第2話  中学校編②

 自分でも気が付かなかったが、かなり大きな声を出していたようだ。晴彦の出した声に気づいて、「キキキー」というブレーキの音がした。

「誰、私を呼んだのは?」

 自転車を降りると路花はきょろきょろしながら叫ぶように言った。

「ごめん、あまりにも突然に吉住さんが姿を現したから」

 すんなりと晴彦は路花の前に出た。

「ああ、転校生の四方君だよね。なんで、私のこと下の名前で呼んだの? 私たち下の名前で呼ぶほど親しい関係ではないでしょう。四方君の下の名前、私は覚えていないもの」

 路花は怪訝そうな顔をしたのだろうが、冷たい風から鼻を守るためにしている大きなマスクで本当の表情を読み取ることはできなかった。

「いきなりごめん。柿男がいつも吉住さんのことを路花と呼んでいるから、つい」

「ああ、柿男の奴か」

「こんなに早い時間に、どうして自転車で走っているの?」

「見ての通り、新聞配達」

 路花は前のカゴに入れられた新聞の束を指さした。

「新聞配達のバイトをしているんだ、偉いね。何か欲しい物でもあるの?」

「お坊ちゃまは、考えることが浅いのね。私は、自分が欲しい物を買うために望んで新聞配達をしているわけじゃなくて、家族の生活費の足しにするために仕方なく新聞配達をしているのよ」

「……」

 晴彦は「お坊ちゃま」と言われたことと、同級生が生活費を稼ぐために朝早くから新聞配達をしているという事実をいきなり突きつけられた衝撃で、返す言葉が浮かんでこなかったのだ。

「四方君の方こそ、こんなに早い時間になんでここにいるの?」

「僕は散歩していた」

「お坊ちゃまのやりそうなことだね。じゃあこれ以上、お坊ちゃまの暇つぶしに付き合っている時間はないから、私行くわ」

 そう言うと、路花は自転車にまたがってペダルに足をかけると右足に力を入れた。自転車が動き出す。路花の乗った自転車が遠ざかって行く。

「僕は、お坊ちゃまなんかじゃないぞ!」

 小さくなって行く路花の背中に向かって声の限りに叫んだが、路花からの反応は全くなかった。

 転校して以来、古川や長嶋、柿男たちのグループに混じって弁当を食べていたが、正直、食べたあとの残り時間まで一緒に過ごすことには耐えられなくなっていた。話題が幼稚過ぎたし、学年の中で自分たちは選ばれた存在だという安っぽいエリート意識が随所に垣間見えて、正直反吐が出そうになることもあった。

 相変わらず早朝の散歩は続けていたが、偶然路花と出会った場所には決して近づくことはしなかった。

 そろそろ弁当も一人で食べるようにしようかなと思い始めた頃、三年一組だけ特別に抜き打ちテストが実施された。それも、前日に予告があるとかではなく、朝登校したら、いきなりホームルームで、「今日、全ての時間を使って、主要五教科のテストを行うことになった」と担任から言われたのだ。

 教室中がブーイングの嵐になったが、担任が「このテストはこの三年一組だけが実施する。お前たちは選ばれた生徒なんだぞ。これくらいのことで文句を言ってどうする」と言った途端に、嵐はすぐに去ってしまった。

 昼休みは全員が午後のテスト教科を勉強するために自分の机で弁当を食べた。正直、晴彦にはありがたかった。毎日テストが実施されれば良いのにとさえ思ったほどだ。

 テストの採点結果は翌日の朝のホームルームで担任から各自に手渡された。ご丁寧にも総合得点と、クラス順位だけでなく、教科ごとの得点とクラス順位まで記載されていた。

 晴彦は総合順位でトップだった。教科ごとでは英語と国語は二位で、後はトップだった。結果を表にして教室の後ろに貼り出すわけではないので、これは各自が自身の現在の実力を把握するためのテストだと晴彦は理解した。

 今日から弁当を一人で食べると決めて、晴彦は昼休みになると校庭に出た。体育の授業の時に体調の悪い生徒が見学をするためのベンチに座って弁当を食べることにした。

 母親には外でも食べやすいように、今日からサンドイッチの弁当にしてもらっていた。弁当箱が入っている袋を開くと、プラスチックの筒状の容器におしぼりも一緒に入れられていた。

