第3話 中学校編③

 翌朝も路花の新聞配達を手伝い、路花から交換日記を受け取った。

 帰宅して玄関のドアを開けると、そこに母親が立っていて、晴彦は思わず「うわー!」の声を上げてしまった。

「晴彦、毎日、こんな朝早くからどこへ行っているの?」

「どこって、散歩に決まっているだろう。お母さんには前にもそう説明したよね」

「それは聞いていたけど、毎日こんな早くに起きて散歩に行くことはないでしょう」

「何を言っているんだよ。青葉学園に通っていた時は、もっと早い時間に起きていたでしょう。僕だけでなくお母さんも。その習慣で、早くに目が覚めてしまうんだよ。僕と違ってお母さんはすぐに田舎の生活スタイルに慣れてしまったけど」

「それって、お母さんのこと、咎めている?」

「ううん、事実を言っただけだよ。それより、すぐに朝ごはんにしてよ。お腹ぺこぺこなんだから」

 慌てて台所に行く母親を見ながら、「まさか、路花と一緒にいるところを、近所の人に見られたわけではないだろうな」と、少し不安になっていた。

 朝食を済ませたあとも、学校に行くまでにかなり時間に余裕があり、もったいないことに、この時間を持て余していた。食堂を兼ねた居間で、母親が好んで観ている朝のワイドショーを観るのも、届いたばかりの朝刊を読むことにも、あまり気乗りがしなかったので、晴彦は早々に部屋に引き上げた。

 かといって、路花が絶対にトップに返り咲くと熱くなっている、中間考査のテスト勉強にも、やる気を見出すことができなかったので、晴彦は今朝受け取った交換日記を読んでみることにした。

 交換日記とはいったいなんなのか、どんなことを書くのか、二時間も悩んだ挙句、簡単な自己紹介しか書けなかった晴彦とは違って、路花はノート一ページを全て文字で埋めていた。


  4月17日(火)晴れときどき曇り

 交換日記の始まり。初めて私から書く日記。なんだか、わくわく、どきどき。でも、わくわくの方が大きいかな。

 今朝は晴彦君が新聞配達を手伝ってくれたおかげで、いつもより二十分も早く配達を終えることができた。その分、一生懸命に走り回ったので、終わった頃には喉がカラカラに渇いてしまっていた。晴彦君へのお礼も兼ねて自動販売機で買った缶コーラを飲んだ時、よほど喉が渇いていたこともあるのだが、特別な飲み物かと思うくらいに美味しかった。

 日頃、あんまり炭酸飲料を飲まないので、「あれ、コーラってこんなに美味しい飲み物だったっけ?」と、見直してしまったほどだ。

 晴彦君、今日は新聞配達を手伝ってくれて本当のありがとう。でも、よく考えると、私のわがままに付き合ってくれているけど、新聞配達を手伝うことって、晴彦君にはなんの特典もないんだよね。本当に私って、思いついたらあと先のことも考えないで、すぐに突っ走ってしまうタイプだから、晴彦君ごめんね。ちゃんと特典は考えておくからね。

 こんな自分勝手な感想を書くのは少し気が引けるけど、でも今日感じたことを正直に書くね。

それは、誰かと一緒だと新聞配達も、こんなに楽しいことなんだと、新しい発見をしたことです。

 私は小学五年生の時からずっと一人でやってきたから、新聞を配達することが楽しいなんて、ただの一回も思ったことがなかったの。子供がお金を稼ぐということは、やっぱりこんなにも大変なことなんだと、そればかりを思いながら、特に真冬の暗くて寒い朝や、激しく雨が降っている朝に家を出る時は、本当に辛かった。

 でも、晴彦君のおかげで、十四歳にして早くも仕事の喜びや楽しさを知ることができました。こんな私が大人になったら、きっとばりばりのキャリアウーマンになってしまうでしょうね。

