垢嘗

増田朋美

垢嘗

今日も寒い日だった。冬だから当然の事と言われるのかもしれないが、やっぱり寒いのは嫌だなあと多くの人は言っていた。そんな気候になると、なかなか家事仕事をやりたいとは思わない人が多くなる。まあ、それは普通のことだと言えるのかもしれないが、いやいやながら、多くの人が、ご飯をつくったり、部屋の掃除をしたりする季節である。

その日も、杉ちゃんは、水穂さんにご飯を食べさせようと躍起になっていた。どうしても、ご飯を食べるのをしようとしてくれない水穂さんに、食べろ食べろと言えるのは、もしかしたら、杉ちゃんだけかもしれなかった。なんとか、水穂さんの口元に、おかゆを入れることは、成功したものの、やっぱり、気分が悪くなってしまうのだろうか、水穂さんは咳き込んで吐き出してしまう。吐くときは、同時に、赤い液体が漏れてしまう。それが、布団を汚したり、ひどいときには畳を汚すこともある。これをすると、畳は張り替えてもらわなければならないし、布団は、作り直してもらわなければならない。どちらか片方してもらうだけでも、偉いお金がかかる。その時も、水穂さんは、赤い液体を吐き出し、畳を汚してしまった。

「あーあ、もうどうしてくれるんだ。この前畳を張り替えたばっかりなのに、また張り替えなきゃならないぜ。いくらお金を出しても、足りないよ。どうしてくれるんだよ!」

そうぐちを漏らしても、水穂さんが変わることはできないし、それは無理な話だった。杉ちゃんは、大きなため息をついた。それと同時に、ジョチさんが、隣の部屋からやって来て、

「また汚したんですか?」

と、杉ちゃんに聞いた。

「ああ、もうきれいに汚してくれました。最近これがひどくなるな。毎日のようにこうなっちまったら、畳代がたまんないよ。」

「そうですねえ。」

杉ちゃんがいうと、ジョチさんは、頷いた。

「本当は、畳を張り替えるよりも、世話をしてくれる人を、一人雇ったほうが、安く済みますけどね。」

「そうだなあ。僕も、しょっちゅう水穂さんのそばにいられるわけでなし。誰か一人、そばに着いていられるやつがいてくれたら、どんなに楽だろうと思ったこともあるよ。誰か、来てくれそうな女中がいないかな。どっかの斡旋所に電話かけて見てくれない?」

と、杉ちゃんが、そう言うが、過去の事例でどうなるのかは、もう知っている。

「そうですねえ。確かに、家政婦さんや女中さんを雇う事を試みましたが、いずれの方も、みんな水穂さんに音をあげて、やめてしまうのですよね。今まで、富士市内の家政婦斡旋所に虱潰しに電話しましたが、みんな、失敗でしたよ。みんな、労働者は場所を選ぶ権利があるとか、そっちの方を主張するんですよね。まあ、それも時代の流れですから、仕方ないですよ。」

ジョチさんは、やれやれという顔をした。

「でもさあ、僕が一人で水穂さんの世話をするのも、ちょっと大変だよなあ。僕、歩けないから。」

と、杉ちゃんは、思わず言った。

「誰か、介護のできる女中さんがいて、そいつと役割を分担できれば。」

その後、杉ちゃんは、言葉を切った。そういう事は、もう水穂さんにとっては、当たり前というか、なんだか水穂さんを象徴するような言葉になっている。

「まあ、いずれにしても、介護ヘルパーは、高齢者でないと頼むことはできませんから、誰か、できる人が、世話をしなければなりません。もちろん、杉ちゃんの言うことは、理想的ですけど、それは、砂上の楼閣と思ったほうが良いですね。」

ジョチさんは、現実的なセリフを言った。

「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルのセッションに参りました。」

玄関先で竹村さんのこえがした。

「あ、そういえば今日は、竹村さんが来る日でしたね。」

ジョチさんがそう言うが、水穂さんは、眠ってしまっていた。竹村さんは、それには構わず、クリスタルボウルを乗っけた台車を押しながら、四畳半にやってきた。

「ああ、眠ってしまわれたんですか?」

と、竹村さんはそう言うが、先程何が起きたのか、すぐに分かってくれたようである。畳に染み付いた血液をみて、またやったんですね、とすぐに言ってくれたから。

「全くだ。クリスタルボウルのセッションがどうのこうのより、誰か世話するのを手伝ってくれる人間を雇いたいねって、今話してたところだ。」

と、杉ちゃんは、すぐに言った。

「ああ、それなら、ちょうど良い人材が一人いますから、紹介しましょうか?明日、刑期を終えて、出所してきますが、働くところが見つからないと言ってましたからね。」

いきなり竹村さんがそう言うので、杉ちゃんもジョチさんも驚いてしまった。

「刑期を終えて出所?」

杉ちゃんが言うと、

「はい、そうです。覚醒剤取締法違反で捕まりましたが、決して、悪い人ではございません。高校3年生の時、覚醒剤を使用したようで、10年ほど刑務所にいましたが、そういう理由で違法薬物をやる人というのは、優しすぎるくらい優しい人が多いですからね。」

