第45話 幸福の形


 暖炉に火を灯し、温かな室内でエリーと二人で赤子を寝かしつけていた時の事である。

 外から爆発音が聞こえ、その衝撃で屋根や木々から雪の塊が大きな音を立てて落下したようだった。

 敵襲か?

 こんな山奥で爆発する物など、私が設置した罠だけだ。私は唐突に破られた平穏に顔を険しくし、何が起きたかまだ分かっていないエリーに言った。

「隠れて」

 その一言でエリーは顔を青ざめさせ、赤子を胸に抱きかかえて神妙な面持ちで頷いた。

 棚を動かし、床板を外すと地面に人が隠れられるぐらいの空間が現れる。

「大人しくしててね」

 エリーは赤子にそう言い聞かせながら、その中に身を滑り込ませた。

「音がした場所を見に行って来るから、それまで外に出ないように」

 不安な表情が私を見上げて来る。安心させる為に、笑顔を作った。

「大丈夫だ。私が必ず守るから」

 エリーにそう言うと頷いて答えてくれた。棚を元通りの位置に動かして隠し、外に出られるように急いで装備を身に着ける。

 玄関の扉を開ければ一面の銀世界で、凍てつく寒さが体に染み込んできた。

 薪を補充しに外にいる筈のカシュパルを探せば、丁度彼も私に会う為に家に戻って来ている所だった。

 仮面で顔を隠しているのは、偶然村人に遭った時の為だろう。

「カシュパル、聞こえたか?」

「ああ。北西の方角だった」

「そうか、じゃあ私が先行するから……」

 雪に埋もれた山道では慣れた者でなければ道に迷う。ましてや行こうとしている場所は罠だらけだった。

 私以外に正確な位置を把握している者がいない筈で、カシュパルを案内しようと道を行こうとした所で彼に腕を掴まれて止められた。

「いや、必要ない。俺が一人で行く」

「は?」

「道も罠も記憶している。セレナはエリーを守れ」

 雪の降り積もる前に数回共に山を回っただけなのに。

 信じられない離れ業に目を見開く。確かにカシュパルの記憶力は飛びぬけていたが、これ程までとは思わなかった。

 しかし案内が不要な事実と、一人で行かせて良いかはまた別の話である。私はカシュパルだけを戦わせるつもりは全くなかった。

「馬鹿を言うな、相手がどれだけ来ているかも分からない」

 カシュパルは大きなため息を吐き、仮面越しにも分かる険しい表情で私に言った。

「戦わせる訳がないだろう。守りに来たと言ったのはもう忘れたようだな」

「カシュパル、『私の』仕事だ!」

 こんな危険な事を、彼だけに任せる訳がなかった。

 しかしカシュパルは鋭い目つきで私を睨みつけた後、ならず者のように私の胸倉を掴み上げた。

「は……ッ」

 浮遊感と宙に浮く足。苦しくて手を外そうとカシュパルの腕に両手で抵抗したが、びくともしない。

 彼はそのまま歩き出すと家の玄関を片手で開けて、その中に私を突き飛ばした。

 カシュパルを睨みつけたが、私の怒りなど全く気にもしていない。平然と戸口を塞ぐように手で凭れ掛かりながら、床に転がった私を見下ろす。

「足手まといだ」

 軽々と良いようにされて、反論が出来ない。獣人達が竜人に感じる畏怖とはこのようなものだろうか。

 ただ立っているだけなのに、まるで要塞のように強固に見える。彼を退けて外に行く事など不可能なのだと理解させられた。

 口を閉ざし、ただカシュパルを見上げるだけの私に彼は少し口元を緩ませると、思い出したように言った。

「そうだな……一つ聞きたい。敵は殺しても良いか?」

 聞かれた意味が分からなかった。剣を持った者ならば、殺意のある相手に対し傷つける事や命を奪う事も覚悟は当然持っている。

 けれどそれがこの緊迫した状況でまるで重要な質問かのように言うので、私は戸惑いながら頷くしか出来なかった。

「……ああ」

「そうか。では、行って来る」

 カシュパルは相手がどれだけの数かも分からないのに、まるで兎でも狩りに行くかのように気楽に言って森へと行ってしまった。

 残された私は暫し呆然とした後、正気に戻り急いで扉を閉めて窓や扉の前にバリケードと作って塞いだ。

 こうなってはカシュパルを信じるしかなかった。

 剣を手にしながら扉を警戒する。いつでも敵が現れたら迎え撃つ覚悟は出来ていたが、カシュパルのあの態度を見た後では此処まで来る事はないような気がしてならなかった。

 彼は私が背負うべき危険を全て取り上げてしまうつもりらしい。しかしそこまでされる価値が、私にあるのだろうか。

 無事に帰って来てくれ。カシュパル。

 ふと、湿度が急激に上がった気がして周囲を見渡した。

「……霧?」

 そんな筈はない。この場所は室内である。けれど視界は薄く白く煙って見える。

 バリケード越しに窓の外を覗いてみると、不自然に濃い霧が家の周辺に立ち込めていた。

「……ヴィルヘルムス」

 狭苦しい地下に閉じ込められ、異変を感じた赤子が泣いている。

 母を守ろうと。自分を守ろうと。その泣き声がまるで威嚇の様に聞こえた。

 一番無力に感じた存在がただの人間ではない事を私に知らしめる。

「これが、王族」

 立ち込める霧は日の光さえ散らしてしまい、薄暗くなっていく。神威を目の当たりにして、あの小さな赤子に畏敬の念を抱かずにはいられない。

 この状況ならば、どんな腕の立つ追手であっても撤退せざるを得ないだろう。濃霧の中で道さえ分からなくなるのだから。

 それで少しほっとしてしまって、警戒は解かないものの壁に背を預けて息を吐いた。

 室内の静けさが、カシュパルに問われた質問の意味を考えさせる。

 何故許可を私に求める? 敵を殺す。そんな当たり前の事を。

 それはまるで、私が駄目だと言っていたかのようだ。

 いや、待て。本当に私はカシュパルに言ってないのか?

