第2話

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 確かに、一緒にツーリングは、ゆっくり走ろう、だ。

 メグロは制限速度を絶対に超えなかった。それにほとんど、30分おきには、バイクを止めて一服した。道夫の役目はポチをバスケットから降ろして、散歩だ。牧場の芝や砂浜を走り回った。

 その間、高橋さんはタバコを必ず一本だけくゆらせて、牧場を優雅に駆けるサラ、アラブ、道路を走り去るミツバチたち、静かな漁港で漁網を繕うオバサンたち、力を持て余して走り回るポチと道夫に優しい眼差しを注いでいた。地元の人たちは、北海道に来るライダーを花から花へ飛び回るミツバチに例えて、ミツバチ族と呼んだ。

 夜、襟裳えりも岬近くでテントを張った。道夫は、まだ一、二時間走る余裕があった。高橋さんは、わたしよりきみのほうが、人生の時間はたっぷりあるのだからと、笑ってキャンプ場で荷物を降ろした。

 道夫は自由なソロツーリングを思い、一瞬、後悔した。でも、高橋さんの何ともいえないぬくもりに安らぎを覚えていた。少なくとも孤独を求めて、北海道に来たのではない。それは確かだ。

 遥かに水平線を望む太平洋が、目の前に広がる。テントを張る200円の料金は、高橋さんが払った。冗談っぽく、ポチのベビーシッター代だという。

 夕食は、スーパーで買ったカップヌードルとコカコーラで、道夫は済ますつもりだった。持ってきている固形燃料でお湯を沸かし、カップヌードルのカレー味と、シーフード味を2個食べればいい。

 高橋さんは違う。道夫の夕食メニューを知って、憂鬱そうに首を振った。

「そんな食生活じゃ、力が出ないぞ」

 それで夕食は高橋さんに全面的に任せることになった。

 テントを張り終わると、食料を調達してくる、頭ぐらいの大きさの石を三、四個探しておけ、といい残し、メグロで出かけた。道夫とポチは帰りを待った。

 しばらくしてメグロが戻った。荷台に小さなダンボール箱があった。それをテントのそばに降ろすと、箱から茶色の紙袋に入った炭を取り出した。

 高橋さんは手際よく、三つの石で囲んで、カマを作った。炭を置き、板チョコ状のものを差し込んだ。灯油を染み込ませた着火剤の文化焚き付けという。百円ライターですぐ、火が起き、油の燃える刺激臭が鼻をついた。

 ダンボール箱のフタを五徳で切り取り、ウチワ代わりにバタバタとあおるのは、道夫の仕事だ。五徳を使うのは初めてだ。すでに、とんでもなく腹が空いていた。ひとり旅でカップヌードルのカレー味を食べたほうが正解だった、と再び、後悔し始めていた。

 高橋さんは固形燃料を使い、一式のコッヘルの一番大きいのに、水を入れて沸かし始めた。テントから少し離れた共同炊事場で、何やら洗い物をした。透明のビニール袋に入ったそれは、赤紫色の刻みノリのように見えた。

 高橋さんはダンボール箱から、新聞紙に包んだ魚を出した。

「なんですか、その魚」

「これはな、𩸽ホッケというものだ。おいしいぞ」

「ホッケ?」

「魚へんに花という字を書く。字を聞くだけでロマンチックだろう」

 身を開いて、あめ色にテラテラと光っている魚を、道夫は決してロマンチックに思えなかった。初めて見る。

 ホッケは大きかった。頭から尻尾までの長さは30センチは超えていた。高橋さんは使い古した黒い焼き網を真っ赤な炭にかけ、ホッケを乗せた。

「湯が沸いたら、ミソを溶いてくれ。ミソ汁ぐらい、作れるだろう?」

「自信ないけど」

「そのスプーンにミソを乗せて、箸を使って湯で少しずつ溶く。やってごらん」

「こうですか?」

「上手じゃないか。そうやって溶かす。うまく溶けて行くだろう?」

「ミソとほかに、何を入れます?」

「フノリだ」

「フノリ?」

「洗ってビニールに入っているのだよ。海草のひとつだ。おいしいよ」

「ぼくは初めてです」

「入れていいぞ」

 道夫は、このネトッとしたフノリを気味の悪さも感じながら、袋からコッヘルに移した。白ミソと赤紫色が、ゴチョゴチョと混じりあった。

 ホッケは、ジュワッ―、ジュワッーと音を発し、焼けた。1匹が焼けると、高橋さんはもう1匹、網に乗せた。焼けたホッケは、草の上に新聞紙を広げ、皿代わりのアルミホイルに置いた。

