Herz aus Glas

Kay

Herz aus Glas

「なら、賭けをいたしましょう」

 宵を抜けた頃である。路地の裏から地下に伸びる階段の先、さして手入れもされていない楢材の扉の向こうで、赤い唇がそう嘯いた。

 女の前には、赤い器があった。薄暗い店である。カウンターの向こうには大小の瓶がずらりと並んだ棚、どれもこれもが銘酒と呼んで差し支えない。ただそこにあるだけで垂涎ものだというのに、丸椅子へ腰かければそれが女の手で注がれる。白く冷たい肌に美しく飾られた爪の嵌まった、よい匂いのする手で。

 そんな——数多のきゃく達を酔わせてきた女の手は、今はおとなしく眠っている。つややかなカウンターの木目をつうとなぞり、その凹凸を確かめている。ただひとり、この楽園を訪れた勇敢なエモノの前で。

 従順だった女の手は、やがてカウンターの内側へ伸びた。むき出しの肩が傾く。サテンのドレスが歪み、隙間から小さな黒子ほくろが覗いた。

 やがて女が取り出したのは、透明な飾り物であった。女はなめらかな表面へ音を立てて口づけ、それを器の中へころりと落とす。飾り物は底の赤を透かして、歪んだ模様に色づいた。

 女は満足そうに微笑み、客と己の間に器を押し出した。

「あなた様が当てられたら、叶えて差し上げますわ。どんなお望みも、ひとつだけ。簡単でしょう?」

 甲高い音がした。奥で鈍色の湯沸かしが啼いたのだ。癒しの色が満ち満ちる酒場の舞台裏、無機質な調理場へ女が消え、すぐに戻って来た。手にしたセーヴルの古いポットは寵姫の薔薇色ポンパドゥ・ローザ、この酒場にはいかにも不釣り合いである。

 女はそれをことりと器の横へ置き、頬杖をついて客の耳元へ唇を寄せた。

「今から、この器に熱い熱いお湯を注ぎます。あなたが当てるのは、これが」

 女の手が器を揺らし、中でカラリと音がした。

「氷か、硝子か、それだけ。氷なら溶け、硝子なら割れる。それだけ」

 女は身を起こし、うっそりとほほ笑んだ。

「——ならば、お前は何を望む」

 低い声であった。色も艶もなく、されど女の耳奥をよく震わせた。

 女は笑みを深め、歌うように答えた。

「お分かりでしょう、聡い方。静かに此処を去り、二度と来ないでくださいまし」

 男は息をつき、頷いた。そして、抑揚なく答えた。

「氷だ」

「——そう。では、わたくしは硝子にいたしましょう」

 女が答えた。どこか嬉しげに、少し恍惚と。薔薇色のポットが持ち上がる。女はゆっくり、赤い器に向けてそれを片向けた。

 湯が雫を垂らす直前に、女は呟いた。

「ムッシュウ、素敵なひと。どうかひらいて、はいって、確かめて御覧なさいな。わたくしの、この胸の内を」

 それから湯が器に落ちるまで、ひと呼吸もかからなかった。



「それで、お前はその別嬪さんと懇ろになったわけか」

 苦々しげにそう言う友に、男は首をかしげた。

「なぜ、そうなる」

「なぜも何も、そうだろう。場末の酒場に美しい女店主がひとり、他に客もなく夜も深い。おおかた、お前が女に惚れて口説いた。女はまんざらでもなかったが、安く応じては廃るものがあったから、閨の使い時を運に託した。面倒だが、浪漫があって俺は嫌いじゃないね。それで、わざわざお前がそれを俺に語るときた。ならば後の推測は簡単、お前はってことさ。違うか?」

 友はそう言って、男の返事も待たずにグラスの中身を干した。男は特に弁明もせず、静かに卓上へハートの8を出す。手元にはクラブが一枚、ダイヤが二枚にスペードが二枚、フルハウスである。しかし友はもちろん知らず、彼はにやりと歯を見せてカードを一枚取り換えた。そして、手元のカードを得意げに卓上へ広げた。