 私は、晴彦君にとても感謝しているのよ。もちろん、新聞配達を手伝ってくれたこともそうだけど、今までに私の顔のあざを見た時に、気持ち悪そうな、不気味なものを見るような顔をしなかったのは、晴彦君だけでした。そのことが私はとてもうれしかったの。

 晴彦君とクラスメイトでいることができるのは、一学期が終わるまでだけど、それまで、ずっと私の大好きなクラスメイトでいてくださいね。     路花


 日記を読み終えて、晴彦は同じ歳の路花がこんなにも色々なことを考えていることに驚いた。持て余した時間のついでに手伝った、たった一時間の新聞配達なのに、路花はこんなにも感謝をしてくれている。労働のあとに飲んだコーラが、こんなにも美味しいものだということを、初めて知ったと言ってくれている。

 小学五年生にして、労働の対価のことをしっかりと考え、生活のために懸命に働いてきた路花と自分を対比することは無意味だし、するつもりもないけど、路花が望むように、一学期が終わるまで、夏休みになって路花が東京に行ってしまうその日まで、僕は路花が大好きと言ってくれたクラスメイトで居続けよう。晴彦はそう思った。

 そして、家を出るまでにまだ時間があるので、日記を書くことにした。


4月18日(水曜日)晴れ(といってもまだ朝だけど)

 僕は、東京の学校に通っていた時にも、今と同じように午前四時半には起きていた。まだ完全に起きてはいない体のまま、お母さんが作ってくれた朝食を、全く食欲を感じないまま無理やり胃の中に流し込んだあとに、お母さんに急き立てられながら、寝ぐせのついた髪のままで、家を飛び出ていた。

 バスで私鉄の駅まで向かい、駅で電車に乗り換えて、学校の最寄り駅に着いた頃に、やっと体と頭が完全に目覚めるという感じだった。学校の正式な始業は八時四十五分だったけど、その一時間以上前の七時半から、予備校の講師が行う補習授業があった。これは自由参加が原則だったけど、クラスで出席をしない生徒は一人もいなかった。もちろん僕もその一人だ。

 四時半に起きて、平日は毎日七時半から勉強をしていた。これが、僕の東京に住んでいた頃の朝の様子だよ。

 それがどうだろう。こっちに引っ越してきて、朝の様子ががらりと変わった。それでも人間の生体時計というものは凄いもので、引っ越した次の日の朝も、四時半に目を覚ましてしまった。しかもお母さんに無理やり起こされていた東京の時とは違って、今では自分の意志で起きることができるようになっている。

 今の僕には、こんなに早く起きてしまっても、もうバスや電車に揺られて、遠く離れた学校に行く必要もないので、朝食の準備が整う七時頃までの、この余裕のありすぎる時間を持て余していた。それで、仕方なく早朝の散歩に出ることにした。そして、散歩に出た初日に新聞配達をしている路花に偶然会った。このことがきっかけで、昨日からは新聞配達を手伝うようになった。

 不思議だよね。同じ日本に暮らしているのに、そして、まだ十四歳なのに、こんなにも住んでいる地域によって時間の使い方に大きな差があるなんて。

 じゃあ、晴彦君はどっちの時間の使い方が好きなの?って、もし路花に訊かれたとしても、今の僕にははっきりとは答えられないと思う。なぜなら、東京での僕の生活は過去であり、もう終わったことだけど、賀谷町での生活は現実であり、これからの未来には何が起こるか分からないからだよ。

 でも、確実に言えることがある。それは、僕は現状に全く不満を持っていないということだよ。東京での通学の時には、電車に座れないとか、ホームを歩いている時に肩をぶつけられたりとか、毎日のようにイライラしたり、嫌な目にあうことが多くて、僕の心は不満でいっぱいだった。

 それが賀谷町に引っ越してきてからは、心の中に不満が溜まることが無くなった。僕は、今のこの朝の時間を大切に使いたいと思っている。だから、路花が東京に引っ越して行く日まで、僕は必ず路花のクラスメイトでいることを約束するよ。

