが、到着して身元の最終確認をするので、捜索の協力者である高橋さんたちには、あくまで非公式な話と前置きし、ワゴン車を発見した状況について説明した。

 車は富良野市の南、布部ぬのべという地域の空知そらち川岸に止めてあった。周囲は雑木林で見つけにくいが、たまたま、釣り人が午前11時過ぎに車を発見した。

 ワゴン車はガムテープですべての窓が密閉され、ホースで排気ガスを車内に引き込んでいた。発見時は、まだエンジンが動いていた。

 運転席の後ろに男女のこども二人と父親とみられる男性が抱き合うように座っていた。救急車が到着したときは、すでに心肺停止で、富良野の病院で死亡確認された。車内には睡眠薬と、それを溶かして飲んだと思われるジュースの紙コップが三つ、転がっていた。

 身元は運転免許証、車検証から男性は埼玉県浦和市の木下雄二、こどもは車内にあった写真などから長男、敦、長女、由香と判明した。

 車内に遺書が一通あった。妻宛てだ。内容については、外部に話せない。しかし、五十嵐課長は、木下さんはリストラで失業して精神的に不安定になり、その上、奥さんから離婚を迫られたらしいと、打ち明けてくれた。

 帰り際、五十嵐課長は「高橋さんへ」と、こどもがメモしたらしい紙がついたビニール袋を、高橋さんに渡した。袋にはドッグフードの缶詰が2缶入っていた。「ポチにやってください」。敦の字だ。

 高橋さんは五十嵐課長に、頭を下げて受け取った。

 道夫とジュンは、その小さな部屋から10メートル余りの玄関口までなんとか、涙をこらえた。出るなり、涙が止めどもなくあふれた。高橋さんはやり場のない怒りをかみ殺していた。涙が頬を伝い、深いシワににじんだ。こんなことが人生に本当にあるのか。道夫は、まだ信じられなかった。同時に、道夫は高橋さんの老いた顔に死相のようなものを微かに感じた。


 美瑛の美しい丘陵は、夕暮れ迫る夏の日差しに綾織りの文様を微妙に変えた。メグロとドゥカティ、クォーターの3台は、疲れ果てた心を引きずり、キャンプ場に戻った。管理人夫婦は、今夜は三人が構わなければ、キャビンをそのまま使い、料金はいらないと案じてくれた。

 道夫たちは前日の楽しい思い出のこの場所をできるなら去りたかった。しかし、木下さん親子の心中はあまりに衝撃的で、警察署からキャンプ場までバイクを走らせるのがやっとだった。管理人夫婦は、道夫たちにおにぎりと豚汁の夕食も用意していた。管理人夫婦には、ちょうど敦や由香ぐらいの孫がいるそうだ。夫婦は涙した。

 ジュンはハンカチを目に当てっ放しだ。孫の話を聞いて、再び嗚咽を漏らした。彼女はドゥカティのようにギラギラと輝く太陽だけれど、とても優しく愛情が細やかな人だと、道夫はますます思いが募った。

 その夜はキャビンもテントサイトも人影が少なかった。キャンプファイアーは小さな火を数人が囲んだ。キャンプ場が親子の死に弔意を表しているような雰囲気だ。

 道夫たちは早々とベッドに身を横たえた。いつもなら、悲しいときはウォークマンで好きなロックをガンガンやれば、少しは気が晴れる。なぜか、音楽を聴きたい気分にならなかった。

 音楽も深い悲しみを癒してくれるとは思えなかった。人間の力をはるかに超えた何かが、道夫たちを操っているようで、道夫は繰り返し、なぜ、昨夜から今朝にかけて、この運命の歯車を止めることができなかったのか考え続けた。

 道夫はトイレに起きた。外は森閑としている。目を凝らすと、人影がジュンのキャビンに近づいていた。道夫は大木の陰で身を隠した。

 シーマの男だ!

