赤いドゥカティの彼女
rokumonsen
第1話
1
札幌時計台の裏手に、道外ナンバーのバイクがズラッと並んでいた。道夫は真っ赤なドゥカティ851ストラーダの隣りにヤマハのフルカウリング・クォーターを止めた。中山峠ですれ違ったのは、間違いなくこのドゥカティだ。
イタリアの太陽を思わせる鮮烈な赤。排気量850CCを超える熟れたドゥカティに比べると、白、赤ツートンの250は、いかにも軽く見える。でも、道夫にとっては宝だ。
1987年、ソニーのテレビのスポットCM、ウォークマンを手に湖畔に佇み、瞑想する猿のチョロ松が大ヒットしていた。「音は進化した。人間はどうですか」とナレーターが問う。道夫は、それを見て決心した。
猿だって音楽を聴くほど進化しているのに、自分がこの境遇から抜け出さないのは猿にも劣るんじゃないか。道夫は自己嫌悪に陥った。だから、高校2年生の夏休みが始まった4日前、東京の自宅をこっそりと抜け出し、クォーターで北海道を目指した。シュラフとテントの野宿だ。
ドゥカティのライダーは女性だ。彼女には札幌まであと40キロの中山峠で出会った。道夫が腹を空かして、峠の駐車場にクォーターを乗り入れたとき、彼女は、道夫と入れ替わりに駐車場を後にした。
ドゥカティの赤が染まったようなレザーパンツとブルゾン。ブルゾンの前をはだけ、涼風を誘い、黒いТシャツと鮮やかなコントラストを見せていた。彼女は赤、黒ツートンのフルフェイスを一瞬、道夫に向むけた。黒いシールドの奥から見られていると感じた。
ドゥカティの後を追って、メタリック・グリーンのシーマが、道夫の脇をすり抜けた。あまりにすれすれで、思わず、道夫は前輪だけロックしてよろめいた。
「バカヤロウ!」
道夫はシーマに向かって怒鳴った。シーマはちっぽけなクォーターを気にかけず、カーブを回って白樺の林の陰に消えた。
札幌に入ったのが、午後5時過ぎ。時計台は、観光客であふれていた。道夫と同じようなツーリングの仲間が記念写真を撮っていた。
ドゥカティの彼女は、時計台の隣りの小さな広場にいた。ベゴニアやマリーゴールドが咲くレンガ造りの花壇に腰かけ、タバコを吸っていた。夏の日差しは、まだ暑く、ブルゾンを脱いでいた。
年は二十二、三。ナチュラルな雰囲気を漂わせたロングヘアの美人だ。道夫が小学生のころに、慕った先生に似ている。
道夫はジッと彼女を見詰めた。歩道の人ごみに紛れて、時計台を穴の開くほど眺めている観光客の少年を装って。
彼女の背後、古いビルの横に、あのシーマが、ゆっくりと止まった。運転席の窓がスッ―と下がった。サングラスの若い男だ。
「ジュン!」
男は呼んだ。渋い声だ。
彼女はウェストバックから携帯用の灰皿を取り出し、タバコを揉み消した。振り向きもしない。男の人違いか。
いや、違う。道夫には分かった。男は、広場を横切る人々に目もくれず、彼女を目で追った。彼女はタンクバッグを肩にかけてブルゾンをつかむと、道夫のほうに歩いて来た。
信じられないことが起きた。
「久しぶり、こんなところで会うなんて。茶、飲もうよ」
身体が硬くなった。コチコチだった。道夫が彼女に興味を持ったことを知っているはずもないのに。ライダーが大勢いる中で、彼女は、道夫を選んだ。なぜか皆目、見当もつかなかった。
左腕をグイッとつかまれた。
「一緒に歩いて。ヘンな男につけられているの。頼むわ」
「はい」
道夫は、そう応えるのが精いっぱいだ。
一緒に歩くと、彼女の身長は、道夫と何センチも違わない。道夫は、1メートル74。大きな女性だ。赤いレザーパンツ、金色のエンブレムをデザインしたツーリングブーツが長い脚にかっこいい。
それに比べて、道夫ときたら、4日間、泥と汗を吸ったGパン、茶と白のラガーシャツにスニーカーだ。とてもレプリカのフルカウリング・クォーターにマッチしているとは思えない。背中には、グリーンのデイパックだ。
道夫と彼女は、横断歩道を渡った。ハイデッカーの大型観光バスの窓から何人もの若い男女が、こちらに視線を向けた。うらやましげな表情だ。道夫は、ちょっと優越感に浸った。
