回転扉

橘香織

少年とデパート

 十三歳のフリードリヒ少年は、長い待機列に並びながら一日を終えようとしている。彼がこのデパートの前の長蛇の列の最後尾となったのはその日の午前中の話である。某県某駅の近くにあるデパートへと電車を乗り継いでやって来た。同県内に位置するアミューズメント施設の開演前を彷彿とさせるような人だかりだった。最後尾の看板を持ったスタッフは、

「長い待ち時間になると思われます」

 と言った。

 少年は会釈を返し、列に加わった。待機列は縦型の蛇行方式で、最後尾は群衆を真上から見下ろしたときの左下に位置していた。地方の中枢をなす駅に併設されていることもあり、デパート前の広間には屋根が付いていた。フリードリヒ少年は多くの人がそうしているようにコンクリートに座り込み、SNSを開いた。タイムラインが素っ気なくなると文庫本を読んだ。喉が渇いたらペットボトルの清涼飲料水を飲み、ショートブレッドを模した栄養食で空腹を紛らわした。何もすることがなくなると地べたに寝転がって睡眠を取った。人の数こそ多かったが、人口密度は大したことなく、胎児のような姿勢を取れば、人一人寝るのは問題にならなかった。何しろ長い待機列だ。何時間何日待たされるのかも知れたものではない。いつまでも直立不動で立ち尽くしていたり、行儀よく座っていたりはしていられないというのは共通理解だった。そうしたことをしている人は少なくなかったし、寝ている隙に物を盗まれたり、暴漢に遭ったりする心配はなさそうだった。ここにいる人々は独立した他者であり、それと同時に、自分自身と同一であるような気がした。

 列は少しずつ前進し、フリードリヒ少年は後ろの人から肩を叩かれた。彼も何度か前方で寝ている人を起こして、前に進むことを促した。しかし、そのような遣り取りは四五時間と続かなかった。待機列はあまりに長かったし、列の進みはあまりにゆっくりだった。せっせと動くのは馬鹿らしく感じた。

 ある時、隣の青年がフリードリヒ少年に話しかけた。

「長いね」

 ともするとかなり歳を食ったように聞こえる低い声で、その割には快活な発声だった。フリードリヒ少年はその声に好感を抱いた。

「そうですね」少年は答えた。

「何しに来たの?」青年が訪ねた。「デパートに来る人は、何かしらの目的がある」

「そうですね……」少年は言い淀んだ。「特にこれといった目的はないんです」

「君は目的もないのに何日並ぶか分からない列に並んでいる」

 青年はそれが深遠な命題であるかのように言った。君という二人称も相まって、日常の会話というよりは演劇の科白かのような語り口だった。

「そうなりますね。でも、多くの人は目的もないのに日々を暮らしています」

 少年は得意げに言った。年頃の少年は決まってこのようなことを真面目に考える。

「そうでもないと思うんだ」青年は言った。「人生には何らかの目的がある。それが真に何であるかは分からないとしてもね」

 青年は達観したように(達観した登場人物を演じるかのように)言った。十代半ばにしてニヒリズムに陥った少年は、その後半戦にして相応の哲学を身に付けるものなのだ。フリードリヒ少年は、青年に対して益々の好感と、それ相応の興味を持った。(多くの中学生がそうであるように)それがありふれたものだとしても、一種の思想を持ち合わせている人を少年は待ち望んでいたし、青年の喋り方には不思議と人を引きつける魅力があった。

「俺はね、プレゼント用のアクセサリーを買いに来たんだ。なんせ、祝い事が近い」

 青年は言った。その日は十二月も下旬に差し掛かろうとした頃だった。屋根のせいで日光は遮られ、おまけに広場の風通しは良好だった。多くの人は厚手のコートを着て、寝袋に包まっている者までいた。フリードリヒ少年も青年も深緑のモッズコートを着ていた。青年はフードまで被っていたので顔ははっきりとは見えなかった。不思議と寒さは感じなかった。

