殺シ会い

棗颯介

殺シ会い

 私は今日までに四十一人を殺した。

 理由なんてない。合意もない。面識もない。ただ殺したいから殺しただけ。子供が家の庭にいた蟻を好奇心で踏みつぶすのと同じだ。思うに虫や動物を殺すことは許容するのに人間を殺すことをタブーとしている現代はどこかおかしい。「どうして人を殺しちゃいけないんですか」と、私は小学生の頃道徳の授業で教師に質問したことがある。教師の回答は、忘れた。忘れるくらいには私の心には何も響かなかったということだろう。

 最初に人を殺したのは十九の時。大学のサークルで知り合った同い年の女性だった。二人目以降はあまり印象に残っていない。何事もそうだと思うが初めての経験というのは嫌が応にも記憶に残ってしまうものだろう。処女を喪失したときも童貞を脱したときも。初めてを覚えていないことがあるとすれば自分がこの世に生まれてきたときと、初めて二本足で歩いた時くらいか。

 初めて殺した時、私は何も感じなかった。愉悦も後悔もなかった。あったのは虚しさと、一つの疑問。


 ———どうして、人を殺しちゃいけないんだ?


 そう聞かれたとき万人が納得できる正解を答えられる人間が、果たして世の中に何人いる?

 その答えが欲しくて、私は人を殺し続けた。粛々と淡々と黙々と。別に警察に捕まったってそれはそれでよかったのだが、神が何を勘違いしてしまっているのか、私は今日まで職質すら受けることがないままのうのうと社会に溶け込み生き続けている。そんな神の気まぐれに感謝半分辟易半分といった心持ちで、私は今もこうしてスマートフォンに映る掲示板の文字の羅列に目を走らせているわけだ。


【今から会いませんか♪】

【現役女子大生!】

【〇×駅にいます!業者じゃないです!】

【お金持ってる人いませんか】


 マッチングアプリ。ネットを通じて異性とコミュニケーションを取り実際に顔をあわせることを目的としたツール。似たような仕組みは古くからネットにあったが、近年では二十代の若者を中心に需要が伸びているらしい。

 一応まだ二十代の私としても、手軽に殺し相手を見つけられるこのアプリは重宝していた。

 性交に重きを置かない私がコンタクトを取る相手の基準は適当だった。強いて言えばすぐに会えそうな相手。直感だ。今のところ業者に当たったことはないのだが、肉体関係を持ったことはない。適当に食事をして、車で人気のない場所に行ってる。性自認は男性のつもりだし、まだ男としての機能に衰えが来ているわけでもないと思うのだが、どうにもそういう気分になることがなかなかないのだ。

 だから今日選んだ相手も至極適当で、私は会社が入っているビルの屋上でコンビニの総菜パンを齧りながら、僅か三往復のチャットのやり取りで今夜最寄り駅前のホテルで会う約束を取り付けた。


***


 私は今、喉元にナイフを突きつけられていた。

 私は昼間に約束した通りの時刻に、指定されたホテルの一室に来ていた。部屋に入った瞬間私を出迎えたのは愛想を張り付けた女性の抱擁などではなく、冷徹さを宿したナイフの鈍い光。それを突きつけている当の本人は、刃物にも負けない鋭い視線をこちらに向けていた。

 状況が呑み込めなかったが、この時私が感じたことは一つ。


 ———ついに神様が間違いに気づいたか。


 自分でも驚くほど、私は私が数秒後に死ぬかもしれないという現実を受け入れていた。過去殺してきた四十一人に対して贖罪の気持ちがあったわけでもないが、自分が社会的な視点で見れば裁かれて当然の人間だという自覚くらいは持っていたからだ。報いというものは必ず訪れる。それが今だったというだけ。