「見ろ、ハート閃光フラッシュだ。今夜は美女と楽しんだお前が奢れ」

 男は黙って役を見つめ、無造作に手元を明かした。

 尻尾を踏まれた猫のような悲鳴がひとつ、クラブへ醜く響き渡る。

「なんだよ、お前! ちくしょう、何かと癪に障る男だ!」

「……同じだったな」

「はぁ? 何が」

 不満げな友の呟きには答えず、男の手が彼の役へと伸びる。赤いハートを記したカードが五枚、そのうち最も大きな愛の印が中央に描かれたA《エース》を。

「溶ける前は、この形だった」

 友はぱちくりと目をしばたたかせ、はあとため息をついた。

「形って、女が器に入れた飾り物か」

「ああ」

「そいつは……まァ、お熱いことで」

「何が」

「ええい、物分かりの悪い奴め。心を割ったのではなく溶かしたのなら、それはまごうことなき恋の悦びだ」

「……それは」

 男は、答えに窮した。

「ちぇっ、ちぇっ。つまらんな! もうお前なぞ、その愛しい女の元へ行ってしまえ。その鉄面皮も、女の胸の中であれば多少はまともになるんだろうさ」

 友はかっかと立ち上がり、別の知己へ絡みに行った。他に男へ声をかける者はなく、周囲の話し声は只の喧騒になり果てる。ぼうっと遠くにそれを聞きながら、男はぼそりと呟いた。

「……開いて、入って、その先に」

 ああ、あった。確かに在った。

 これとよく似た形をした、お前の胸の中身うちが。

 男は腰を上げた。ハートのカードが散る卓を背に出口へと向かう。去り際、背中へ友の声が飛んできた。

「良い女を捕まえたんだ、大切にしろよ! お前ってやつはいつも——」

 扉の閉まる音が、その続きを切り捨てた。


 夜の街を進む。ガスの灯りが薄らと足元を照らす。

 やがて、男は足を止めた。猫の声以外は何も聞こえない、狭い路地裏のすぐ手前。ほとんど無に等しい呼吸音に混ざって、端的な指示が聞こえた。

一番ein、報告せよ」

 男は素早く返した。

「昨日、反乱分子——番の処分を完了。本部に連絡を」

「——番の処分完了、了解。後片付けは終わっているのか?」

「一切が完了している、本部に連絡を。二度言わせるな」

「……了解」

 蚊の鳴くような返答と共に、気配が消える。男はしばらく佇んで、さっと後ろを振り返った。

 あの器は、まだあの場所にあっただろうか。

 男は戻りかけた。あの階段がある路地裏はこちらではない。しかし、すぐに止めた。

 酒場に水の入った器があって、何がおかしいのだろうか。

 思い至って、男は首をかしげた。


 この国は、自浄作用の働く最中である。故に、人が消える。自国民、外国人、男も女も老いも若いも、密やかに消える。消している。消す者は躊躇わない。消される者は恐れ、抗う。憎みもがいて、一矢報うべく策を講じる。そういうものである。

 ——あるいは硝子であれば、男は今すぐあの場へ戻り、器ごとすべてを消さねばならなかった。酒場に割れた硝子がそのまま、水へ浸って客に供されることなどありはしない。

 男は、ふと思った。

 なぜ氷だったのだろうか。

 どうして無防備な服など来ていたのだろうか。

 なぜ凶刃を避けなかったのだろうか。

 なぜ、氷と答えた時に喜んだのだろうか。

 ——あの器の中身を飲み干せば、あるいは答えが分かるのだろうか。

 男は少し考えて、踵を返そうとした。しかしすぐに止めて、そっと胸を押さえた。

「……脈のわずかな乱れ。体調に変化なし、一時的なものか?」

 問いに答えはない。

 男はもう一度胸を確かめて、首をかしげた。乱れは消えなかった。

 まあ、治らないのなら医者に罹ればいい。そう判断して、男は何事もなかったかのように一歩を踏み出す。

 再び響きだした足音は、乱れることなく遠ざかっていった。




Herz aus Glas-硝子の心

(あるいは、とある男の不幸)


-Fin-



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Herz aus Glas Kay @mitorine

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