第3話

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 白金温泉キャンプ場の管理事務所前は駐車場だ。すでに二十数台の車やバイクが整然と並んでいた。管理人の男性は高橋さんと同年代のようで、チロリアンハットを粋にかぶり、ニコニコして人がよさそうだ。小柄な奥さんと一緒に管理事務所に住み込みだ。

 道夫たちは、それぞれキャンプ場の利用申込書に住所と名前を記入した。木下さん親子は予約していた4人ベッドのキャビン1棟で、2100円(安くてびっくりした!)を支払い、カギを受け取った。

 ジュンも空いていたキャビンに一人で泊まる。道夫と高橋さんはテントを張るつもりだったが、管理人が、森の中の木造キャビンは一度泊まる価値がありますよ、と勧めたので、一人1050円ずつ負担し、最後に残っていた1棟を借りた。

 高橋さんはキャンプファイアーの段取りを管理人に尋ねた。場内の中央に直径20メートルもの円形のキャンプファイアーサイトがある。そこで今夜、近隣の旭川から青年たちが15人ほどで予定している。それに参加させてもらえばよい、とうまい具合に話はまとまった。

 管理人は次に炊事道具が必要かどうか、高橋さんに訊いた。事務所にはナベ、カマ、シャモジ、マナイタ、包丁など炊事道具一式がレンタルでそろっていた。木下さんが、それに答えた。

「高橋さん、うちのワゴン車に炭や携帯ガスコンロ、炊事道具一式、ありますから」

 あとで、道夫と高橋さん、ジュンは、とても驚くのだが、木下さんは料理がメチャ、上手だった。

 道夫たちは、清潔そのものの白いシーツ、毛布、マクラをそれぞれ渡された。鬱蒼とした緑濃い林間を縫って、キャビンに向かった。

 3組が借りたキャビンは、ダケカンバ、ミズナラ、トドマツの愛称がついていた。三角屋根の木造で中は三角構造の底辺にベッドが三つ、中間に一つ、しつらえてあった。

 道夫が感激したのはトイレだ。屋外の公衆トイレが駐車場にあり、こんなといっては失礼だが、北海道の山奥のキャンプ場で水洗が完備されていた。

 3棟は炊事場とキャンプファイアーサイトに近い。炊事場はレンガを積んだ長いカマが備わっており、屋外BBQもできる。サイトには、旭川の青年たちのために、すでにマキが高さ2メートルほどに組まれていた。点火を待つばかりだ。

 キャビンが建つ敷地の隣りにテントサイトが広がっていた。グリーン、イエロー、ブルーなど色とりどり、大小さまざまなテントが花開いた。北海道の夏は今、真っ盛りだ。

「今夜の食事は、わたしに準備させてください」

 木下さんが高橋さんに申し出た。高橋さんが答える間もなく、木下さんはこどもたちに優しい眼差しを向けた。

「パパは買い物に行くから、おとなしく待っていなさい」

 二人を道夫たちに預け、ワゴン車で温泉街の食料品店に買い出しだ。

 管理人が巡回してきて、クマゲラの巣がある木を教えてくれた。道夫とジュン、こどもたちはポチを伴って、その探索に行った。その間、高橋さんはレンガのカマで炭を起こした。

 戻ると、ちょうど木下さんが白いビニール袋を手に帰って来た。袋からセロリやサニーレタス、ダイコンが顔を出していた。道夫と高橋さんが手伝いを申し入れても、木下さんは一人で大丈夫だと、調理をどんどん進めた。ジュンは炊事など関心がないのか、キャビンに上がる木の階段に腰かけて、タバコをくゆらせていた。

 周囲に蚊取り線香を四つ並べ、露出した首や手首に防虫スプレーを噴きかけ、にぎやかな夕食が始まった。

 大人三人、こども二人、それに犬一匹の食欲を満足させるキャンプ場の献立は、やはり網で焼いたBBQだろう。木下さんは、ジンギスカンの肉とタレを用意した。高橋さんは大喜びだ。

「木下さん、わたしの好物を知っているね。サンキュー」

 ビールで顔を赤くしながら、上機嫌だ。

 道夫は羊の肉は初めてだ。ジンギスカンが北海道の代表的な料理ということすら知らなかった。ジュンは東京でもときどき食べると話した。高橋さんの話では、ニュージーランドあたりから冷凍で輸入するのが一般的だが、サフォーク種の生肉ラムを北海道の地元で生産している。木下さんは、それを購入した。確かに柔らかくおいしかった。

