目を閉じれば浮かぶ顔

@nkft-21527

第1話 中学校編① 

 今から、三十五年も前の話。まだ日本が昭和の年号であった頃のことだ。

 この頃、都会と田舎にははっきりと境界線が存在していて、田舎から都会に出る者は上京と評され、逆に都会から田舎に引っ込む者は、「都落ち」と酷評された。そんな時代の都落ちの話からこの物語は始まる。


四月と聞いて人は何を思い浮かべるだろうか。

 まず浮かんでくるキーワードは「春」だろう。桜の花が咲き、新しいことが始まる期待感だろうか。スタートの時季、新旧が切り替わる時季、そして、重くて厚いコートを脱ぎ捨てるように過去を捨てる季節かもしれない。

 こうした四月のイメージのまま、四方晴彦(しかたはるひこ)はこの年の四月、昨日まで満開だった桜が散り始めた校庭で、不安で胸をいっぱいにしながら、これから始める中学の最終学年を迎えようとしていた。

 晴彦は転校生だ。しかも都会から田舎への転校。教育熱心な親なら絶対に中学三年生での転校はさせない。しかも希望校の選択幅が広い都会から、選抜制で他の高校を選べない田舎の中学に転校させることはない。

 たとえそれが父親の仕事の都合であったとしても、母親が父親を単身赴任するように説得するだろう。

 けれど四方晴彦は、この後の人生に大きな影響を及ぼす大事なこの時季に、住んでいた都会から、おおよそ七百キロ離れた田舎に引っ越しと同時に、転校を余儀なくされてしまったのだ。

 なぜなら、転校の理由が父親の転勤ではなく、ましてや前の学校でいじめに遭ったわけでもない。さらには虚弱体質の転地療養という健康面での理由でもなかった。たた単純に両親が離婚をし、親権は父親だが引き取ったのは母親で、母親の実家がある都会から七百キロ離れたこの田舎町に、母親の経済的なことと精神的な理由から暮らすことを選択するしかなかったのだ。

 経済的に自立できない義務教育を受けている中学生にとっては、保護者の選択を拒むことが許されなかった。ただそういうことだ。

 新学期の始まりと同時に、晴彦の新しい中学校での生活が始まることになった。

 始業式の日、同行しようとする母親をなんとか説き伏せて晴彦は一人で、賀谷(かや)町立中学校の校庭にやってきた。すでに転校の手続きは春休み中に済ませていたので、母親の付き添いなど必要がなかったからだ。

 それでも母親には、親の離婚のためにこんな田舎に転校をさせてしまったという引け目があったのだろう、玄関を出るまで「行く」「こなくていい」という押し問答を繰り返して、「付いてくるなら登校拒否をする」と半ば脅迫めいた説得で、母親を納得させたのだった。

 晴彦は、周りをソメイヨシノの古木が取り囲む校庭の最短距離を歩いて、一度転校の手続きの時に訪れたことのある職員室に入って行った。

 賀谷町内には中学校は一校しかなく、そのために田舎にしては大きく、一学年五クラス、全校で生徒数六百名近くと、人口の割には、それまで晴彦が通っていた渋谷にある私立の中高一貫校よりも大きな規模だった。

 晴彦のクラスは三年一組。担任は定年が近いことが見た目で容易に分かる、別の言い方をするなら豊富な経験を積んだベテラン教師の工藤先生だった。

「四方晴彦君、担任の工藤です。今日から君のことを四方君と呼べばいいかな」

「いえ、下の名前の晴彦と呼んでください」

 晴彦の希望を聞いて工藤先生は首を傾げた。納得ができていない様子だった。

「四方は母方の苗字で、両親が離婚するまでは友永を名乗っていましたので、四方と呼ばれることにまだ慣れていませんので」

「ああ、そういうことか。分かった、晴彦君と呼ぶことにするよ」

 合点が行ったことに安堵した顔で、工藤先生は強引に握手を求めてきた。これが工藤先生なりのコミュニケーションの取り方なのだろうかと思いながら、晴彦は握手に応じた。

 晴彦が編入をした三年一組の生徒数は、晴彦が加わって四十一名になり、男女の比率は男子三十二名で、女子が九名だった。工藤先生に連れられて教室に入った時、あまりに女子生徒が少ないのに驚いた。前の学校は男子校だったので、公立の共学は男女の比率が半々だと勝手に思い込んでいた晴彦には、驚きの光景だったのだ。