「気が利くよな」と感心をしながら手を拭いて、サンドイッチを一切れ手に取った時に、ベンチに人影が近づいてきた。影の方向に顔を上げると、そこに吉住路花がいた。

 先にきていた晴彦にひと言も言葉をかけることもなく、路花は少し間隔をとって隣に座った。非難をしたわけではないが、そんな様子を目で追っていたら、いきなり路花に睨まれた。

「別に、あんた専用のベンチじゃないでしょう」

 当たり前だ。僕が寄付をしたベンチではないと晴彦は心の中で思った。

 それから、二人は黙々と弁当を食べた。互いに横を向かないように、真っ直ぐ前を向いたままで食べた。あまりにも目の前だけを見ていたので、すでに活動を始めているクロ蟻の姿を見つけてしまったほどだった。

 これも母親が持たせてくれた水筒に入れた紅茶を飲んでいたら、いきなり路花が話かけてきた。

「昨日の抜き打ちテストの結果、四方君がクラスで一番だったんでしょう」

「……」

 そう訊かれても、「はい、そうです」とは答えられない。

「隠さなくてもいいでしょう。カンニングなどの不正をしたわけではないんだから」

 なんで、カンニングの話にいきなり飛んだりするんだ。

「君はいつも失礼な言い方をするね。あの時もそうだった」

「あの時って?」

「朝の散歩で偶然に出くわした時のことだよ」

 覚えていないとは言わせない。

「あの時、私、なんか失礼な言い方をしたかな?」

 あんな失礼なことを言っておきながら覚えてないと言うのか。

「僕のことをお坊ちゃま呼ばわりしただろう」

「はははは」

 路花はいきなり大きな声で笑いだした。その様子に晴彦は呆気に取られていた。

「四方君って、ちょっと変だね。泥棒呼ばわりとかという表現なら分かるけど、お坊ちゃま呼ばわりなんて言葉、昨日のテストで書いていたら確実に×だよ」

「ほらまた、人を勝手に変人扱いしているじゃないか」

「変人扱いなんかしていないでしょう。私はちょっと変だと言っただけじゃない。それよりどうなのよ、テストの結果」

「僕に訊く前に、まずは自分の成績を話すのが礼儀だろう」

「ちょっと変なだけじゃなくて、だいぶ面倒臭い奴でもあるんだね。はいはい、分かりました。私は、総合順はクラスで二番。教科ごとでは英語と国語が一位で、後の三教科は二位でした。どう、正直に話したわよ」

「どうして僕の成績を吉住さんは訊きたいの?」

「だって、この学校の中で、私はこれまでに一度も負けたことがないから、負けるとしたら転校してきた四方君だけだろうなと目星をつけたからよ」

「それを訊き出すために、教室から出た僕を追いかけてきたんだな」

「まさか、それは偶然よ。ひょっとして自分のこと人気者だと勘違いをしていない?」

「していないよ」

「だったら、勿体ぶらないでさっさとテストの結果を白状しなさいよ」

「そうだよ、昨日の抜き打ちテストの結果は、総合得点で僕が一位だった。教科別では、君が二位の教科は一位で、君が一位の教科は二位だった。正直に話したんだから、これでもう良いだろう」