                             四方晴彦


 次の日の新聞配達の時に、晴彦はノートを路花に手渡した。

 二人の新聞配達と交換日記は、その後も一日も休むことなく続いて行った。

 日記の中で、路花は引っ越したあと、東京にやりたいことをよく書いてきた。

・東京ディズニーランドに行って、ミッキーマウスと一緒に写真を撮ること。

・原宿に行って、チョコレートと生クリームがいっぱい入ったクレープを食べること。

・池袋サンシャイン水族館で、ラッコを見ること。

・渋谷109で可愛い洋服やアクセサリーを買うこと。

 地方の中学生が夢見るようなことを、路花も日記の中に書いてきた。

 四月から五月にかけての、世間でいうゴールデンウィークの飛び石連休の日も、晴彦は新聞配達を手伝った。この間、隔日で取り交わされる交換日記が遅れることも、一日飛んだりすることも一切なかった。

 東京で青葉学園に通っていた時には、男子校だったこともあり、同世代の女子と接することなど皆無だった。授業開始前に予備校から講師が派遣されて、補習授業が行われていたので、放課後に学習塾に通うことはしていなかった。だから、学校以外で女子と知り合うきっかけがなかったのだ。

 こうした勉強以外の世界からは、半ば隔離されたような中学生性格を送っていたから、なんの衒いもなく路花と接することができているのかもしれないと、転校して一か月近くが経った今、晴彦はそう自己分析をしていた。

 五月に入ると急に朝の到来が早くなってきた。家を出る午前五時半にはすでにかなり明るくなっている。最初に路花の姿を偶然に見た時には、まだこの田舎町は薄暗さの中にすっぽりと包まれていたのに。

 朝の到来の早さは、気温の上昇を伴った。パーカーの上に青葉学園のウインドブレーカーを着て新聞配達を手伝っていたが、5月に入ってからはウインドブレーカーなしで、パーカーのままでも寒さを感じなくなってきた。

 それは晴彦に限ったことではなくて、路花も同じだった。厚めのジャンバーを着ていた路花も、ジャンバーを着ないで、トレーナーだけで新聞配達にくるようになった。

 待ち合わせの場所までの道のりにある、家々の垣根越しに、つつじやさつきがきれいな花を咲かせているのが見えた。明らかに季節が動いているのを実感として、目で匂いで確かめることができた。路花がトップを狙うと宣言をしていた、中間テストが近づいてきていた。いや、それは路花が東京に行ってしまう夏休みが、近づいてきていることを同時に意味しているのだ。

 着ている洋服が薄くなった分、自転車の後ろに乗っているトレーナー越しの路花の体を、背中に直接感じているような錯覚を覚えてしまうこともあった。体の感触というよりも、それは体温といった方が正確かもしれない。お互いにウインドブレーカーとジャンバーを着ていた時には感じなかった、路花の体温を背中に感じているような錯覚を覚えてしまうのだった。

「私は、この季節が一年の中で一番好きなんだよね」

 連休を終えた月曜日の朝、新聞配達を終えて、この日も自動販売機で缶コーラを飲んでいる時に、空を見上げながら路花が言った。

「テストの話をしていたのに、突然、なんの脈絡もない話にすり変えるんだな。まあ、路花はいつもそうだけでなあ」

 晴彦はすでに飲み干しているコーラの空き缶を右手に持ったまま、笑いながら言った。

「だって、晴彦君もそう思わない? この季節、寒くもないし暑くもないし、天気のいい日も多いし。新聞配達にはもってこいの季節だよ」

 同意を求めるように、路花が晴彦の顔を覗き込むように見た。

「新聞配達の立場で、僕にはどうこう言えないよ。だって、新聞配達を手伝うようになって、まだ一か月足らずの新参者なんだから」

 空になった缶を路花の分まで捨てに行こうと、「もう飲んだ?」と言うように、路花の方に手を伸ばすと、「私が捨ててくるよ、晴彦君の缶も渡して」と言って、強引に晴彦の手から空き缶を奪い取ると、走って自動販売機の横の回収容器に捨てに行った。