 可もなく不可もない挨拶を済ませて、工藤先生に指定された席に着いた。教科書は他の生徒と同じくこの日に受け取った。

 春休みに転校の手続きに訪れた時にも教頭先生に言われたのだが、賀谷中学校に転校生がくるのは実に十年以上振りとのことだった。この町にダムを建設した時期があり、この時に土木、建築、電力会社の人たちが家族を連れてここに引っ越してきた年に、まるで嵐が押し寄せるように転校生が大勢やってきた。この時は一時的にプレハブの校舎を増築してなんとか間に合わせたのだと、且つての賑わいを懐かしむように教頭先生は話した。

 ダムの工事関係の家族は、ダムが完成すると同時にこれまた潮が引くようにこの町を去って行き、その頃に増築したプレハブの校舎は、取り壊されたて、今はその後に体育館が建てられたことも話してくれた。

 晴彦はその時以来の転校生だということだった。

 この学校にとって転校生は、とびっきりの珍客で、晴彦はクラスだけでなく学校中の注目の的でもあった。

 初日の最初の休憩時間、まるで腫れ物にでも触るように、クラスの生徒が晴彦を遠巻きにしたが、その中の誰一人として声をかけてくる者はいなかった。

 昼休みになった。前の学校では給食だったが、この学校は弁当を持参しなければならなかった。母親がこの学校の卒業生ということもあり、弁当持参のことは把握していたので、今朝家を出る時に母親の同行で揉める前に弁当を受け取っていて良かったと、初めて経験する弁当の昼食を食べながらそう思った。

 当然晴彦は一人で弁当を食べていたが、他の生徒たちには派閥が存在しているようで、机を寄せ合った仲良しの島が幾つか作られていた。

「四方君、良かったらこっちで一緒に食べないか」

 誘ってくれたのは、クラス委員を務める古川という色の白い、いかにも利発な感じのする生徒だった。せっかく誘ってくれたので断ることもないので、机を寄せて合流することにした。

「晴彦君のお母さんがこの町の出身なんだよね」

 情報通という存在はどこにでもいるもので、このクラスではこの長嶋という生徒がそうなのだろうと晴彦は目星をつけた。

「うん」とだけ答えた。

「この学校の先輩でもあるんでしょう」

 長嶋はさらに続けた。一緒に弁当を食べている生徒は男子七名だった。この七名の中で自分だけが転校生に一番近い存在であることを誇示するように、長嶋は質問を続けた。

「そうみたいだね」

 どうでも良いことだという思いを込めてそう答えた。

「前は中高一貫の私立に通っていたんだよね。どんな学校?」

 この質問は古川から出た。

「他の学校を知らないから、どんな学校と言われても答え難いけど、賀谷中学校と大きく違うところは、前の学校は男子校だったということかな。でも、この学校は共学にしては女子の生徒が少ないよね」

 クラス四十一名のうち女子が九名しかいないことを捉えて言った。

「このクラスは女子が少ないけど、学年全体では逆に女子の方が多くて、五組は男子が五名しかいないし」

 古川はそう説明をした。

「クラスによって男女の比率が違うということ?」

「結果的にはそういうこと」

「結果的に、ってどういう意味?」

「二年生の三学期のテストの結果で、三年生のクラス分けがされるから」

 それを受けて晴彦が訊いた。

「成績順ということ?」

「そう。このクラスには男女関係なく、学年で成績上位四十名が集まるクラスということだよ」

 古川は明らかに優越感が窺えるような表情をしてそう説明をした。この上位四十名の中でも古川はさらに上位十名以内に入っているのだろう。

「つまりは、エリートクラスということだね」

 ここにいる七名の気持ちを察して、一番言って欲しいと思っているだろう言葉を、あえて晴彦は口にした。

「露骨にいうとそういうことだけど、四方君、この言い方は他のクラスの生徒の前では絶対に言ってはいけないよ」

 長嶋が重要な秘密話を教示するように小声で言った。「そうなんだ」と答えてしまうと話は終了なのだが、長嶋が求めている答えは、「どうして?」なのだから、ここはその期待に応えるべきだろうと思い、「どうして?」と驚いた顔をして訊いた。

「同じ学年には、僕たち三年一組の生徒のことを快く思っていない生徒もいるからね」

 一学年五クラス。一クラス四十名の生徒がいるとして、一学年全体では二百名の生徒がいることになる。二年生の三学期のテストの合計点数の順位で、三年生のクラス分けが決まるなら、一組は上位四十名で、五組は必然的に下位四十名になる。

