天才歌姫と凡才奏者。二人は二度と離れない。
伊吹梓
天才歌姫と凡才奏者。二人は二度と離れない。
「ハッピバースデーイあやちゃーーーん♪」
私は『
これは、
ヘッドに取り付けたチューナーの液晶画面を、PAさんに向けている。真っ暗でも、明かりの動きで合図を出せるようにするためだ。
合図を確認したPAさんは、ギターと返しボリュームを上げる。
同時に、打ち合わせ通りゲストミュージシャンがハピバを歌う。100人オーバーの観客も続く。会場が一体となった大合唱だ。
私の隣には、誕生日を迎えた
そう。今日は友達のミュージシャン、彩のバースデーライブだ。
ステージ最前列には、彩の締まったウェストがすっぽり収まりそうなバースデーケーキ。そのすぐ後ろで、彩はスポットを浴び輝いていた。
真横から、見える彩の横顔。
ショートヘアの隙間から覗く、切れ長の瞳。目尻には、ちょっと光るものがある。
演出に目薬でも差したか?と、思わず心の中で苦笑する。
見た目も喋りも、キツめだけど清楚系。その癖性格は、猫もびっくりの気分屋さん。それでいて「やられたらやり返す!」を地で行く、結構な武闘派。
いま涙流すなんて、そんなタマじゃないよね?
そんな明後日なことを考えながら、私はハピバを最大音量で伴奏する。
彩のスポット以外、ステージ照明は落とされている。だから私は手元が見えない。
でも大丈夫。ハピバはステージだけでも100回は弾いている。手元が見えなくても、寸分違わず手は動く。
ケーキに立てられた二十六本の蝋燭に、炎が揺らめく。
弾き終えると同時に、大合唱が止む。
「彩ちゃん、お誕生日おめでとうーー!!」
「みんな、ありがとう!」
顔を上げた彩は、輝いていた。最高に美しく、輝いていた。
***********************
SSWの彩は、元々はお
お箏の最大会派主催コンクールで、最年少で一般部門の最優秀賞を獲っている。これは、未だ破られない最年少記録だ。
その後、芸術系の学校の邦楽科
卒業の翌年も、彼女の親や後援会の後押しで、国内最大のコンクールに出場。本選に勝ち上がり、上位成績を収めていた。
箏曲界だけでなく、メディア関係の人脈も広い。映像作品への参加も一度や二度じゃない。
話が軽妙で親しみ易いこともあって、主催の教室も盛況だ。
彩は、表街道を真っ直ぐ進んできた、本物のエリートだった。
***********************
彼女との出会いは、隣町の公民館で開催された、和洋楽器ごちゃ混ぜのフリーセッション会だった。
そこはお箏が十面ほど保管しており、よく和楽器イベントが開催されていた。
彩は、他のお箏奏者さんの付き添いで来ていた。
その時私はまだ、彩のことは「歌番組でバック演奏していて、コンクールの本選出場者リストに載ってた人」程度の認知だった。
ただ、彩が会場に入った時、なんだか凄い人だ、とは思った。
纏う空気が違う。彩の周りだけ、常に光が差しているように見えた。まさにオーラだ。
和楽器業界はとても狭い。プロ・アマの壁も薄く低い。
大先生や作曲家、音楽系の漫画家、大手メディア出演者が、素人の集まりに気軽に顔を出す。
彩が来ても、驚かれはしたが、特別珍しがられはしなかった。
はじめは、和楽器だけのセッション。
その間の彩は、お箏未経験者への体験指導を優先させていて、自身は殆んど弾いてない。
元々母にお箏を習っていた私は、基本的にはお箏で参加していた。
でも、ギターも持ってきたことが他の参加者に知れると、伴奏を依頼された。
私もセッションを試したくなり、まず指を慣らしで適当に弾いた。
その時、私は気づかなかったけれど。
後に他の人から聞いた話では、私がワンコード弾いた時、彩がビクッとし私に視線を向けた…らしい。
その後、セッションし易いコード回しを弾く。
皆、私のコード進行を掴もうと耳を傾け、調弦を始めた。
そんな中。
彩は、私がさっきまで弾いていたお箏の前にスッとやってきた。
殆ど弾く雰囲気を見せなかったのに、いきなり現れた彩。私も驚き手が止まりそうになる。
でも、なんとかこらえた。
彩は私の伴奏に合わせ、即興を弾きながら誰よりも手早く調絃し、合わせ込んできた。
それはまるで、調絃すら即興の一部のようだった。
私のコード回しは、ふんわりとした進行だった。
そういう空気感を狙ったのではない。単に和楽器が合わせやすいのだ。定番の手で合う。情景描写は必要なく、乗せられるメロディの自由度も高い。
ところが、だ。
彩はそこに、クッキリとした情景を乗せてきた。
加えて様々なテクニックを組み合わせ、お箏とは思えないフレーズをどんどん繰り出してくる。
たった二オクターブ半しか音域が無い筈なのに、三オクターブ半のギターより広い音域に聞こえる。
リバーブやコーラスエフェクトでも掛かってるんじゃないか、としか思えない音を、彼女一人で奏でている。
(ちょっ、なに?この子、何なの? すごい。凄すぎる…!)
