雪と桜
前森コウセイ
雪と桜
それは桜舞い散る雪の夜の事だった。
――というと、驚かれるのだけれど。
ボクの暮らす地方では、数年に一度の割合で比較的良く見られることで。
けれど、その日、ボクは一生に一度とも思える出会いを果たしたんだ。
その日、ボクはなにかの拍子で継母と口論になり、家を飛び出した。
口論の原因はなんだっただろうか。
継母は都合が悪くなると論点をすり替え、過去を蒸し返してボクを非難するので、もうなにが原因だったかよくわからなくなっていた。
とにかくボクは、上着も財布も持たずに家を飛び出した。
詰め寄られて掴まれたシャツのボタンが、上からふたつも取れていて、吹き込む風がひどく冷たい。
空を見上げると、まるでボクの気分を映したように灰色の雲。
時間はすでに夕暮れ時で、西の方を見ると、この地域のシンボルとも言える、三つに割れた山頂を持つ山に、夕日がゆっくり沈んでいっていた。
ボクは両腕で身体を掻き抱きながら、近所の川沿いの遊歩道を歩く。
遊歩道の両脇に植えられた桜は、もうじき満開で。それがなんとなく悔しくて、ボクは桜の樹を蹴った。
まるでそれが合図だったかのように、街灯が点灯する。
「……ふふっ」
可笑しくなって、思わず笑ってしまった。
それから再び遊歩道をしばらく歩く。
辺りはすっかり暗くなってきて、お腹が空いて自己主張を始める。
それでも家に戻る気にはなれず、ボクはひたすらに遊歩道を歩き続けた。
やがて空腹と疲労で息があがって、ボクは思わず遊歩道の横の草地に身体を投げ出した。
どうしようもないやるせなさに、知らず涙が溢れてきて、ボクはそれを隠すように右腕で目元を覆った。
どれくらいそうして居ただろう。
頬に冷たさを感じて腕を退けると、まるで綿毛のような大粒の雪がしんしんと降り注いで、辺りを純白に染め上げていた。
ボクの身体も白に染まっていて、なんとなく可笑しかった。
「このまま……」
――雪に埋もれて居なくなってしまおうか。
ふと、そんな事を思う。
継母にとってボクは、父の子供であって、自分の子供と思えない事は、これまで幾度となく繰り返した口論でわかっている。自分の子供――義弟がなにより可愛いんだろう。
父にとっても、ボクが居なくなった方が、継母に気を遣わずに済むようになるだろう。
そして弟――あいつの事は考えたくない。
とにかくあの家にとって、ボクはいない方が円滑に回るはずなんだ。
ボクは再び腕で目を覆って、深くため息を吐いた。
降り積もった雪が呼気に飛ばされる感触が心地よかった。
本格的に寝てやろうと、呼吸を深く遅くしていく。
そんな時だった。
「――ねえ、キミ。そんなトコで寝てたら、死んじゃうよ?」
強い風が鳴って、身体の上の雪が飛ばされたのが、感覚でわかった。
ボクは声をかけられたのに驚いて、身体を起こす。
知らない間に雲間ができて、月明かりが辺りを照らしていた。
今の風に飛ばされたのか、雪と一緒に桜が舞い散っている。
そんな風景を背後に、その少女はボクを覗き込むように、腰を屈めて立っていた。
色素の薄い長い髪は街灯に照らされて白く見えた。着ているコートもふわふわの白。履いているブーツがゴツい革製なのが、印象的だった。
彼女は毛糸の手袋に覆われた手を差し出し、
「なんでそんな事してるのか知らないけど、とりあえずこっち」
ボクの腕を強引に取って立ち上がらせると、遊歩道の少し先にある公園まで連れてきた。
公園の隅の自販機の前に立つと、コートのポケットから、印象深いこぎん刺しのガマ口を取り出し、コーンポタージュをふたつ買った少女は、片方をボクに差し出す。
「……ありがとう」
受け取った缶は、かじかんだ手には痛いほど熱くて。ボクはシャツの裾で缶を持った。
「それじゃ、こっち」
そう言って、少女は再びボクの手を取る。今度向かったのは、タコツボのような形をした滑り台の中で。
雪にも濡れず、風もしのげる場所として選んだのだろう。
さして広くもないそこで、ボク達は肩をくっつけあって腰を降ろし、ふたり揃ってコーンポタージュで一息ついた。
胸を通る熱さが、寒さと空腹と疲労で参っていた身体に染み渡り、思わず涙がにじんだ。
「それで? なにがあったの、って聞いていいのかな?」
優しい声色で訊いてくる少女に、ボクは鼻をすすり、ぽつりぽつりと語り出した。
継母や義弟とうまく行っていない事。
父が家庭の不和を嫌って、事なかれを貫いている事。
初めは呟くような声だったのに、気づけばボクは吐き出すように喋り続けていて、少女は黙ってそれを聞き続けてくれた。
と、そんな時。
狭く暗いタコツボの中に振動音が響く。
ボクのスマホだった。
ポケットから取り出し、画面を見れば「おとさん」の表示。
ボクは無言でポケットに戻した。
「……出なくていいの?」
「言ったでしょ? おと――父はボクなんかいない方が幸せになれるんだよ。
……どこまで話したっけ?」
ボクが首を傾げると、彼女は困ったように微笑んで、頬に人差し指を当てる。
「キミ、ここまで継母さんと、お父さんのお話はしてたけど、義弟くんは?