 キャビンの階段をそっと上り、ドアを軽くノックした。ドアが開き、男はスルリッと中に吸い込まれた。その間、数秒だ。道夫は事態を冷静に分析しようと努めた。いや、努力するだけムダだ。ジュンはフィアンセの訪問を躊躇なく受け入れた。

 いや、まだ分からない。単なる前日からの話し合いで、場合によっては、道夫が間に割って入り、ジュンを守る必要性が生じるかもしれない。

 ジュンのキャビンに忍び寄った。聞き耳を立てた。激しい口論を期待した。口汚く罵るそれは、もう父母のケンカで体験済みだ。それによってジュンとフィアンセは決定的な破局を迎えるのだ。木下さん親子の悲しみの夜に、ハッピーエンドは、まったくふさわしくない。

 キャビンは静かだ。しばらくして、ジュンのすすり泣きが漏れた。

 男の声が聞こえた。

「泣くだけ泣くといい。きょう一日、きみは大変だった」

「こんなに悲しいこと、初めて」

「きみの優しさがきっと、その親子に伝わっている。今は、ぼくのことは考えなくていいさ」

 えっ、ええっ。これは本来のシナリオではない。道夫は心の中で叫んだ。男は優しくいたわっている。ジュンは慰められている。

 中に押し入って、男に対して、厚顔無恥とか、おべんちゃらをいうなとか、破廉恥男とか、あらん限りの罵詈雑言を投げつけてやりたい。二人の会話は恋人そのものじゃないか。

 ジュンも、純情なぼくをいたぶっているのかよ。ああ、ごめんなさい。順子さんが、そのような人ではないことを、ぼくは信じていますから。でも、道夫は前夜からこの目の前に展開に唖然だ。大人の男女なんて信じられない。

 駐車場のほうから、懐中電灯の明かりが近づいた。管理人の深夜のパトロールだ。道夫は慌てて、キャビンに引き返した。高橋さんを起こさないようトレーナーとGパンのまま、ベッドに滑り込んだ。

 高橋さんの低い声がした。

「順子さんのキャビン、だれか来たね」

「えっ?」

「眠れなくてね。ぼくやりと窓から外を見ていた。きみが木の陰に身を隠すのもな」

「シーマの男です。ジュンのフィアンセ」

「きみの恋敵っていうことか」

「違います」

「違わないだろう?」

「それは」

「この年になると、大概のことは見通せる」

「彼女が気になるだけです」

「いいなあ、青春は」

「苦しいです」

「それも青春の一つだ」

「高橋さんは、運命を信じますか?」

「運命?」

「人生は予め決められたレールを走っているだけだといいます」

「そうか、運命か。自分で何も決められないということ?」

「ジュンと出会ったのも、最初からこういう結果になる運命なんです」

「そうかな。諦めていたわけじゃないだろう?」

「期待はしました」

「心臓が高鳴ったり、気持ちが弾んだり?」

「そうです。飛び上がりたくなったり」

「それも、運命でひとくくりなの?」

「いや、それは…」

「運命なんて、わたしのような年寄りが過去を振り返って使う言葉だよ。きみは若く、生き生きとしている。素晴らしいことじゃないの?」

「それは…」

「だれかのために、熱くなる。運命の一言で片づけるにはもったいない。きみは、きょう一日、早朝からワゴン車を探して、北海道の真ん中をバイクで走り回った。こどもたちや父親を救いたい一心で頑張った。結果は残念だったが、それはとても誠実で、尊い行いだ」

