それは、ロールキャベツの中にある。 〜同棲を始めた社会人カップルの話〜

河津田 眞紀

それは、ロールキャベツの中にある。

 




 零時十五分。


 今日も終電に乗り、帰路に就く。



 乗客はそれほど多くはないが、平日の終電には飲み会帰りの酔っ払いか、自分と同じ疲れ果てた会社員しか乗っていない。


 いや、もしかするとその他の人種も乗車しているのかもしれないが……

 最近は、周りの乗客を観察する気力も無くなっていた。



 社会人二年目。

 後輩ができ、任される仕事も増え、良く言えば充実した日々。

 しかし悪く言えば、仕事のためだけに生きているような毎日を送っていた。



 ヒールの擦り減ったパンプスを鳴らし、自宅の最寄り駅に降り立つ。

 スーツのジャケットだけでは風が冷たい季節になってきた。寒いのは嫌いだ。心がもっと寂しくなるから。


 駅からは自転車に乗って自宅を目指す。

 途中、なかなかに急な上り坂道がある。私はうんざりしながら、立ち漕ぎをして駆け上がった。


 自宅は、住宅街にある二階建てのアパートだ。

 自転車を停め、階段を上る。


 二階の、廊下の突き当たりにある角部屋。

 そこが、二ヶ月前から住み始めた私の家。

 私は鞄から鍵を取り出し、なるべく音を立てないように玄関のドアを開けた。


 静かに内鍵を閉め、足だけでパンプスを脱ぎ、寝室へと向かう。

 鞄を下ろし、スーツを脱ぎ、部屋着に着替える。

 洗面所で手を洗い、うがいをして、ぱっと顔を上げた時……

 掃除しなきゃと思いながら、もう何日もできていない汚れた鏡を見て、ため息をついた。


 リビングキッチンにある、食事用のテーブル。

 その椅子に座り、もう一度ため息。


 何か食べなきゃ。

 そう思うが、身体が動かない。

 ガスコンロの上に鍋が置いてあるのに気付いているが……

 胸が苦しくなって、見ないふりをした。




 そうして、薄暗いリビングに一人座っていると……



 ──ガラッ。



 リビングから繋がる和室の襖が開いた。

 その先の暗がりから、がのそのそと歩いて来て、



「……あ、はるちゃん。お疲れさま」



 と、寝ぼけまなこを擦りながら言った。



 彼は、同棲している私の恋人だ。

 名前は勇翔ゆうと。付き合ってもう五年になる。

 私より十歳年上で、人生的にも社会人的にもだいぶ先輩と言えるが、童顔なせいかあまり年の差カップルに見られないことが多い。



「あれ? お鍋にロールキャベツ作ってあるんだけど、気付かなかった?」



 私が何もせずに座っているのを見て、彼はコンロの上の鍋に近付く。



「今日のは大成功だよ。前回は煮てる間にキャベツが開いちゃったけど、今回はすごく綺麗に包めたんだ」

「…………」

「コンソメじゃなくてトマトベースのスープで煮込んでみたんだよ。はるちゃん、トマト味好きでしょ? めちゃくちゃ美味しくできたからさ、ちょっとだけでも食べてみてよ」



 その声に、応えたいのに。

 喉がつかえて、言葉がすぐに出てこない。


 黙り込む私に、彼は困ったように笑って、



「……ごめん。ロールキャベツって気分じゃなかった?」

「…………」

「あれだよね。疲れてる時ほどしょっぱいものとか辛いものとか、刺激強めなものが食べたくなったりするよね」

「…………」

「失敗したなぁー、チゲ鍋にするか迷ったんだよね。そっちの方がよかったかな?」

「…………」



 何も答えない私に、彼はそっと近付き、



「……お仕事お疲れさま。外、寒かったでしょ? お風呂も沸いてるから、ちゃんと温まってね」



 ぽん、と私の頭に大きな手を置いて。

 優しく、労るように、髪を撫でた。


 その温もりに、優しい眼差しに、私は……

 張り詰めていたものが、ぷつんと切れて、




「…………うわぁあああんっ!」




 子どものように声を上げ、泣き出した。



「えっ?! 何?! どうしたの?!」



 突然のことに、彼は狼狽えながら尋ねる。

 私は、涙をぼろぼろ零しながら、