もっとこの子の音を聴きたい!
そう思った私は、今度はアコースティックのギターに持ち替え、ストロークでリズムを刻む。
すると、彩はスキャットの歌声も織り交ぜ、まるで
すさまじい対応能力と表現力。
お箏だけじゃない。歌が、歌声が感動的すぎた。
時に透明。時に地に潜り込むようでもあり、また星の輝きのようでもあり。
特に意味のない即興のコード進行が、彼女のあらゆるテクニックにより色付いていく。
彩のお箏はまるで、パレットだ。
彩は最高級の筆。
そしてキャンパスは、この空間全て。
彩はこの空間全体に、歌声とお箏の
(っ天才だ!この子ガチだ!やばい、こんな漫画みたいなことってある?信じられない!)
私は手が止まらなかった。
そんな私たちを尻目に、周りの奏者さんは手を止め、聴き入っている。
もはや二人だけのステージだ。
視線を交わしエンディングに入ると、彩も私の右手の動きに合わせ、
これをピタリと合わせるのは、かなり難しい。
けれど。さすが指揮者を置かず「申し合わせ」だけで合わせる和楽器奏者だ。
私の体の動きをじっと観察し、ピタッと貼り付くように合わせてくる。
即興を終えると、満場の拍手が起きた。
「綺麗なフレーズ奏でるね。それに、どんどん盛り上げて気持ちいいノリ作るね。ワンコードでその気になって、どんどん入って行ったよ。でも…出しゃばりすぎたかな?」
彩がニコニコで話しかけてきた。
「…出しゃばりすぎな訳ないです、控えめに言って最高!人生最高レベル。 贅沢すぎる。…もっとやりたい!」
「オッケー!私も久しぶりに楽しい!続けよう!そだね、できれば、キーは
「あー、なら壱越の
「さっすが。和洋両方やってると、言葉すぐ通じるね」
そう。和洋楽器混合セッションでは、大きな壁がある。
「和楽器特有の音名と調絃名」だ。
お箏に限らず和楽器は、音階も調絃も日本語の名で言う。そして基本は五音階だ。もちろん、現代曲は「ドレミ七音階調絃」というものもあるけど。
両方の楽器をやる私の強みは、それを洋楽のドレミやCDE…に即置き換えるられ、調絃名だけで音の並びが分かることだ。
調絃が分かれば、曲の進行も大体イメージできる。音を出す前にサッと打ち合わせが完了する。
この調絃は、私のイメージでは「青空、海、竜宮城」だ。
ちょうど、今日の空やこのセッションを音で表したような。私の大好きな音の並びだ。
「じゃ、行くよ!」
まさに、意気投合。彩とは、描く音の情景の好みも、ピタリと合っていた。
そのあと何度も何度もセッションを繰り返し、結局1時間も続けた。
撤収後の帰り道、私たちは、音楽話で盛り上がった。駅まで一緒だったけれど、まだ全然時間が足りない。話し足りない。
別れ際。彩から連絡先の交換を切り出された。驚いたけど、嬉しかった。
そして私たちは、またの再開を約束した。
その翌々週の彩のライブ。
私はステージ上で、彼女の隣に立っていた。
その次も、そのまた次も。私は彩の隣で、常に彼女の歌を支えるようになっていた。
***********************
「これは内緒なんだけどね」
ある日、新曲の打ち合わせで彩は私の家に来た。
一段落しひと休みしていた時、そう前置きをしながら自分の育ちを話してくれた。
「家、祖母も母もお箏って家じゃん? だから好きも嫌いもなく、ある日突然、母から『今日からお箏を弾きなさい。弾かない子はいらない。頭取れない子はいらないから』って、お箏始めさせられたんだよ。3歳からずっと、頭取れって言われ続けた。逃げることも辞めることも許されなかった」
頭を取る。トップを目指せということか。
3歳からそんなスパルタ…。
私は今はギターメインだけど、元々は母にお箏を教わっていた。