 小さなコッヘル2個にミソ汁を分け、でかいおにぎりが6個、ホッケの横に並んだ。    

「さあ、お待ちどおさま。食べよう」

「いただきます!」

 道夫は歓喜が爆発し、おにぎりにむしゃぶりついた。初めて食べるホッケは、これはもうホクホク、フカフカした、これまでに食べたことのないうまい魚だ。魚は苦手とずっと思い込んでいた。これは違う。

 道夫は、2匹目のホッケをほとんど独り占めし、フノリのミソ汁を2杯、飲んだ。おにぎりは4個食べた。高橋さんは、道夫が残したホッケの焦げた皮をうまそうに、つまみ、いつの間に出したのか、携帯用の水筒で、ウイスキーをちびりちびりやっていた。

「ホッケの皮がね、身より好物だよ」

 正直、悪い冗談だと思った。

「えっ、魚の皮を食べるの?」

「頭から尾っぽまでね、残すところはないよ」

 高橋さんは、上機嫌で笑みを浮かべた。

「食べてみるか?」

「いいです」

 道夫は即座に断った。高橋さんは笑っている。

「ほらっ、コカコーラ、飲むだろう?」

「うれしいなあ。ありがとうございます」

 コーラは、すっかりぬるかった。でも、高橋さんの好意に、道夫は感激していた。


 夜が更け、ソロテントにもぐり込んだ。波の音が遠くに聞こえた。キャンプファイアーを囲む、笑い声もまだ、絶えなかった。外は満天の星だ。

 渚のカセット

 好きな歌だけ詰め込んで

 流行っていたTUBEのサマードリームが、微かに聞こえた。

 道夫は父母のことを考えた。シュラフで横になるたびに、家のことが頭をよぎり、暗くなる。父は一流デパートの部長だ。社内でエリートコースを歩んでいる。母は、服飾デザイナーだ。

 二人ともバリバリの仕事人間だ。母の収入は、父のそれを上回る。世の中は24時間働くのが当たり前のようなイケイケドンドンで、株価も地価も高騰するバブル景気だ。夏休みに入る少し前、大スターの石原裕次郎が亡くなった。

 両親は、結婚して20年。道夫の家の朝は、父と母の口論で明ける。お互いに一緒にいるのが危機的な状況だと、認識している。でも、高校2年生の道夫と中学2年生の妹、薫がいるために最終的な決断、つまり離婚に踏み切れない。

 父も母も、息子、娘を愛していることは間違いない。ただ、お互いがすれ違うあまり、道夫たちまで、うっとうしい存在になっている。

 道夫が北海道旅行に家出したのは、大学の進路が、両親のケンカの原因になったからだ。今の成績では、両親が望むような一流大学に進学はムリだと、父母懇談会に出席した母が担任に告げられた。

 それが発端で、成績が悪いのは、だれのせいか、両親は口論した。本当に責任があるのは道夫自身だ。道夫は反省していた。両親は互いに、息子の教育に無関心だからだ、と相手を攻撃した。

 挙句の果て、道夫たちの前で互いの男女問題を口汚く罵りあった。聞くに堪えなかった。道夫は、自分は成績はだれにも誇るものはないけれど、人に迷惑をかけるタイプではない。ジッと耐えるほうだ。そう思っている。でも、もう家にいるのが、ホントに息苦しかった。

 霧の湖畔でウォークマンを手に瞑想する猿のチョロ吉のほうが、よほど情感豊かな人間的な生き方だろうと、スポットℂMを見るたびに自嘲的になった。高校生の自分も、あのシーンのインパクトを強く感じた。

 北海道にバイクで立つ前日、仲良しの妹には計画を打ち明けた。妹は、わたしの分もウップンを晴らして来てと、お年玉を貯めた虎の子の2万円を餞別せんべつにくれた。道夫は妹のかわいいホッペにキスで感謝した。

 道夫より妹のほうが成績もずっといい。人間的にも強い。中学校で生徒会の副会長を務めている。あいつは両親の不仲に負けない。道夫の弱い分、両親を監視してくれるだろう。

 ロングヘアで、いつも朝シャンの妹はエクボがかわいい。赤いドゥカティの彼女と重なる。彼女は今ごろ、北海道のどこにいるのだろう。東に行くと話していた。シーマの怪しい男は、まだ彼女を追いかけているに違いない。

 彼女の名前は?

