30
そこは、広く、冷たい暗闇だった。彼らは宇宙を漂うように、浮かんでいた。そう感じていた。
お互いの姿は、見えない。肉体を失っているのだから、当然ではあった。しかし彼らは、みんなが近くにいることを知っている。
志水が言った。
〝ここがマスター・ブレインの脳?〟
栄美子がつぶやく。
〝そして、南極の海の中〟
〝何か見えるか?〟
阿部のつぶやきに答えたのは、落ち着いた男の声だった。
〝視覚を期待するんじゃない。我々は、人間が初めて体験する事態に遭遇しているのだ〟
志水が言った。
〝父よ。こんなところで紹介するなんて、変な気分……〟
阿部は、反射的に口を開いていた。
〝初めまして……〟そして、戸惑った。〝という挨拶も、間抜けだな〟
と、飛竜が吠えた。
暗闇に、光の直線が現れた。
阿部は、やけくそぎみに笑った。
〝マスター・ブレイン様のお出ましか。この調子じゃあ、ツラは拝めないのかな?〟
輝く直線は中央から膨れ上がり、爆発するように広がった。
阿部たちは、虹のように輝いて明滅する光の渦に巻き込まれた。色は、分からない。意識には感じられても、当てはまる色を見たことがないのだ。それは、赤外線や紫外線、あるいは電磁波の色なのかもしれなかった。
目まぐるしく変わる色の洪水の中に、ひときわ明るい瞬きが湧いた。そのきらめきは、あっと言う間に数千に達した。光が瞬くたびに、彼らはかすかな痛みを感じた。
意識を探られている。
志水がつぶやく。
〝いやらしい奴……〟
阿部は叫んだ。
〝出て行け! くそったれが!〟
渦は一瞬広がって、収束した。そして光る直線の上に、ふわふわと漂う。
光の球は、言った。
〝出て行くのは、貴様らだ。一つの脳に、複数の意識は要らない〟
〝一人で住むには、広すぎないか?〟
阿部は気づいた。光の直線は、黒いヘルメットのスリットなのだ。現実の脳の内部であるわけはない。それは、マスター・ブレインの意識が作り出した擬似空間――イメージの世界だった。
〝貴様らの執念は、認める。だが、ここが終点だ。私を侮辱した者は、無礼を命で償ってもらう。死ね!〟
白熱する光が飛んだ。それは、阿部たちの意識の真ん中で弾け、彼らを吹き飛ばした。
阿部は、ぐるぐる回り、叫んだ。
〝みんないるか⁉〟
阿部は、全員の生存を感じた。しかし彼らは、途方もない精神エネルギーに目を眩ませられ、我を失っている。
阿部は、つぶやくように考えた。
〝どうやったらみんなを集められるんだ?〟
〝念じればいい。精神のエネルギーに、物理的な距離は存在しない〟
志水の父だった。
阿部は念じた。再び彼らは一ヵ所に集まり、マスター・ブレインと対峙した。
またしても、白熱した光が発射された。
〝離れるな!〟
光の球は、彼らの中心で炸裂したが、撥ね飛ばされる者はいなかった。
だが光が消えると、彼らは激しい疲れと痛みを感じた。膨張する閃光に抗って踏み留まるには、膨大なエネルギーを消耗するのだ。彼らは、恐怖と疲労で口もきけなかった。
マスター・ブレインは笑った。
〝その程度の力で、よくも私を臆病者呼ばわりできたものだ。身の程知らずめ! 思い知れ!〟
阿部は、次の攻撃に耐えられる自信がなかった。活路を開く方法は、攻撃のみ。
〝死ぬのはてめえだ!〟
阿部が掻き立てた憎しみは、赤い光となって放たれた。だがそれは、マスター・ブレインの輝きに触れると、空気の抜けた風船のようにしぼんでしまった。
マスター・ブレインは、鼻で笑った。そして、ゆっくりと青い光の帯を伸ばし始めた。
阿部は、反撃する気力を失った。全力を込めた攻撃も、効果がない。精神力の違いを思い知らされた彼は、恐怖の虜となっていた。
だが、飛竜の闘争本能は頂点に達していた。
光の先端が届く寸前、飛竜が飛んだ。うねる光を意識の身体で遮ると、敵意を剥き出して食らいついた。飛竜の意識は赤い光となって、膨れ上がった。
マスター・ブレインの青い光は、飛竜の赤い光球に押し戻され始めた。赤い光がじりじりと前進する。
〝獣の方が役に立つ、ということか。しかし、畜生は畜生だ!〟
マスター・ブレインからまたしても光の球が発射され、側面から襲い掛かった。直撃を受けた飛竜は、呆気なく撥ね飛ばされた。
〝飛竜!〟
叫んだのは、栄美子だった。栄美子の意識は阿部から離れると、旋回しながら飛び去る飛竜を包み込んだ。
〝離れるな!〟
阿部が叫ぶと、飛竜を抱きとめた栄美子が戻った。
そこには、マスター・ブレインの青い光が伸びていた。光が膨張して、彼らをすっぽりと覆い尽くした。
逃げられなかった。
阿部たちは、激しい痛みを感じた。低圧の電流を流されるような、鈍い痛み。痛みとして認識され、耐えられるぎりぎりの痛み。マスター・ブレインは、楽しんでいるのだ。
それを跳ね返すエネルギーは、誰にも残っていない。できるのは、ただ耐えることだけだった。
志水が、悲鳴を上げた。
〝助けて!〟
マスター・ブレインは笑った。
〝苦しめ!〟
痛みが熱に変わり、急激に上昇した。
阿部は、激怒した。消滅寸前の志水を包むと、最後の力を振り絞って自分の意識をマスター・ブレインの光に向かって押し出す。青い光は、阿部の意識が作り出した盾に遮断された。熱から解放された志水は、か細い息をついた。
マスター・ブレインは、笑い続ける。