「出て行く!!」




 叫んだ。

 彼は「えーっ!?」と驚愕し、顔を真っ青にする。



「な、なんで?! ロールキャベツそんなに嫌だった?!」

「違うのっ! 嫌なのは、ロールキャベツじゃなくて……っ」



 しゃくり上げながら、首を横に振って、




「嫌なのは『私』っ……勇くんに迷惑かけてばっかりの自分が、嫌すぎるのっ! ごめんね、勇くん……うわぁああんっ」




 ……と、また泣き始めた私を見つめ、



「…………は?」



 彼は、ぱちくりと瞬きをした。






 * * * *






「──要するに、俺にばっか負担をかけすぎているんじゃないかって不安になったわけね」



 数分後。

 私のぐずぐずな話を聞き終えた彼は、それを見事に要約してくれた。


 私は何度も頷き肯定する。



「そうっ。だって勇くんは、毎日ご飯作ってくれて、お風呂沸かしてくれて、お皿洗いとかゴミ捨てもしてくれて、何よりこんな時間に帰って来る私を起きて迎えてくれるのに……私は、自分の仕事でいっぱいいっぱいで、勇くんのために何もしてあげてない……っ」



 また涙が込み上げ、鼻を啜る私に、向かいに座る彼は苦笑しながらティッシュを差し出す。

 私はそれを受け取り、ちーんと鼻水をかんで、



「明らかに勇くんの負担の方が大きいんだもん……一人暮らししていた時より大変な思いさせているんだろうな、って思って……」

「それで『出て行く』なんて言ったのか」

「うん……」



 はぁ、と呆れたようにため息をつく彼。



「はるちゃんだっていろいろやってくれてるじゃん。俺が苦手な洗濯とか掃除とか、休みの日にはご飯も作ってくれるし。たまに朝起きて見送ってくれるし」

「でも、洗面所の掃除ずっとサボりっぱなしだよ? 休みの日もお昼まで寝ちゃって、晩ご飯しか作れてないし……お見送りするのは本当に『たまに』だし」

「家の中が多少汚れてたって死にはしないよ。それに、遅い時間の仕事なんだから昼まで寝るのは当たり前だと思うけど?」



 間髪入れずに論破され、私は「う゛」と言葉を詰まらせる。


 彼は、朝早くに家を出て、日が沈む頃に帰宅する朝型の仕事。土日と祝日はしっかり休める会社に勤めている。

 一方の私は、昼前に家を出て、深夜に帰宅する夜型の仕事。しかもシフト制で、土日祝日関係なしに出社することもある。残業も多い。


 だから、私が社会人になってからはずっとすれ違いの生活だった。

 それが嫌で、少しでも一緒にいる時間を増やそうと、二ヶ月前から同棲を始めたのだが……



「休みはなかなか合わないし、合っても私は昼まで寝てるし、平日は一言も会話せず寝顔しか見れないこともあるし……」



 まぁ、それもこれも私の仕事のせいなんですけどね。

 と、胸の内で付け加え、自嘲する。


 同棲しているというのに、お互いの出勤か帰宅に合わせて起きない限りは、一週間以上顔を合わせないことだって十分にあり得るのだ。



「同棲すれば寂しくなくなると思ってたのに……なんで余計に寂しくなっているんだろう? 同じ家にいるのに、全然同じ時間を過ごせていない。しかも勇くんにばっかり家のこと任せて、彼女らしいこと何もしてあげられてないし……これじゃあ一緒に住んだ意味ないよって、思っちゃったの」



 言いながら、また涙が出てくる。

 しかし彼は、きょとんとした顔をして、



「……その、はるちゃんが言う『彼女らしいこと』って、何?」



 そう尋ねる。



「まさか、俺のためにご飯作ったり、お風呂を沸かしたり、家を綺麗に保つことが『彼女らしい』って思ってる?」



 真っ直ぐ突き付けられた問いに、思わずドキッとする。


 図星だった。

 彼女なら……なら、美味しいご飯を作って、家を綺麗にして、彼の生活をサポートするべきだと思い込んでいたから。



「だって……友だちとか先輩に勇くんの話すると驚かれるんだよ? 『彼氏にご飯作ってもらってるの?』って。『彼氏偉いね』って。やっぱり女が料理をするのが当たり前で、勇くんも本当は料理してくれる彼女の方がいいのかなぁ、なんて思っちゃって……」