 ジュン。それしか分からない。喫茶店で名前を訊けばよかった。ロングヘアをサッと払ったときの、あのさわやかな香りはなんだろう。ラベンダーとかジャスミンとか…香りの名前は、道夫は、何も知らない。

 ジュン。ステキな名前だよね。広大な、この大地で再会の偶然はあるだろうか。連絡を取る手段は、何もない。また、会いたい。自分の微妙な感情の高まりを感じながら、道夫は深い眠りに落ちて行った。


 高橋さんは、襟裳岬から十勝に入ると、北海道でもっとも標高が高いところにあるという露天風呂、十勝岳の凌雲閣りょううんかくを目指した。標高1280メートルの山腹にある。

 二人と1匹連れは制限速度と30分ごとの休憩をキチッと守って、ジャガイモや大豆、麦畑が続く十勝の丘陵をノンビリと走り、エゾマツ、トドマツの針葉樹林や白樺の原生林を縫う急坂をエンジンが唸りを上げ、フウフウいいながら登り詰めて、目的地に到着した。まだ、日は高かった。

 凌雲閣は山小屋風の素朴な旅館で、さすがに標高が高く、Тシャツ姿の道夫には、涼し過ぎた。駐車場は観光客、登山客の車、バイクでかなり込んでいた。 

 高橋さんは、バスケットのポチにしばしのいとまを告げ、道夫の肩をポンと叩いて浴場に向かった。入場口で入浴料金を、道夫の分も合わせて払い、狭い階段を脱衣場に下りた。

 そこで、道夫は、高橋さんがフンドシであることに絶句した。初めて見た。脱衣場は狭く、数人の先客がいた。客の視線がフンドシに集中した。

 高橋さんはフンドシをスルスルと解き、道夫に、早く来い、と手招きした。大股に内湯の引き戸を開けた。大学生風の男が友人に、フンドシだぜ、とささやいたのが、道夫に聞こえた。

 天然石を使った内湯は、モウモウとした湯煙だ。こっちだ、こっちだ、と高橋さんの声が右手の奥から伝わる。道夫は、それを頼りにヌルヌルする床を転がらないようにおっかなびっくり、足を運んだ。腰に回したタオルを解けないようにしっかりと押さえながら。

 内湯の錆びついたドアを開けると、視界がパアッと広がった。明るい陽射しの中、ひょうたん型の露天風呂が濃い褐色の湯をたたえていた。こどもからお年寄りまで10人ほどが湯に浸かり、縁に腰かけていた。高橋さんは手前側で首まで身体を沈めていた。

 素晴らしい、としかいいようがない展望だ。道夫には露天というより、空に浮かぶ空中風呂といった形容のほうが適切だ。

 左手に十勝岳の旧火口がパックリと口を開けている。眼下に濃緑の針葉樹が生い茂る盆地を望み、彼方の山道を登山客が、連れ立って歩いている。

 道夫は高橋さんの横で、湯に身を沈めた。意外と熱かった。

「最高だろう?」

「はい。こんなの初めてです」

 もう、ホントに何回目の初めてだろう。

「北海道の醍醐味だ、これは」

「この色、何を含みます?」

「鉄分だ。白いタオルは褐色に染まってしまう」

「何回か、来たことがあるのですか?」

「むかし、な。紅葉の時期が、またいい」

「9月?」

「そうだ、秋分のころ」

「寒くない?」

「湯に浸かれば、別天地だ」

「ストレス解消にいいですね、ここ」

「若くても年寄でも、ストレスは、ストレスか」

 缶ビールを手にした年配の女性たち三人が、開けっ広げでどこを隠すでもなく、湯に入って来た。道夫は、目のやり場に困った。青い稜線に視線をロックした。

 その女性たちは、高橋さんとあいさつを交わした。十勝の中心都市、帯広の敬老会のメンバーで、高橋さんが東京からオートバイでここまで来たと聞いて、エネルギッシュだ、頑健だとほめたたえた。確かに、年の割に頭髪は黒くて多いし、顔は日焼けして精悍だ。肩や腕の筋肉も、道夫よりよっぽど張りがある。