「五月の中旬に行われる一学期の中間考査も、七月に行われる期末考査でも、今度は私がトップになるから。覚悟をしておいて」

 路花は睨みつけるように晴彦を見た。まるで憎い相手を見るような目で。

「それは、君の目標であって、僕が覚悟をすることではないよ。僕は僕で頑張るだけだから」

「余裕の発言ということ。お前なんか相手にはしていない。たかが田舎の中学校じゃないかということなの?」

「そんなことを軽々しく言うもんじゃない。自分自身を貶(おとし)めている言葉だぞ」

「私には勉強しかないのよ。とにかく一学期中にトップになるしかないの」

 この路花の言い方に、晴彦は切羽詰まったものを感じ取った。

「柿男と親しいなら、もう知っているよね、私の顔の痣のこと」

 そう言うと、路花は左の顔半分を覆っていた髪の毛を手で払い除けた。

「……」

 そこには、まるで曼珠沙華の花が開いたような真っ赤な痣が、左の目の横から頬にかけて広がっていた。

「どう、びっくりした。気持ち悪いと思った?」

「君は自分の顔を鏡で見た時に気持ちが悪いと思うのか?」

「そんなこと思うわけがないじゃない。自分の顔だもの、この赤い痣が愛おしくて美しいとさえ思っているわよ」

「だったら、僕も同じ思いだよ。気持ち悪いなんて微塵(みじん)も思わない。それよりも、これを塗りつぶして隠そうとしていない、君の姿勢を僕は尊敬するよ」

 晴彦は路花の顔を真っ直ぐに見ながら言った。

「したわよ。この痣を隠そうと何度も、色々な方法を試してきたわよ」 

 そう言う路花は、今までの強気な表情とは打って変わって、しおれた花のようだと晴彦は思った。

「ねえ、四方君、今日のように青い空が広がっている時でも、人はなぜ、このとてつもなく大きな青空の中に、ほんの小さな雨雲を探そうとするんだろうね」

「えっ、どういうこと?」

 確かに路花の言うように、見上げると、今日はまるで青い絵の具で塗りつぶしたような気持ちの良い空が広がっていた。

「私ね、中学に入学するタイミングで思い切って、化粧で痣を隠して通学することに決めたの。私や柿男が通っていた小学校は小さかったから、同じ小学校からこの中学に進む子は、三十名足らずだったし、チャンスだと考えたの。実は小学校の時から化粧で隠す方法はずい分練習をしていたから、自分でも完璧だと思っていた」

「実際に、それは実行されたの?」

「したわよ。もう髪の毛で隠す必要もないし、周りは私の痣のことなど知らない生徒ばかりだったし。学校に通うのが本当に楽しかった。でもね、ある日の朝のホームルームで、クラスの女子が手を挙げて、先生にこう言ったの。『先生、校則に違反して学校に化粧をしてきている生徒がこのクラスにいます』って。その子は、同じ小学校から入学した子だった」

「なんで、その子はそんなことを言ったんだろう?」

「私、中学に入学してから、なぜか同学年の男子や、先輩から告白をされるようになったの。もちろん、痣のことがあるから全部断っていたわよ。きっと、その子は私が痣を隠して自由に振る舞っている姿が許せなかったのね」

「それで、もう化粧で隠そうとはしなくなったというわけ?」

「中学に入学する時に、母親と一緒に校長、教頭先生、それに担任になる先生には、正直に話しをして、化粧で痣を隠すことは学校から承諾をもらっていたの。だから、その子の発言に対して、担任の先生が取り上げなかったの。ホームルームはこれで終わったけど、その後からはまるで犯人探しよ。いったい誰が化粧をしているんだって、クラス中大騒ぎ。だから、その子のお望み通り、次の日から私は全く痣を隠さないで学校にくるようにしたの」

「そうだったんだ。翌日からがまた大変だったんじゃないか」

「それは、それは酷いことを言われ続けたわよ。化け物なんて生易しいものよ。中にはまことしやかに、先祖の祟りが痣となって顔に出ているなんて、全くのデマを吹聴する連中までいたわよ。外観でこれほど酷い仕打ちを受けるなら、頭の中身で勝負してやろうと思ったの。お前らには絶対負けないぞと、見返してやりたかったの」

「だから、自分には勉強しかないと言ったんだね。でも、なぜ一学期中にトップになるなんて期限を切ったりしたの?」

「私、一学期が終わると転校をするの」

「えっ、どこかへ行ってしまうということ?」

 晴彦の脳裏を、生活費を稼ぐために新聞配達をしていると言った時の路花の顔が蘇っていた。その転校の陰に不幸の気配が潜んでいるのだろうか。

「そんな暗い顔をしないでよ、おめでたい話なんだから。うちは、私が小さい頃にお父さんが病気で亡くなったから、ずっと母子家庭だったの。でも、お母さんが再婚することになって、新しいお父さんが住んでいる東京に、夏休みに引っ越すことになったのよ。四方君とは真逆な境遇というわけ。二学期からは東京の中学生。来年の四月は東京の女子高校生というわけ」