 炭火でジュージューと焼ける生ラムやアスパラガス、タマネギに箸を伸ばし、道夫たちは野外での素朴な味を堪能した。木下さんの料理の腕は、キラリッと光っていた。

 アルミの大皿に盛られた生野菜サラダは、ニンジン、キャベツ、キュウリの千切りが見事だった。サニーレタスを下敷きにして、千切りがフンワリと柔らかな味のハーモニーを奏でている。

 北海道らしいジャガイモのローストは、男爵の輪切りをサラダ油でひいた小さなフライパンで、やわらかくなるまで焼き、それにナチュラルチーズをのせ、さらにパラパラとコナゴを振った。見た目にも楽しい演出だ。

 高橋さんは木下さんの料理の腕前をさかんにほめた。酔いが回っている。ジュンは、道夫の耳元でささやいた。

「彼は専業の主夫経験があるかもね。それに比べて、わたしなんか千切りもできないよ。この幅1ミリないじゃないの?」

 とても素直な眼差しで、箸に取った細いキャベツをしばらくながめていた。

 キャンプファイアーに火柱があがった。今年のヒット曲が流れている。青年たちの歓声が聞こえる。

「行こう!」

 ジュンだ。道夫の手を引っ張る。

「パパ、花火だよ。ぼくもしたいっ」

「みんな、行きなさい。わたしが片づけて、すぐ加わるぞ」

 高橋さんだ。

「ぼくも手伝います」

「いい、いい。青春だ、夏だ、今楽しまなくて、いつ楽しむ。行きなさい!」

 道夫たちはファイアーのサイトに走った。

 旭川の地元企業、製紙会社の社員たちという。若い男女、管理人は15人といっていたが、テントの旅行者も加わり、40人はいた。お酒の紙コップや缶ビールを手に、音楽に乗って盛り上がっている。このところ、ディスコが大ブームで-ポール・レカキスの「ブーム・ブーム Boom Boom」のアップテンポな曲で踊っている。

 ジュンが、その中に飛び込んだ。道夫は、踊ったことがない。立ちすくんだ。そばでジュンのロングヘアが揺れる。今夜は胸にオウム二羽が向かい合う柄のトロピカルなТシャツに、洗いざらしのデニムの短いパンツだ。

 いつの間にか、ジュンは若い男と楽しそうに踊っている。道夫は自己嫌悪に落ちて行った。あれっ、高橋さんまで輪に入った。女性たちが、ステキッと囃し立てた。

「野島くん、いいねえ、青春だなあ」

 ぎこちないが、身体を音楽に合わせて動かす。道夫は頭の中が真っ白だ。動かそうとしても、身体がコチコチだ。酒を飲めばよかった。こどもや木下さん、高橋さんに遠慮して飲みたいといえなかった。

 踊りの輪の外で、木下さん親子が花火に興じていた。数人の青年たちが取り囲み、楽しそうだ。それなのに…道夫は隔絶された別世界にいるような気分だ。率直に溶け込めない。自分の身体に流れるクヨクヨした血。両親のいさかいに無防備で期待に応えられない道夫。家出するのに妹から2万円の餞別を断らずに受け取る道夫。ガールフレンドすら今まで作ったことがない。まったくふがいない、童貞の道夫。

 燃え上がる火を前に、自分があまりにも小さく、情けなく、弱くて…必死に涙をこらえた。高橋さんは若さを取り戻したようにはしゃいでいる。キャンプファイアーには回春の効果があるのかもしれない。道夫が、あの年になったとき、同じように楽しむことはきっと、ないだろう。同じ火を全身に浴びて、高橋さんは若者で、道夫は老人だ。

「ノッくん、行こう」

 ジュンだ。道夫の背をドンと叩いた。ぼくの名前が野島なので、夕方ごろから、ノッくんと気安く呼ぶ。

「なんか、情けない顔ね。望岳台に星、見に行こう」

「順子さん、酔っ払っている」

「ジュン、でいいわよ。ヘイチャラよ、缶ビール、たった三つだから」

「ダメです。酔っ払い運転で事故ったら大変です」

「かたい男ね。ノッくん、じゃあ、きみが運転すればいい」

「タンデム?」

「そう。わたしが、背中からきみを抱きしめてあげる」

「ヘンなこと、いわないでください」

「タンデムだから、そうするのが当たり前でしょ。サッ」

 ジュンは駐車場に向かった。

「ヘルメット!」

「いらない。ゆっくり走ろう、北海道だよ」


 十勝岳の中腹にある望岳台へ標高800メートルの夜風は、夏とはいってもトレーナーだけの身体には冷たかった。でも、背中は温風ヒーターを背負ったようにカッカと熱かった。道夫の骨ばった背中に、柔らかで、それでいてキュッと硬さのある乳房が焼印のように押し付けられていた。