 ビールのアルコールが回って、ほろ酔い加減の女性たちの歓談は、ひときわにぎやかになった。道夫と高橋さんは、新たな入浴客に場所を空けるため、露天風呂の奥に移った。そこは比較的浅く、湯温も若干低めだ。

「パパ、来てよかったね」

 五、六歳ぐらいの男の子だ。一つか二つ下の妹の手を引いていた。道夫たちが奥に進むと同時に、後から浅いほうに入って来たのだ。

 父親は三十七、八に見えた。小太りで、度のきつい黒縁眼鏡を風呂の中でもかけていた。無償ひげが濃かった。

「いい湯ですね」 

 高橋さんが話しかけた。

「ホントですね」

 父親は柔和に微笑んだ。横で、息子が父親に湯をパシャッとかけ、ふざけた。それを真似して妹もはしゃいだ。

「こらこら、やめなさい。他のお客さんに迷惑だから、ね」

「元気でいいね」

「かわいいのも、こんなうちですかね」

「うちにも孫がいるが、もうすっかり大人でして、中学生や高校生にもなると、寄りつきませんよ」

「お孫さんじゃ、ないのですか?」

 父親は、道夫に目を向けた。

「彼はツーリング仲間です。すっかり意気投合しましてね。こんなジイサンは足手まといでしょうに、一緒にツーリングしてくれます」

「バイクですか。北海道はいいですね」

「いやあ、この年でミツバチ族でもないですがね」

「てっきり、仲の良いお孫さんかと思いました」

「これほど立派な青年が孫なら、いうことありませんよ」

「おにいちゃん、ライダーなの?」

 男の子が訊いた。

「そうだよ」

「何に乗っている? ヤマハ、カワサキ、ホンダ、スズキ?」

「ヤマハの250だよ」

「2ストロークでしょう?」

「もの知りだなあ、ぼく」

 高橋さんが感心した。

「ぼくがオートバイに乗っているので、この子も興味を持ちましてね」

「ほお、あなたもライダーですか」

「最近は、さっぱりです」

「ユカだって、好きだよ、パパ。ユカも、おにいちゃんと同じくらい知っているよ」

 妹が父親の肩にすり寄って、甘えた。

「バイクは、ぼくのほうが知っているよ」

 男の子が口を尖らせた。

 父親はニコニコと二人を両手で抱き寄せ、愛情たっぷりに交互におでこをすりつけた。道夫には、父親の深い愛情が十分すぎるほど感じ取れた。高橋さんの表情もにこやかで、道夫と同じ気持ちだろう。

 三人の女性は、大学生ぐらいの青年二人をつかまえ、どこから来たのと質問攻めだ。若ければ、付き合うのにとか、うちの孫娘にどうとか、話がポンポンと弾んだ。青年たちは上気している。露天風呂で、道夫は唇すれすれまで沈み込み、心がとても和んだ。


 道夫と高橋さんは親子連れより一足先に風呂からあがった。旅館のホールは客で埋まっていた。玄関の上り口にグリーンのテレフォン・カード用の電話があった。ちょうど、若い女性がかけ終わったところだ。

 道夫は妹と約束していた。旅行の途中でときどき、無事を知らせる電話をすると。両親には口を割ってはならない。兄と妹だけの交信だ。家を出てから、まだ一度もしていない。

 もし、父か母のどちらかが電話口に出たなら困る。この時間、家には妹しかいないはずだが、もし、両親がいたなら。道夫はグリーンの電話の前で迷った。

「どうかした?」

 道夫は一瞬、ちゅうちょしたが、思い切って頼んだ。

「すみません。高橋さんから電話してもらえませんか?」

「どこに?」

「妹のところです」

「兄貴ができないの?」

「親が出ると、ちょっと困るものだから」

「ああ、そういうことか。いいよ、電話番号は? 妹さんの名前は?」

 道夫はテレフォン・カードを差し込んで、電話番号をプッシュした。最初の呼び出し音を確かめ、高橋さんに受話器を渡した。何回か呼び出し音が鳴り、留守番電話に切り替わった。高橋さんは左右に首を軽く振った。

