憂鬱な図書館
西田素兎子 (にしだ もとこ)
憂鬱な図書館
暗い帰り道で、ふと明かりが目に入った。歩道の横に建っている、いかにも家賃の安そうなぼろいアパート。その一階に、微かに光る看板のようなものが立っている。
「お店?」
涙を拭きながらも、どうにも気になって仕方がない。その看板に近寄って、よく見てみた。《憂鬱な図書館》の文字が、やっぱり淡く光っている。
「営業してるのかな」
淳くんの家を出た時に九時五十分くらいだったということは、今は十時過ぎ。こんな時間に図書館? とは思うけど、心惹かれるものがある。というのはやっぱり、私自身が憂鬱な気分だからだろう。
今日、というかさっき、私は付き合って三年になる淳くんにプロポーズをした。そして断られた。おかげで金曜日の夜、こんな時間にとぼとぼと家へ帰ろうとしている。だって結婚を断られているのに、「それはそれとして泊まります」なんて、無理だよね。
営業時間は、どこにも書いてない。でも看板が出ているということは、やっているのかも。恐る恐るノブに手をかけて、ドアを開いた。
「こんばんは……ひっ」
部屋の中は、異常な量の本でいっぱいだった。慌ててドアを閉め、アパートの大きさを確認する。明らかに、部屋の中の方が大きい。夢でも見ているのだろうか、ともう一度ドアを開けると、そこはやっぱり、本で埋め尽くされていた。
壁という壁が、本棚になっていて、その壁も、多分高さが三メートルはあるように見える。古いタイプのごつごつしたフローリングが、ずっと向こうまで続いていた。歩くとコツコツと音がして、まるで写真集で見た、ヨーロッパの古い図書館みたいだ。
「こんばんは、誰かいませんか?」
声をかけながら歩いていると、なにか動くものが見えた。よく見ると、人が本棚を整理しているようだ。
「あの!」
その人はゆっくりとこっちを向いた。
「あら、お客さん?」
若い、私と同じくらいの女の子。可愛らしい帽子をかぶったロングヘアの女の子が、この図書館の主なのだろうか?
「えーっと」
「あ、私が館長です」
女の子は、左胸についた名札を見せた。普通の、プラスチック製に見える名札には、《館長 藤木りんご》と書かれている。名前まで可愛いなんて、ずるい。私なんて、恭っていう男みたいな名前なんだもん。
「ここって、図書館、なんですよね?」
「そう。看板を見てきたんですね?」
「はい。あの、どうなってるんですか? ここ」
「さあ、私も館長になったばかりなんです。ごめんなさい」
その言葉を聞いて、私はさっと血の気が引いた。まさか、ここから一生出られないとか? そう思って振り返ると、後ろの方には確かにあのアパートのドアが見えた。
「大丈夫、ちゃんと出られますよ。仕組みはよくわからないけど」
「はあ」
藤木さんはにっこり笑うと、あたりを見回すようにきょろきょろとした。
「まずは、あなたに貸し出す本を見つけないと」
「え、でも」
歩き出した藤木さんに、私もついて行く。並んでいる本の背表紙には、文字なんか書かれていない。これじゃあ、本を探すなんて無理だと思うけど。
少しして、藤木さんは一冊の本に触れる。
「これかな」
本棚から取り出されたその本を、藤木さんが差し出してくる。表紙には、背と同じように何も書かれていない。それでも、その鮮やかな紫がかった赤の表紙を見て、直感で好きな色だと思った。
「貸出カードとかって」
「そういうのはないんです。なんていうか、ここに来れたことが、貸し出し資格、みたいな」
「そういう……」
「うん、そういう感じ」
私はその本を受け取った――と思ったら、アパートの前に立っていた。
「え、嘘」
さっき開けたドアの側には、もう看板はなかった。それでも、手には確かに一冊の本を持っている。それに、何も書かれていなかったはずの表紙に、文字が書かれていた。
タイトルは、『結婚という憂鬱』。当てつけだろうか? とは思ったけど、借りた物は大切に扱わないといけない。本をリュックにしまって、またとぼとぼと歩き出した。
*
あの図書館で本を借りてから、一週間が経っていた。『結婚という憂鬱』は、毎日持ち歩いて少しずつ読んでいるけど、どうやらエッセイ風の小説みたいだ。残りは五分の一くらい。これからクライマックスに向かうのかと思うと、どうしようもなく憂鬱な気分になって来る。
仕事の昼休憩中に、本を開く。続きは気になるんだけど、ストーリーがあまりに悲しい。主人公の女の子が恋人と結婚するんだけど、相手の仕事が忙しかったり、義理の両親との関係が悪化したり。とにかく結婚の悪い面、みたいな展開がずっと続くのだ。
一つ、ため息をつく。主人公の産んだ子供に病気が見つかって、入院しなきゃいけないらしい。この人は幸せにはならないんだろうか?