「いやいや。俺、はるちゃんに家事やってもらいたくて同棲を始めたわけじゃないんだけど」



 彼は、少し語気を強めて言う。



「女の子に家事スキル求めるとか、何時代の話? お互い働いているんだもん、やれる方が家事やるのは当たり前じゃん」

「でも、そんなこと言ったら勇くんにばっかりやらせちゃうことになるし……」

「俺は一人暮らしが長かったからいろいろ慣れているだけ。料理だって好きでやっているんだよ? それなのに、男は料理しないものだって決めつけて……『偉い』だなんて、何様だよ」



 腕を組み、眉間に皺を寄せる彼。

 どうやら本気で頭にきているらしい。



「俺のことを『偉い』って言うなら、男と同じか、あるいはそれ以上にバリバリ働いているはるちゃんはどうなるわけ? それは偉くないの? 女は男と同じように仕事した上で料理もしなきゃいけないの? そんなんおかしいだろ」

「ご、ごめんね。嫌な気持ちにさせちゃって……」

「あぁ、ごめん。はるちゃんに怒っているわけじゃないよ。まだまだ古い固定概念に囚われている人間が多いなぁって呆れてるだけ。そんなもののせいではるちゃんが不安になっているかと思うと、やり切れなくてさ」



 額を押さえ、息を吐く彼。

 その言葉を聞き、私は「確かに……」と呟く。



「私も、『"女だけど"仕事してます!』だなんて思ったことない。好きだから頑張ってるだけ」



 そう、頭に浮かんだことをそのまま溢すと、彼はうんうん頷く。



「でしょ? 好きでやってることに対して『女なのにそんなことしてんの? 偉いね!』って言われたらムカつかない?」

「うん……確かにちょっとムカついてきた!」



 ふん、と鼻息を荒らげる私を見て、彼は小さく笑う。


 

「はるちゃん、本当に仕事頑張ってるもんね。毎日終電で帰ってくるのは心配だし、泣くほど疲れているのを見ると大丈夫かなって思うけど……はるちゃんがどんな想いで今の仕事を始めたのか知っているから、『辞めろ』とは言えないよ。仕事を頑張りたいからこそ、同棲生活との両立に苦心しているんだろうしね」



 穏やかな声でそう言われ、私は……

 この人の前では嘘や誤魔化しは通用しないなぁと、あらためて思い知らされる。



 私の仕事は、予備校の運営だ。

 十八歳の時、大学受験を控えたその年に親が離婚し、私は最悪な家庭環境の中で受験勉強をしていた。

 そんな私をいつも励まし、何とか掴み取った第一志望合格を親より喜んでくれたのは、塾の先生たちだった。

 その経験から、私も教育業界で働きたいと……生徒の心に寄り添えるような予備校を作りたいと思うようになった。

 だから、この仕事は大変だけど、簡単には辞めたくない。



「……勇くんの言う通りだよ。仕事は頑張りたい。けど、勇くんとの生活も大事にしたい。せっかく同棲を始めたんだもん、一緒に住んでよかったって、一人暮らしをしていた時よりも楽になったって、少しでも思ってもらいたい。そんな風にあれもこれもって欲張って、勝手に自分を追い込んで、自己嫌悪に陥って……」

「そんで、『出て行く!!』に行き着いた、と」

「ごめんなさい……」



 しゅん、と肩を落とす私に、彼は困ったように笑う。

 そして、



「……ねぇ、はるちゃん。俺は、必ずしも『ラク=幸せ』ではないと思うんだ」



 そう、言い聞かせるように続ける。



「俺さ、"はるちゃんのためにご飯を作る自分"が好きなんだよ。そりゃあ、一人暮らしの時はコンビニ弁当やカップ麺を食べてラクしていたよ? けど、俺が作った料理をはるちゃんが『美味しい』って食べてくれる幸福感を知っちゃったら、もうラクなだけの飯には戻れない。何より……はるちゃんと一緒に長生きしたいから、ちゃんと健康でいたいなぁって思うし、そのためにも料理をしているんだよ」