「応用力に乏しいなあ。だから、新聞配達の立場ではなくて、私が言いたいのは生活をして行く上での話よ。過ごしやすいかどうかの話」

「ああ、そういうことか。だったら、僕は夏が好きかな。小学校の低学年の頃は、夏休みになるといつもここにきていたしね。でも、中学受験をすることになって、四年生になると夏休みは受験のために塾に通っていたから、それからは季節も何もなかったし。季節といって思い浮かべるのは、低学年の時の夏休みだけだから」

「四年生からもう中学受験の塾に通い始めるの? すごい世界だね」

 路花は想像もできないと付け加えた。

「それでも僕は中学受験だけだったけど、同じ中学には、幼稚園受験のための塾にも通っていたという生徒もいたから、僕なんかまだ楽な方だよ」

「住む世界が違うって、こういうことを言うんだね。この辺では、受験したくても、そんな私立の学校なんか近くにはないし。高校だって試験なんて名ばかりで、希望さえすれば公立の高校には入学できるし」

 路花には珍しく、かなり投げやりな言い方をした。

「でも、路花は二学期からは東京の中学校に通うことになるんだから、否が応でもこうした受験戦争に巻き込まれることになるよ」

「東京じゃあ、受験は戦争なの? 晴彦君はそんな風に感じていたの?」

「少なくとも通っていた塾では、同じクラスの塾生は、全員僕の敵だと思っていた。だから、長い休みごとの集中講座の時には、合宿をするから四六時中一緒に生活をしていたけど、一度も心を通わせることはなかった。それは青葉学園でも同じだよ。僕が言っていることが大げさではないことは、転校してくる時も、誰一人として『寂しくなるよ』と言ってくれるような友だちはいなかった。みんな、ライバルが一人減って喜んでいたんじゃないかな」

 つい二か月前まで通っていた青葉学園のことを思い出しながら、晴彦は話した。話し終わってみて気がついた。そういえば、学校のことを人に話したのは、中学に入学してから初めてのことだったんじゃないだろうか。

「だったら、今は賀谷中学に転校して良かったと、少しは思うことがあるの? 少なくとも受験戦争からは解放されたわけだし」

「この町に越してきて、賀谷中学に転校したことで、良かったと感じることはあるよ。青葉学園の時には、そんなこと考えたりもしなかったから、そんなことを考えるようになっただけでも、自分の心に血が通い始めたという実感はあるよ」

「やっぱり、東京育ちの人間は、自分の気持ちを難しい言葉で話したがるんだね。心に血が通うって言われても、私には全くピンとこない」

「相変わらず、言いたいことをはっきり言うな。だったら、もっと分かり易く言うなら、賀谷中学に転校して路花と知り合えて、東京に住み続けていたら一生経験することがなかった、新聞配達もこうして経験しているし、よかったと思うよ」

「それって本気で言っている?」

「もちろん、本気で言っているよ」

「じゃあさあ、私が東京に転校したら、この私の新聞配達を引き継いでくれないかな。新しい人に一から教えるのは面倒だし。晴彦君なら明日からでもすぐに引き継げるし」

「それも良いかもね。どうせ、路花が転校したあと新聞配達を手伝わなくなったら、朝の時間を持て余すことになるし」

「これで、話は決まった。それなら、明日から引継ぎのために正式に配達を手伝ってもらうということで、晴彦君にも配達料をもらえるように、配達所の所長に交渉をするよ。このままただ働きしてもらうのは、私も気兼ねだし」

「おいおい、話の展開が早すぎないか? 僕の方も母親に、新聞配達を手伝っていることは全く話をしていないし、引き継ぐならそこから始めないといけないし。とにかく、今日、帰ったら早速母親に話をしてみるよ」