ページをめくると、パートナーとの関係は最悪になっていた。子どもに対する方針で、意見が食い違ったのだ。残りあと数ページ。……結局主人公は、離婚してしまった。それで、このお話は終わり。嘘でしょ?
*
職場からの帰り道、ふと考える。確かに結婚って、すればいいってものじゃない。他人同士が一緒になろうとするんだから、苦労することもあるだろう。本の主人公みたいに、結局離婚するかもしれないし。でも。
「……そういえば、貸し出し期限聞いてないな」
普通の図書館なら、二週間くらいのはずだけど。少し迷って、私は家を通り過ぎ、あのアパートに向かうことにした。
当たり前かもしれないけど、アパートは確かに建っていた。もしかすると建物自体がないかも、と思ったりもしたけど、ちゃんと図書館の看板も出ている。
ドアを開けると、そこはやっぱり凄まじい量の本が並ぶ、あの図書館だった。
「こんばんは」
声をかけても、近くには誰もいない。コツコツと歩いていくと、そこには藤木さんがいた。今日は、椅子に座って本を読んでいる。
どこか憂鬱そうな藤木さんは、ゆっくりと顔をあげた。そりゃ、憂鬱な図書館と言うからには、館長も憂鬱なのかもしれないけど。
「あの、本を返しに来ました」
リュックから本を出し、藤木さんに渡す。本のタイトルは、また消えてしまっている。よくわからないけど、そういう仕組みなんだろう。
「面白かった?」
本を受け取って、藤木さんはパラパラとめくっている。
「うーん、憂鬱な気持ちになりました」
「でしょうね」
藤木さんは笑う。
「でも、なんだろう。ちょっと考えさせられたんですよね。結婚って何だろう、みたいな。結局離婚するかもしれなくても、結婚したい気持ちがなくなるわけじゃなくて」
「あなたなら、離婚しないだろうって?」
「そうじゃなくて、えーっと。いつか離婚するとしても、今結婚したい……みたいな」
不思議そうな顔の藤木さんに、私はあわあわと手を振った。
「いや、自分でもうまく言葉にできないんですけど。うん、でも。始まらないお話は、終わらないじゃないですか」
「そう。あなた、幸せなのね」
「うーん、そうかもしれないです」
わたしの言葉に、藤木さんは少しだけうつむく。
「じゃあまた、憂鬱になったらいらしてください」
「えっ?」
気が付くと、そこはアパートの前だった。振り返ると、看板は出ていない。追い出されたってことだろうか?
リュックが震える感覚がする。ケータイが鳴っているんだ。慌てて内ポケットから取り出すと、画面に表示されていた名前は、沼田淳平だった。
「もしもし、淳くん?」
まずは、話し合うことからだ。少しだけ緊張しながら、私は歩き出した。
憂鬱な図書館 西田素兎子 (にしだ もとこ) @nishidamotoko
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