――これからなのかな?」
ボクは頭を殴られたような衝撃を受けて、目を見開く。
「……そう、だったかな?」
「そうだよ。まるでわざと避けてるみたい」
そうだろうか。
そうなのかもしれない。
でも、ボクはそれを認めたくなくて、首を振った。
「あいつの事は良いんだ。考えたくない」
「どうやらそこが、キミの本当の悩みのタネみたいだね」
少女は「ふふっ」と笑って、身体を前後に揺らした。
「そんなことより――そうだ。キミはなんでこんなところに? こんな時間だけど、家に帰らなくていいの?」
ボクの問いに、少女は微笑んだままで。
「わたしはね。ちょっと行きたいトコがあるんだ」
「行きたいところ?」
「――ちょっと来て」
少女はボクの手を取ってタコツボから這い出る。
「アレ、見えるかなぁ?」
そう言って、彼女が指さしたのは、街を見下ろす西の山。その陰影は、月明かりに照らし出されて、三つに割れた頂もはっきりとわかる。
風が吹いて、降り積もった雪が吹き上がり、散った桜と一緒にヒラヒラと舞い落ちる。
山の中腹に、強く輝く光点が見えた。
「あれって?」
見慣れた山だ。普段、あの場所は光ってないのは、よく覚えてる。
ボクが尋ねると、少女は後ろ手を組んで上体を屈め、
「あ、キミにも見えるんだね。よかった。誰に訊いても見えないって言うから。
だから、いっそ近くで見てやろうって思ってね」
そう言って、彼女は踵を立てて、踊るようにくるりと回った。
「それなら……」
――ボクも、と。そう言いかけた。
けれど。
「――さくらっ!」
背後からの声に振り返れば、そこにはスマホを片手に荒い息の父が立っていて。
「……おとさん……」
「お迎えが来たみたいだね。それじゃあ、わたしはそろそろ行くね」
彼女は上体を屈めて、ボクの顔を覗き込む。
「よく、お父さんと話した方がいいよ。そうしたら、きっとすべてがよくなるから――」
そして彼女はボクに背を向ける。
「ボク――ううん。わたしはさくら。キミは?」
彼女には、本当の自分を知ってほしくて。
だからボクはわたしとなって、自分の名前を言った。
「わたしはユキ。また、いつかどこかで、ね。さくらちゃん」
彼女は背を向けたまま手を振って、公園を出ていった。
残されたボクは父を振り返り、頭を下げる。
「おとさん、ごめんなさい。こんな時間まで……」
「いや、良いんだ。おまえ、アイツに襲われたんだろう!?」
――アイツ。
それが誰を指すかは、言うまでもない。
「――なんで、それを?」
「帰ったら、おまえの部屋がめちゃくちゃに荒らされていて、おまえの姿がないから問い詰めた。殴ったら馬鹿正直に白状したよ」
言いながら、父はコートを脱いでボクにかけてくれた。それから、恐る恐るといった風にボクを抱きしめ。
「済まなかった。まさかアイツがあそこまでクズだとは思っていなかったんだ。
あの女とは別れる。まさか自分の子可愛さに、襲われて素直に従わなかった、おまえが悪いと主張するような奴だとは……
――ああ、さくら。本当に済まなかった」
涙声で訴える父に、ボクは身を固くして。
「ボク――ボク、わたしに戻ってもいいの?」
震える声で、父に訊く。
高校に入ってからずっと、アイツに襲われないよう、男のように振る舞ってきた。
普段はズボンばかりだけれど、学校の制服はスカートで。その時のアイツの舐め回すような視線が気持ち悪かった。
溢れる嗚咽と涙が止められなくて、それでも積もり積もった不満の言葉は止められなくて。
わたしはその晩は祖父母の家に泊まる事になった。
継母と話し合い、離婚が成立するまで、わたしは祖父母の家に居て良いらしい。
父の車で市を二分している川に架かる橋を渡る時、ふと白いものを見つけて視線を向けると、歩行者道をユキが歩いてるのが見えた。
彼女はこちらに気づいたのか、片目をつむり、口の動きだけで語りかける。
――ね? 言ったでしょう?
「……ありがとう。ユキ」
翌日、雪はすっかり消えて。
快晴の下、桜が風に乗って舞い散っていた。
――こうしてわたしは、ユキと出会って、ボクからわたしになったんだ。
雪と桜 前森コウセイ @fuji_aki1010
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