「でも、救えませんでした」

「何もしていなければ、きみは自分を激しく責めただろう。わたしも、だ」

 高橋さんはしばらく沈黙した。

「きみは人を愛し、慈しみ、ともに楽しみを分かち合える心の広い持ち主だよ」

「弱い人間です」

「みんな、弱点はあるさ。人生で自分の弱点を知ることは、大切だ」

「その位牌のこと、訊いていいですか?」

「ははあ、この位牌な。バアサンだ。3年前に死んだ妻だよ。40年、連れ添った」

「ずっと、持ち歩いているのですか?」

「旅はいつも一緒と、前から約束していたからね」

「奥さんのふるさと、稚内に位牌を持って行くのですね」

「そうだ。故郷を見せてやるのさ。正直にいうと、わたしもガンで主治医から、すぐに入院治療しないと、あと1年ぐらいだろうと宣告された。告知してもらって助かったよ。こうしてバイクで妻の故郷に旅ができなかった。戻ったら、入院だ」

「大丈夫ですよ」

「ありがとう。その言葉が励みになる。わたしは生きる。生きる努力をする。この旅が終わったら、主治医にすべてを任せ、治療に専念しようと決意している。ただ、妻の位牌と一緒に風に乗り、風を感じたかった」

「風に乗る?」

「そうだ。わたしたちは生きている。バイクで風を感じて進む。わたしはね、自分の病気のことを考えると、先のない老いを捨てて、あの親子をなんとしても救いたかった。その気持ちは、きみと同じくらい強い。だが、互いに努力した。これからも努力しようじゃなか。なあ、マイフレンド」

「ぼくは、若造の青二才です」

「友人に年は関係ない。ともに人生の挑戦者であるだけだ。また、明日、風に乗ろう」

 高橋さんは、おやすみといい、間もなく静かな寝息を立てた。

 道夫は、木下さん親子のこと、ジュンのこと、高橋さんの位牌とガンの告知のことに思いを巡らし、寝つけなかった。白々と夜が明けるころ、やっと眠りに落ちた。

 

「おはよう」

 ジュンの顔が目の前にあった。道夫を覗き込んでいる。マリンボーダーのТシャツの膨らんだ胸も。唇にふっつきそうだ。

「朝っぱらから、なんだよ」

「あれ、その口のきき方、意外と男っぽいのね。おじさまが、起こせというから、ここにいるの。きょうはオンネトーに向かう計画よ」

「オンネトー?」

「阿寒。おじさまの計画は、阿寒を通って根室に行き、それからオホーツク海沿いに北上して稚内だって」

「おまえも行くの?」

「ええっ、わたしのこと、おまえ、なの?」

「いや、いや、そういうつもりじゃ。ごめんなさい」

「はあん、きのうの夜、キャビンの外で物音がしていたけれど、心当たりない?」

「知るわけない」

「キタキツネかな?まあいいけど。この計画、わたしも一緒するよ。ちゃんと、おじさまの了解は取ったからね。まだ、考えることがいっぱいあるの。だから、楽しくやろうよ。ね、ノッくん」

 ジュンは右目でウィンクし、軽い足取りで出て行った。

 昨夜、あの男ときみとの間で、何があったんだ、と道夫は問い詰めたかった。でも、また、ジュンと旅ができる気持ちが強烈に勝った。

 腕時計は8時を指していた。外は朝の日に輝いている。道夫はキャビンの階段で背伸びし、澄み切った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

「おはよう」

 高橋さんだ。

「おはようございます。気持ちいい朝ですね」

「腹が空いているだろう?」

「ペコペコです」

「じゃ、さっそくコメを、といでもらおうか」

「その前に、ちょっと電話していいですか。うちに」

「もちろん。わたしが手伝うことはないかな」

「ぼく一人でできます。家族のだれが出ても、ぼくは元気だ、と伝えます」

 ポチがキャンプファイアーのサイトから駆けて来た。道夫はポチと競争しながら、管理事務所を目指した。

 あのスポットCM、霧の湖畔に佇む猿、チョロ松の瞑想は微笑ましい。ぼくが進化するとしたら、それは彼女への恋と、高橋さんの位牌のおかげかな、と道夫は思った。

「ポチ、駆けっこなら、ぼくは負けないぞ」

 ポチは、ワンと吠え、全速力で道夫を追い越した。 (おわり)                          

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