第46話 帰る場所
雪が解け、優しい冬は終わった。
これ以上白い肌を持つ赤子を隠す事は出来なくなり、私達は村を出てサーレラ伯爵の居城に近い大きな街へと移動する。
明らかに目立つカシュパルは少し離れた場所に待機してもらい、私だけがエリー達に付き添って高級宿屋の一室まで同行した。安全が保障されたこの場所まで、サーレラ伯爵に迎えに来てもらう予定である。
最後の時間だと思うと過ぎる数秒さえ惜しく思えて、椅子に座るエリーと抱えられている赤子をじっと目に焼き付けた。
「あー」
赤子に手を伸ばされ、指を近づければか弱い力で握りこまれる。
「この子も名残惜しいみたい」
「まだ何も分かっていないさ」
エリーの言葉にそう返せば、楽しいのか赤子は空色の瞳を細めて声を上げて笑う。
「悪い事だけでもない。この子も漸く名前を貰える」
王族は大神官が名付ける習慣となっていた。だからまだ、この子は名前を一度も呼ばれた事がない。
「そうね。貴方はなんて名前になるかしら」
寂し気な表情に、エリーが名前を知れない可能性に気がつく。彼女の親は会いに来てくれるだろうが、その時に教えてくれるとは限らない。
もう忘れろと、名前さえ教えられなかったらずっと心に残るだろう。
私は別れ際に最後の贈り物をエリーに渡す事にした。
「ヴィルヘルムス。……きっとそんな名前になる」
唐突な私の言葉だったが、今までも多くの疑問を飲み込んできたエリーは同じように理由を聞きはしなかった。ただそれを聞いて、嬉しそうに笑った。
「いい名前ね」
それからエリーが私に近寄るように言ったので傍に寄れば、手を伸ばして額を合わせられた。至近距離にエリーの翡翠の目が映る。
「姉さん、姉さん。私の大好きな姉さん。私達此処で離れてしまうけど、ずっと姉妹よ」
私も笑う。
「ああ、そうだなエリー。何処にいてもエリーとこの子を思っているよ」
もう今生で会う事はないだろう。それでも私達は姉と妹だ。
彼女の細い指と私の無骨な指が一度絡み、そして離れた。
この場所には連絡を受けたサーレラ伯爵が程なくして来るだろう。その前に去らねばならなくて、今がその時だと互いに悟った。
「姉さん、ありがとう」
エリーは泣いてなどいなかった。この別れ際に笑顔を向けてくれる強さに、不安が消えていく。
私は赤子を最後に撫でると、同じように笑いながら言った。
「さようなら。エリー、ヴィルヘルムス」
扉を出て、訓練された振る舞いの従業員達の間を抜けて歩く。それから煌びやかなエントランスを抜けて、群衆の中に紛れるように行く。
踏み出す一歩ずつが、エリーとの距離を開いていくのが寂しくて何度も振り返りたくなってしまう。それを抑えて唯々足を動かした。
人の多い市場の騒めきが少し遠くに感じるのは、私の心境のせいだろう。今の時代の何処にも所属しない孤独感。
エリーと共にいる事で忘れられたそれが、離れた事で戻って来たのだった。
誰かが私の肩にぶつかる。正面から来たその男は謝りもせず足早に去って行った。
もうあの村には帰れない。出身の孤児院にも行けず、神殿にも戻れず。寄る辺のなさが迫って来る。
街角の暗がりからカシュパルが私の前に現れた。顔を隠すために目深にフードを被っている。
「セレナ、手を」
カシュパルが私の手を握り、先を歩く。大柄な男の連れである事が分かるようになってから、自然と人が避けるようになり歩きやすくなった。
手から伝わる温かさが心に染みる。こんなにも寂しい別れの後に、傍に居てくれる人の何と有難い事だろう。
やがて人混みを抜けて町を離れてもその手が外れない。いつの間にか孤独感は消えてしまっていた。
「エリーは大丈夫だろうか」
「さあな。セレナがやれる事は全てやった。後は彼女自身が決めた道だ」
隣で歩きながらそんな話をする。街道は色々な人や馬車が行き交い、地の果てまで続いていた。
「カシュパル」
「何だ」
「私のカシュパル」