「忠告ありがとう、気を付けるよ。でも、僕は二年生の時にはこの学校にいなかったのに、どうして優秀な君たちが集まるこのクラスに編入することができたのだろうか?」

 晴彦はあえて古川の顔を見た。

「それは四方君が、東京の中高一貫の私立校に通っていたという実績があるからだよ」

 古川は躊躇なくそう言い切った。

「確かにそうした学校には通っていたけど、このクラスに編入できるような学力が備わっているかどうかは、はなはだ疑問だよ」

 再び古川の顔を見た。

「四方君が通っていたのは、なんていう学校なの?」

 古川のこの質問が出ると、他の六名も興味津々の顔に変わった。最初からそれを聞き出すのが一緒に食べることを誘った理由なのだろうから。

「渋谷区の青葉学園だよ。中等部は一学年二クラスで、同級生は八十名しかいなかった。小さな学校だよ」

 この晴彦の答えを聞いた途端に、興味津々の表情は憧憬のそれへと変わった。

「青葉学園って、偏差値最高の名門進学校だよね」

 古川が訊いた。

「確かに進学校とは言われているけど、名門ではないと思うけどな」

 晴彦は軽い調子でそう返した。

「青葉学園に合格できた実力があれば、余裕でこのクラスに編入できるよ。一学期の中間テストではいきなり学年トップに躍り出るかもしれないね」

 長嶋は調子良くそう言った。

「そんな過大評価は止めてくれよ。僕は青葉学園の中では落ちこぼれと言われていたんだから。きっと学年トップの古川君の足元にも及ばないよ」

 晴彦は古川が言って欲しいだろう思う言葉を言ったつもりだった。学年トップという称号。

「僕が学年トップって、誰がそんなデマを四方君に教えたの?」

 意外にも古川は右手を大きく横に振って激しく否定をした。

「違うの? てっきりそうだと思ったけど」

「こいつ、見た目だけは真面目で優等生に見えるから」

 おそらくこの中で古川と一番仲が良いのだろう、さきほど佐々木と名乗った背の高いが色の白い、明らかに運動部には所属していないだろうと簡単に想像がつく生徒が言った。

「じゃあ、トップは佐々木君なの?」

「それもない。トップは男子ではなくて、入口に近い列の一番後ろの席に座って一人で弁当を食べている女子だよ。名前は吉住路花。路(みち)の花(はな)と書いて、路花」 

 そう言われてそちらに顔を向けると、学年トップの優等生は黙々と弁当を食べていた。

「このクラス、女子は九名しかいないのに、彼女だけ一人で弁当を食べているんだね」

 不思議に思ったので、晴彦はそれを口にしただけだった。

「路花は人間嫌いだから」

 吉住ではなく、佐々木は「路花」と呼び捨てにした。

「佐々木君は吉住さんとは親しいの? 女子に対して下の名前で呼ぶなんてよほど親しくないとしないよね」

「路花の家とは隣同士で、生まれた年も一緒だから、幼い頃から互いの家を良く行き来していたんだよ。要するに幼馴染だということ。路花も僕のことカキオと今でも呼び捨てにしているし」

「カキオ? 果物の柿に男と書いて、佐々木柿男っていう名前なんだ? 季節感満載だね」

「違うよ。本当の名前は佐々木勉。小さい頃から柿が好きで、秋になると毎日のように柿を食べていたから、路花が勝手につけたあだ名だよ」

「柿男に路花。なんだか、良いね。僕も佐々木君のこと、これから柿男って呼ぶことにしよう。だから、柿男は僕のこと晴彦と呼んで良いよ。それとも僕はトマトが好きだから、トマトと呼んでくれても良いけど」

「トマトとはさすがに呼び難いから、晴彦と呼ぶことにするよ」

「OK」

「さすがに都会育ちの人は、馴染むのが早いね。あっと言う間にもう、僕たちの仲間に入ってしまったじゃないか」

 長嶋は嬉しそうにそう言ってくれたが、晴彦はこの仲間に入るつもりなど全くなかった。

 賀谷町立中学への初登校の日、晴彦は柿男と一緒に下校した。一緒に帰った理由はただ家の方向が同じだったということと、柿男が部活動を一切していなくて、晴彦と同じ帰宅部だったからだ