「またにします。ありがとうございました」

 道夫は小さく頭を下げた。高橋さんは、それ以上、何も質問もしなかった。

 二人で屋外に出た。自動販売機で好みの清涼飲料水を手にしていた。火照った体に山の涼風が心地よかった。

 道夫たちがバイクに軽く腰かけて、休んでいると、あの親子が姿を現した。すでに互いの名前は露天風呂で交わしたあいさつで知っていた。

 父親は木下雄二、息子は敦、娘は由香。三人は、埼玉県から北海道に自動車旅行に来た。母親の姿は、どこにも見えなかったので、道夫も高橋さんもその点には触れなかった。

 木下さんは多弁だった。こどもたちに缶ジュースを買い与え、自分もコカコーラを手に、道夫たちのそばにきて、1週間前に埼玉県を発ってから寄った旅先を逐一説明した。

 道夫たちは、すっかり火照った身体が冷めても、辛抱強く父親の旅行談に耳を傾けた。息子と娘は目ざとくポチの存在をかぎつけ、バスケットから取り出して遊び相手にしていた。

「北海道は素晴らしい。来てよかった」

 木下さんがフッとため息を漏らした。

 道夫と高橋さんは顔を見合わせた。彼が旅行談を話していた表情から、みるみるうちに顔を曇らせたからだ。

「いいなあ、こういうところにいつまでも住みたい。ホント、いいなあ」

 木下さんは独りごちった。視線が宙を漂う。なんか、とても疲れているようにも見えた。

 高橋さんが優しい眼差しを向けた。

「何か心配ごとでも?」

「いやいや、すみません。さんざん一人でおしゃべりして、まったく、ぼくときたら自分勝手で…失礼しました」

「とんでもない。楽しかったですよ。あなたの旅行は、お子さんたちにも素晴らしい思い出になりますよ。わたしたちも、こうして知り合い、よかったです。なあ、野島くん」

「最高です」

 道夫はいくらか上ずった調子で、相づちを打った。

「野島くん、ぼくも高橋さんのようにはできないが、ついこの間までバイクで風を切る元気があったよ。本当にくれぐれも事故には気をつけてね」

「はい」

「こら、チビたち、もういくぞ。高橋さん、野島くんにお礼をいいなさい」

「イヤッ、パパ、この犬、ほしい」

 娘がポチを抱きしめて、離さない。

「ぼくもほしい。かわいいもの」

「ダメッ、今夜はポチと寝るから。ゼッタイ、ゼッタ~イ、ユカのだから」

「聞き分けのないこといって、パパを困らせないでくれよ、な」

「イヤッ」

 娘が首を強く振った。

「ユカ、ユカは…そんなに…パパのいうことをきけないのか…」

 父親にしては、声の調子が、あまりに弱弱しかった。三つか、四つかの娘に哀願しているように、道夫には聞こえた。

「今夜は、どこにお泊りですか?」

 高橋さんが訊いた。

「ふもとの白金温泉にあるキャンプ場です。午前中にキャビンを一棟、予約しました」

「そうですか。ここで会ったのも、何かのご縁だ。わたしらも、そこでテントを張りましょう。こどもたちもいるし、キャンプファイアーでもしましょう。なっ、野島くん」

「いいですね。ぼく、キャンプファイアー、大好きです」

「それじゃ、決まりだ」

「おじさん、車にポチ、持って行っていい?」

 ユカは心配そうだ。

「いいとも。かわいがってね」

「うん」

「ポチ、お行儀よくな」

 ポチはご主人の顔を見上げて、神妙な表情だ。

「すみません、わがままで」

 木下さんが頭を下げた。

「いやいや、今晩の寝床をどこにするか、話していたのでね。そうだろう、野島くん」

 道夫は大きくうなずいた。

 こどもたちは、ポチを抱いて駐車場の端にあるメタリック・シルバーのワゴン車に駆けて行った。木下さんはその後を追った。

「高橋さん、あの子たち、ポチとますます離れがたくなりませんか?」

「その通りだ。わたしも、どうしようかと思案した。それに、どうも父親が気になる。何か引っかかる。それで、ひと晩、様子を見ようと思った」