〝まだそんな力が残っていたのか。やるがいい。私のエネルギーを受け止め、その偉大さを知れ。その時おまえは、消滅する。そうやって、一人ずつ消してやる!〟
光のボルテージが、さらに上がった。それはもはや、痛みでも熱でもなく、苦痛を早く終わらせる、神の慈悲に似ていた。
阿部はつぶやいた。
〝そうだな……俺は、神に逆らおうとしたのかもしれん。人間が消えるのが定めなら、従うしかないのか……〟
意識が、かすむ。阿部は、消滅を覚悟した。同時に、苦痛が消え去った。
〝死んだのか……?〟
阿部は、志水に包まれていた。志水は、マスター・ブレインからのエネルギーを全身で受け止め、それでも微笑んでいた。さらに、志水の父が、娘を包む。飛竜を抱いた栄美子も、覆い被さる。
彼らの意識は、融け合った。
〝しぶとい奴らめ! 止めだ!〟
数百の火球が、放たれた。それは空間いっぱいに広がると、阿部たちめがけて襲い掛かった。
火球の直撃に、彼らは燃え上がるように輝いた。
次の瞬間、暗闇が戻った。
そこには、彼らの意識が、青い光に捕らえられて浮かんでいるだけだった。
マスター・ブレインが呻いた。
〝何だと⁉〟
彼は、爆発と飛び散る意識の断片を待ち構えていた。なのに、自分が放ったエネルギーは、一瞬で消滅してしまったのだ。
あり得ないことだった。彼には、異常事態を分析する時間が必要だった。
マスター・ブレインは、青い光を消そうとした。
できなかった。自分の一部のはずのエネルギーが、命令を無視している。エネルギーは、光に乗って噴出し続けている。
今や彼は、攻撃しているのではなく、エネルギーを吸い取られていた。
マスター・ブレインは、初めて恐怖を感じた。
阿部たちは逆に、恐怖から解放されていた。
不思議な現象が起きていた。彼らの意識が完全に融け合った瞬間、中心にぽっかりと穴が開いたのだ。まるで、小型のブラックホールだった。
彼らは、無数のエネルギー塊を撃ち込まれた時、死を覚悟した。しかしそのエネルギーは、彼らの意識をすり抜けて、穴に呑み込まれてしまった。
穴は、マスター・ブレインのエネルギーを貪り、放そうとしない。もう、痛みも眩しさも感じなかった。それどころか、力が漲り始めていた。
ブラックホールに吸収されたエネルギーは、彼らの活力に転換されていたのだ。
マスター・ブレインの光が、次第に明るく、太くなっていく。大河の奔流のようなエネルギーが、とめどなく流れ込んでいる。
阿部は、マスター・ブレインの叫びを聞いた。
〝やめろ! 助けてくれ! エネルギーを返せ! こんな……こんな馬鹿な。たかが人間に、こんな力が……やめてくれ……助けてくれ。死ぬ……私は……し……ぬ……〟
光の帯は、完全に吸い込まれ、消滅した。
黒い穴も、消えた。
マスター・ブレイン本体の光も、残っていなかった。そこには、暗闇と沈黙があるだけだ……。
志水が言った。
〝何が……起こったの……?〟
父が答えた。
〝マスター・ブレインが、滅んだ〟
〝なぜ? 何もしなかったのに〟
阿部が言った。
〝きっと、そのせいだ。抵抗すれば、やられた。君たちは、私を守ることしか考えなかった。だから、奴には手が出せなくなったんだ、きっと……〟
栄美子がつぶやく。
〝飛竜も元気になったわ。あの黒い穴、何だったんだろう……〟
阿部は、少し照れたように言った。
〝愛……かな。私たちの絆が、奇跡を生んだ……〟
誰も、異議は唱えなかった。
志水は阿部に包まれ、心地好さそうに緊張を解いた。ぼんやりと、言った。
〝これからどうするの?〟
〝どうするって……ここで暮らすしかないさ。まずは、上の人間に無事を知らせて、少し休む。そして、近所のクジラを捜す。餌の取り方を教えてもらわないとね〟
志水の父が、付け加えた。
〝そして、見届けるのだ。人類の行く末を……〟
氷原から救出された生存者には、佐々木も混じっていた。集中治療を受けて間一髪の蘇生を果たした佐々木は、緑色のクジラが危害を加えなくなったことを知った。阿部たちが捨て身の戦いを挑んだことも、聞かされた。
緑人化したクジラは、濡れた触手で、客船の甲板に日本語を書き記した。
〝タイムへ。次のカバーは、私だ。アベ〟
そして、マスター・ブレインが倒されたことを知った米副大統領は、涙を溢れさせて胸に十字を切ったという。
『神が、救世主を遣わされたのだ……。緑色の救世主を……』
佐々木は、病室の窓の外を見てつぶやいた。
「救世主か……。彼らは、自分たちがそんな大それた存在に変わるとは思ってもいなかったろうな。人間の姿を失ってまで……」
が、彼の頬にはすぐに穏やかな微笑みが浮かんだ。
「しかし、きっと幸せなのだろう。いつまでも、愛する者と一緒にいられるのだから……」
凍てついた空に、オーロラが輝き始めていた。
――――了
※※※※※※※※※※※※※
この作品は1993年に別名義で出版されたものです。
約30年前のままの形で掲載していますので、正確性の欠如や表現が古い部分が多数ありますがご了承ください。
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緑人戦線 岡 辰郎 @cathands
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