「晴彦の両親は離婚をしたんだよね」

 二人切りで歩いていることで気が緩んだのか、柿男はかなり暗部に関わるプライベートなことをストレートに訊いてきた。まあ、その方が正直に答え易くはあるけど。それに、元々柿男は性格の良い奴そうだし。

「そうだよ」

「原因は、お父さんの浮気かなんか?」

「離婚の原因は一つじゃないと思うよ。だって子供がいるんだし、多少のことは互いに我慢するだろうから、ことはそう単純なことではないと思うよ。だって、息子の僕だって良く解ってないんだから。でも、なんでそんなこと訊くの。柿男はそんなゴシップ好きなタイプには見えないけどな」

「いや違うよ。町内でそんな噂が広がっていたから。それで訊いただけだよ」

 柿男は屈託もなくそう言ったが、普通こんなこと当事者に直接質問したりはしないだろう。

「こんなこというと嫌われるかもしれないけど、田舎って怖いね。きっと噂はテレビのニュースよりも速くみんなに伝わるんだろうね」

「平和ボケしているから。ちょっと変わったことがあったら、まるでお祭り騒ぎみたいに誰もが根も葉もない噂を流すんだよ」

「でもうちの両親が離婚をしたのは、根も葉もある事実だけどね」

 皮肉のつもりで言ったのだが、風貌通り柿男には暖簾に風だったようだ。

「昼休みに柿男が言っていた、吉住さんが人間嫌いだってことは、根も葉もある真実なのか?」

 そっちが答え辛いことを訊いてくるなら、こっちもお返しだ。少々意地悪な気持ちで訊いてみた。

「幼馴染の僕に対しては全くそんなことはないけど、他の生徒に対しては、路花の方からは決して近づいたりしないんじゃないかな。僕は、幼稚園、小学校とずっと一緒だったから、そんな様子を近くで見てきたし」

「でも、柿男には心を許しているんだろう」

「心を許しているかどうかは分からないけど、僕は路花に対して偏見は持っていないから」

「偏見?」

 この質問に対して、果たして柿男がすんなり答えてくれるのか、少し心配をしたが、柿男の辞書の中には「答え難い」という言葉はないようで、間髪も入れない速さで答えが返ってきた。

「あいつ、顔の左半分に大きな痣があるから。しかもその痣は赤くてかなり目立つんだ。日頃は髪の毛で隠しているから、かえってそれが不気味だと口の悪い女子が言っている。まあ、そう言う口の悪い女子ほど頭も悪いけどね」

「昼休みに見た時には全く気が付かなかったな」

「ちょうど、髪の毛で隠れた左側から見たからだよ」

「吉住はその痣のことを気にしているんだね。まあ、女子だったら誰でも気にするよね」

「うん、そうなんだけど。でも、小学校に入学するまでは、路花は特別に痣のことは気にしていなかったと思う。まあ、同じ幼稚園に通っていた園児が全員幼馴染だということもあって、路花の顔の痣は当たり前のように捉えていたからね。でも、小学校になると、他の地区からも生徒が入学してくるから、初めて路花の顔の痣を見た者は必ず驚くと思う」

 幼馴染の柿男が言うくらいだから、きっとそうなのだろう。

「小学校の時に、吉住さんが人間嫌いになってしまう出来事が起こったということだよね?」

「凄い推理力だね。さすがに都会育ちは違うよ」

 いやいや、これまでの話の流れからすれば、ほぼ誰もがそう推測すると思うよ、柿男君。

「小学二年生の時に、担任の先生が教室に学級文庫を作って、先生が個人的に持っていた本を本棚に置いていたんだよ。ちょうど梅雨の時期で、その頃は学校にはまだ体育館がなかったから、雨の日だと体育の授業は読書の時間に切り替わっていたんだ。その日も雨で、体育の授業が読書会に切り替わったんで、一斉にみんな学級文庫の本棚に押し寄せたんだ。この時に、路花と女子の中でもリーダー格だった水元という生徒が、一冊の本を取り合う形になったんだ。その本を先に手に取ったのは路花だったけど、おそらく、水元は日頃から路花のことが気に入らなかったんだと思うけど、路花の手から強引にその本を奪い取ってしまったんだよ。その頃は路花も気の強さでは負けていなかったから、もう一度本を奪い返した。こうした攻防が繰り返された結果、最後は路花がこの本を獲得した。

 これが水元にはよほど悔しかったんだろうね、腹いせに、みんなに聞こえるような大きな声でこう言ったんだ、『お前みたいな化け物、気持ち悪いからこの教室からいなくなってしまえ』って」

