第44話 誕生
凍てつく程寒い日の朝から降り出した雪は、あっという間に降り積もり全てを白銀で覆ってしまった。
数日の内に腰の高さに積み上げられ、村の入り口は細い一本の道を残して塞がってしまう。
エリーが小さな男の子を生んだのは、赤子の鳴き声さえ奪うかのような分厚い雪に家が閉じ込められた頃の事だった。
「可愛いね」
まだ目も開かない籠に入れられた小さな赤子を見て、思わず顔を緩ませた。
この小さな人は自分がどれだけの運命を背負っているのか分からないようで、花の形の痣のある拳を握りしめて呑気に欠伸をしている。
金の髪は母親からだろうか。しかし隠しようもないぐらいに父親の要素も強く出ていた。
一目見て分かる度を越した肌の白さは、どんな場所でもこの子を隠してはくれない。
雪の様に白いのに、指先で丸々とした頬を突いて見れば確かに人間の温かさだった。
神殿騎士として神族の伝承を学んだ身としては、その末裔の証である容姿を見て畏敬の念が湧き起る。
それは守らねばならないという精神的な圧迫を、より強める事実だった。
エリーは今、寝室で疲れて眠っている。私とカシュパルは彼女の貴重な睡眠を邪魔しないように、赤子と共に居間にいた。
カシュパルが難しい顔をして籠の中を覗き込みながら言った。
「王族の子供か」
「そうだ。怖気づいたか?」
「まさか」
隙のない返事に安心してしまうのは、私の感情が変わってきているからか。
その険しい表情の頭の中では色々な事を考えているに違いない。けれどその中に私から離れるという選択肢がないのは間違いなかった。
「これからどうするつもりだ」
「……春になったら、この子は居るべき場所に送るよ。エリーは戻りたくないだろうから、また一緒に逃げないと」
此処まで明らかに王族の特徴を持って生まれたこの子に、剣を向ける人間はいない。信仰の対象そのものである。
王宮に連れて行けば他の王族と同じように世話をしてくれるだろう。
「何故たった一人でこんな事をした? 何の為にエリーを守ろうとしている」
「彼女に介入する事が私しか出来なかったからだ」
時を超えた背景を知らなければ、理解出来ない事を承知でそう言った。
案の定カシュパルは眉を顰めてとげとげしい視線を向けてくる。仕方なく言葉を追加する。
「引き離される母子に、僅かな猶予をあげたかった」
「そんなものの為に命を懸けたのか?」
カシュパルにとって最も優先されるべきは私の命で、王族に関わるという非常に危険な行為の見返りが余りにも素朴だった為、眉を寄せて非難がましく言った。
我ながら馬鹿な事をしている自覚はある。
けれど私にとってこの上なく尊重されるべきものだった。
エイダ先生を母の様に慕っているが時折考えずにはいられない。自分の生みの母はどんな人だったのかと。
邪魔になって捨てたのか、あるいは私の為に手放したのか。
孤児院の前に置かれた事実が、少なくとも生きる事を願われていたのだと思わせてくれる。
勝手に想像するしか出来ないが、エリーの様に愛してくれていた事を願った。
「そうだ。そんなものの為に命を懸けた」
一切後悔のない私の言葉にカシュパルは黙ってしまった。だから代わりに赤子に向かって口を開く。
「どうかお前が、人の愛を知る者になりますように」
どうせ意味なんて今は分からないだろうけど。
都合よく赤子が私の指を握りしめるものだから、まるで理解しているかのような気になった。
カシュパルはそんな私を、腕を組んで静かに見守った。
「姉さん」
どうやらエリーが起きたようで、扉の向こうから私を呼ぶ声がする。
「今行く」
私は赤子の籠を抱いて彼女の寝室に入った。目が覚めたエリーの顔色は良いようで、ほっとしながら赤子が見える位置に籠を置く。
エリーは自分の子を愛おしそうに見つめながら穏やかに微笑んだ。
「可愛い。世界で一番可愛いわ」
全く同意出来たので真面目に頷けば、くすくすと笑われてしまった。それから真剣な表情へと変わる。
「私、この子と離れたくない」
「……ああ」
残酷な運命に暗い気持ちになるが、エリーは明るく驚くべき事を言った。