「分かった。今日のところは所長には何も言わないでいるね」

「新聞配達を手伝うどころか、自分が配達をするようになるなんて、東京にいた頃には夢にも思わなかっただろうな。それよりも、中間テストまでもう二週間になったけど、試験勉強は順調に進んでいるか? クラスでトップを目指すと宣言していただろう」

「もちろん、目標は変えていないし、そのための努力も怠ってはいません。覚悟をしておいてね、中間テストの学年トップは、私がいただくことになるから」

「そこまで言われると、僕のやる気にも火が付くな」

「まあ、お互いにがんばりましょうということで、はい交換日記を渡すね。そろそろ帰らないと、今朝はいつもより長くおしゃべりをしているから、急がないと」

「あっ、本当だ。じゃあ、僕も走って帰るよ」

 受け取った交換日記をリュックに入れると、路花は自転車で、晴彦は走りでそれぞれ急いで自宅に向かった。

 その日学校から帰り、祖父母も一緒に四人で夕食をとっている時に、何気ない感じを装って、晴彦は新聞配達のことを切り出した。

「お母さん、僕、せっかく毎日早起きの習慣がついているので、新聞配達にチャレンジしてみようかと考えているんだ。せっかくこっちに引っ越してきたんだし、今までやったことがなかったことを経験したいと思って」

「新聞配達?」

 母親にとっては突拍子もないことだったのだろう。そう言った声が裏返っていた。

「懐かしいな。中学生が新聞配達や牛乳配達をするのは、わしらの時代には珍しいことではなかったな。わしも中学の時に三年間新聞配達をしていたし」

「へえ、おじいちゃんも新聞配達の経験者なんだね」

「お父さん、あんまり無責任なことを言わないでよ。お父さんが中学生の頃とは時代が違うの。今の時代、中学生で新聞配達なんてしている子供なんていませんよ。なんで、晴彦はそんなことを考えるようになったの? まさかうちの経済状態を考えてのことではないでしょうね」

「そんな理由ではないよ。それに、今でも新聞配達をしている中学生はいるよ。お母さんの認識が、いつまでも東京の時のままだからだよ」

「わしが新聞配達をしていたのは、家の家計を助けるためだったけどな。でも、お母さんの言う通り、経済的なことを心配して新聞配達をしようとしているなら、それは心配することはないぞ。お前の父さんがそのことはきちんと考えてくれているから」

 祖父が孫の気持ちを考えて、優しくそう言ってくれた。無邪気さを装ってはいるが、もう中学三年生にもなれば、両親が離婚をするにあたって、養育費と、これから僕が大学を卒業するまでの教育費用を、父親がきちんと確保してくれることが条件になっていることぐらいはちゃんと理解している。

「おじいちゃんの言ってくれたことは僕も理解しているよ」

「だったら、新聞配達をしたいだなんて、そんな恥かしいことを言い出すのは、お願いだからもう止めて」

「おい、新聞配達を恥ずかしいことだと思っているなら、それは誤った考えだぞ。汗水たらして行う尊い労働だからな。そんな驕(おご)った言い方は二度とするなよ」

 祖父が厳しい口調で母親を戒めた。

「お父さんの言いたいことは解っているわよ。でも、離婚して実家に帰ってきただけでも世間の目は厳しいのに、その上、一人息子を新聞配達なんかさせてごらんなさいよ、世間からどう思われるか、分かったもんじゃないわよ」

 つまりは母親にとって最も重要なのは世間体なのだ。それを聞いたら、これまで抑えていた自分の気持ちが急に沸騰してきて、もう抑えることができなくなっていた。

「そんなに世間体を気にするなら、なんでこんな田舎に引っ越してきたんだよ。全ては母さんが自分の気持ちを最優先にして、僕の気持なんかちっとも考えないで衝動的に決めたことじゃないか。離婚することで一番傷ついているのは、自分だと勝手に思い込まないで欲しいよ。両親の都合で離婚をして、母親の都合で学校を転校させられる子供のことを、少しでも考えてくれたことがあるの? まさか、子供は親の付属品だとは思っていないよね。こちらは母さんに気を遣って、ひと言の文句も言わないでここについてきたけど、それで新聞配達をしたいと言ったら、世間からなんと思われるか分からないから止めて欲しいだなんて、どれだけ自分の都合を子供に押し付けるつもりなんだよ」