 柿男の話すこの光景を思い浮かべただけで、晴彦は目を覆いたくなるような暗い気持ちになった。

「担任の先生がすぐに水元のことを強く叱って、路花ちゃんに謝りなさいと言ったけど、その時にはもう路花は教室から出て行って姿をくらましていた。後で先生が話したことだけど、このあと学校が終わるまで、路花は保健室のベッドの中でずっと泣き続けていたらしい」

「この一件があってから、吉住は人間嫌いになったしまったというわけなんだ」

「そうなんだよ。次の日から路花はまるで人が変わったように、誰とも口を利かなくたってしまったんだ。さすがに僕たち幼馴染の連中とは家の近所では今までと変わらない様子で話はしていたけど、いったん登校すると誰とも口を利かなくなったんだ」

 その後すぐに柿男と別れる十字路に差し掛かり、吉住路花の話はこれで断ち切れることになった。柿男の話を聞いたからといっても、晴彦の中に吉住路花への興味が湧くことはなかった。

 四月は瞬く間に過ぎようとしていた。青葉学園に通っていた時には、電車で片道一時間も通学に時間がかかったし、午前八時四十五分の始業の前に、七時半から予備校から派遣された講師による補習授業を受けていたので、平日は六時過ぎには家を出ていた。電車の中でも参考書にずっと目を通していた。

 それが、今は歩いて十五分で学校に到着をする。しかも当然、始業前の補習授業なんて存在しない。

 東京での生活習慣が抜けなくて、晴彦はつい午前五時に目を覚ましてしまっていた。二度寝をしても良いのだが、そうすると却って頭がすっきりとした状態で起床することができなくなってしまうので、五時に目を覚ますと、今日の授業の予習を行うようになっていた。それでも、家を出る八時二十分には余裕があり過ぎて、時間を持て余すようになっていた。

 仕方なく四月が半分過ぎた頃に、起きたらまず散歩をすることにした。この時期の午前五時はまだ暗いので、五時半になると道を覚えるのも兼ねて近所を散策することにした。

 四方を山に囲まれたこの地域の四月の午前五時半は、厚めの上着を着込まないと寒さで震え上がってしまうほどに気温が下がっていた。晴彦は青葉学園のロゴの入ったコートタイプのウインドブレーカーを着込んでから散歩に出かけた。

 それは、散歩を始めてから二日目の朝で、昨日とは違うコースを歩くことにした。昨日と違うコースとはいえ、目に映る風景は日本の田舎の原風景で、昨日の景色とほぼ同じだった。田んぼや畑の間に民家が点在するような感じで、どこの家の前にも広い庭があり、必ず今は青い葉をつけた柿の木が植えられていた。

「ああ、これで柿男は好きなだけ柿を食べることができたのだな」と、納得をしてしまった。

 少し歩くと、田んぼや畑が占める割合よりも民家の占める割合が増えてきた。どうやら市街地に入ったらしい。ただ、市街地といってもなんの物音も聞こえないくらいに静かで、薄暗い中で、やっと上り始めた太陽に照らされたポストの赤色だけが、この街がモノクロではないことを教えてくれていた。

 信号もまだ作動はしていなかった。

 これだけ車や人の往来もない、まだ眠りから覚めていない街で特に交通ルールを守る必要もないのだが、それでも晴彦は道路を横断するのに横断歩道を渡っていた。

 この時に、自転車が走ってくるような音が耳に飛び込んできた。まだ鳥の声さえ聞こえてこない静寂の中では、その音はかなりの大きさを持って晴彦の耳に響いた。

「自転車?」

 学校への通学路とは全く逆方向なので、この市街地に足を踏み入れるのは初めてだった。初めての場所でのこの時刻の自転車。晴彦の体に緊張が走った。東京ならこの時刻に出会う人間は、夜飲み歩いで朝帰りをする油断ならない連中の可能性が高い。

 自転車の音がさらに大きくなってくる。晴彦は咄嗟に身を隠すように、しっかりと雨戸が閉じられた民家の後ろに移動をした。

 それでも、こんな早朝に自転車に乗っている人の正体を見たいという好奇心だけは抑えきれなくて、民家の後ろに隠れながらも、自転車が迫ってくる片側一車線の道路にじっと目をやっていた。

 いよいよ自転車が直前まで近づいてきた。そして、通過した。

「あっ、路花!」

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