 ナイフを突きつけている女性を改めて一瞥する。歳は二十歳と聞いていたが、おそらく女子高生だろう。彼女が身に纏っていたのはどう見ても制服だった。コスプレの類にも見えない。髪は長く、右こめかみ近くの髪を編み込んで三つ編みにしていた。髪色は黒。パッと見は真面目そうなイメージを受けた。手に持っているナイフがすべてを台無しにしているが。


「———どうして私がこんな真似をしているか分かりますか」と、目の前の彼女がおもむろに口を開く。

「それは、年齢を偽って十歳近く年上の男とこうして会っていること?」

「いえ、貴方の喉元に刃物を突きつけていることです」

「そうだな、いくつか考えられる。一つ目。最初から身体を許す気はなくて恐喝して金を巻き上げるのが目的だった。二つ目。キミが快楽殺人者であるという線。三つ目。キミが私に個人的な恨みを抱いている」

 

 最も可能性が高いのは三つ目だろう。そもそも今まで私の殺人で足がついていないことの方が不自然だったんだ。関係者が復讐心を抱いて私にたどり着いたとしても何もおかしくない。

 だが、彼女はこちらに視線を外さないまま静かに首を振った。


「どれも不正解です」

「意外だな」

「意外?」

「いや、こっちの話。ちなみに正解を聞いても?」

「貴方が男性だからです」


 そして彼女は寸前に突きつけていたナイフを、勢いよくこちらに押し出した。


「ッ!」


 私は反射的に身体を逸らし、彼女のナイフを持つ腕を片手で掴み、もう片方の手に袖口に仕込んでいたナイフを滑らせて喉元に突きつけた。先程の彼女と同じように。


「———随分、物騒なものを持ってますね。いい歳した社会人だと思っていたんですが」

「いい歳した社会人は、金が有り余ってるから多趣味になるもんなんだ」


 たとえば人を殺したり。

 対する女子高生の少女は出会ったばかりの成人男性に刃物を突きつけられるという非日常に遭遇しているにも関わらず、顔色一つ変えない。


「怯えたりしないんだな」

「ついさっきまで私がしていたことですから」

「殺していいのは殺される覚悟のある人だけだって?」

「どこかで聞いたような台詞ですが、そういうものかもしれませんね」

「………」


 今までの四十一人のどれとも違う反応に、私はある種の興味を抱いた。

 私はナイフを下ろし、彼女に椅子を勧めた。


「ちょっと、話をしないか」


***


「私を抱かないんですか」


 彼女は鉄面皮のまま問いかける。その瞳に先程までなかった侮蔑の色が僅かながら垣間見えた気がした。


「あいにくそういう目的でマッチングアプリを使ってるわけでもなくてね」

「健全な交際?」

「殺人だよ」

「———そうなんですね」


 敢えて包み隠さずそう伝えたにも関わらず、彼女はさしたる反応も見せないままだ。それだけで彼女が普通の人間でないことは理解できる。


「殺人鬼とホテルの密室にいるんだぞ。怖くないのか」

「怖いです」

「そう見えないから聞いてるんだけどな」

「それは、きっとこの状況よりもっと怖いことを経験しているからかもしれませんね」

「それは、キミが私を殺そうとしたことと関係があるのかな」

「大いにあります」

「差し支えなければ聞かせてくれないか」

「遺言代わりに?」

「結果的にそういうことになるかもしれないが、単純な好奇心だよ」


 彼女は短く息を吐くと、徐に語り始めた。


「貴方が童貞を失ったのはいつの頃ですか」

「なんだい唐突に。確か十九の時だったかな」


 相手は生まれて初めて交際した女性で、生まれて初めてこの手で殺した女性だ。忘れるわけもない。


「私が処女を失ったのは、それより十年早かったです」

「というと、九歳の頃か。小学三年生?」

「はい。あの日学校から帰る途中で突然誰かに口を手で塞がれて、車に乗せられて知らない廃工場に連れていかれて、知らない男に私の初めてを奪われました」

「つまりレイプされたと。気の毒な話だ」

「痛みと恐怖で私はどうにかなりそうで、ただただ助かりたい一心で、たまたまその場に転がっていた廃材の鉄パイプを握って男の頭に思い切り振り下ろしたんです。男はそれっきり動かなくなりました」


