第47話 過去と未来
カシュパルの恋人となった私を待ち受けていたのは、春の陽だまりにも似た温かな日々だった。
雨の様に感情の言葉を囁かれる。好きだ。愛している。幸せだ。毎日毎日、溢れて零れて。それでも尽きるという事を知らないみたいに。
疑いの余地もない程に大切にされていた。献身的という言葉はカシュパルの為にあった。
彼は自分の人生の形を、ぴたりと私に合わせてくれようとしていた。
少しずつ恋人としての関係に違和感が消えていく。ずっと繋がれる手も。毎日囁かれる愛の言葉も。
だからカシュパルが髪に触れてくる時は私の注意を引きたい時で、目を細めて見つめ少し笑う時は口づけを強請っている時だと分かるようになった。
いつか親子として歩いた道を、今度は恋人として辿る。私達はヨナーシュ国を目指す旅の途中にあった。
町の中でカシュパルの隣を歩けば、その顔貌から注目が集まるのはいつもの事だ。けれど今日から頻度が増したのには理由があった。
「やはり目立つな」
ケペルから貰った魔法薬が尽きて角が現れたのは今朝の事で、人間の国においては注目される特徴である。
「すまない」
「謝る事じゃない。けど、まだ国境に近づいた場所で良かった」
この場所はヨナーシュ国からの獣人の商人が頻繁に行き来するような場所の一つで、獣人に対して比較的慣れている地域である。
「それに、私は角のあるカシュパルの方が好きだ」
「……そうか」
カシュパルは緩んだ笑顔を見せる。近くのご婦人から黄色い声が上がったが、気のせいだと思う事にした。
私の言葉一つで簡単に喜んでくれるカシュパルを見ると、まるで私が傾国の美女になったかのような気になるが鏡は嘘を吐かない。
こんな私の何処が良いのだか。手には胼胝があって、可愛げなどないだろうに。
けれどカシュパルが幸せそうなので、自分の女としての自信のなさをあえて口には出さない。
「昔はこの場所に二人で来るまで随分時間がかかった気がしたけれど、今回は早かったな」
「あの時、俺は子供だっただろう。不思議なものだ。今は俺がセレナに合わせている。……急ぐなら、負ぶってやろうか?」
「やめろ。二度とこの道を通れなくなる」
カシュパルならやりかねないと思わせるのが、恐ろしい所だ。
真面目に断れば、何が楽しいのか笑い出す。私はカシュパルの事を落ち着いた性格だと思っていたのだが、恋人になってからの姿を見て考えを改めざるを得なかった。
私と共にする全ての事柄を明るく楽しもうとする。そしてよく笑い声をあげて、言動に余裕が生まれた。
青春を謳歌する普通の青年のように、カシュパルは変わっていた。
私が恋人になるという事が彼にとってそれ程の変化を齎す出来事だったのだと思うとこそばゆく、嬉しくて誇らしい。
きっとカシュパル程ではないにしろ、私自身も何処か変わったのだろう。
人を愛するという事は、心の一部を交換して混じり合う事のように思えた。
「そこの貴女」
声をかけられて振り向くと、道端に顔を薄布で覆った怪しげな女性が立っていた。大体このような恰好の者は占い師である。
「不思議ね、まるで風景に馴染めていないみたい。初めて見るわ、貴女みたいな人。良かったら占っていかない?」
やはり想像通りの職業だったらしい。カシュパルは苦い顔をして追い払おうとする。
「邪魔だ」
「いや、待て」
服を掴んで彼を止めれば、意外そうな顔をされた。このような類のものには興味がないと思っていたのだろう。それは間違っていない。
けれどこの占い師は私を目掛けて真っすぐに声をかけてきた。それが少しだけ本物かもしれないと期待を生む。占い師の言葉を聞く理由はそれで充分である。
そして口には出せないが、最近の私は浮かれていた。恋人と共に少し変わった経験をしたかったのだ。
「大した金額でもないだろうし、いいんじゃないか?」
「セレナがそう言うなら」
「まあ! 決まりね。ささ、こっちに来て」
期待したもののこの手慣れた喜び方を見ると、ただの呼び込みだったのかもしれない。
連れて行かれた先は天井から様々な物が吊り下げられて、部屋の中心にある机の上には大きな水晶の玉が置かれた、如何にもな怪しい空間だった。
占い師は奥の椅子に座ると腕まくりでもしそうな意気込みである。私達は彼女と向かい合わせの椅子に座った。
「さあさあ。聞かせて頂戴、貴女の過去。出身と誕生日は?」
そう言えば、占いとはこういう事を聞かれるのだった。すっかり忘れてしまっていた私は、困りつつ口を開く。
「私は孤児だ。何処の生まれかも、いつに生まれたのかも分からない」
隣に座るカシュパルの視線が私へと向く。それぐらいなら、カシュパルに聞かれても構わないだろう。
過去に渡って来たと誰かに告げるのは、事態を複雑にさせて未来を予測不能にしかねない。だから今は必要以上に言わないように努めていた。
「あらあら、そうなのね」
占い師は一瞬困った顔をしたが、直ぐに気を取り直して水晶を片付けるとカードを何処からか持ってきた。
「大丈夫よ。これならカードを選ぶだけだから」
そう言って絵柄のついたカードを裏返し、丁寧に切った。それらを机の上に並べて私に三枚選ばせる。
適当に選んで捲ったのは針の歪んだ懐中時計、崖に立つ男の人、見るからに不吉な頭蓋骨の絵柄のカード。それらを見た占い師は、難しい顔をして考え込む。
「時間と挑戦と死。……この向きから考えると……」
占い師から親しみやすさが消え、神秘的な雰囲気を纏った。吊り下げられた獣の骨が不自然に揺れ、擦り合って甲高い音を鳴らす。
彼女の指がまるで死神のような不気味さで私に向いた。
「過去の試練が再び貴女の前に現れる。多くの死に関わる事になるでしょう」
それは、余りにも的確な未来予測だった。穴にでも落ちたように血の気が一気に失せていく。顔面は蒼白になり、寒気を感じて手が微かに震えだした。
私の最悪の事態とは元の時間に戻った時、私の選択が何も未来を救えなかったと知る事である。
再び現れる。大いなる戦争が! 私が愚かな選択をしたばかりに!