 ……と、将来のことを想起させる言葉に、思わず顔が熱くなる。

 唇をぎゅっと閉じる私を見て、彼は照れ隠しをするように続ける。


 

「要するに、俺は何にも負担に感じていないってこと。相変わらずすれ違い生活だけど、離れて暮らすよりはずっといいし、はるちゃんに対する不満も一切ない。そもそも何で同棲し始めたかって言えば……」



 そこで、一度言葉を止め。

 私の目を見つめながら、




「……好きだから。はるちゃんのことが大好きで、一秒でも長く側にいたいからだよ。それ以上のことなんて、最初から求めていない」




 そう、迷いなく言った。

 その真剣な眼差しに、真っ直ぐな言葉に、胸の奥がきゅっと切なくなる。



「はるちゃんは? どうして俺と暮らそうと思ったの?」



 少し緊張した顔でそう尋ねられ……

 私は、彼との同棲を決めた時の気持ちを思い出す。

 そして、止まっていたはずの涙が再び込み上げるのを感じながら、




「そんなの決まってるっ……勇くんのことが、大好きだからっ…… 一秒でも長く、側にいたいからだよ……っ」




 震える声で、そう答えた。

 彼は安心したように笑うと、私の方に腕を伸ばし、



「よかった。その気持ちがあれば、俺たちは大丈夫。せっかく好きで一緒にいるんだもん、お互いやってもらったことには『ごめん』じゃなくて『ありがとう』でいいじゃん」



 頭を撫でながら、優しく言う。



「はるちゃんのことが好きでいろいろやってるのに、そのせいで出て行かれるとか意味わかんないよ。そう思わない?」

「う。確かに……」

「ね? だからもう『出て行く』なんて言わないこと。わかった?」



 彼の微笑みに、私は大きく頷く。



「うん……ありがとう、勇くん……うわぁああん大好きぃぃいっ」

「あーもー泣かないの。明日目ぇ腫れても知らないよ?」



 そうして、振り出しに戻るかのようにぼろぼろ泣いて……しばらく彼を困らせた。






「──それで? ロールキャベツは食べますか?」

 


 ぽん、と私の頭に手を乗せ、彼が尋ねる。

 鼻水をちーんとかんでから、私は首を何度も縦に振る。



「食べるっ。食べまくるっ!」

「あはは。じゃあ今温めるね」



 もう一度頭を撫でると、彼はキッチンへ向かいコンロに火を点けた。

 そして、鍋の中身をお玉で混ぜながら言う。



「あと一、二年すれば、はるちゃんも力の抜き方がわかってくるかもね。仕事も家事も程よく適当に、周りに甘えながらでいいんだよ? その方が無理なく続けられるんだから」

「うぅ……」

「はるちゃんは真面目だからなぁ。『適当』ってのが苦手だよね。頑張りすぎていっぱいいっぱいになって爆発するのは今に始まったことじゃないし」

「ごめんなさい……」

「うそうそ。そこがはるちゃんの良いところだから。けど、本当に辛くなる前に俺に言ってね。今日みたいに泣いてくれてもいい。はるちゃんの泣き顔見るの、嫌いじゃないから」