竹村さんは、にこやかに笑っていった。

「きっと、水穂さんの世話をしろといえば、しっかりやってくれると思います。明日出所して、刑務所まで迎えに行くことになっていますから、そのままこちらへ連れてきましょうか?」

「ああ、わかりました。失礼ですけど、男性の方ですか?」

ジョチさんが聞くと竹村さんは、

「いいえ、ちがいますよ。女性ですよ。名前は、角之倉繭子さんという方です。長たらしい名前ですけど、忘れにくい名前でもありますよね。」

と、二人に行った。

「角之倉繭子さんね。じゃあ、猫の手も借りたいときだから、連れてきてくれ。よろしく頼む。」

杉ちゃんがそう言うと、竹村さんは、はい、わかりましたと言った。確かに、刑務所に入っていたとなると、ちょっと心配ではあるけれど、それよりも、手伝い人が来てくれて嬉しい方が勝っていた。

翌日、竹村さんが、一人の女性を連れて、製鉄所にやってきた。確かに出所したばかりなので、ジャージ姿であったけれど、なんだかかわいい感じの女性でもあった。でも、理由は何故か知らないけど、髪が赤かった。竹村さんの話によれば、幼い頃飲んだ薬のせいだというのだが、杉ちゃんが思わず、

「すごい色の頭してんな。火事みたいじゃないか。」

と笑ってしまったほどである。竹村さんは、黒く染めさせましょうか?と言ったが、

「本人がそうしたいと思うんだったら、そうすればいいさ。まあ、僕は、偏見はないからね。しっかり働いてくれればそれで良いよ。」

杉ちゃんは、そう言って、繭子さんを、四畳半へ招き入れた。水穂さんは、ウトウトしていたが、二人がやってくると、よろよろと布団の上に起きた。

「はじめまして。角之倉繭子と申します。どうぞよろしくおねがいします。」

と言って丁寧に座礼をする繭子さんは、たしかに悪い人では無さそうであった。

「薬物で捕まったと言いますが、おからだのほうは大丈夫なんですか?」

と、水穂さんが聞くと、

「ええ、たまに幻聴と、幻覚が出ることがありますが、それ以外には何もありません。」

と、繭子さんは答えた。

「わかったよ。じゃあ、まずはじめに、お前さんには、風呂掃除をやってもらおう。」

と、杉ちゃんが言うと、繭子さんは、わかりました、と言って、風呂場に歩いて言った。杉ちゃんがそれをついていって、掃除用具のある場所を教えた。繭子さんは、すぐにたわしに洗剤をつけて、掃除を始めた。大変手際よく、一生懸命掃除をしている。数分後、風呂掃除が終わったと繭子さんに言われて、確認に行った杉ちゃんは、

「すげえきれいになってるじゃないか。その頭といい、まるで垢嘗だな。チリ一つ落ちていないじゃないか。」

と感想を漏らした。

「ええ。それだけでも、丁寧にやるようにって、刑務所にいた時、教わったんです。」

繭子さんは、そう言うが、

「いやあ、良いってことよ。じゃあ次は、庭の落ち葉を掃いてくれや。」

杉ちゃんは、次の用事を言った。

「わかりました。」

と繭子さんは、すぐに箒を取って、中庭にいったが、

「わあ!ムカデがいっぱい!」

とすぐに言った。もちろん、中庭には、ムカデのような虫は一匹もいないのだが。

「はあ、それがどうしたの?」

と、杉ちゃんは言った。

「ごめんなさい、お庭には、ムカデが一杯で。すぐに駆除しなきゃ。」

こういうときは、できるだけ口に出して言わせることが肝心だった。それも、事実と感情は切り離して表現させ、混同させないようにすることが大切だ。

「ごめんなさい、殺虫剤とかありますか!」

「そんなものいないよ。」

ちょっと、気持ちが高ぶっているように見える繭子さんに、杉ちゃんはあっさりと言った。こういう時、きくがわも感情と事実を分けることが重要なのだ。

「虫なんかいないから、庭の掃除をしてくれ。大丈夫だよ。変な虫に刺されることはないからね。」

杉ちゃんは、繭子さんに、庭へでろといった。繭子さんは、にわに出たが、箒で、庭に生えているイタリアカサマツの木の枝を叩いたりして、ろくに掃除にはならなかった。杉ちゃんたちには、見えていないことではあるけれど、繭子さんには、きっと松の木に虫がいっぱい居るのだろう。