 ジュンの両手は、道夫のGパンと腹筋のはざまで時折り、イタズラっぽくうごめいた。道夫は、その手が間違っても、すぐ下のほうに滑ったりしないように祈った。道夫のそいつは半分、勃起していたからだ。

 上り坂は真っ暗だ。クォーターのヘッドライトに映し出される道は、クネクネと曲がり、ひび割れた舗装と夏草が茂るダートの繰り返しだった。坂を上り切ると、星空を台形で切り取ったように十勝岳の黒いシルエットが視界を占めた。

 望岳台のレストハウスはすでに閉店し、駐車場にはだれもいなかった。道夫は駐車場の真ん中でサイドステップを立て、エンジンを切った。

 とたんに世界は沈黙した。いや、虫の音は聞こえたけれど、大都会の喧騒に慣れっこになっている道夫には完全な静寂だった。

 最初に視界を半ば占めた黒いシルエットは、周囲360度の半球の一部に過ぎなかった。首をゆっくりと回すとプラネタリウムの世界が現実になっている。

 ジュンは、道夫のうしろでクォーターにまたがったまま、身動ぎしなかった。星のシャワーが降り注ぐ世界に酔いしれていた。自然の偉大なショーだ。

「きれいね」

 ジュンがつぶやいた。

「こういう世界があるのですね。東京じゃあ、絶対にない」

「東京には空がない、と詩人がいっているし」

「よさの、あきこ?」

「頭いいじゃないの」

「それぐらいは」

「こうしていると、言葉は無力ね」

「えっ?」

「あまりに自然の力が偉大で、言葉を何万弁も費やしても、表現するのが難しい」

「少し分かります」

「人間の関係も煩わしくなる」

「そうですね」

「人間って、悲しいね」

「そうですね」

「それしか答えがないの?」

「順子さんが、何をいいたいのか、分からないから」

「きみ、女、知らないでしょう?」

「なんのことですか?」

「カマトトぶっているの?」

「分かりません」

「まだ、童貞?」

 道夫は口をへの字に結んだ。眼下にきらめく富良野の町を見ていた。ジュンとは、あからさまに性的な話はしたくなかった。

「こんな大自然のところで、尋ねることじゃないね。ごめん」

「いや、別に」

「怒った?」

「いいえ」

「シーマの男、だれか訊かないの?」

「変質者でしょう?」

「打ち明けちゃおうかな」

 やっぱり、裏があった。道夫は彼女の回答を聞きたくない。それはジュンに会って以来、常に心の隅で予想していたことだから。

「彼はフィアンセ、なの」

 言葉はやはり、無力じゃない、残酷だ。道夫は富良野のきらめきを直視し、心の動揺を隠した。

「金持ちのボンボン。まあ、あんな若いのがシーマに乗っているぐらいだからね。大学のクラスメイトの玉の輿。古いか、こんな表現。でも、本当に愛しているかどうか、自分で分からなくなったの。友だちは、そんなわたしをブリッ子、し過ぎと。ノッくんは、どう思う?」

「ぼくには、分かりません」

「そうね、わたし自身の問題だから」

 道夫は声を出さずに、否定した。そうじゃない、ジュンがわざとらしく自分を見せている、本心を隠して猫をかぶっているようなブリッ子だとは絶対に思わない。自分に正直な人だ。分からないのは、ぼくになぜ、いま、そんなことを話すのだろう、ぼくは、ジュンが好きだ。道夫にとって、こんな気持ち、初めてだ。

「彼にね、別なひとがいたの。もう別れたというけれど、ね。偶然、知ったの。それで、自分の気持ちに整理がつかなくて、北海道に来たの。彼は、わたしを愛している証拠にどこまでも追いかけるって」

 道夫は無言だ。

「こんな話、いや?」

 道夫は黙っていた。

「ごめんなさい。きみのような純粋な人を見ていると、み~んなしゃべってスッキリしたくなったの、自分勝手ね、ホント」

「それで」

「えっ?」

「本当に、その人を愛しているのですか」

「そうね。まだ、分からない。結論は出ていない。永久に出ないかもしれない」 

 道夫は富良野のきらめきからジュンに視線を移した。ジュンは、道夫を見詰めていた。道夫はそのルージュをひいた唇を奪いたい。衝動が煮えたぎり、心臓が早鐘のように打った。ジュンに伝わっただろう。これは恋だ!

