第35話 幽世の匂いと声と道

 弥太殿。弥太殿。

 

 弥太は誰かに声を掛けられて、目を開けようとするとふわりと誰かが優しく両目を抑えた。

 同じく優しく甘い花の香りが鼻をくすぐり、柔らかく誰かに抱かれている。


 まだ目を開けてはならぬ。

 ここは幽世。魂だけの世界にて夢見の丘ではなき狭間の世であれば、迂闊に見てしまうと戻れなくなるやもしれぬ故。

 妾は丘でまだ新しく芽吹いたばかりなれば、まだこの霊花たる花弁は御身と共に、妾が弥太殿の代わりに見てお伝えいたしま背負うほどに。


 声が直接、頭の中に優しく響く


 あれぇ、この声は、彩桜姫さま?

 お花はもういっぱい咲いた?


 くすくすと優しい笑い声が花の香りと共に弥太の周りを覆う。

 彩桜姫の笑い声が、思った通り、優しくて麗しい声音で随分と心地が良い。

 笑い声と風に揺られた葉擦れの音が心地よく、頭の中で音となって重なりあっていく。

 穏やかで気持ち良くて……眠くなってくる。


「ふぐわぁわぁー」


 と弥太は大きな欠伸を一つ放った。

 何かしらの気配が近づいてくるのがわかる。


「なんだぁ。間抜けな感じの奴らがいると思ったら、おちび河童じゃあねえか。幽世で花の精を連れて昼寝とは、随分と豪勢じゃあねえか。てめえ何者だ? まあいい、そんなに余裕があんならよ。さっさと助けに来いってんだ」


 幼い子供のような可愛らしい声が聞こえる。


「おいっ、河童っ、聴いてんのか?」


 声に応えて身を起そうとすると、


 起きて目を開けずこのままおりゃれ。

 さすれば、あのものの助けを借りて、妾も弥太殿に些少なりとてお力添えが出来ましょうゆえ。

 どうか、このまま、このままで。


 彩桜姫の甘やかな香りのする手が弥太の目を優しくしっかりと抑えて、頬や頭を撫でる。


(あやぁ、気ん持ちぃいい)


 すっかりと気持ちよくなった弥太の躰からふわりと力が抜けていく。

 しゃあぁあっ。

 トロトロになっていく弥太を他所に、猫の怒った時のような鳴き声と、先程のキンキン声で怒声が飛んできた。


「おい、河童っ。てめえっ、いい度胸じゃあねえかっ。この天の星にあやかる名を持つ六連(むつら)様を無視するとは」


 言葉こそは威勢がいいが声の質は矢張り幼くどことなく可愛らしい。


 この前のばっことかいう白い猫だよねぇ。

 弥太がうろ覚えの記憶を辿ってそう考えると、彩桜姫の優し気な声が頭の中に響いてくる。


 今の声は、人の祈りと神の応えで編まれた小さきものなれど、この先如何様にもなれよう薫り高きもの。

 知己のある間柄のようではあるが、そのままでおりゃれ。

 道を知り、道を守るものがおれば、此度の事も恐れるに足らず。

 弥太殿。御身はまだまだこの幽世から遠く離れておらぬ身の上。

 故に妾は御身の為に些少な悪戯を。御身が目を開けても妾がその眼を覆い、幽世のものは景色も含めて、何も見せぬようするゆえに御身もそのままじゃな。


 再びくすくすと彩桜姫の笑い声が弥太の耳に届いた。

 

(ああ、いい笑い声……)


 弥太はいい香りに心地よい笑い声にたまらず、にへにへして頬を緩ませた。

 すると、よほど締まりの無い顔をしていたのか、白い子猫がしゃあぁあっと怒りの声をまた上げた。


「幽世で花の精といちゃいちゃできる玉ならよっ。早く来いってんだっ。嗚呼、頭にきたっ。無理やりにでも現世に押し戻してやらあぁっ」


 何かの気配が膨らんで、雷かと思うような咆哮が辺りに響き渡る。


 弥太殿。妾はこれで暫しの別れじゃ。

 ほんの少しばかりとはいえ、御身と触れ合えたこと幸せなことこの上もなきことであった。

 長き時が過ぎた後、また会いに来てたもれ。

 そしてその時には、ゆっくりと御身の話を聞かせてくりゃれ。

 ではまた。水の香りの強きおのこよ。

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天衣の向こうに しきもとえいき @eikishikimoto

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