 九歳で殺人。しかも年端のいかない少女が大の男を。その時私が思ったのはレイプされたことへの同情でもその若さで殺人を犯したことへの恐怖でもなく、純粋な敬意だった。

 自分がどれだけの悪行を重ねてきたか自覚はあるが、心のどこかで自分は誰よりもおかしいというベクトルの狂ったプライドのようなものがあったのかもしれない。自分でもしていないことを、目の前の少女が達成しているという事実は、少なからず私の中で彼女の見方を変えた。


「助かった私に両親や警察は『無事で良かった』『怖かったね』『君は何も悪くないよ』なんて言ってきましたけど、正当防衛とはいえその時の自分が何をしたのか理解できないほど私は子供じゃありませんでした。私は“人殺し”をしたんです」

「正当防衛なら罪には問われない。この場合非があるのは百パーセント襲ってきた男の方だろう。何をそこまで気にするんだ」

「良し悪しの話じゃないんです」


 彼女はそう言ってキッと私を睨みつけた。


「人を殺してしまったっていう“事実”はどうやっても私の中から消えてくれないんですよ。どれだけ状況的に私に非がなかったとしても、法律が私を裁かなかったとしても、ずっと考えちゃうんです。“私は男を殺さずに助かる道もあったんじゃないか”って。しまいには、“どうして人を殺しちゃいけないんだ”なんて、思っちゃいけないようなことまで」


 どうして人を殺しちゃいけないんだ。それは四十一人殺してもなお、私も回答を得られていない問いだった。


「それで、それがどうしてキミを次の殺人に手を染めさせたんだ?いっそ本当に犯罪者になってしまえば、もう悩まずに済むとでも?」

「そうですね、そうかもしれません」

「今まで殺した人数は?」

「貴方が初めてになるはずでした」

「その割には手慣れた動きでナイフ突きつけてきたけど、練習でもしたのか?」

「一応」

「どうしてマッチングアプリで男を釣るような真似を?男嫌いなのは想像できるが」

「できるだけ殺しても心が痛まなさそうな人を選びたかったので」

「なるほど、そりゃ的確だ」


 何しろそれで釣れたのは四十一人殺した殺人鬼だ。どんな凄惨な方法をもって殺したところで心は痛まないだろう。


「納得したかったんです」

「納得?」

「私があの日殺人に手を染めたことは正しかったのか、間違っていたのか。もう一度誰かを殺せば分かるような気がして」

「………」


 同じだ。自分と。人を殺してはいけない理由が分からない。殺していい理由も分からない。分からないから、実感が持てないから試す。さながら電化製品の性能テストをするのと同じ感覚で。それを大多数の人は“異常”だという。異常かもしれない。だが本質にそう違いはないだろう。

 私達はただ“納得”したいだけだ。


「私の話は以上ですが、私を殺さないんですか」


 彼女は冷めた表情のままそう尋ねる。


「———たとえば、私が今ここでキミを殺すとしよう」

「?」

「ホテルの一室で殺人事件。当然館内には防犯カメラが設置されているだろうし、すぐに足がつく。私はお縄になって、余罪も追及されるだろう」

「なら私をホテルの外に連れ出して、人気のないところで犯行に及べばいいじゃないですか」

「そうだな、そうすることもできる」


 私は彼女から取り上げていたナイフを手でクルクル回して弄び、刃先を指先で摘まんで持ち手の部分を彼女に向けた。


「逆に、キミが私を殺すという道もある」

「それは同情ですか?」

「同情はないよ。ただ—――」


 ただ。


「キミなら私が望んでいる答えを見つけられるのかもしれないと思ってね」

「答え?」と彼女は表情を崩し、分かりやすい困惑の色を見せた。歳の割に冷たい人間だと思っていたが、存外こういう年相応の顔もできるのだなと思った。それは彼女がまだ人として超えてはいけない一線を踏み切っていないからなのかもしれない。片足は突っ込んでいるが。