「だから自分で連れて行く事にしたの」
辛い未来を受け入れた決断だった。自分だけの事を考えれば選ぶ筈のない選択肢。
そちらを選ばないと思っていたのに。
エリーを本当に妹の様に感じていた私は、どうにかして引き留めたかった。
「もう二度と外に出れなくなる」
貴女はそこで短命に亡くなるのだと言える筈もなく、代わりに暗い未来を暗示して脅してみる。
「この子にね、捨てられたなんて思わせたくないの。だから行くわ。いつか大きくなったこの子が会いに来てくれるかもしれないし」
希望的観測でしかなかった。本当にそうなるかは誰にも保証されない。
けれど全く悲愴さを見せない強さで、エリーは私に笑いかけた。
「そんな顔しないで。私、一生分の外をもう体験したと思っているんだから。最初に姉さんが楽しむように言った時は、何の冗談かと思ったけれど。本当に楽しんだわ」
彼女の笑顔の前に何も言えず、そっと細いエリーの手を握りしめる。自分よりも小さくて温かな手だった。
まだ若くて他人の庇護を必要とするような年齢なのにも関わらず、その目は大人びていた。
なんて私は無力なんだろう。
命まで懸けても此処が私の限界だった。切ない気持ちが溢れて思わず下を向く。
未来は変わっただろうか。エリーはもう絶望しないだろうか。
私はヴィルヘルムスの未来に少しでも光を齎せただろうか。
赤子が無垢に母を呼ぶ声を上げたから、その拍子に顔を上げる。エリーは赤子を抱き上げて優しく揺らしながらあやした。
その微笑みが胸の切なさを霧散させる。
まるで私が考える未来の苦悩など、この世に存在する筈がないとでも言うかのような完全なる幸福の笑みだった。
「エリー……」
彼女には意味の伝わらない問いをせずにはいられなかった。
「私は貴女を救えただろうか」
エリーはまるで全てを知っているかのように確信に満ちて答えてくれた。
「ええ。姉さんは私を救ってくれたわ」
そうか。そうなのだな。
私は自分の役割が果たせた事を不意に悟った。長い長い緊張が解けて、全身から力が抜けていく。
ベッドの横に座って二人を眺めてみれば、涙が勝手に溢れて一粒頬を伝い落ちた。
片手で赤子を抱きながら、もう片方の手でエリーが私の頭を撫でてくれる。
まるで私も彼女の子供になったかのような、母の優しい慰めだった。
その手がすっと離れたかと思うと、エリーが口を開いた。
「ねえ姉さん。自分の感情に素直になる事を恐れないでね」
カシュパルの事を暗に指摘されて何も言えなくなってしまう。
ずっと私達の関係を間近で見て来たエリーは、私の心の葛藤を良く見抜いていた。
「人は瞬間に恋をして、心の一部がその人に変わってしまう。目の前の人からは逃げられても、自分の心からは逃げられないわ」
彼女はまだ若いが愛に全てを捧げた人だった。だからこそ、その言葉が突き刺さる。
エリーは私に否定を許さない強さで笑いながら言った。
「私の事は姉さんが救ってくれたから。今度は姉さんが幸せになって」
私の幸せ。
カシュパルがアリストラ国を滅ぼさなくなって、ヴィルヘルムスが王族を殺さなくなって。
そうしたら私は元の神殿騎士に戻るのだろうか。
不意に脳裏に妄想が浮かんだ。
カシュパルと共にヨナーシュ国を旅する自分の姿。
そしてほとぼりが冷めた頃にアリストラ国に戻って、育った孤児院を彼に案内する未来。
それが思いの外楽しそうに見えて困ってしまう。打ち消そうとしても簡単に消えてくれやしない。
自分の幸せを考えて想像する未来には、常に隣にカシュパルの姿があった。
「……困ったなぁ」
理解してしまった。私の居ない所では幸せになれないと言ったカシュパルの意味が。
けれど殺そうと剣を突き付けた私が、この罪を黙ったまま平然とした顔でカシュパルに愛されて良い訳がなかった。
裏切られたと思うだろう。今度こそ許されないに違いない。
「本当に困った」
私はどうにもできない現状に思え、沼に嵌ったように身動きが出来なくなってしまった。
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