 記憶を遡っていく。別れた時から魔物狩人として働いた時、ヨナーシュ国に行った時。そして出会って間もない頃。

 あの、時。

 閃光の様に過去の光景が蘇る。確かに言った。子供達に石を投げられて、それでも攻撃しなかったカシュパルに私は言った。

 人間を傷つけないでくれと。

 まさかカシュパルは、今の今まであの言葉を守り切っていたのではないだろうか。

 だとしたら。背中の傷が酷かったのは……敵意を向ける人間を傷つけなかったせいではないだろうか。

 切なくなってしまって、奥歯を深く噛み締める。

 カシュパルに巻き付けた目に見えない鎖を自分が握っているのだと確信してしまって、それが余りにも強固な物だから自分がしでかした事にも関わらず怖気づいてしまう。

 私はアリストラ国の運命を変えられたのかもしれない。しかしその為にカシュパルは、私が不幸に陥れてしまった気がした。

 扉を叩く音がして顔を上げると、カシュパルの声がした。

「セレナ、俺だ」

 どういう顔をすれば良いのか分からなくて、表情を消してバリケードを急いで解除する。扉を開けた先には、顔に血をつけたカシュパルが立っていた。

「怪我をしたのか?」

「いや、返り血だ。数人の盗賊だった。大方、食料が尽きて襲撃しに来たのだろう」

「殺したのか?」

「ああ」

 カシュパルは事もなくそう言った。容易く襲撃者を倒し、この濃霧の中平然と帰って来たカシュパルに改めて感嘆せずにはいられない。私は危険が完全に去った事を理解した。

 そして大きな問題は、今まで彼がどうしてきたかだ。

 カシュパルは仮面と防寒具を脱いで、いつもの恰好へと変わる。窓際に積み上げた机や椅子を片付ける作業に入ろうとした彼に問いかけた。

「カシュパル、これまでに人間を殺した事はあるか?」

 彼は手を止めて、表情のない私を見返した。

「いや。怪我をさせた事もない」

「どうして」

「……約束しただろう」

 カシュパルは淡く笑った。どうしたらいいのか分からない。

 私でさえ思い出せない昔の約束を、こんなにも傷ついてまで守ってくれていたなんて。

 胸が締め上げられたように苦しくて、顔が酷く歪む。耐えられない。

 余りにも大きな感情が押し寄せて、その衝動のままに自分の感情を口にしてしまいたくなった。

けれどその前に、私は彼に禊をしなければならない。

「お前は馬鹿だ」

 心底嘲るようにカシュパルを罵る。度を越えた献身は、理解の範疇を越えていた。

「怪我をしていたじゃないか。痛かったじゃないか。そんな頑なに約束を守る必要なんてなかったんだ。長い間私を追ってくる事も、私を守る事も、こんな馬鹿な話はない」

 それはきっとこの事実を知らないからで、私を聖人君子とでも思っているんだろう。

 隠す事はもう出来なくて、言わずにはいられなかった。


「私は出会った時、お前を殺そうとしたんだ!」


 もう、止めてくれ。私はお前にそこまでされる価値はないから。

 カシュパルを嘲っていた顔も我慢できず、泣き顔へと変わってしまう。

 涙が零れ落ちる顔を彼は困ったように見つめた。それから口元だけで小さく笑い、私の目の前に近づいて立ち止まった。

「らしいな。エリーと話して、気がついた」

 予想外の言葉に息を呑んでカシュパルを見上げれば、怒りや軽蔑するような色はなかった。

「殺そうとした事が罪ならば、その後に俺を育ててくれた事で贖われている。貴女は既に許された」

 紫の目が甘く細められる。全てを許容する、大いなる愛だった。

 彼を突き放そうとした最後の抵抗は打ちのめされ、私は自らの感情に抗う術を失う。

「カシュパルに……幸せになって欲しいんだ」

 それだけは本当の願いで、私のせいで自ら苦難を負う彼をどうすれば幸せにしてやれるのかが分からなかった。

 けれどカシュパルは私の頭に掌を置いて、苦痛の日々などなかったかの様に笑う。

「俺の幸福は、貴女の形をしている」

 その笑顔が余りにも毒気がないものだったから、私は本当にカシュパルを幸せに出来るのが自分だけであるのを漸く受け入れた。

 頑なだった心が解けていく。命のやり取りさえ些末だと、それを超える幸福があるのだと彼が言うのならば。

 私は、この感情から逃げなくてもいいのか。

 もう胸は苦しくなかった。それどころか暗い洞窟の先で明るい光を見たような、期待と希望に満ちた騒めきがあった。

 止まった涙を手の甲で拭いて、カシュパルに向き合う。

「カシュパル」

「何だ」

「全部が終わったら、二人で旅をしようか」

 唐突な言葉に目を開いて固まってしまった後、理解したのか勢いよく首を縦に振る。

 再会してから未来の話を私がしたのは初めての事だった。

 今はまだやる事があるからこの想いを伝えはしないけれど、そう遠くない話だろう。

「何処へでも行こう。二人で」

 子供の時のような邪気のない喜ぶ表情に、私もつられて笑った。

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