「えっ?! 何それ!」

「あはは」



 深夜に響く、彼との会話。

 コトコトという温かな音と、トマトスープの良い香り。

 寝間着姿のままお玉を握る彼の背中に、私は言いようのない安心感を覚える。


 やがて、彼はコンロの火を止め、皿に盛り付けると、



「はい、どうぞ」



 私の前に、それを差し出した。


 綺麗に巻かれた、大きなロールキャベツ。

 よく煮込まれ、柔らかくなっていることが見ただけでわかる。

 スープにはトマトの果肉が浮かび、爽やかな酸味と洋風だしの合わさった良い香りを醸し出している。

 その見た目と匂いに、忘れていた食欲が一気に呼び覚まされる。


 私は、彼からナイフとフォークを受け取ると、



「……いただきます」



 手を合わせ、食べ始めた。


 ほかほかと上がる白い湯気。

 高鳴る胸を抑えながら、包まれたキャベツの真ん中に、ゆっくりとナイフを差し込む。

 半分に切って断面を覗くと、挽き肉の肉汁がじゅわりと溢れた。

 さらに、その挽き肉の中心から、とろりと白いものが伸びる。

 これは……もしかしなくても、



「……チーズ?」



 そう。

 挽き肉の中に、チーズが入っていた。



「すごい! これ、中に入れるの大変だったんじゃない? よくこんな綺麗にできたね!」



 思いがけないサプライズに感動していると、彼は私の向かいに座って、




「はるちゃん。それはチーズじゃなくて──"愛"だよ」




 キリッ、と格好つけた表情で言った。

 それから、はにかんだように笑って、



「はるちゃん、チーズ好きでしょ? 入れたら喜ぶかなぁって思ってさ。そのひと手間が、俺の愛情表現ってわけ」

「愛情表現……」

「だから食べて欲しかったのに、はるちゃんってば『出て行く!』なんて言うんだもん。泣きたいのは俺の方だったんだからね?」



 拗ねたように言う彼に、私は重ね重ね申し訳なくなり、「本当にごめん」ともう一度謝る。

 そして……あらためて目の前の料理を見つめる。



 このロールキャベツには、彼の愛情がたくさん詰まっている。

 トマトベースのスープも、中に入ったチーズも、ぜんぶ私が好きなもの。

 私を想いながら作ってくれたことが、とてもよくわかる。


 嬉しくて、切なくて、胸が苦しいくらいに締め付けられる。

 彼への『好き』で、いっぱいになる。

 同時に、やっぱりもらってばかりだなぁ、とも思う。

 彼から溢れるばかりの愛情をもらいすぎて、少しも返せている気がしない。


 でも……いや、だからこそ。

 これからも、一緒に暮らしていきたい。

 今はまだ不器用な私だけど、いつかもらった分以上の愛情をお返ししたいから。

 勇くんのことが、大好きだから。

 もう……『出て行く』なんて、逃げたりしない。




「……なーんて、チーズくらいで偉そうに言い過ぎたね。あまりに上手く作れたから、ちょっと調子に乗っちゃった」



 そう、彼は自嘲するけれど。

 私は首を横に振って、真剣に答える。



「ううん。これは間違いなく勇くんの"愛"だよ。私にはわかる」

「お、さすが違いのわかる女。では、冷める前にどうぞ召し上がれ。はるちゃんに食べてもらいたくて、うずうずしていたんだ」



 頬杖をついて、私を見つめる彼。

 私は、中のチーズが溢れないよう、切り分けたロールキャベツを一気に口の中に入れた。



「……どうですか? お味の方は」



 たぶん彼は、聞かなくてもわかっていたはずだ。

 その味にうっとり頬を押さえる私を見て、ニヤニヤと満足げな顔をしているから。

 だけど私は、この美味しさと嬉しさをちゃんと伝えたくて、



「すっっごく、おいしい! 勇くん天才!!」



 自分でもわかるくらいの満面の笑みを浮かべ、答えた。

 彼は「あはは」と嬉しそうな声を上げる。



「あぁ、はるちゃんのその顔、やっぱり最高だなぁ。わざわざ起きてきた甲斐があったよ」

「はっ。ごめん、こんな時間になっちゃったね。私はもう大丈夫だから、先に寝てね」

「やだよ。もう少しだけ、はるちゃんが食べているのを見ていたい」



 そう言って、本当に私の顔をじっと見つめてくるので……

 私は恥ずかしくなって、俯きながらちびちび食べ進めた。




「……そういえば、まだ言っていなかったね」



 思い出したように、彼が呟く。

 私が首を傾げると、彼は穏やかな声で、




「──おかえり、はるちゃん」




 優しく、言った。



 それは、住むべき場所に帰って来たしるし。

 私の居場所は、間違いなくここなのだと……そう教えてくれる、温かな呪文。


 私たちの同棲生活は、まだ始まったばかりで。

『こんなはずじゃなかった』って、この先も落ち込むことがあるかもしれないけれど。


 こんな私に、彼がその呪文を唱え続けてくれるなら……

 私も同じ数だけ、こう応えることにしよう。

 




「……ただいま、勇くん」



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