「……」

 母親は唖然とした顔をしていた。それも仕方がない、これまで晴彦は聞き分けの良い息子を、無意識のうちに演じていたことを、話をしているうちにはっきりと認識してしまったのだから。

「急にどうしてそんな話になってしまったの? たかが新聞配達を晴彦がしたいと言い出しただけの話でしょう」

 祖母はおろおろしながら、今の状況をなんとかしようとしていた。でも、もう晴彦は自分の感情を抑え込むことができなくなっていた。

「そんなに世間体を気にするなら、僕は父さんの方に行ってもいいよ。これからも母さんの世間体のために、雁字搦めにされるのはごめんだからね」

 そう言い捨てると、晴彦は食事を途中で止めて、自分の部屋に引き上げた。まさか、新聞配達を始めたいと言ったことで、ここまで話が深刻さを帯びることになるとは、晴彦自身考えてもいなかった。

 部屋に入って机の前に座ると、部屋の照明は消したままで机の上のスタンドだけを点けた。スポットライトのように、小さな範囲だけを照らす蛍光灯の光に浮かび上がったのは、今朝、路花から受け取った交換日記のノートだった。

 明日朝、路花に渡すには今夜のうちに日記を書いておく必要があるが、今の気持ちのままでは日記なんか書けるはずもなかった。でも、この気持ちのまま寝ることなど、さらにできないことだと思えた。かといって、こんな気持ちを聞いてくれる友だとなど一人もいない。

 成す術を失くして目を閉じてみた。今朝の路花との何気ない会話が蘇ってくる。

『賀谷中学に転校して路花と知り合えて、東京に住み続けていたら一生経験することがなかった新聞配達もこうして経験しているし』

 この町に引っ越してきて何か良いことはあったかと問われて、そう答えたのだ。だったら、今のどうしようもない気持ちを、日記帳の中にぶつけてみようと思った。自分にはこうした時に話を聞いてくれる友だちが一人もいないという現実を、素直に受け止めて、それに代わる日記という相談相手に今の気持ちをぶつけてみよう。晴彦はそう思った。


5月6日(月曜日)晴れ

お母さんに自分の感情をそのままぶつけてしまった。そして、卑怯なことに一方的に感情をぶつけるだけぶつけたら、最後に捨て台詞を投げて、夕飯の途中で部屋に引き上げてきた。

どうして、こんなことになったかの原因ははっきりしている。僕が新聞配達を始めたいと言い出したからだ。それを聞いたおじいちゃんは、かつて自分も中学生の頃に新聞配達をしたことがあると、好意的に受け止めてくれたが、お母さんは、世間体が悪いから絶対に止めて欲しいと言ってきかなかった。しかも、新聞配達を恥ずかしいことだと一方的に決めつけた。

僕はそれが許せなかったし、おじいちゃんも、新聞配達が恥ずかしいことだと思っているなら、それは間違った考えだ。そんなおごった考えをするなと、お母さんに意見をしてくれたけど、お母さんはさらにこう言ったんだ。

「離婚して実家に帰ってきただけでも世間の目は厳しいのに、その上に一人息子を新聞配達なんかさせてごらんなさいよ、世間からどう思われるか、分かったもんじゃない」って。

 これを聞いた瞬間に、僕の中に閉じ込められていた感情が一気に爆発をしてしまったんだ。路花にはあまり僕の家のことは話してはいなかったけど、僕のお父さんは、公認会計士の資格を持っていて、社員が二十名を抱える中規模の会計事務所を経営している。お母さんは、結婚後しばらくは事務所の事務を手伝っていたけど、僕が生まれたからはずっと主婦を専業にしていた。