「そうですね」少年は同じ相槌を繰り返した。

「プレゼントを交換する人間なんて、馬鹿ばかりだ。そう思うだろう?」青年は投げやりに問いかけた。それはしかし、自虐という風ではなかった。「俺もね、君くらいの頃はそう思っていた」

「僕はずっとそう思い続けますよ」

 フリードリヒ少年は豪語した。フリードリヒ少年にとっては己の正しさ以外の全てが無意味だった。「死んだら一切は無です」少年は言った。

「幼い割には大層なことを言う」青年は言った。

「幼なさとは肉体の年齢の話です。精神に於いては、どのくらい生きたかは関係ありません」

 少年は語調を強めていった。

 彼は彼自身が十三歳であり、十三歳的な扱われ方をされることが我慢できなかった。

 青年は何とも言わなかった。


 フリードリヒ少年は公立の小学校を卒業し、いくつかの公立小学校を合併したかのような公立の中学校に所属している。高々一二年早く生まれただけで貴族にでもなったつもりでいる人間と、読んで字の如く先に生まれただけで皇族にでもなったつもりの大人に囲まれて過ごしている。そこには道徳も倫理も存在しないし、大概のことはフィジカルの強さによって解決される。人を殴ることに面白さを見いだせなかったフリードリヒ少年は学校生活を足早に見限って、教室の真ん中あたりに自分の居場所を見つけた。

 誰かを殴ることと、誰かに殴られることはたった一度だけだった。フリードリヒ少年のことを快く思わない不良生徒と喧嘩になり、何発も殴られ、何発かだけ殴り返した。その不良生徒とはそれっきりだった。平凡でありながら不満の募る学生生活である。

 不満の矛先は主に先生に向けられた。彼らはフリードリヒ少年の何倍も生きているのだし、それだけカルチベートされているはずだった。少なくとも、カルチベートされているべきではあった。だのに、彼らは足が速く、髪が短く、勉強の不得意な生徒の身方であった。全体の奉仕者であるはずの彼らは、紛うことなき一部の奉仕士であった。それも、過去の自分(そういった教師も決まって足が速く、髪が短く、勉強はできなかった)と似た生徒の奉仕者であるのだから、こう表現する方が正鵠を射ているのだろう。

 彼らは、自分自身の奉仕者である。

 フリードリヒ少年は先生を生身の人間でなく、既に死んだ人間が遺した遺産に求めた。少年は厭なことがあると図書室に行った。そこで背表紙の色褪せた本をパラパラと捲った。内容の半分も理解できなかったが、フリードリヒ少年にはある三つの実感が芽生えた。二千五百年前の問題が未だ解決されてないこと、しかし解決策は二千五百年前に既に発見されていること、そして、これらが原因で我々の(少なくともフリードリヒ少年の)人生は虚しいということだ。

 十三歳の少年は、社会の浅ましさに気づける程度には賢かったが、それに立ち向かえるだけの力はなかった。彼はまだ十三歳なのだ。


「君の人生はきっと上手くいくよ」青年は言った。「こんな考えがあるんだ。神って存在はね──神はいない、なんて連れないことは言わないでくれよ──あらゆる可能的な世界の中から現実に起こることを選んでいるんだ。今日君がここに来ないって世界も存在し得たし、人生が無目的である世界だってあり得たんだ。でも、現実にはそうじゃない。それは、神が最善肢を選んだ結果だからだ。全ては神による予定調和で、万象には然るべき理由が充足している。そう考えるって人もいるって話だけれどね」

「神はいませんよ」フリードリヒ少年は冷たい声で言った。「神は死にました。そういった、安直な自己肯定と安逸のための道具に成り下がったんです。それは最早神ではないです。空虚な偶像に過ぎません。これも、そう考える人がいたってだけの話です」