バンッ
思考に飲まれた私を正気に返したのは、カシュパルが荒々しく机を叩いた音だった。
「戯言はそこまでにしておけ」
カシュパルは私が余りにも顔色を悪くしたものだから、占い師に対して憤慨していた。真正面から彼の怒りを受けた占い師は顔色を青ざめさせる。
剣を抜き放ちそうな極めて不穏な空気を前に、占い師は震えながらカシュパルの目を見るしか出来なくなった。
「セレナ、行くぞ」
カシュパルはそう言うと誰かが言葉を発する前に、私の腕を掴んで外に連れ出してしまった。不吉から私を遠ざけようと足早にその場所から離れていく。
彼の怒りは私を守る為のものだった。その気持ちが嬉しい一方、占い師の言葉が胸から離れない。
気がつくと閑散とした開けた広場に立っていて、カシュパルは一角にあるベンチに私を座らせた。
「忘れろ。大体ああいう手合いは、不吉な事を言って何かを売りつけようとする」
カシュパルの言う通りだ。一体、彼女が私の何を知る。
少しだけ慰められたが、頭を殴られたような衝撃だった。ぬるま湯の生活を送る私に、強烈な不安を植え付けた。
寒気がして手を温めようと擦る。カシュパルは屈んで私と視線を合わせると、私の手に自分の手を重ね合わせた。それが温かくて、次第に心から冷たさが消えていく。
「俺を見ろ」
言われた通りに見た。長い睫毛に、形の整った眉。宝石のような紫の瞳。全てが私の物だった。
「目の前にいるこの男はな、こう見えてもそれなりに有能だ。狩人として並ぶ者はなく、有鱗守護団から離れる時は随分と惜しまれたものだ。金の稼ぎ方もそれなりに知っているし、大概の事はどうにか出来る」
彼は口角を上げて不敵に笑う。それが過大でもないのを知っているので、その通りだと頷いた。
「だからセレナ。心配する事は何もない」
ああ、本当に。カシュパルがそう言ってくれるなら間違いない。
何故ならば災厄は『彼自身』によって引き起こされるのだから。
胸に安堵が広がり、漸く私は落ち着きを取り戻す事が出来た。雑踏の音が耳に届き、自分がどれだけ余裕がなかったのかを自覚する。
「ありがとう」
微笑みかければカシュパルは目を細めて唇を強請る。私はそれに応え、感謝の口づけをした。
心が重なるような繊細な感触。私の頭に添えられた彼の手が、労わるように撫でていく。それが心地よくて目を細めた。
カシュパルは常に私を求めていた。唇を、視線を、手の温もりを。代わりに彼から与えられるものが大きすぎて、私は息継ぎも出来ない程溺れていく。
人前での口づけに少し頬を赤くして顔を離したが、カシュパルは他人の目など一向に気にならない様子でより深い口づけをしてきそうである。
そこまで強靭な心臓を持っていない私は、ベンチから立ち上がる事でカシュパルを阻止した。
「もう大丈夫そうだ。心配をかけた」
カシュパルの顔に残念そうな顔が浮かぶ。彼の手を握り先に行こうと引っ張ったが、彼は動かなかった。
「セレナ」
「……なんだ?」
「貴女は、孤児だったのか」
気付けばカシュパルは酷く寂しい表情をしていた。長い間共にいて心まで分け合う仲であるにも関わらず、カシュパルが知る私の過去は少なかった。
「そうだ」
「俺を助けたのも、その為か?」
「そうかもしれないな」
剣を向けた時に最後の一押しが出来なかったのは、確かに自分の生まれ育った環境が作り上げた甘さのせいだった。
「セレナの過去を全て知れる日が、いつか来るだろうか」
カシュパルは私との間に距離を感じるのを嫌っていた。私の存在を丸々吞み込もうとするかのような、深い欲望が根本に感じる。
カシュパルにならば何でも教えてやりたいが、まだ元の時間軸に戻っていない。アリストラ国が亡びるあの年になっても何事も起こらなかったら、笑い話の様に全ての真実を彼に伝えてあげるつもりだった。
「ああ。いつか。私の未来はお前にあげる事にしたから」
漸くカシュパルの心から霧が晴れた様だった。カシュパルは私の腰に腕を巻き付けて、自分のものであると主張するように密着させた。
「愛している、セレナ」
「……私も愛しているよ」
カシュパルは私の言葉に満足そうに笑った。彼を喜ばせるのは私にとって、とても簡単な事である。
口づけ一つ、言葉一つで甚だしく喜ぶカシュパルが可愛らしくて仕方ない。
けれど恋人となってから露わになる一方の極端な執着心が、常に彼の目の奥でちらついていた。その纏わりつくような粘度の高さは多少心配ではある。
しかし対象である私自身が受け入れてしまえば何の問題もないだろう。
私はそう考え、愚かにも注意を払う事をしなかった。
故国の仇が可哀想すぎて殺せない~愛は世界を救う。たぶん、~ 戌島 百花 @inujimamomoka
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