「それで、転校する前にクラスで成績トップになりたかったんだ」

「うちのクラスでトップということは、そのまま学年でトップということだから。私、頑張るからね。青葉学園になんか負けないよう」

「僕はもう青葉学園の生徒ではないから、関係ないよ。吉住がその気なら、僕も絶対に負けない」

「吉住じゃなくて、路花でいいよ。どうせ吉住は、八月になると別の苗字に変わるから。だって、今度東京で会った時に、私のことどう呼んだらいいか分からないでしょう。路花なら一生変わらないから」

「東京で会えるかどうかも判らないじゃないか」

「でも、大学は東京の大学を受けようと思っているでしょう?」

「そんなの、まだ決めていないよ」

「嘘つき、田舎に引っ越すことが決まった時から、東京の大学に通うことを考えていたくせに」

「僕の人生設計を吉住が勝手に決めるなよ」

「だから吉住じゃなくて、路花だって」

「じゃあ、路花は、今度東京で会った時に僕のことをなんて呼ぶ気なんだよ」

「そうね、お坊ちゃまとでも呼ぼうかな」

「おい、それは絶対に許さないからな」

「嘘、嘘、晴彦君って呼ぶよ。だって、晴彦君の家もうちと同じ境遇だから、お母さん、再婚して苗字が変わる可能性あるものね」

「それはどうかなあ。今は、結婚なんてもうこりごりだと言っているけどね」

「女心は、移り気だから」

「路花、ナニ、お昼外なの?」

 校庭に出てきた二人組の女子から声がかかる。

「うん、あんまり天気が良いから、たまにはいいかなと思って」

 路花はそう返した。

「しかも、ちゃっかりランチデートなんかしているし」

「違う、違う、そんなじゃないって」

「まあ、上手くやりなよ」

「だから、違うんだって」

 こう何度も「違う」と言い続けられると、それが事実であっても結構傷ついてしまうことを、初めて経験した。

「彼女たちとは、知り合い」

「幼稚園からの友だち。三年五組だけど」

 三年五組といえば、二年生三学期のテストで、下位から四十名に入っているということだ。そう思ったことが、きっと晴彦の顔に出ていたのだろう。

「もしクラスを決めるテストが芸能界に関することだったら、あの子たちは確実に上位で三年一組だよ」

 路花がそう言った。

「芸能界という教科がないことが、彼女たちには不運だったね」

「一組に入れたら名誉で、五組だから不名誉というのは、きっと違うよね。何十年か経ったあと、一組の生徒がみんな幸せに暮らしているかは、誰にも分からないもの」

「それは言えている」

「晴彦君」

 言葉が喋れるようになった時から、ずっとそう呼んでいるような自然さで、路花はそう呼んだ。

「なに?」

「私が幸せになることへのプレゼントだと思って、今度の中間考査、手加減なんてしないでよ。私は本気でトップを取りに行くから」

「そんな、失礼なことはしないよ。僕も本気で試験勉強をする」

「それともう一つ、お願いがあるんだ」

「今度はなに?」

「朝の散歩の時、デートしようか」

「朝のデートって、路花は新聞配達で忙しいじゃないか」

「だから、私の新聞配達を手伝いながらデートをするということよ」

「おい、ちょっと待て。それはデートいう名をかたって、只働きをさせるということじゃないか」

「ヘヘヘイ、バレたか。さすがに青葉学園出身、頭いいね。でも、二人でデートできるのはその時しかないよ。こうしてベンチで弁当を食べていたら、さっきみたいにからかわれてしまうから」