私の言葉に疑問を感じた紫の目が不思議そうに私を見る。息を吸って、勇気を出した。
「お前も私の事をそう呼んでくれ」
伝わっただろうか。ああ、困った。
もう私の任務は此処で終わって、これからはお前の為に時間を使いたいのだと、そう言いたいのにどうしてか私の口は上手く動かない。
カシュパルの顔を見る事が出来なくて、視線を明後日の方向に飛ばした。耳が熱くなってきて、見れば赤くなっている事だろう。
無言のまま二人の足音だけが響く。駄目だ、伝わっていない。ちゃんと言わなければ。
「……愛している」
隣から聞こえる足音が、ぴたりと止まった。だからつられて立ち留まり、カシュパルを振り返れば彼は真顔で硬直していた。
どういう反応か分からない。
「カシュパル……?」
目の前で掌を振ってみると、その腕をがっしりと掴まれ道を外れて藪の中に行こうとする。
草を蹴倒し、大股で歩き、普段彼の身に染みついた私への配慮さえ頭から抜けた様子で何もない森の方へずんずんと進んでいく。
奇行に目を白黒させて連れて行かれると、草を突っ切った先の誰の目も届かない木々の中で漸く歩みを止めた。
偶然連れて来られたにしては、小鳥が鳴き木漏れ日の差す心地の良い空間である。
「カシュパル、どうした?」
カシュパルは私の両肩を掴み、逃げられないように正面から向き合って相変わらず真顔のまま私に聞いた。
「どういう意味だ」
「意味って」
「子供としてか、弟としてか、同業者としてか」
子供や弟はともかく、同業者としては変ではないか。そう問える雰囲気ではなかった。
私はあまりにも不慣れな状況に顔まで熱くなってくる。けれど肩を掴まれているから逃げられない。
言え。ちゃんと口に出して。もう覚悟は決めたのだから。
「他の誰でもなく、私がカシュパルを幸せにしてやりたい。他の誰とも共有したくない。私だけの者でいて欲しい。……そういう意味だ」
そう口に出してから、彼の表情の変化を確かめようとした。けれどそれを確かめる前に、視界に大きな紫の宝石が飛び込んでくる。
それがカシュパルの目である事に気がついて、自分が口づけられたのを悟った。
柔く、温かい何か。
初めての感触に酷く混乱する。軽いリップ音と共に顔が離された後、その経験を振り返る間もなくカシュパルに強く抱きしめられた。
「セレナ。俺のセレナ」
全ての男に宣言するかのような、所有欲に溢れた言葉だった。自分が許した言葉は、こんなにも欲望に満ちたものだっただろうか。
胸がつぶれる程強い抱擁で、カシュパルの体の中に閉じ込められる。その瞬間、確かにカシュパルに捕まえられたような気がした。
少年の告白はまともに相手をしなかった。大人になってからも追い払おうとしたのに。
それでもカシュパルはずっと私を愛し続けた。昔、私がそう仕向けた以上の熱量で。
手を伸ばし続けて、寄り添ってくれて。
私の罪さえ許されてしまったなら、抵抗する事は無意味だった。
カシュパルを愛している。
抱擁は少し苦しかったが、カシュパルの心に触れているかの様で嬉しかった。いつかは躊躇した両手を、今は彼の背中にしっかりと回してみる。
二人の温かさが混じり合って、一つに溶け合っていく。
カシュパルは暫く私を閉じ込めた後、目の前で騎士のように膝をついて手を取った。
そんな事を誰かにされるのは初めてで、狼狽えてしまう。まるで王女にでもなったかのようだった。
カシュパルはまるで世界の全てを手に入れたかのような、輝くような笑顔を向けた。
「俺はきっと、貴女の為ならば何にでもなれる。貴女が魔物狩人ならば魔物狩人に。逃亡者ならば逃亡者に。王女ならば王になろう。後悔させない。だからセレナ。もう一度言って」
それを聞くまでは絶対に私の手を放さないだろう。食い入るように見つめる必死な目と、微かに震える手がカシュパルの心を表していた。
漸く彼の愛に応える事が出来る。こんな私でも構わないとカシュパルが言ったから。