「君は、割に、大層なことを言う」まるで台本に傍点が付いているかのように青年は言った。

「あなたも、割にしっかりとしたことを言います」少年にしては珍しく自分以外の人を認めた。

「世の中の大人は全員頭の悪いもんだと思っていました。どんなに頭の良い人でもある日を境に白痴になるもんだと。少なくとも、僕の周りの大人はそうだったから」

「半分は正しいよ。世人は真面目に物事を考えるなんて面倒なことはしないし、そんな暇もないんだよ。世界はね、我々子どもが想像している以上に煩雑なんだよ、きっと、色々なものが複雑に重なり合っているんだ」

 青年は声を落として言った。先程までの演技染みた調子ではなくなっていた。

「もう半分は?」フリードリヒ少年は尋ねた。

「我々の正しい保証はどこにもない」


 フリードリヒ少年が同級生の不良少年と殴り合いをした頃──それは中一の冬だった、両親が離婚した。

 フリードリヒ少年の父は民間企業に務めていた。労働環境は良好とはかけ離れていて、いくら働いても稼げない職場だった。寧ろ、雀の涙程度の賃金を稼ぐために夜が更けても働き続けなければならなかった。フリードリヒ少年一家の所得は、市内では最低水準のものだった。市内に勤める人に向けた行政サービスとして提供される、その所得能力に応じた家賃を課すアパートメントに最低金額で住めるほどだった。

 貧しい一家であったにも関わらず、少年の父は亭主関白であった。フリードリヒ少年は外出を強いられ(家に引き籠もっていれば社会不適合者になる。ガキはスポーツをしろ、というのが父の口癖だった)、少年の母は、パートタイム・ジョブは疎か生活必需品の買い出し以外では外出すらも許されていなかった。母親は家にいて子の面倒を見ろ、というのが家の権力者の思想であった。子の面倒を見るのに十分な金銭は渡されていなかったのだが。

 少年が小学生の頃、母は精神疾患に陥った。父の癇癪は悪化した。

 ある日突然、父と母のどちらと暮らしていくかの決断を迫られた。フリードリヒ少年は母と暮らすことを選んだ。フリードリヒ少年には父に関する幸せな記憶がなかったからだ。母に怒鳴り散らすことと、自分を殴ること以外に、父の人物像を思い描けなかった。

 離婚調停の結果、親権は父に譲り渡されることとなった。十三歳の少年は、不条理に立ち向かうにはあまりに無力だった。


 青年の前はがらりと空いていた。彼らが話し込んでいる間に随分と列が進んだのだ。しかし、青年の後ろに並んでいる人は大して迷惑に思ってもなさそうだった。ここでは時間はあまりにゆっくり進む。人と人の距離がたかが数メートル開いていることに目くじらを立てる人なんていないのだ。

「それじゃあ、安易な相対論に陥るだけです」

 フリードリヒ少年は言った。真理は常に正しいし、社会は常に間違っています。雀の涙ほどの金銭力と、母方には実家がないことを理由に親子を引き裂いた人が正義の側にいることはあってはなりません。

「正義と真理とは、その本質を異にする」青年は言った。「正義とは倫理の土俵の話であって、真理とは認識の話だよ。二百年前に色々なものが分けられたんだ」

「でも、それらは根本の部分で繋がっています。全てのものは、相互に依存しながら成り立っていると、僕は、思います。正義と真理も、その本質は同じです」

「それも正しい、というのを君は認めないんだろうね」

 青年は言った。

「相対論は安逸です」フリードリヒ少年は答えた。

「繰り返しになるけれど、君の人生は上手くいくよ。それは一つのテーゼであるし、真理でもある。正義もここに宿る。我々は常に正しい側にいるとは限らないけれど、この命題は決して揺るがないんだ」

 アクトチックな青年はそう言い残して、がらりと空いた列を詰めるために立ち上がって前に進んだ。その後ろに人が続いて、彼の姿は直に見えなくなった。

君の人生はきっと上手くいくよ。妙に心に残るその言葉を反芻して、フリードリヒ少年はもう一度眠りに付いた。そうして十三歳のフリードリヒ少年は、長い待機列に並びながら一日を終えようとしている。