お箏は、私から母にやりたいと言った。
母も表立った活動をしていた人だが、私に無理にやらせようとはしなかった。
そんな環境だったから、有無を言わさずやれ、という世界は、私は無縁だった。
「私バカだったからさ。それを期待の表れって勘違いしちゃってたんだよね。でまぁ、頭取ったよ。13歳だったかな。ああ、おばあちゃんとお母さん、喜ばせることができたって、嬉しかった。同時に、やっと解放されると思ったよ。だってその間、ずっと受験勉強してるようなもんだよ?子供らしい遊びなんてしたことない。友達もお箏の子だけ。お稽古や演奏会で会うだけ。楽しい訳がない」
3歳から延々、受験対策講座を無休で受けている状態。
しかも、逃げることも辞めることも許されない。
なんだその地獄。
「お箏自体は好きだよ。当時も、誰も見てないとき思いのまま弾くのは楽しかった。でも、人前は常に真剣勝負。頭取り続けてきた家系の子って、お偉方はみんな知ってるからさ。お稽古だって常に勝負への備え。上手く出来ないと、桐の
それは軽く、いや、相当な虐…。
お箏も、伝統芸能の一つだ。この世界は、家元やそれに準ずる家の話として、そんな風に育った人もいると聞く。
でも。
こうして実体験として聞くと、何も言葉が出ない。
「で、頭取って、もう『訓練』としてのお箏弾かなくていいんだ、好きにできる。そう思った。そしたら、今度は頭に居続けろって。例えると、閉じ込められ続けて、逃げられるスキ見つけて動いたら捕まった。そんな感じ。これって、ずっと耐えるより心を打ち砕かれるよ。おまけに外からは、恵まれてるだのもっと先行けるだの、やっかまれたり羨まれたり勝手に期待されたり、好き勝手言われてさ。もう、殆どロボットだよね。心殺さないと、一歩も動けなかったよそれからはさ」
今度は守れと言われる。
格式とか家柄とか、色んな付加価値を掲げて周りは言う。
けれどこれって、結局は親や支援者のエゴでしかないじゃないか。
それに、そうして持ち上げられれば、当然目立つ。目立てば敵も増える。
でも恐らく、ガードしてくれる人はいない。
なんだそれは。闇しかないじゃんか。
「大学入って。院にも行って。やっと一昨年卒業して、本当に解放された。そのあと、先輩のお手伝いでライブハウスで演ったり、TVや映画で弾いたり演奏指導したり。したらさ、楽しいのね。自分で選んだ場って。やっぱ楽しいんだよ。そうすると不思議だね。お箏が、音楽がさ、楽しいってやっと思えるようになってきた。20年以上やって、やっと人前の演奏や教えることが楽しいって思えた」
「いま、ちゃんと楽しい道を進めてるんだね?その道見つけられてるんだね?」
「もちろん!間違いなく楽しいって言えるよ。でね。それで、まぁ今の活動に繋がるんだけど、サポートの合間に誘われて、試しに歌ってみたらさ。意外に評判良くって。曲もそこそこ作れるし、歌もそこそこ良いみたい。あ、ならこっち方面でも、SSW活動でも少しは商売になる?って考えてね。どうせ音楽以外のことは知らないし、なら歌う道もいいかな?って」
実際、彩の歌はお箏に匹敵する。そこそこ歌える、なんてレベルじゃない。
元々お箏は、弾き歌いもあるし地唄もやる。更に彼女の所属する会派は、西洋声楽も盛んだ。それらをベースに、様々な歌唱法を学ぶ。だから歌えても不思議じゃない。
でも彩の歌は、技も表現も「歌えるだけ」の次元を超えている。
しみじみと古典を弾き歌ったかと思うと、今度はジャズを歌う。
かと思うと、ロックも歌う。メタルもやる。ポップスのバラードも、透き通った歌声で情感豊かに歌い上げる。合唱風なんてもう、天上の響きだ。
一人の人間がここまで様々な情感を、歌声を、こんなにも操れるのかと思うほど。