「なし崩し的に話が進んでいるけど、僕たち付き合うということ?」

「そういうこと。夏休みまでの期間限定カップルということ」

「なんか、路花に引っ張られている感が拭えないな」

「嫌なの?」

「嫌ではないけど」

「じゃあ、決まりだね。はい、これ。晴彦君から書いて」

 路花は晴彦にノートを押し付けた。

「何、僕から書いてって?」

「カップルといえば、交換日記というのが定番でしょう。私、一度経験してみたかったのよ」

「交換日記をするために、僕と付き合いたいの?」

「それも半分ある。残り半分は、晴彦君に興味があるから」

「魅力があるからではなくて、興味あるから?」

「そう。でも、付き合うきっかけなんて、そんなもんでしょう。大事なのは付き合い始めてからだもの」

「それは言える」

 なぜか納得をしてしまっていた。

「じゃあ、交換日記は明日の朝、受け取るということで。それと、明日から散歩は新聞配達ができる服装でくるようにしてね」

 そう言うと路花は、まるで先ほどまでの二人が交わした会話や、一緒に過ごした時間などには全く未練を感じていないような潔さで、その場を去って行った。

 突然の出現、突然の告白、そして風の如くの立ち去り。この一連の騒動(晴彦にとっては正しく騒動だった)に、どうして自身が翻弄されてしまったのだろうかと、もうすでにかなり小さくなっている路花のうしろ姿を、おぼろげな視界の中に辛うじて捉えながら晴彦は思った。

 学校を終えて帰宅後も、晴彦は今さらながらずっと後悔をしていた。

「どうして付き合うことをOKしてしまったのだろうか」

 夕食と入浴を終えて、机の上に路花から渡された交換日記用のノート置いて、それを睨みつけながら晴彦は思案にくれていた。

 まだ白紙のまま一行も書かれていないノート。もちろんこれまでに交換日記など書いたことはない。それどころか、生まれて十四年八か月間、小学校低学年に夏休みの宿題で描いた絵日記以外、日記すら書いたことがなかったのだ。

 明日早朝には路花に渡す約束(一方的に決められた納期だが)になっている。

「ああ、いったいどんなことを書けばいいのか?」

 考えれば考えるほど、分からなくなってきた。

 入浴を終えて机の前に座ったのが午後九時だが、机の上に置かれた目覚まし時計も兼ねたデジタル時計は、「23」という数字を表示していた。

「とりあえず無難に自己紹介を書いておくか」

 二時間もの長い間、散々思案した挙句、晴彦が辿り着いた結論がこれだった。

 生年月日、星座、生誕地、趣味、好きな食べ物、嫌いな食べ物を簡潔に書いた。

 これでなんとか五行は埋めることができた。

 青葉学園から賀谷町立中学に転校してきた理由も書こうかと迷ったが、登校初日に一緒に下校した柿男さえも晴彦の両親の離婚を知っていたので、決して自慢できる話でもないので、わざわざ知らせることでもないだろうと書くのを止めた。

 日記は完全にプライベートなものだが、これが交換日記となると、どこまでプライベートな領域に踏み込んで良いのか分からなかった。

 これくらいで良いだろうと、書き出すまでには二時間も悩んだが、いざ書き出してしまうとたった五分で終わってしまった交換日記のノートを閉じて、晴彦は目覚まし時計のアラームを五時にセットをしてベッドに入った。

 翌朝、先日路花の自転車と遭遇した、この街のメイン道路の辺りに、この前と同じくらいの時刻に到着するように家を出た。昨夜はベッドに入るまでずっと頭を使い続けていた(実際には交換日記に何を書こうかと悩んでいただけだが)ので、さすがにベッドに入ってからもなかなか寝付けなかった。そのために、目覚ましのアラームに急かされて五時に起きるのは正直辛かった。