 夢の中でフリードリヒ少年はデパートの回転扉を想像する。それは最大四人の人間を仕切ることができる。仕切りはモザイクガラスになっていて、向こう側の様子を伺うことはできない。彼は座標平面でいう第四象限から扉に入り、ガラスに手を触れ、そして押す。二三歩歩き、第一象限の位置に来る。つまりデパートに入る。しかし彼はガラスを押し続ける。彼は入ったばかりのデパートから退店し、再び入店する。惑星の回転運動のように同じ場所を回り続ける。彼以外の三箇所にもそれぞれ誰かがいて、ぐるぐると回り続ける。ある者はその回転運動からはぐれ、空いたスペースにはまた別の者が入る。何分も、あるいは何年もそんなことをしている。こんな光景をフリードリヒ少年は想像する。

 扉の内側にいる人数は四人どころではなくなり、あらゆる場所のあらゆる回転扉と、そこに存在するあらゆる存在の可能性が一つに重なり合う。正しい事と、正しくない事が同時に存在する。真理と正義は別の場所に収納され、それでいて同じ所を彷徨っている。フリードリヒ少年は再び、人々が互いに独立しており、そして同一のものである予感がする。概念に関しても同じである。万物は同質であるとともに異質である。そこには明確な境界線というものがない。ふと、あの青年がこの壁の向こう側──それは内側でもある──にいるのではないかと、フリードリヒ少年は思う。きっとそうに違いない。全ては予定調和の元に巡っている。

 フリードリヒ少年は──あるいは待機列の青年かもしれない──は、自分が何らかの弾みに回転扉の等速円運動からはじき出され、そのデパートの中へと入り、あるいは店を後にするところをイメージする。エスカレーターに乗り、店内を当てもなく散策する。湾岸の鉄道に乗り、内陸の鉄道へと乗り換える。待機列での出来事のいくつかだけを記憶し、残りは綺麗さっぱり忘れてしまう。ある者はとどまり続け、ある者はその場を離れる。


 目が覚めたフリードリヒ少年はデパートの入り口に立っている。長蛇の列は解消され、今や人々は目まぐるしく扉を出入りしている。屋根の外では新しい陽が駅やその周辺施設を燦々と照らしている。凍える風が吹き込んできて、フリードリヒ少年の頬を撫でる。十二月下旬の北風は、そこが観念の世界でないことを少年に実感させる。

 少年は一階の宝飾プランド店に立ち寄る。ショーケースに展示されているうちの一つに目を惹かれる。捻れたリングが配われた銀色のネックレスである。それを眺めていると、不思議とあの青年との会話が脳に挿入された。

 きっと、色々なものが重なり合っているんだ。

 フリードリヒ少年はそのネックレスを買うことにする。中学生の彼が易々と買える代物ではなかったが、持ち合わせの心配は微塵もない。それを買えるだけの金銭が彼の財布に入っていないことは確実であるが、それと同時に、彼がそれを購入できることも事実なのだ。だって、あの青年はきっとこのネックレスを選ぶのだろうし、それは既に決定されたことなのだ。フリードリヒ少年は勿論、青年の恋人の名前すら知らないが、それが彼女によく似合っている予感がする。

 洋服を扱っている店を訪れる。プレゼント用であることを店員に告げ、適切なサイズを用意してもらう。彼女のシルエットは思いつきもしなかったが、身長がどのくらいで、どのサイズを購入すれば丁度良いかが、フリードリヒ少年には手に取るようには分かる。なぜなら、それは青年なら確実に知っていることだから。フリードリヒ少年は黒色のワンピースを買う。ネックレスほどではなかったが、これも十三歳の少年には高価すぎる代物だった。


 扉はゆっくりと回転する。フリードリヒ少年は青年へ成長する。

 ある者は入り口に吸い込まれ、ある者は吐き出される。青年は老いていく。

 フリードリヒ少年は、少年であると同時に青年であり、既にその生涯を終えている。

 あらゆる可能性が現実の延長上に存在し、あらゆる実在性は回転扉を媒介して可能性へと転換する。

 そうして、「回転扉」という題の小説が書かれている。

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