胸には大輪の花が咲き綻ぶかのように、幸福が胸に広がっていった。
「……愛しているよ、カシュパル」
喜びを爆発させたカシュパルに足を抱えられて持ち上げられ、急に高くなった視点に驚いて彼の頭にしがみ付いた。
「わ、」
「セレナ。愛している」
隙間もない程に全身で擦り寄り、自分の物だと確かめる様に私を撫でてくる。まるで酔ったかの様な表情で、何度も何度も。
慰めの抱擁でも、親愛の抱擁でもない。男女の、許された間柄にしか存在しない触れ合い方だった。
それがどうにも照れ臭く、けれど温かな気持ちにさせられる。愛おしくて、目の前にある頭を撫でた。
「幸せか?」
「当たり前だ!」
笑い声混じりの返事だった。カシュパルがこんなにも喜んでくれるならば、私の一生など惜しくなかった。
自分に自信など全くないが、彼の反応を見ればどれだけ思ってくれているか一目瞭然である。
だから大丈夫。これからどんな運命が待っていても、彼は共に歩んでくれるだろう。
過去への旅、身一つで跳んだ先。手に入れたこの人を二度と手放しはしない。
その思いの深さに堕ちてしまったから。
祝福の光の中を歩んでいるような気がした。自然と口角が上がり、笑みを作る。
カシュパルは自分に向けられたセレナの笑顔が余りにも眩くて、一瞬も惜しんで心に焼き付けた。
血縁だと思っていても諦められなかった。酷い嘘を吐かれていても許してしまった。命さえも捧げられる愛。
それが余りにも唐突に手の中に入り、カシュパルは喜びつつも少し現実味がなかった。もしも目が覚めて全てが夢だと判明したら、絶望で死ねるだろう。
けれど目の前のセレナはいくら見つめても変わらずカシュパルに微笑んでいて、その目には確かにカシュパルと同じ愛が宿っているように見える。
「夢ではないよな?」
「夢じゃないさ。カシュパル」
私はそう思わせてしまう程の長い苦悩の時を思い、幸せにしなければならない思いを強くする。
確かに現実だと教える為に、私は彼の顔に手を添えて二回目の口づけをした。カシュパルの目から不安の色が消えていく。
今度は自分からするのだからなるべく記憶に刻もうと思うのに、カシュパルが堪らず唇を食んできてそれどころじゃなくなってしまった。
漸く食事にありつけた飢餓の獣のようだった。
カシュパルが長年強固な理性で押さえつけていた欲望は、告白により堰を切ったように溢れ出す。
ずっとこうしたかったのだと。幾ら口づけしても足りないのだと。
如実に唇から伝わって来てしまって、自分が引き起こした事ながら到底手に負えない。
慌てて真っ赤に染まっているだろう顔を離し、背けた。このままでは何処まで食われるか分からない。
「降ろしてくれ。じ、自分の足で歩くから」
漸く地面に足をつけられたものの、まだ心は浮いているかのような気持ちだった。
頬を染めたカシュパルの顔が見えた。蕩けるような緩み切った表情に、こんな顔も出来たのだと驚く。
私が変えたカシュパルの運命。変わったのはどうやら、彼だけではなかったようだ。
私もその新しい流れの中に取り込まれていたのだろう。
この一言で後戻りが出来なくなる事を承知で口にした。
「共に生きよう。互いの帰る場所になろう。他に何もなくとも」
「ああ」
カシュパルが陶酔したように目を細めた。心が向けられているのが分かり、温かさが広がっていった。
過去の改変は成し遂げられた。元の時間軸に戻った所で、私の任務を覚えている者は誰も居ない。
ならば神殿騎士となる未来の私さえ変えてしまって、ただこの人の隣に居よう。
カシュパルが全てを投げうって私を求めたように。
「カシュパル……戻ろうか」
彼の手を取り道へと誘う。繋ぐ手は固く結ばれ、二人の歩む先は何処までも続いているように見えた。
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