 そんな中で、事務所で働いていた女子所員とお父さんとの不倫が発覚してしまい、お父さんとその女性は、すぐに関係を解消したけど、お母さんにはお父さんの裏切りがどうしても許せなくて、半年間の別居生活を経て、今年の二月に正式に離婚をして、僕の学年末を待って、お母さんの実家がある賀谷町に引っ越してきたんだよ。だから、今でもお父さんは東京のマンションで一人暮らしをしている。

 小学四年生から受験塾に通い、苦労して入学した青葉学園は中高一貫だから、まだ四年間残っていた。今後の僕の教育を考えるなら、晴彦はこのまま東京に残った方が良いとお父さんは主張したけど、この時のお母さんは精神的にもかなり衰弱をしていて、冷静な判断ができる状態ではなかったんだ。だから、お父さんの提案に対して、半狂乱になってしまったんだ。

「私から晴彦まで奪い取ろうと思っているの。私の人生を滅茶苦茶にするだけではもの足らず、私から一番大事な晴彦まで奪い取ろうとするなんて、あなたは鬼よ、私に死ねと言っているのと同じことをしている」

 こんな修羅場をなん度も見ていたから、僕は自分から「お母さんといっしょに田舎に行きたい」と申し出たんだ。お父さんは、「一時の感情で判断をしてはいけない。晴彦自身の将来がかかっているんだぞ」と言ってくれたけど、その時は、「勝手なことを言うなよ。だったらどうして浮気なんかしたんだよ。僕の将来を心配するなら、どうしてこうなった原因を作ったんだよ」と、心の中で父さんを怒鳴りつけていた。

 こうした状況だったから、正直、僕にはお母さんについて賀谷町に引っ越すしか選択肢はなかったんだよ。お母さんの言い分を聞いている中で、急にこの時の状況を思い出してしまって、僕はこれまで抑え込んでいた感情を、一気に爆発させてしまったんだ。

「そんなに世間体を気にするなら、なんでこんな田舎に引っ越してきたんだよ。僕はお父さんの方に行ってもいいよ」と言ってしまった。

 一度口をついて出た言葉は、もう取り戻すことはできないけど、僕はとても卑怯なことをしてしまったと、今になって強く後悔をしている。お母さんにとっては逃げ場のない言葉を浴びせられたわけだから、これまで言葉にはしてこなかっただけで、お母さんが、僕を父親から離して転校させたことを申し訳ないと思っていることは、僕にも十分に判っているし、日頃の態度でも感じている。それなのに、僕がお母さんに浴びせた言葉は、鋭いナイフとなって、お母さんの胸に突き刺さり、致命傷を負わせるような毒のある言葉だよ。

 明日朝、僕はどんな顔をしてお母さんと接すれば良いのか分からない。

 部屋に引き上げてからも、ベッドに入ってからも、胸の中にわだかまっているもやもやは一向に晴れなくて、ずっと眠れないまま時間をすごしていた。でも、僕にはこんな気持ちを聞いてもらえる友だちは一人もいないし、このまま朝まで一睡もできない夜をすごすのだろうかと思った時に、今朝、路花から受け取った日記のことを思い出したんだ。

 でも、こんな重たい話を路花にするつもりは全くないんだ。僕は、もし親友と呼べる存在がいたら、きっとこんな話を聞いてもらっていたと仮定をして、その役目をこの日記帳に代行してもらっただけなんだよ。

 実際にここまで書いたおかげで、気持ちがずい分楽になったよ。眠れないまま朝を迎えることもなくなりそうだ。

 交換日記帳をこんな使い方してしまって申し訳ないと思っている。でも、書いたことはもう消せないし、それにこれが今の僕の本音だから。この日記に書いたことを路花が読もうが、あえて読まないことにしようが、僕にはどちらでも構わない。ただ、読んだあとに、路花が不愉快な気持ちになったとしたら、それは許して欲しい。そして、このページを破り捨てて欲しい。勝手なお願いをしてしまうが、どうか分って欲しい。

                               四方晴彦

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