「ぼくも、気になりました。一緒に様子を見ます」

「単なる杞憂だと思うが、彼はどうも感情が不安定のようだ。素人判断だが」

 高橋さんは眉間にしわを寄せた。

「ぼくがいると、心強く、ありません?」

 高橋さんの顔がフッと明るくなった。

「そりゃあ、そうだ。相棒だな」

「はい」

「ヨシャ」

 高橋さんは右手で、道夫の右手とハイタッチした。

 そのときだ。

 道夫は駐車場に入って来る赤いドゥカティに目を奪われた。彼女だ。赤い革のツナギ、赤いヘルメット、黒いシールド、赤と黒のストライプのウェストバック。ジュンに間違いない。

 その後ろから、あのメタリック・グリーンのシーマが来た。シーマは駐車場が満杯で入り口で止まった。

 赤いドゥカティは、まっすぐ狙い定めたように道夫に向かって来た。道夫は身体が熱くなった。彼女は、道夫のほんの数センチ前でドゥカティを止め、エンジンを切った。顔と顔がふっきそうなぐらいだ。エンジンの熱が伝わってくる。

「また会ったわね、元気?」

「はい」

「そんなに驚かないで」

「そういっても、まさか」

「世の中、狭いの」

「シーマの人も」

 道夫は車を一瞥した。ドゥカティとシーマは一体、どんな関係なんだ。

「まあ、いいってことよ」

 彼女はフルフェイスを脱いだ。ロングヘアが乱れた。

「美人ですなあ。野島くん、紹介してくれよ」

 高橋さんは興味津々だ。

「だれ、このお年寄り?」

 ジュンは冷たく言い放った。

「お年寄りか、いやあ、厳しい。わたしは高橋と申します。野島くんの相棒です」

「ツーリング仲間の高橋さんです。日高で出会って、一緒にここまで来たんです。こちらはジュンさんです。札幌で知り合いました」

「ごめんなさい。別に年がどうとか思っていったわけじゃないの。この子と最初に会ったときは、ソロだったから。突然、話に割り込んで来たので、ヘンだと思って。わたし、ジュンです。メグロ、おじさんの?」

「そうだよ。わたしもライダーの端くれです。お嬢さんのは、イタリアの太陽ですな」

「ええ、まあ」

 恥じらうような笑みが漏れる。

「高橋さん、行きますか?」

 木下さんがワゴン車をそばに寄せて、運転席から顔を出した。

「おじさん、おにいちゃん、行こう」

 敦と由香が叫んだ。

「ずいぶん、にぎやかね」

 ジュンは笑った。

 道夫は、その笑顔がとろけるように気持ちよく、しまりのない笑みを返した。高橋さんは、そんな道夫の表情から、心の中をお見通しだ。やはり、亀の甲より年の功だ。

「ジュンさんは、今夜、どちらに?」

「野島くんと一緒になら、どこでも」

 ええっ、道夫は心臓が高鳴った。これって、ひょっとしたら。

「それじゃあ、白金温泉のキャンプ場だ。みんなで今夜はキャンプファイアーで盛り上がりますか。なあ、野島くん」

「ご招待、受けますわ。おじさま、栄光のメグロに、ドゥカティで伴走します」

「おじさま、いい響きだねえ。よろしく頼みますよ、お嬢さん」

 会話に入れないことに、道夫は高橋さんに少し、嫉妬を感じた。メグロとドゥカティが並走するなら、このクォーターは、ただの背景、いやペンペン草に過ぎない。

 ワゴン車が先頭でゆっくりと駐車場を後にした。メグロ、ドゥカティが続いた。外ではあのシーマが待っていた。

 ジュンが黒いシールドを上げて、道夫に微笑んだ。

「シンガリ、お願い。あなただけが、頼りだから」

「任せて!」

 道夫は、こうも単純だ。彼女の一言で、道夫はジュンに信頼されているとウキウキだ。駐車場を最後に出るクォーターから、道夫はシーマに向かって右手の中指を突き出し、叫んだ。

「ファック・ユー!」(つづく)


       

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