「どうして人を殺しちゃいけないのか。私はそれを知りたくて人を殺してる」

「マッチングアプリを使って?」

「ただの便利な手段だよ」

「私に殺してほしいんですか?生まれ持ったさがは自分でも止められないからって?」

「そういうわけでもないんだけど」

「………へぇ」


 椅子に座っていた彼女は私が差し出したナイフを手に取ると、突如立ち上がって私をベッドに押し倒し、気付いた時には馬乗りになって私の左の眼球寸前に鈍く光る切っ先を向けていた。あと数ミリでも私の頭か彼女の手が動けば、その瞬間私の視界の半分が失われることになるだろう。

 彼女はいつの間にか出会った時と同じ冷徹さを取り戻しており、その目はさながら映画に出てくる暗殺者のようだ。


「でもそれ、一つ見落としがありませんか」

「見落とし?」

「貴方が私に殺されても、私が何を思ったのか貴方は知ることができない」

「まぁそうだね」

「貴方はそれでいいんですか?」

「自分がそれを獲得するに足るほど、世間様に顔向けできる人生を送ってきたわけではないということは自覚しているからね。矛盾しているようだけど」

「………」


 彼女はナイフの切っ先を向けたまま何事か思案しているようだった。

 対する私は、出会ったときと同じように極めて平静な心を保っていた。ここで彼女に殺されようが構わなかった。むしろ私と同じ問いを抱いている彼女にこそ、私は裁かれたかった。誰かに裁かれるというのなら。

 だが彼女は、その切っ先をスッと引いた。


「———殺さないのか?今目の前にいるのは四十一人殺してきた殺人鬼だぞ。仮にキミが恣意的に私をこの場で殺したとしても、私の罪が明るみに出れば世間はキミを断罪したりはしないだろうに。それこそ昔のように正当防衛とすることだってできる」

「———私の初めて処女は知らない男に奪われました。意図していなかったとはいえ初めての殺人も」


 だから、と彼女は言った。


「自分の意志で殺す“初めて”は、自分で選びたい」

「………」

「お互い、今日ここで殺し合うのはやめませんか。次があるかは分かりませんが、もし次会うことがあれば、どっちかは“答え”を知っているかもしれませんし」

「殺人犯を見逃すのか。私が言うのもなんだが、どうかしているぞキミ」

「私だってもう殺人未遂者ですよ。脛に傷があるのは貴方と変わりませんし、このまま私を見逃すのならどうかしているのは貴方も同じです」

「確かに、そうかもしれない」


 彼女は初めて微笑み、そして少しだけ不服そうな顔をした。


「若い女がこんな体勢で至近距離にいるのに、何の反応もしてくれないんですね」

「さっきも言ったけど、そういう目的でマッチングアプリを使っているわけじゃないんだ」

「あの男みたいに無理矢理襲うような輩は当然論外ですけど、全く欲情してもらえないのはそれはそれで屈辱かもしれません」

「面倒だな、キミ」

「女心は男性には理解できないものですから」


 私達はそれっきりナイフを突きつけることも互いの身体に触れることもなく、少しもベッドのシーツを汚さないままホテルを後にした。連絡先は交換しなかった。名前を聞くこともなかった。そうしようとも思わなかったし、彼女はああ言っていたがきっともう会うこともないだろう。

 殺そうと思った相手を殺さなかったのは、彼女が初めてだった。初めてのことはなかなか忘れられないと言ったが、仮に私が明日警察に捕まって死刑になったとしても、死の間際まで彼女のことは記憶の片隅に留まり続けるだろう。

 どうして人を殺してはいけないのか。次に彼女に会うことができたとしたら、そして彼女がその時答えを得ていたのなら、それはきっと地獄での再会なのだろうと思った。

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