心にすっと沁み入ってくるのだ。
「ただ、
本物の天才。心底そう思うミュージシャンに、必要だと言われる。最高だと言われる。至福を通り越して、恥ずかしいし照れくさい。
「あ、ありがとう。持ち上げすぎだと思うけど…。私も彩とずっとできれば、って思ってるよ」
恥ずかしさに顔から火が出そうだったけれど、最高に嬉しい一言だった。
私はその恥ずかしさを隠すように俯いて、彩の甘い言葉に応えた。
***********************
「梨絵、今日はありがとう。ハピバ聴き入っちゃったよ。マスターの合図で我に返ったくらいね!」
ケーキを出演者の皆で分け合い、手早く撤収を済ませ、事務処理と会計を済ましハコを出ると、彩が嬉しそうに言った。
「あんな雑に弾いて、聴き入るも何もないっしょ?」
「違う違う、梨絵が弾いたってのが嬉しいんじゃん」
「なにそれ」
二人で笑い合う。
私はライブの後、彩と一緒に帰る時間が好きだった。
打ち上げも楽しいけれど、二人きりの帰り道は、素の話ができる。解放感も手伝って、プライベートな話題が多い。
私は夫婦の話を。彩は恋人との甘い甘い話を。
楽器は背に。物販品や機材、衣装などはキャリーケースに。
そんな旅にでも出るような大荷物を持って、大口開けて笑い合いながら歩く道々。
お互いに「ミュージシャン」という肩書を剥がし、一人の人間になれる時間だった。
しかし。
この日は少し、気が緩み過ぎていたのかもしれない。
こんな最悪のタイミングで、事件は起きた。
「そういえばさ。梨絵の誕生日、再来月でしょ? さっきマスターと話したけど、ハコのスケジュール空いてるって。だから、梨絵のバースデーライブやりたいと思うんだけど、都合は…」
「いや。私はいいよ」
私は即答した。
一瞬にして、憮然とした声になってしまった。
表情も固まる。
「…なんで?」
彩が、虚を突かれたような表情で、私の横顔を覗き込んだ。
「誕生日くらい、ゆっくりしたいし。それに…」
「それに?」
この先、言ってもいいんだろうか。
一瞬だけど、もの凄く迷った。
でも。
私は、彩が大好きだ。
彩のためなら、ノーギャラでもいいとさえ思ってる。
彩に関わる記念日は全力で祝いたいと思うし、呼ばれなかったらそれこそショックで寝込むかもしれない。
それくらい、彩が好きだ。
だからこそ、全部言わないと。
「集まるのは『彩のファン』でしょ?そこで、単なるサポメンの私のバースデーイベント。なんかそれ、違うと思う。もちろん、彩の気持ちは嬉しい。最高に嬉しい。彩は私をそれだけ大きく想ってくれて、祝いたいって言ってれてるのは承知してる。でも…でもさ、集まったファンの子たちは?」
彩が、ゴクリとつばを飲み込み息を詰める。
ごめんね。大好きだけど、だからこそ、この線引きはきちっとしないと。
心の中でそう言いながら、言葉を続ける。
「 物販の時、私が彩の隣に必ず居るのは、変な人から彩をガードするためって、ファンのみんなも気付いてる。そんな私は、彼らにとっては『ついで』なんだよ。最近サポートに入った女が、なんか貼り付いてるなって、多分そう思われてる。邪魔だって思ってる人もいるよ。労ってくれる人もいるけどさ…。でも、そんなみんなからの、上滑りしかしない『おめでとう』なんか、いらない」
彩の気持ちは分かる。
私の誕生日をファンの前で思いっきり祝って、自分のステージに欠かせない存在ということを、ファンの皆に改めて知ってほしい。そんな思いもどこかにあるだろう。
でもそんなアピールすら、私にとっては不愉快でしかない。
そんな打算、嬉しい訳がない。
それに。
彩は表舞台を歩んできた。いまもその道を歩んでいる。