 目的の場所には路花が先にきていた。自分のことを待っている路花の姿は。すでに明るくなり始めている朝の光の中で、ずい分遠くから晴彦の視界には入ってきていた。

「走ろうか」

 一瞬そう考えたが、思い止まった。待ち遠しかったと誤解されたくなかったからだ。

 先に声をかけてきたのは路花の方からだった。

「おはよう。眠そうな顔をしているけど、試験勉強のやり過ぎじゃないの」

「普通中学生は、こんな早い時間に、こんな所にはいないだろう。眠くて当たり前だよ」

「それでは、普通ではない中学生二人で、早速新聞を配りに行きましょう」

 そう言うと、路花は晴彦に自分の自転車の後ろに乗るように命じた。

「いいよ、僕は走るよ」

「そんなことしたら、遅くなっちゃうよ」

「いくらなんでも、女子が漕ぐ自転車の後ろには乗れないよ」

「へえ、そんなことに拘っているんだ。うーん、だったら晴彦君が自転車を漕いでよ。私が後ろに乗るから、それなら問題ないでしょう」

「納得はしていなけど、そうするしかないね」

 渋々だが、晴彦は自転車を発進させた。

「道順は路花が指示しろよ」

「OK.まずは二百メートルほど直進」

 街のメイン道路には車の往来など全くなくて、多少ふらつきながらも路花を後ろに乗せた自転車は真っ直ぐに走り続けた。

「次の角を左に曲がって」

 指示された商店の角を左に曲がると、緩やかな上り坂が長く続いていて、その坂に沿った両側にずらりと民家が建ち並んでいた。

「私が配って回るから、晴彦君は自転車を押しながら付いてきてね」

 自転車から素早く降りると、前カゴから新聞の束を引き出して、駆け足で家々のポストに新聞を突っ込んで行った。この地区が終わると再び自転車に二人乗りをして、民家が集まっている集落に移動をして同様に新聞を配って行った。

 晴彦が路花と合流してから、一時間ちょっとで新聞配達は終わった。

 今朝合流をした地点に二人乗りで帰る途中、路花から「ストップ」がかかった。晴彦が自転車を止めると路花が素早く降りて、近くにあった自動販売機から缶入りのコーラを二本買って、その一本を晴彦に渡した。

「新聞配達を手伝ってくれた、ほんのお礼」

 コーラは、もう長い間自動販売機の中にいたように、びっくりするくらいに良く冷えていた。

「晴彦君が手伝ってくれたから、いつもよりもずい分早く配り終えることができたよ。ありがとう」

 路花はコーラを開けると、ごくごくと喉を鳴らして飲み始めた。晴彦は自転車を押していただけだが、路花は走りながら新聞を配っていたので喉が渇くのは当然だ。

 晴彦は自転車にまたがったまま、路花はその横に立って、少しの間コーラを飲んだ。

「そういえば、肝心の交換日記は書いてきた?」

「ああ、ちゃんとリュックの中に入っているよ」

「お利口、お利口」

「それは、お母さんが幼い子供を褒める時に言う言葉だよ」

「誉め言葉に年齢の区別はありません」

「それよりも、新聞配達の手際が良いね。新聞配達は中学に入学してから始めたのか?」

「ううん、小学五年生から。本当はもっと早くからやりたかったんだけど、販売店の決まりで配達員として雇ってもらえるのが、五年生になってからなのよ。だからもう新聞配達を始めて五年目になるから、まあ、手際だって良くなるわよ」

 路花は冗談めいた口調で言ったが、小学五年生の女の子がこんな朝早い時刻から一人で新聞配達をしている光景は、晴彦には想像もできないことだった。真冬の午前五時は真夜中に等しい暗さだろう。

「頑張ってきたんだな、路花はずっと」

「でも、これも東京に行くまでの辛抱。東京に行ったら新しいお父さんのもとで、新聞配達をしなくて良いだけでなくて、お母さんも憧れの専業主婦になれるんだから」

「お母さんの憧れは専業主婦なのか?」

 晴彦の家は離婚をしたが、生まれ故郷に帰ってきてからも母親は専業主婦のままだ。

「お父さんが亡くなってから、お母さんはお父さんの分まで働いてくれていたから、これで少しは楽がしてもらえるかなって、私は喜んでいる」

「良かったな。東京には路花とお母さんの幸せが待っているわけだな」

「うん、そうだよ」

「じゃあ、これ忘れないうちに渡しておくよ」

 晴彦はリュックサックの中から交換日記を取り出すと、路花に手渡した。

「どんなこと書いてあるか楽しみだな」

 受け取りながら路花はわくわくした感じでそう言った。

「常識的なことしか書いてないから、過度な期待はしないでくれよ」

「過度な期待って何よ。例えば『大好きだ』と告白が書いてあるとか?」

「ばかな、そんなこと書くはずがないだろう」

「でも、顔赤くなっているよ」

「路花がろくでもないことを言い出すからだよ。もう帰るぞ。ここでお別れだからな」

 家の方向に歩き出した晴彦の背中を路花の声が追いかけてくる。

「明日もきてくれるよね。私からの交換日記を渡したいし」

「ああ、今日と同じ時刻に、この場所にくるよ」

「判った。今日は本当にありがとう。明日もよろしくねえ」

 自転車の動く音が聞こえてきたので振り返ると、もう路花が乗った自転車はかなり小さくなっていた。

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