第三話:忘れたくないと思うほどに


「私たちは、三年前に出会いました」


 並木道のそばにある公園。小さな噴水が見えるベンチに腰掛けて、僕たちは話をしていた。

 昼下がりの公園には、小さな子供たちの姿が見える。ボールを蹴ったり、砂場で山を築いたりしている姿を眺めながら、彼女は僕たちの関係を語る。


「行きつけの喫茶店で、座る席が近くだったんです。私が行くたび、あなたが毎回先にいてコーヒーを飲んでいました。カウンターでマンデリンのシングルオリジンをよく頼んでいましたよね。深煎りの苦いコーヒーがあなたは好きでした」


 彼女の語る喫茶店のことは覚えている。以前住んでいた場所の近くにあった、隠れ家的な喫茶店だった。そこで僕は彼女の語ったコーヒーをよく飲んでいた。


「毎回会うので、いつの間にか話すようになって。そこから少し仲良くなって。たまに一緒に出かけたり、家に行って話したり……そんな風に私たちは少しずつ関係を深めていきました」


 覚えていない。彼女の言うことは、他人の話のようにしか感じられなかった。

 けれど、彼女が嘘を言っているとも思えない。淡い笑みは切ないものを含んでいて、それが僕にもどかしい思いを抱かせる。


 僕は、彼女の何だったのか。彼女は、僕の何だったのだろう。


 そう思ってしまうと、隣を見続けることも出来ない。僕は視線を前に向けて、流れ落ちる噴水を見つめた。


「僕たちは……その」

「ええ、恋人


 僕と彼女は。それはいつのことだったのだろう。覚えていない。いや、思い出せないと言うことは結局、僕にとって彼女は本当に——。


 彼女は語り続ける。それは、僕たちが過ごしたはずの長い時間の話だ。


 春には、桜の名所に花見に行こうと計画した。車で出かけたはいいが、渋滞に巻き込まれて目的地にたどり着けない。だから途中で高速を降りて、何でもない公園の桜で花見をした。


 夏は、遠出して海に行った。日本海側と太平洋側では、海の様子が全く違うのだと彼女が言えば、僕は海はどこでも海だと言ったらしい。それで喧嘩になって、互いに謝るまで口を利かなかった。


 秋になると、美味しいものを食べ歩きした。彼女はスイーツを食べたがったが、僕はラーメンを食べに行こうとした。それで気づけば互いを見失い、探し合う羽目になった。


 冬が訪れたら、クリスマスや正月を一緒に過ごした。一年お疲れ様でした。また一年よろしくと言いながら、初詣で願い事をした。それは結局、叶うことはなかったけれど——。


 彼女の語る光景に、僕は確かに存在していた。あの時はこうだった。こんな事があったと、彼女は微笑みながら話し続ける。その顔はとても幸せそうだったが、同時にひどく空虚でもあった。


「あなたは確かに、私の記憶の中にいます。私たちは長い時間一緒だった」

「そうなんだろうな。きっと……そうだったんだろうと、思う」


 記憶は人間を形作る核だ。それは自分だけでなく、相手との関係性も含まれている。記憶がなければ、相手に抱いた想いを感じる事ができないのだ。


 どれほど彼女が大切だったとしても、その記憶がない僕には彼女を想う事ができない。

 それは、僕よりも彼女にとって辛いことのはずだ。どれほど想いを向けても、僕が彼女を振り返る事はないのだから。


 風が吹き、噴水の雫が足元に散る。握りしめた手に水滴が当たり、冷たい感触を残す。彼女は前を向いていた。僕は何も言えず、同じように前を見る。


 何故、僕は彼女を忘れてしまったのだろう。大切だったはずの人を、どうして忘れてしまえたのだろう——?