私は、そんな人を影で支える道を進んでいる。好きでこの道を進んでいる。
私たちは気が合う。音も合う。それは間違いない。
でも、立ち位置が違うんだ。目指すものが違うんだ。
自分を輝かせたい。自分の光で誰かを照らしたい。それが彩。
人の輝きを支える燭台でありたい。光に
この違いは大きい。
真逆、と言えるかも知れない。
でも恐らく、その違いが彩には分かっていない。
ステージに立つ人は、華々しさを求めている。そんな思い込みを、彩は持っているように見える。
それはそうだ。
彩はずっと、華々しさを求める人が集まる道を歩んできた。ステージとはそういうもの。そういう属性の人の集まり。そう思い込んでいても何の不思議もない。
彩は黙り込んでしまった。
責めるつもりはなかったけれど、結果的にそうなってしまったかも知れない。
私も、フォローする言葉が見付からない。
駅で別れるまで、どこか重い空気が二人の間に漂っていた。
***********************
その日から、どうにもしっくり来ない。
いくらリハしても、何かよそよそしい。
合ってはいる。曲が崩れるようなミスも無い。
でも、それだけ。
今まで感じていた高揚感が、すうっと消えてしまっていた。
次のライブは、対バンで出演時間も15分と短く、定番曲だけのステージだった。
なんとか、今までの貯めもあって、演奏は纏められた。
私たちも、それぞれ違うステージだけど、出会う前から場数は踏んでいる。大抵は「場慣れ」で補完できる。
そう。ただ合わせるだけなら、問題ない。
けれど。これまでとは違い、お世辞にも勢いのある演奏ではなかった。
リハのあの違和感。それを何ひとつ修正できないまま、ステージ上でただ音の羅列を並べただけだった。
そしてその日、彼女とのライブでは初めて、私たちは別々に会場を後にし、一人で帰路に着いた。
***********************
あの日から、気持ちが晴れない。
彩の誕生日の最後の最後に、あんな空気にしてしまった。次のライブも違和感しかなかった。
それがずっと、尾を引いている。
あれから、彩はお箏教室の次期プログラム作りや、会派の地方公演などで忙しくしていた。私はと言えば、本業の繁忙期で忙しかった。
そんな状況だから、当然なにも話せていない。
もやもやを抱えながら、でも一つも解決の糸口を見つけられぬまま、時だけが過ぎていった。
そしてとうとう、私の誕生日がやってきた。
今年の私の誕生日は、金曜だ。
つまり、ゆったりと夜更かしできる。後ろめたい気持ちがなければ、こんなにいい日取りはない。
私は、誕生日にどこかへ行くのは好きじゃない。誕生日くらいはゆっくりしたい。それが本音だ。
特に今年は、もやもやを抱えている。遊ぶ気なんて湧かない。
今日くらいは、と定時で上がり、家に帰る。
「?」
アパートの前まで来ると、部屋の明かりが付いていない。
普段は、職場の近い夫の方が帰りは早い。だから、大抵明かりが付いている。
(こんな日に残業?でも、連絡入ってなかったよね?)
夫は残業の時、ほぼ連絡をくれる。でも今日は、何の連絡もない。
誕生日なのに。少しは、楽しみにしてたのに。
あんな日に、彩に酷いことを言った罰が当たったんだ…。
ガックリと肩を落としながら鍵を開け、部屋に入る。
玄関の明かりを付けようと、スイッチを押す。
(あれ?点かない…電球切れたかな)
先月変えたばかりなのに早いな、と思いながら何度かスイッチを押す。それでも点かない。
諦めて靴を脱ぎ、部屋に一歩踏み出して顔を上げると…。
「わぁっ!!」
真っ暗な部屋の中に、火の玉が
怖い!こわいこわいこわい!!!
電気つかないし!おまけに火の玉!
