【下】スニーカーは足にあり

 店内を斜めに横切り窓口まで約10メートル、前傾姿勢で疾駆する彼女に、男の放つ凶弾は当たらない、当たらない、当たらない、その足が止まることはない。


 きりりとした柳眉のまんなか、人間の絶対的な急所である眉間に吸い込まれるように放たれた完璧な一射さえ、無造作に小首をかしげるしぐさで避ける彼女の姿を見るにいたり、男は背筋を走る冷たいものを無視できなくなっていた。


「くそっ!」


 残弾は少なく、無駄撃ちはできない。混乱しながらも彼は、傍らの女性行員のこめかみに銃口を向けるという、きわめて合理的な判断を下す。


「こいつをぶっころすぞッ!」


 対する景子は走りつつ、左腕に提げた小ぶりのバッグから、右手でなにかを抜きはなつような動作をみせる。

 その手に握られていたのはしかし護身用の武器などではなくて、小さく平たい木製の棒。食べ終えたアイスキャンデーの、当たりの焼印さえないただの棒だった。


 ところで。武器といえば、上杉謙信の愛刀として知られるのが太刀「小豆長光」だ。刃の上にこぼれ落ちる小豆を次々にまっぷたつにしたと謂われる名刀である。


 そこで彼女が手にしている木の棒、これは。


 ──井村屋登録商標「あずきバー」の棒。


 小豆という共通項そして、あずきバーの「めっちゃ堅い」というイメージにも支えられ、その小さくて薄っぺらな棒きれは、鍛えあげた鋼から成る稀代の名刀を再演リアクトする。


 その瞬間、ついさきほどまでこの空間を恐怖で支配していた強盗の感情は、迫りくる女への恐怖で塗りつぶされた。

 無理もない。拳銃を恐れず向かってくる彼女の手には、いったいどこから取り出したのか、白銀にぎらつく日本刀が握られていたのだから。

 眼前に迫る太刀を受け止めなければ、一刀のもとに切り捨てられてしまうだろう。彼は銃口を人質から離し、拳銃を上段に掲げていた。撃つのではなく、刃を受け止めるために。

 それはまるで、有名な川中島合戦、敵である武田の陣深く単騎で切り込んだ謙信の一刀を、生涯のライバルであった武田信玄が軍配で受け止めたという逸話を再演リアクトするように。


 ただし今ここで一刀を待ち受けるのは、動かざること山の如く信玄公が掲げた軍配ではなく、一介の強盗が手にした拳銃である。

 受け止めた拳銃から伝わるあまりにも鋭く重い衝撃に彼の手は感覚を失い、唯一の武器をあっけなく足元に取り落としていた。

 さらに追撃せんと太刀を振りかぶる景子に向け、絞り出した彼の震える声。


「や……め……」


 ……てくれ、とでも続けたかったのか。ちなみに、前述した川中島合戦における信玄の軍配には、謙信が斬りつけたと思われた回数の倍以上の傷が残っていたという。「三太刀七太刀」と呼ばれるその逸話のリアクトにより、景子の太刀が描く軌跡は神速と化し、刹那に左の肩口から心の臓ごと袈裟がけで斬り抜け、胴を横薙ぎ、左わき腹から逆袈裟で右肩まで遡り、しまいはヘルメットごと頭部を唐竹割りに両断していた。


「──だいじょうぶ、峰打ちだから」


 失禁しながらくずおれる男に、景子はそっと囁く。実際、周囲の人間から見た限り、彼女は彼のヘルメットをあずきバーの棒でぺちぺちと数回叩いただけなのだ。しかし、自身の体を冷たい刃が幾度も斬り裂いてゆく恐怖と絶望は本物で、それはたやすく彼を心神喪失に追い込んでいた。

 電池が切れたように動かなくなった男へ一瞥くれながら、バッグにあずきバーの棒を納刀した景子は、カウンターの向こうで硬直している女性行員に微笑みながら声をかける。


「ごくろうさま。窓口っていろんなお客がくるから、大変ね」


 ──ここまで、景子が入店してから1分たらずの出来事である。


 彼女が上杉謙信の生まれ変わりとなったことに、「現代を生きる普通の女の子の日常」でのメリットはほぼなかったと前述した。ただし非日常、たとえば銀行強盗に遭遇するような事態においてなら、このように話は別となる。


 そして彼女はなぜか、そういった非日常のトラブルに出くわすことが非常に多い。生まれ変わりになったせいか、はたまた元々の宿命なのかは確かめようもないが、それを見過ごすことができず首を突っ込んでしまうのは、自分のもともとの正義感のせいだと自覚している。


 だから実際のところ、生まれ変わりになることで手にした知識と胆力、そしてリアクトの力は、幾度となく彼女自身と、なにより彼女が救いたいと願った人々のため、存分に役立ってきたのだ。


 もしあのとき、透けてるおじさん──謙信公の言葉を拒絶していたら、彼女はとっくに、その無謀な正義感に殉じて命を散らしていたかも知れない。


 まわりを取り囲んでそれぞれに感謝を述べてくる人々に愛想笑いを返しながら、ふとそんな想いを巡らせる。もしかしたらあの日、自分は謙信公によって救われたのかもしれない。景子がそう思えるようになったのは、わりと最近になってからだ。


 ふとバッグの中のスマホが震えていることに気付き、それを口実に感謝の輪から抜け出す。相手は、ニュース速報を見て慌てて連絡してきた同僚だった。


「うん、わたしは何ともないんだけどね……」


これから警察の聞き取りやらなにやらで、会社に戻れるのはいつになることか。


「ごめん、合コンはキャンセルさせて」


 よしんば間に合ったとしても、昼休みに銀行強盗を撃退した女がどんなテンションで自己紹介すればいいかわからないし、他の参加者もどう扱えばいいか困惑することだろう。

 通話を切り、がっくりと肩を落とす景子だった。


 ところで上杉謙信は、妻をめとることなく生涯独身を貫いた人物である。


 そして酒と塩辛いものが大好きだった彼の最期は、おそらく高血圧によるものなのだろう、冬場のかわやでたおれてそのまま亡くなったというものだ。


 景子としては、人生における巡りあわせの結果として生涯独身になるのなら、それはそれでいいと思っていた。ひとりで生きていく自信はあるし、女の幸せは結婚だなんて前時代的な説は鼻で笑い飛ばせる。


 ──ただ、まあ。


 冬のトイレで倒れ、淋しくひとりで逝く。

 その再演リアクトだけは何としてでも回避せねばと、誓いをあらたにするのだった。

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軍神リアクト / Guns In Re-act クサバノカゲ @kusaba

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