最終話:終わることのない泡沫の海に

「どうせなら、残されるより残す方になりたいよね」


 そんな風に呟いて、彼女は笑う。

 人魚姫症候群が猛威を振るっている昨今、いつ僕たちも互いを忘れるかわからない。


 その話の流れで彼女が言ったことは、僕にとって笑えない話だった。


「その言葉だと、僕が君に忘れられるってことだろ。はっきり言って冗談じゃないんだけど」

「そうかな。もし私があなたを忘れるってことは、私にとってあなたが一番大切な人だってことでしょ。それってあなたにとってはとても幸せなことじゃない?」

「場合によりけり、程度にもよる……だな。そんなことで証明されても、嬉しくなんかない」


 桜の花が散り、足元に舞いながら落ちていく。それを肩を並べて見ている。良く考えてみれば、それ自体が幸せな光景のような気がした。


 無論、そんなことは口には出さない。口に出した途端、調子に乗って色々言って来るのはわかりきっている。わざわざそんな地雷を踏みにいくほど、僕は物好きではない。


「嬉しくないなら、もっと今を大切にして欲しいな」

「十分大切にしていると思う。足りないというのはなかなかのワガママだ」

「わがままも受け入れるのが、男の度量の大きさでしょ」


 適当なことを言っている。そうわかっているから、僕も適当な言葉を返す。それで会話が回れば上々だ。沈黙すると、ロクなことがないのは経験から理解していた。


「そんな逆らわないと確信したような顔で言うのが、女のやり口かよ」

「可愛くないなぁ……可愛げってものを要求する」

「可愛げなんてあったって、いじられるのがオチなら必要ありません」

「いじってない。愛だよ愛!」

「物は言いようだな……」


 乾いた笑が口から漏れてしまう。どうしようもない。そう呟いたのはどちらだったのか。


 桜はその間も風に舞い続けている。名所に行くはずが、こんな良くわからない場所の公園で花見をする羽目になった。しかしそれでも、この桜吹雪は悪くない光景だ。


「愛といえば、あなたは私のことが大切なんでしょ?」

「なんだよいきなり」

「いえいえ、言葉に出してたまに確認しておかないと、忘れてしまうかもしれないでしょ」

「そんな都合よく忘れるか。というか、まるで言質を取ろうとするかのような言葉だな」

「言質だなんて、人聞きの悪い。ただの確認だってば」


 彼女の髪に、桜の花びらが引っかかっていた。僕は苦笑いしながら、そっとそれを取ってやる。


 彼女は屈託無く笑う。その笑顔は優しい木漏れ日のように、温かな雰囲気を持っている。花びらが舞う中で、彼女は僕に向かって手を伸ばす。


「それで? あなたは私が好きですか?」

「意外とこだわるなぁ」

「もちろん。重要なことですから」


 どうあっても言わせたいらしい。彼女の手を握ると、僕は唇の端を持ち上げた。

 別に、言うこと自体は問題ない。いつ言おうと何かが変わるわけでもないのだから。だからそのまま彼女を引き寄せると、そっと細い体を腕の中におさめた。


「たぶん、ずっと好きでいるよ」


 笑い交じりに言って、彼女の背中に手を回した。腕の中の温度は、とても優しく胸に響く。彼女は苦笑いしながら、僕の胸を叩いた。


「たぶん?」

「そう、たぶん。永遠にとか言うと胡散臭いから、たぶんくらいが丁度いい。人間いつ何があるとも限らないから、確約はしないのが良心的」

「良心的の意味がわからないよ。そこは善処しますとでも言うべきところじゃない?」

「じゃあ、善処します」

「じゃあって何よ」


 何が面白いのかわからなかったけれど、僕たちは声を上げて笑った。

 名所ではなくても、彼女がいればどこでも構わない。僕たちに永遠がなかったとしても、今この瞬間だけは、本当に存在している記憶だ。


「じゃあ、ずっと一緒に居ようか」

「なんだか、ものすごく適当じゃない?」

