太平洋は今日は雪!! ~静岡県民おおはしゃぎSP~

日崎アユム/丹羽夏子

あんたっち雪降ってるだよ!

 それは、2022年1月6日午前11時のことだった。


 ここ数日静岡県沼津市の朝は毎朝よく冷えていた。いわゆる放射冷却というもので、昼間が晴れれば晴れるほど翌朝の気温が低く感じる。

 しかし今日の冷え方はいつもの冷え方とどうも少し違う。なんとなく湿っぽいのである。

 この湿気の多い寒さを、向日葵ひまわりは、知っていた。

 雪だ。雪が降る湿度だ。

 大学時代、つまり京都に住んでいた時に学習した、あの白くて冷たいものが降る予兆だ。

 そうはいっても静岡県のことである、そう匂わせておきながら空振りに終わりただの冷たい雨が降るだけの最悪の日になることも多いのだが、今日の場合は天気予想にはっきりと雪だるまのマークがついている。期待大だ。向日葵は天気予報よ当たってくれと祈った。


 雪が見たい。


 本日は正月も終盤、ひっきりなしだった親族の年賀の挨拶も絶え、帰省していた兄も会社の寮に帰ったところだ。祖母は茶屋の店番に行ってくれたが、家族の他のメンバー、すなわち父、母、向日葵、そして椿つばきの四人は寒さを耐え忍ぶため居間のこたつにこもって映画を見ていた。父のお気に入りのキングスマンだ。最近シリーズ最新作が封切りされ、年末年始休みが終わって人が少なくなったであろう明日に見に行く予定で、そのための復習をしたいというのである。椿と母の反応は薄いが、向日葵と父はこのシリーズが大好きだ。父がDVDを買って大事に保管していたので、それを引っ張り出してきて居間の大きなテレビ画面で再生したのだった。


 これから威風堂々が流れる、というタイミングで、障子が開いた。縁側のほうの出入り口だ。ガラス戸は閉めっぱなしだが薄いガラスの向こう側が外なので障子を開けると寒い。家族一同はあえてこちら側を使わず廊下側だけを使って器用に生活していたのだが、いったい何事か。


 顔を向けると、そこには店に行ったはずの祖母が立っていた。いついかなる時も冷静沈着、ここ何年も慌てるという姿を見せたことのない彼女がこんなに急いだ様子なのは珍しい。父はキングスマンを止めた。