こ、こ、ここ、じ、事故物件じゃなかったはずっ!!
「ハーッピィバースデートゥーユー♪」
え?夫の歌声?
へあ? あ、ああ、そうか。そう来たかっ!
夫、帰ってやがった!?
いま、蝋燭を立てたケーキを、ハピバ歌いながら運んでる!?
やっと状況が掴めた。
そして。
伴奏にお箏…てことは…?
彩だっ!
蝋燭の明かりの向こうにぼんやりと、お箏を弾く彩の姿が見える。
しかも、彩も途中から歌い出した。
美しい歌声…。
思わず聞き入ってしまう、フワッと舞い上がるような歌声。
そう。彩の歌声の中でも、私が一番好きな歌唱法で歌ってくれている。
「ハーッピィバースデー、梨絵ちゃーーーーーん!♪」
テーブルにケーキを置いた夫が、拍手をしながら口笛を鳴らす。
彩は、お箏をかき鳴らす。
私は、ひと息に蝋燭の火を消す。
蝋燭の香りが舞い、細く白い煙がゆらりと浮かび上がる。
「梨絵!お誕生日おめでとう!おめでとうおめでとうおーめーでーとーーーーうっ!!」
夫が明かりを点けると、彩が指に箏爪を嵌めたまま抱き着いてきた。
お、おい、危ないって。
「彩…」
言葉が出なかった。
彩の誕生日に、あんな別れ方して。これだけ嫌な気持ちを引っ張って。前のライブでもギクシャクして。
それなのに…。
「ごめんね。彩の誕生日、最後の最後にあんなことになって、ごめんね」
「ちょおーっと待った!それ以上言わない!」
彩が箏爪をつけたままの手を、私の目の前に広げて制止する。
だから危ないって。
「梨絵のあの言葉、心に刺さったよ。あのあと、いろいろ考えた。それで、分かった。私、なんか勘違いしてた。梨絵は私とは違う。だから、ちゃんと梨絵を知るために、旦那さんに相談したんだよ」
「え?話してたの?」
「うん。そしたらやっぱり、『梨絵'sバースデーライブ案』は違うってなって。それで、二人で練った。これがその結論だよ」
いまは言葉が心に、じゃなく、箏爪が顔に刺さりそうだったけどね!
どうも、先月から、こっそり二人で話し合っていたらしい。
私が求めるもの、目指すもの、私の癒し。それが何かを。
そうして出した結論。
「大事な人と、落ち着く場所で温かい時間を過ごす、だよね。梨絵」
部屋を見渡すと、カーテンには飾りが下がり、イルミネーションがぶら下がっている。蛍光灯も少し明かりを落とした、ウォームカラーになっている。
部屋の中が、どことなく温かい雰囲気に包まれている。
「ありがとう。心から、ありがとう。…私、また彩と一緒に、ステージ立っていいのかな」
私は泣きそうになりながら、なんとかそれだけを言葉にする。
彩は、一瞬目を丸くした。
しかしすぐに、満面の笑みを浮かべた。
「なに言ってんの!私の曲は、梨絵のサポートありきだよ!ライブも収録も、ギターは絶対、梨絵だかんね!」
***********************
結局、彩は翌朝まで飲み、昼過ぎに帰った。
飲み過ぎた夫は、夜半には私の横で大の字になり、寝息を立てていた。
私は夫の髪を雑に弄りながら、ずっと彩と話していた。
私はお酒が飲めない。でも、気持ち良く酔った彩とお喋りしながら過ごす時間は、どんなひと時より楽しかった。
彩は、まだ酔いが回らぬ時間に、ケーキを前に私と彩の二人が収まった写真を、こんなコメントを添え、SNSにアップしていた。
「Dear 梨絵
お誕生日おめでとう!!!
なによりも大切な、宝物のような友達。
歌だけじゃなくて、お箏も「楽しい」って思わせてくれた大切な恩人。
私のステージには、必ず隣に梨絵がいます。
これからも、ずっと、ずうっと!永遠に!」
既に、100を超える「いいね」がついている。
私もそっと、その投稿に「いいね」を押した。
天才歌姫と凡才奏者。二人は二度と離れない。 伊吹梓 @amenotoriitouge
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