結局、繭子さんが、来てくれたその日は、松の木の枝を揺するばかりで、庭掃除はろくにしてくれなかった。でも、杉ちゃんも水穂さんも、何も言わなかった。そういう事は、他人がいくらそのような事実はないと言い聞かせても通用するものではないからだ。繭子さんが、来訪する時間は、一時から五時までと竹村さんに言われていた。それ以上働かせると、覚醒剤の後遺症が、ひどくなってしまう可能性があるので。

「もう時間だから、今日は帰ってくれてもいいよ。」

杉ちゃんは、未だに松の枝を叩き続けている繭子さんに言った。

「まだ、虫が見えるのか?それなら、虫を退治するのは、またあしたしてくれればいいよ。繭子さん、今日は、よく休んでや。」

杉ちゃんが、お茶を用意しながら彼女に言った。水穂さんは、布団に寝転がったまま、心配そうに彼女を見ている。

「おい、お茶にしよう。」

と、杉ちゃんがいうと、

「でも、松が、虫にやられてしまうかもしれないので。」

と、繭子さんは答えた。ということは、妄想の症状もあるのだろうか。

「いやあ、大丈夫だよ。虫は、みんな落っこちたからあ。虫の事はもういいからさあ。お茶を飲んで、落ち着けや。」

杉ちゃんは、言いたいことを淡々と言った。繭子さんは、わかりましたとだけ言って、静かに戻ってきた。

「そういう症状は、今でもあるんですか?」

水穂さんが、小さな声で繭子さんに聞いた。

「じゃあ、私がみた、虫というのは。」

繭子さんは驚いた顔をする。

「ああ、実在はしていないよ。でもお前さん自分を責めちゃいけないぜ。それは、お前さんが悪いわけではないんだ。覚醒剤が悪いんだから。事実お前さんは、風呂掃除だって、あんだけきれいにしてくれたんだからさ。本物の垢嘗も、舐めるところがなくて、すごすご帰ってくよ。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「ご、ごめんなさい。私、できるだけ気をつけようと思っているんですけど。やっぱりまだ、気持ちが、ついていかないんですね。」

繭子さんは申し訳無さそうに言った。

「覚醒剤は、随分やっていたんですか?」

水穂さんが繭子さんに聞くと、

「ええ、たまたま、近くに売りつけている人がいましたから。勉強がはかどるって言われて、それを鵜呑みにしたのがまずかったんですね。」

と、繭子さんは答えた。

「そうなんですか。甘い言葉というか、誰かの言葉に騙されてしまったんですか。」

水穂さんがそうきくと、

「ええ。毎日毎日、成績が悪いって、叱られてましたから。成績が悪いせいで、ご飯も食べさせて貰えないほどでした。だから、勉強がはかどると言われて、すぐにほしいと思ってしまったんだと思います。」

繭子さんは、すぐにそう返した。

「本当は、いけないですよね。でも、私には、それしかなくて。」

「そうですか。その当時はそれしかなかったかもしれません。でも、今は、薬物で繋がった世界を断ち切る努力をしてください。薬物で繋がった世界ではなく、別の世界で生きていかないと、そういうものはやめられませんからね。もうしてしまったことは、仕方ないこととして、新たな世界に入っていけるといいですね。」

と、水穂さんはにこやかに言った。

「そんな事、言ってくださるんですか?」

と、繭子さんは、驚いた顔で言う。

「私は、刑務所でも、家庭でも、行けないものに手を出した、悪い女性だとしか言われませんでした。」

「まあ、世間一般で言えばそうなると思いますが、でも、そういう事は、仕方なかったんだと思います。もしかしたら、新しい世界に行くためには、それがないと、だめだったのかもしれない。だから、そういうものだと思って、健康を取り戻す努力をしてくださいね。」

水穂さんは、繭子さんにそういった。杉ちゃんが、水穂さんらしい答えと、カラカラと笑った。

その日は、五時になったので、繭子さんは帰っていった。翌日も一時の時間通りに繭子さんはやってきた。まずはじめに風呂掃除をして、床の水拭きもしてくれる。本当は、庭掃除もできるようになってくれればいいのだが、繭子さんは、庭へ出ると、虫が居るとか、そういう事を言ってできなくなってしまうのだった。そこさえできれば、本当によく働いてくれるのに、なんだか、もったいない人材でもあった。