 でも、身体は動かない。カチカチに凍りつき、クォーターに張りついた。

 ジュンは大きく伸びをした。両腕を星空に突き上げ、深呼吸だ。表情はさっきと打って変わり、晴れやかで笑みを浮かべていた。道夫は瞬く間に、渦巻く不安に落ちた。これは…ただの通りすがりのタンデムだ。

「ほ~んと、人間ってちっぽけ。見て、ノッくん、あの銀河に千億の星がある。太陽系はその一つよ。あ~あ、わたしも宇宙飛行士になって、銀河系を自由自在に飛び回りたい。ねえっ、だれもいないから、大声で叫ぼう。ストレス解消には一番よ。ほら、叫ぼう」

 ジュンはクォーターを降りて、駐車場に仁王立ちになった。

「わ・た・し・は・じゅん・こ が・ん・ば・る・ぞ・お」

 道夫は胸の中でため息をついた。こんなことってありかよ。ぼくの愛は銀河系の星屑だ。ぼくはやっぱり、彼女にとって無色透明の男の子に過ぎない。

「ば・か・や・ろ・う ぼ・く・は・の・じ・ま・み・ち・お・だ・あ」

 道夫の叫びは混乱から生まれていた。


 キャンプ場への帰路は、酔いがすっかり醒めたと、ジュンが運転した。発進するときに、道夫は後部席に沿って備わっているタンデムバーを両手でグリップした。ジュンの身体に手を回すなんて、考えられなかった。

「ほら」

 ジュンは、道夫の左手を掴んで自分の腹部に強く押し付けた。

「この下り坂、危ないよ」

 それでも、なお道夫は躊躇していた。

「身体が密着していないと、コントロール出来ないよ」

「はい」

「女の子、やっぱり抱いたことないね」

「違います!」

「フフフ、どうかなあ」

「帰りましょう!」

「はい、はい」

 2ストロークの甲高いエンジン音と振動が股の間から立ち昇る。ジュンの背中がやけに熱い。首筋に自分の唇でそっと触れたい。道夫は、ジュンのフィアンセの話をもう頭から振り払っていた。ダートのゴロゴロと転がる石を縫い、崩れた舗装の段差でバウンドしながらクォーターはヘッドライトの照らす山道を下った。

 ジュンの腹の辺りで組んだ両手は汗ばんでいた。柔らかな肌の感触が道夫の脳内で幸せ成分のドーパミンを大量放出していることは確かだ。夜空を見上げた。望岳台そのままに、満天の星だ。麓に降りて舗装された国道に走り込むと、周囲の樹林は天に突き刺さるように鋭い影となって連なる。

 クォーターはスピードを増した。風を切る。気持ちいい。道夫はしばし、目を閉じた。ぼくは、ジュンと夜風と一体だ。新しい人生だ。これが、ぼくが目指したツーリングだ。心の片隅で、単純だな、おまえ、と囁く声も聞こえた。けれど、この時間がもう少し、可能な限り、長く続いてほしいと思った。

 突然、身体が前に放り出される衝撃だ。クォーターの前後輪が左右によろめくようにスリップして急停止した。ジュンが急ブレーキをかけた。道夫はジュンの身体にしがみついた。

 ジュンは沈黙している。道夫は、ライトが照らす先に目を凝らした。あの、シーマだ。キャンプ場の入り口を塞ぐように停車していた。道夫はただ、息を潜めていた。ジュンの息遣いだけが聞こえる。どうするつもりだろう?道夫はジュンの表情を読めないので、不安が広がる。

 シーマの運転席のドアが開いた。黒いTシャツと白いコットンパンツの男が降りた。がっしりした体躯で背は高い。ゆっくりと近づいて来た。

 ジュンはエンジンを切らず、男を直視している感じだ。道夫はジュンに話しかけたいが、言葉が見つからない。

「ノッくん、降りないで。このままで、いて」

 ジュンは振り返らずに、道夫に伝えた。

「はい」

「ジュン、話したい。ふたりだけで」

 男が数メートル先で立ち止まった。

 クォーターのエンジン音が森閑とした国道で脈打っている。ジュンの背中で道夫の心臓は激しく鼓動していた。(つづく)




 

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