「適当も適当。テキトーじゃないんだから構わないだろう?」

「もう……言葉遊びはたくさん!」


 笑い合う。そのことだけでとても幸せだ。この記憶があれば、僕たちは長い時間を続けていける。そう信じられるほどに、春の日差しは穏やかで優しい。


「ずっと、一緒に居よう」


 抱きしめた温度は、僕よりも少しだけ高い。心が温かくなる。たとえ時間が流れたとしても、僕たちはきっと今の僕たちに戻れる。


 信じている。

 ずっと、信じ続けていた——。


――――――

――――

――


 人波をかき分けるように歩き、スクランブル交差点に差し掛かる。


 街頭のテレビモニターには、人魚姫症候群のニュースが映し出されている。罹患者数のグラフは右肩上がりで、実際の人数はもっと多いのではないかとコメンテーターは語る。


 実際のところ、街を歩いている人の多くは人魚姫症候群の患者なのだろう。自覚症状があるかないか。その違いでしか、この病を判別することはできない。


 僕はモニターから目を離し、交差点を歩き出す。肩がぶつからないくらいの距離を、人々は無関心に歩いて行く。誰も僕を振り返らないし、僕も誰も振り返らない。


 それが普通の光景だ。わざわざこんな雑踏で、誰かを振り返る人はいない。足を止めれば視線を向けてくる人はいるだろうが、興味を持つ人は皆無だろう。


 僕も有象無象の中の一人だ。隣り合って居ようと、この場所では何の意味もない。パーソナルスペースは密集すれば普通より狭くなる。たとえ15センチに近づいても、多くは気にしない。


 だから、青信号の横断歩道を渡ることに、特別な意味などないはずだった。


 無数の靴音が通り過ぎて行く。今日は雨は降らない。曇りだが、天気予報の降水確率は0パーセントだった。薄暗い空を一度見上げた途端、誰かと肩がぶつかる。


 僕は思わず振り返った。相手も、僕を振り返っていた。ひと時だけ視線が交錯し、僕は思わず息を飲んだ。


「あ……すみません」

「いえ、こちらこそごめんなさい」


 艶やかな黒髪が揺れる。大きな瞳がこちらを見つめ、白い頰が優しい笑みを作った。ひどく惹きつけられるような、そんな笑みだった。

 綺麗な人だ。深く考えることもなく、そう思った。けれど僕が何か言うより先に、は僕に背を向け歩き出す。


 遠ざかる背中に、何か声をかけようとした。しかし、信号は点滅を始め、僕は慌てて残りの距離を駆ける。横断歩道を渡りきって振り返っても、彼女の姿は見えない。


 それは、本当に一瞬だけの出会いだった。

 たとえ追いかけたところで、僕が彼女を探し出すことは出来ない。そもそも探してどうすると言うのだろう。


 だが何故か。不思議とまた会えるような、そんな気がした。


 人魚姫は、泡になって消えてしまった。

 それでも僕たちはまだここにいる。だからきっと、何度でも出会えるのだ。


 幸せは、手を伸ばせば届く場所にある。だからこそ見えづらく、気づけもしないのだけど。


 僕たちは生きる。その先でまた手を握り合えたなら、僕たちはいつか僕たちに戻れるはずだ。


 顔をあげたとき、記憶の先で笑う君が見えたなら。


 その瞬間、僕は再び君に会えるのだろう。


 前を向いて人波を歩き出す。記憶が消えたとしても、心の中にある想いまではかき消せない。胸のどこかで、静かに想いは息づいている。


 泡が散り、消え去っても。


 忘れられない想いはきっと、胸の中で息を吹き返す。



〈了〉

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人魚姫の泡のように、僕はあなたを忘れ去る ~マーメイドシンドローム~ 雨色銀水 @gin-Syu

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