その次の日、繭子さんは、また時間通りにやってきて、また風呂掃除をしてくれて、床の水拭きもしてくれた。今回は、なんだか考え込んでいるような感じだったけれど、箒を持って庭に出てくれた。

「繭子さん、虫が見えますか?」

と、水穂さんが、布団に寝たままそう言うと、

「いえ、見えるんですけど、皆さんには見えないんですよね。私も、皆さんにたどり着くようにならなくちゃ。」

と言って、繭子さんは、一生懸命庭を掃除し始めた。ちょうど、水穂さんのおやつをつくっていた杉ちゃんが、

「おう。やっと覚醒剤を断ち切る努力を始めてくれたな。それができれば最高だよ。良かったね。」

と明るく言ってくれたのがなお良かったようだ。彼女は、みんなには見えないのよ、と自分に言い聞かせながら、一生懸命庭を掃いている。

「じゃあ、庭を掃き終わったら、みんなでおやつにしよう。」

と、杉ちゃんは、縁側に柏餅をおいた。水穂さんが、

「どうぞ、繭子さんも食べてください。」

と言った。繭子さんは、庭を掃くのをやめて、すぐに縁側へ戻ってきた。

「柏餅だよ。わかるか?」

と、杉ちゃんが柏餅を顎で示すと、

「ええ、わかります。」

繭子さんは答えた。

「じゃあ、庭を掃けるようになったご褒美だ。柏餅を食べていいよ。」

と、杉ちゃんに言われて、繭子さんは、柏餅を食べた。なんと涙を流している。

「どうしたんだよ。柏餅を食べることがそんなに嬉しいか?」

杉ちゃんが思わず聞くと、

「はい。だって私、こうしてみんなで集まって柏餅を食べるなんて、一度もしたことがなかったんです。私は、犯罪者だから、そうしては行けないんだって、思っていました。」

と、繭子さんは、答えた。確かに、こういう経験が何もないというのは、寂しいものであった。その寂しさが、つもりに積もって、こういう覚醒剤とか、そういうものに走ってしまうきっかけになるのかもしれなかった。

「まあ、そういう気持ちが無いわけでもないと思うけど、せめて、ここに居るときは、素直に喜びな。」

と、杉ちゃんに言われて、繭子さんは、はいと言った。

と、同時に、玄関の引き戸がガラッと開く。

「あの、すみません、ここに、角之倉繭子という女性が来てますよね?」

中年の女性の声だった。杉ちゃんが今手が離せないので上がってきてくれというと、繭子さんとよく似た雰囲気を持っている女性が、四畳半へつかつかとやってきた。

「繭子の姉の優子です。失礼ですけど、繭子は出所したら、精神科に入院させて治療をさせることになっています。ここで働かせるなんて、もってのほかです。すみませんが、繭子を引き取らせてください。」

馬鹿に形式的な言い方だった。繭子さんを、厄介払いしたい気持ちが見え見えだ。

「ちょっとまってよ。繭子さんは、一生懸命庭掃除しようとしてくれたぜ。病院に入院って言っても、保護室に閉じ込めとくだけだろ?それよりも、外へ出させて、人に触れたほうが良いと思うんだけど?」

と、杉ちゃんが急いでそう言うと、

「いいえ、こういう人は、なるべく刺激を与えないほうがいいと言われたことがありました。だから、自然がいっぱいあるところで、隔離してあげたほうがいいと思うので、繭子を連れていきます。」

と、お姉さんは、急いで繭子さんを無理やり立たせた。

「だ、だけどねえ。繭子さんは、できるだけ人間と接触させてやったほうが。」

杉ちゃんが急いでそう言うが、

「みんな偉い方は、そういいますけどね、そういう方は、偉くなるための材料というか、ネタがほしいんでしょう。皆さんそうなんだって、ちゃんとわかりますよ。医者も、弁護士の先生も結局そうでしたもの。だから、繭子を見てあげられるのは私だけなんですよ。さあ繭子、帰りましょう。帰って、安全なところに行きましょう。」

と、お姉さんは繭子さんに言った。

「待ってください。僕達は、決して、そのようなつもりで繭子さんに接しているわけではありません。」

水穂さんがそう言うが、繭子さんが一言、

「お世話になりました!」

と、だけいったのだった。

「私、忘れませんから。杉ちゃんや、水穂さんが私の事、そうやって見てくれたことは絶対に忘れませんから!ほんの短い間だったけど、ありがとうございました!」

なんだか虚しい発言だけど、そうなってしまうのだった。繭子さんは、お姉さんに連れられて、製鉄所を出ていった。

「繭子さんより、お姉さんの方が病んでいるのかもな。」

杉ちゃんが思わず呟いた。




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垢嘗 増田朋美 @masubuchi4996

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