「ここは、どう?」
彼女は、なんの変哲もない喫茶店の前で立ち止まった。道夫の返事も聞かずにさっさと入った。
窓際の席。藤の涼しい椅子。道夫と彼女は向かい合った。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
たぶん、バイト高校生に違いないウェイトレスが、白いテーブルの脇に立った。道夫と同い年かもしれない。
「アイスコーヒー、ガムなしで。あなたは?」
「ぼくも、同じでいいです」
「じゃあ、二つ」
彼女は車道を一瞥した。
「気になります?」
「別に、ね。吸っていい?」
「ええ」
ウェストバックからタバコを取り出した。セブンスターライト。道夫は、何度か遊び半分で口にしたことがある。ピンクの透明な百円ライター。安っぽくて彼女に不似合だ。
「さっきは、ありがとう。助かったわ」
彼女は、タバコに火を点けた。
「悪い人ですか、あの男」
「知らない男。函館からずっとつけられているの。ヘンタイかな」
「警察に届けたら?」
「おっくうだわ」
「でも、襲われたら」
「まさか。一般社会常識は、きっとあるわよ」
「それならいいですけど」
「きみって、困った顔が、かわいいね」
彼女は微笑んだ。
道夫は、その言葉に戸惑ってうつむいた。
注文したアイスコーヒーが運ばれ、道夫は黙って水色のストローに口をつけた。その間も彼女は、窓越しにときどき、人を探しているような視線を漂わせた。
30分ぐらいで、彼女は立ち上がった。道夫は、その後に従った。彼女が金を払い、店を出た。時計台に二人で戻った。シーマの姿は、もうなかった。
彼女はドゥカティにまたがると、ロングヘアをサッと肩に払って、フルフェイスをかぶった。
「また、会えるといいね」
黒いシールドを降ろした。
「どっちに行くのですか?」
「東。きっと東に旅するわ」
ドドッとエンジンが始動した。シールドの向こうで、彼女がウィンクした。
道夫は思わず、頭をちょこんと下げた。
赤い彼女の後姿が、中心街のラッシュのすきまから消えていった。名前はジュンとしか知らなかった。
別に彼女を追う気はなかった。道夫も北海道の東、北方領土を望む根室半島に向かう予定だった。道夫は気ままに大地の風を感じ、旅したかった。生命の息吹を胸いっぱいに吸い込んで、家出の原因の絶えないケンカと苛立ち、焦燥を忘れたかった。
2日後、空は澄んでいた。道夫は札幌を発って、海岸線沿いに南下し襟裳岬を目指した。日高の軽種馬牧場が国道沿いに広がり、サラブレッドが駆けていた。
昼前だった。道夫が祖父のような男の人に会ったのは。
古いメグロのオートバイが、カラフルなトーテムポールの立っている牧場脇に止まっていた。ジェット型ヘルメットの男性が、しゃがみこんでエンジンのあたりを調べていた。
「どうかしたのですか?」
道夫はバイクを止めて訊いた。
セピア色の写真から抜け出して来たといってもいい代物だ。四一式のメグロ・スタミナK2。暑い日差しに、メッキがギラギラと輝く。
「やあ、こんにちは。ちょっと調子が悪くてね。たいしたことないよ」
「すごい、バイクですね。ぼく、こんなの実物を見るのは、初めてです。手入れが大変でしょう?」
「ありがとう。わたしみたいに、こいつも年寄りだが。まだ走れそうだ。ありがとう」
年は、60を超えているように見えた。ゴーグルを首にかけ、夏の盛りなのに皮のジャンパーのジッパーを、キチッと喉元まで引き上げている。
道夫は年輪の刻まれた男の人の柔和な表情を見ていると、なぜか心が安らいだ。
2ストロークのクォーターで風をぶっちぎって、ひたすらここまで走ったせいかもしれない。メグロと、そのいぶし銀のような主人公が醸し出す余裕は、道夫にもクォーターにもない。
「東京ですか?」
道夫はバイクを降りて訊いた。メグロのナンバーは品川だ。
「そうだよ。きみもかい?」
「はい、高井戸です」
「わたしは芝浦だ。小さい印刷会社をやっている高橋というジイサンだ、よろしく」
高橋さんは手を差し出した。
道夫は慌てて、グローブをはずした。
