03

「なん……で…………」

 路地の真ん中に差し掛かったところで、急に崩れてしまうバランス。視界が大きくぶれたと同時に、強い衝撃が肩に走った。

「っっ…………」

 鈍い痛みが走る。無意識に滲み出た涙で歪むのは視界だ。何が起こっているのかが分からない。状況が見えないことで混乱し思わず叫びそうになったところで背後から聞こえてきたのは耳に馴染むいつもの声。

「あーあ。また、失敗しちゃったんだね」

 振り返ると、先ほど別れたばかりの芽生さんが立っていた。

「めい……さ……」

「だから、あれほど『表通りから帰れ』って言ったのに」

 彼女は面倒臭そうに両手を持ち上げると、妙な言葉を呟きながら不思議な動きで腕を動かす。と、次の瞬間、大きな黒い影が目の前に現れ、耳障りで嫌な大声を上げ苦しそうに悶え始めた。

「コレは貸しだからね!」

 それはまるで綺麗な歌のように響く音。だが、その言葉は聞いたことのない不思議なものだった。それが芽生さんの口元から零れ落ちる度、弾けるような音を伴いながら空気が大きく振動を繰り返す。

 彼女の指が何かを引き寄せるように手前に動かす。すると、巨大な影は引っ張られるようにして彼女の方へと近付いていく。

「××!」

「うる…みゃっ!」

 確かにそれは名前だったのだろう。呼ばれたものは、嬉しそうに答えた後、大きな口を開けてその黒い影を食べ始めた。

「……あ……あぁ……」

 少しずつ、囓り取られていく黒い影。喰われる度、それは苦しそうに悲鳴を上げる。上がる血飛沫に覚える眩暈。一体、何を見せられているのだろう。答えなんて分からなかった。

「大丈夫?」

 まるで夢見事のような現実味のない出来事。頬を強く叩かれることで呆けていた意識は一気に現実へと引き戻される。

「ぼ……ぼく……」

「今度は、ちゃんと覚えてる?」

 またしても意味不明な質問。それに小さく首を振ると、芽生さんは大きな溜息を吐きがっくりと項垂れた。

「やっぱり駄目か。もう、囚われちゃってんのかなぁ」

 腰が抜けて座り込んだまま立てないで居ると、芽生さんが肩を貸してくれ何とか立ち上がらせてくれる。そのまま移動しながら聞かされたのは、俄には信じられないような話だった。

「これさ、何回目の説明になるのか忘れちゃったけど、アンタ、もう、元には戻れないから」

「どういう……事……?」

「気付かない? 同じ時間を繰り返しているってことに」

 彼女の言葉は全て嘘のように聞こえる。過去に自分が、この場所で事件に遭い命を落としただ何て、どうやって信じろと言うのだろう。

「どうせアンタはまた忘れちゃうんでしょう?」

 あともう少しで路地を出る。そこで一度立ち止まり、芽生さんは悲しそうに笑う。

「来るなって言っても、明日また、同じようにアンタは店に来てしまう。それは、帰り道を変えない限りずっと終わらないまま。永遠に続くんだって……いつになったら気付いてくれるのかなぁ」

 足元には一匹の黒い猫。甘えるように擦り寄り、大きく喉を鳴らし匂いを擦りつけている。

「もう、言いたく無いよ。『また、明日』だなんて、そんな言葉」

 そう言って腕を離し、少し距離を置いて芽生さんは俯く。

「明日はさ、ちゃんと表からおいで。そしたら、煙管の煙なんて、必要ないから」

 彼女の手がゆっくりと身体を向こう側へと押す。

「あの煙ね、黒い影からアンタを守るものだったんだよ。表の通りを通っていれば、あの煙がアンタを行くべき場所に連れて行ってくれるはずだったんだ。だから、アンタはこの道を通っちゃいけない。……明日には忘れちゃうと思うけどね」

 じゃあね、バイバイ。また明日。

 矢継ぎ早に言われた別れの言葉と、巻き戻される今日という時間。


「ああ、嫌だ。あんな噂」

 消えた存在の感触を確かめるように手を握ると、彼女は力なく笑い空を仰いだ。

「魔女の噂だなんて、一体、誰が流したのよ。……ほんと、いい迷惑だわ」


 多分きっと、明日も扉は開かれるだろう。

 明日こそは、最後の送り出しが出来る事を願いながら、彼女は一人、坂の上の建物へと向かって歩き出した。

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魔女の黒猫 ナカ @8wUso

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