「どうしたばあちゃん」


 彼女はたっぷり三秒くらい間をおいてから、こう答えた。


「雪」

「え?」

「雪が! あんたっち雪降ってるだよ!」


 向日葵はこたつから飛び出した。


 祖母の向こう側、縁側のほうに出る。ガラス戸の薄曇りの向こうに雨とは違うふわふわとしたものが下りてきている。


 ガラス戸を開けた。


 雪が、柔らかく美しい雪が、冷たく暖かい雪が、待ち望んでいた雪が、降っている。


「ゆっ」


 泣きそうになるのをこえらえながら。


「雪だーっ!!」


 向日葵はつっかけサンダルを履いて庭に駆け下りた。

 全身に冷たい雫に似たかたまりを浴びる。だがそのかたまりは向日葵の着ているオーバーサイズの厚いパーカーの上をしばらく転がってから消えた。


 ずっとずっと楽しみにしていたのだ。

 この地域に雪が降る瞬間を、向日葵は待っていたのだ。


「雪だっ!」


 同じように庭に駆け下りてくる者があった。向日葵の父親である。彼もクロックスを履いて庭に出て、庭を犬のように駆け回った。


「ゆっきだー!」


 祖母が満足そうに「そうだら、そうだら」と頷く。


「いやあ、こんなにしっかり降るのなんて何年ぶりかね。年末に一瞬降ったけどあん時はものの数十分でやんじまったもんね」


 ハイネックのヒートテックにメンズタイツでウールの着物、さらにその上から分厚いどてらを着込んでこたつに座っている椿が、「閉めてぇ」とうめく。


「僕雪嫌いやわ。風邪ひいて気管支炎なって入院したことがあんのやわ。一昨年」

「わりと最近ね。体を大事にね、パルスオキシメーターなら薬箱にあるからね」


 秋田出身の母が鼻で笑う。


「この程度で何が雪よ。本物の雪はもっとさらさらで軽いんだよ。下から上に舞うの。上から下に落ちてくるのは雪じゃなくてみぞれ」


 それを遮るようにして、父が言った。


「でも雪嬉しいじゃん!」


 五十二歳にもなって子供のように無邪気だ。


「見て見て、庭木の枝にうっすら積もってる!」

「そんなの積もったの範疇に入らな――」


 言いかけて、純粋に喜んでいる父を見て、はあ、と溜息をついてから微笑んだ。


「まいっか。お父さんが楽しそうならいいわ」


 祖母がスマホを持ってくる。向日葵を捕まえ、自分のスマホを差し出す。


「ね、ひま、動画ってどうやって撮るの? ばあちゃん雪動画撮りたい」


 彼女のその発言を聞いて、向日葵も「わーっ!」と叫んでいったん居間に上がり、こたつの上の自分のスマホを手に取った。


「ひまも動画撮るーっ! ひまも雪が降ってるとこ撮るーっ」

「えーっ、じゃあお父さんも!」


 父はスマホをスウェットのポケットに突っ込んでいたらしい、取り出して先ほどの庭木の枝にカメラを向けた。カシャカシャと撮影する音がする。


 向日葵は自分のパーカーの腕にカメラを向けた。黒いパーカーを着ているので、袖に白い雪のかたまりが落ちると形がはっきりと見えるのだ。あられのような小さな丸いかたまり、細かい線状のものが集まったようなとげとげしたかたまり、そして、六つの突起をはやした雪のかたまり。世間が雪の模様として認識している、あの、雪印のマークの雪だ。なんと美しく可愛らしいのだろう。世の中にはこんなものが降るのだ。

 しかしカメラを向けてああでもないこうでもないとしていると溶けてしまう。祖母や父が「早く、早く」と急かす。なんとか接写モードにして形をはっきり写し取る。


「……はしゃいだはるな」


 三人をこたつの中から眺めていた椿が、ぽつりとそう漏らした。


 こたつの上に自分のスマホを置いてぽつぽつタップしていた母が、「ひえー」と呟く。


「静岡県って四十七都道府県で下から三番目に雪が降らない県らしいわよ。下は沖縄と宮崎しかないって。今ツイッターに流れてきた」

「そうなん? それやったら喜ぶのも道理やなあ」

「また御殿場や日本アルプスのほうに行ったら違うんでしょうけど、このへんって基本的に、春、春、春、夏夏夏夏、秋、秋、秋、春、春、春――みたいな気候だものねえ。私が生まれ育ったところは一年の半分くらいがこんな暗い空で一階が雪に埋もれて二階から外に出るみたいな地域で呪われてるのかと思ってたんだけど、お父さんやおばあちゃんみたいな静岡土着の民からしたら嬉しいのかもしれないわねえ」

「土着の民」


 椿もふと笑った。


「そういえば大学の時もひいさん雪降ったら喜んだはったなあ。バスめちゃめちゃなるし僕ほんま嫌やったんやけど、ひいさんが楽しいならええわ」


 向日葵はスマホを持った手を椿のほうに向かって振った。


「椿くん、六角形の雪の写真撮れたー!」

「おー、よかったなあー」


 背中を丸くしてこたつに両手を突っ込んでいる椿を見て、はっと我に返って居間に上がる。


「寒かった? ごめんね」

「ええで」


 椿がにこりと微笑む。


「楽しそうなひいさんが見れて僕も楽しいし」


 その言葉が嬉しくて、向日葵は照れ隠しであえて「えへへへー」と声を出して笑った。


「ほら、こういう重い雪はすぐ溶けるから風邪ひくよ! 写真撮ったらもう上がりなさい!」


 結局母に怒られ、父と祖母は幼子のように「はあい」と答えて帰ってきた。そんな二人の姿を見て、母は最終的に笑ってしまった。


「今日の夕飯はあったかいお鍋にしましょうね」

「やったー」

「よかったわね、雪。次にこんなに見られるのはいつかな?」


 向日葵は、はあ、と大きく息を吐いた。


「積もるかなあ。積もるといいなあ。雪だるま作りたいなあ。大学の時もさ、一回大雪が降ってさ、みんなで雪合戦したんだよ。そういうのさ、静岡でもしたいなあ」


 ――という向日葵の祈りもむなしく、この雪は午後には雨に変わり夜にはやんでしまうのである。明日からは、太平洋はまた晴れの予報だ。



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