「高校2年生をやっています。野島です。道夫なんてタイクツな名前だけど」
「タイクツな名前か。こりゃいい。ハッハッハッ」
高橋さんが突然笑い、道夫はキョトンとした。すぐに合点がいった。
「わたしの名前も相当、タイクツなほうだぞ。太郎だ。ハッハッハッ」
高橋太郎、65歳。それが名前と年齢だ。
「それにな、こいつもありきたりの、名前だけどな」
高橋さんはメグロの荷台に積んだ藤製のバスケットを開いた。小型の雑種犬が一匹。毛は短く、茶色だ。
名前はポチ、高橋さんの連れだ。
襟裳岬の方向から数台のバイクがヘッドライトを昼間点灯して走って来た。先頭のライダーが、道夫たちに向かってライダー仲間の友情のあいさつでもあるVサインをした。
道夫と高橋さんはすかさず、それに応えた。ボチもワンと一声、吠えた。
「頭いい、この犬」
「わたしの仕込み方がいいからな。そうだろう、ポチ」
また、ワンと応えた。
「抱いていいですか?」
「いいよ。さみしがりやだから」
道夫はポチをそっと抱き上げた。見た目より重かった。ぬくもりが、道夫の両手に伝わった。ポチはキョロキョロと周囲を見回した。
高橋さんは愛犬と一緒に東京からバイクで北海道を旅している。メグロのフロントフォークに丸めてくくりつけたマット。きっとキャンプの旅だ。
「どっちに行くのですか?」
「北だ。目的地は稚内だ。愛しているバアサンの生まれ故郷だ」
愛しているバアサンだって。ずいぶん、おのろけだな。それなのに、妻を東京に残して自分は愛犬と気楽な旅、というわけか。矛盾している。道夫は、それを口には出さなかった。
「でも、方向が逆でしょう?」
この道は南の襟裳に向かっている。
「この年になると、そんなに急ぐこともない。露天風呂が好きでね。いくつか入りながら、北海道をグルっと回ってね、まあ、湯治の旅だ」
「露天風呂?」
「きみのような若い人には、興味がないだろう」
「ぼく、それが好きです。クラスメイトにも好きなヤツがけっこういます」
「近頃の若い人は年寄じみたものが好きだね」
「気分が休まりますよ、ね」
「受験やら、なんやらで、きみたちもストレスがたまっているのか」
「まあ、そんなところです」
「正直で、よろしい」
「ぼくも一緒していいですか?」
「こんなジイサンと、露天風呂かい?」
「はい。迷惑かけませんから」
「わたしは、このとおり犬とキャンプの旅だよ」
「ぼくも」
道夫はクォーターのバックシートに、ゴムひもでくくりつけたビニールバッグを叩いた。
「野宿の貧乏旅行です」
「それは、よろしい。若い人はできるだけ金をかけないことだ。こんなジイサンでも頑張っているのだから」
「一緒、いいですか?」
「好きにしなさい。独りになりたかったら、自由に走り去ればいい。わたしは構わない。おっと、相棒の意見も訊いてみよう。どうだ、ポチ、野島くんが、露天風呂に連れだって行きたいそうだ。いいかい?」
ポチは、道夫に抱かれて、すぐに応えなかった。道夫はハラハラした。犬は、ご主人と二人きり、いやひとりと一匹になりたいのか。
札幌の方向からハーレー・ダビッドソンの一群が重厚なエンジン音を響かせて、やって来た。ライダーは、いずれも四、五十代のようで、ハイウェイパトロールの格好で決めていた。
先頭の口ひげをたくわえたライダーが、メグロを見て、ゆっくりと手を振った。高橋さんは、それに応えて右手を高く上げ、節くれだった指のVサインを夏の空に突き出した。
道夫たちの前を通り過ぎる一群は、一列縦隊となって、次々とVサインを掲げた。総勢18台。高橋さんは輝く金色のエンブレムを閲兵する大統領だ。
道夫は気持ちが高揚した。自分がメグロかハーレーの主人公で、衆目を一身に集めて行進している気分だった。クォーターじゃ、ちょっと味わえない。
ワン! ポチが吠えた。
「そうか。こいつも賛成か。ただし、ゆっくり走ろう北海道ですよ」
高橋さんは目を細めた。(つづく)
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