「ひと月前のことです。あなたは……私のことを


 僕は、彼女を忘れた。僕は、彼女との記憶を失った。何を言ってもそれは真実なのだ。何故なら僕は彼女が誰かわからない。彼女が語る記憶を思い出せない。


 それでも僕は彼女が嘘を言っていないと信じられた。きっと、記憶ではない僕の何かが、彼女を覚えている。思い出せなくても、この声を、いつかの笑顔を、僕は


「何を言っても、あなたは私のことが誰かわからなかった。それでわかったんです。あなたはもう、私のことを思い出すことはないのだと」

「……以前にも、僕は君に会っていたのか」

「ええ、先日の雨の日にも会いました。だけどあなたは、その時のことも覚えていないのですよね。私のことだけを、あなたはんですから」


 彼女の声は微かに震えていた。僕は両手で顔を覆う。今の言葉で確信した。僕が彼女を思い出せない理由は、ひどく単純なものだったけれど、とても残酷なものでもあった。


「僕は」


 自覚してしまったら、震えを抑えられなくなる。唇を噛んで震えをやり過ごし、僕は彼女に答えを投げかけた。


「僕は——人魚姫症候群にかかっているんだな」


 人魚姫症候群。日本人の三人に一人が罹患りかんしている不治の病。

 治療法はないが、かかったとしても命に別状はない。ただ、発症すれば、だけ——。


 そう、一番大切な人のことを忘れて、思い出すこともできなくなる。その人に会っても、その人に関わることだけは記憶できない。話しても、触れても、すべて忘れ去る。


 それを病と言っていいのか、僕にはわからない。しかし、その病にかかれば、自分が最も必要としていたはずのものを、気づかず壊してしまうのだ。


 まるで、泡になって消えてしまった人魚姫のように——愛していたはずのものすらも悲しませ、狂わせてしまう、それがこの病の真の恐ろしさなのかもしれない。


「そう、あなたは人魚姫症候群にかかったの」


 彼女は変わらず微笑んでいた。だが僕にはもう、彼女が笑っているようには見えない。僕は手を伸ばす。たった15センチくらいの距離なのに、それがひどく遠い。


「私のことを忘れないでって言ったじゃない」


 手を伸ばしても、心にまでは触れられない。悲しんでいる彼女の心に寄り添うこともできない。


「忘れられるくらいなら、一番じゃなくていいって言ったじゃない」


 彼女が遠い。笑顔が崩れ、その下にあった真の表情が現れる。涙も流さず泣くような顔で、彼女は手を伸ばす僕を見つめていた。


「どうして忘れてしまったの?」


「どうして思い出してくれないの?」


「どうして何も言ってくれないの?」


「どうして……」


「どうして……!」


 僕は彼女の頰に触れた。その瞬間、温かい雫が流れ落ちる。手に触れた温度は、優しいのにひどく熱い。彼女は僕に向かって、叫ぶように想いを吐き出した。


「ずっと、一緒に居たかった……!」


 その願いは叶わない。彼女の頰に触れたまま、僕はそっとまぶたを閉じた。


 もし願いが叶うなら、悪い魔女に代償を払ってもいい。足を得る代わりに、ずっと痛みに苛まれたとしても、それでも叶えたい願いがあった。


 けれど、ただ一緒に居たいという願いさえ、物語は叶えてくれない。


 その人は、忘れてしまう。そばにあった想いに気づくことなく、遠い場所へ行ってしまう。


 それなら、泡になって消えてしまってもいい。何度も傷つき、何度も失うのなら。


 忘れ去られるだけの泡になって、消えてしまいたい——。


「だけど、僕も君と一緒に居たかったよ」


 閉じた暗闇の中で囁いても、彼女の心には触れられない。

 僕の記憶は二度と戻らない。彼女が大切な人だという事実だけは変わらないまま、永遠に彼女だけを失い続ける。


 それは埋められない隙間として、僕の心にあり続けるのだろう。

 たとえ、何度願っても、何度語り合っても、消え去ってしまうから。


 悲恋なんてわからない。しかしこれを悲恋だなどと呼びたくはなかった。


「僕は、君を忘れたくない——」


 目を開くと、彼女の涙が見えた。

 綺麗な透明の雫が、頰を伝って落ちて行く。この光景も、すぐに忘れていくのだろうか。


「忘れないで」


 呟いた声は、かすれていても澄んだ響きを持っていた。

 忘れたくない。忘れないよと言えたら、どんなに良かっただろう。


 君を忘れない。そんな程度の約束すら、果たせないなんて——。


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