第二話:君を知らない
「ねえ、人魚姫って知ってる?」
ある日の昼下がりのことだった。
僕の部屋に押しかけてきた××は、窓辺の絨毯に寝転ぶなりそう言う。気持ちようさそうに目を細める××は、日向の猫のようだ。
「人魚姫? それって、最後は海の泡になるやつだっけ」
「身もふたもない。と言うか、人魚と人間の悲恋でしょ。どう考えても。どうしてそんな、オチだけ語って中身ないみたいな状態になってるの」
「そうは言うけどさ、間違ってはいないだろう」
昼食の後片付けをしながら、僕は××の言葉に苦笑いする。
人魚姫と言えば、おとぎ話の定番だ。しかしながら僕にとって、興味のある物語ではない。悲恋が好きなのは、どちらかと言えば女性の方ではないか。
背中で興味ないと語る僕に、××は不満そうに鼻を鳴らす。
ゴロゴロと音を立てて床を転がりながら、気のない様子で言葉を続ける。
「最近、人魚姫症候群って病気が流行ってるでしょ?」
「ああ……なんか不治の病だって話だよな。でも、命に関わることはないんだろ。だったら、そんなに心配することはないんじゃないか?」
最後の皿を拭き終わり、僕はキッチンから××の元へと向かう。
××は相変わらずゴロゴロしていたが、その目は僕の動きをじっと見つめている。座った僕の横に転がってくると、猫のような丸い目で僕を見上げた。
「本当にそう思う? 命に関わらないからって、何の問題もないって」
「さあ……だけど、ニュースを見てても、実感がわかないんだよ。その人魚姫症候群って、そんなに深刻なものなのか……」
「……そうね。病気になってしまった人には、むしろ何の問題もない話なのかもしれないね」
××の顔を見下ろすと、少しだけ日向の匂いがした。
優しい日差しの中で、黒い瞳が輝いている。けれど、何故か××は悲しげに見えた。
「ねえ、人魚姫は自分が泡になってしまっても幸せだったのかな」
「そういうのは得意じゃないから……僕にはよくわからない」
「うん……私にもわからない。でも、残された人の気持ちはわかる気がする。その人が泡になって消えてしまっても、残された人の記憶の中にその人はいるの。たとえば、私が知っているあなたがいなくなってしまっても……私の記憶まで消えるわけじゃない」
たった15センチの距離に、僕と××いる。
しかし、もし仮に僕たちの間にある関係性——記憶が消えてしまったら、この距離も無くなってしまうのだろうか。わからない。僕には想像できないことだった。
「でも、もし君が僕のことを忘れても、僕が覚えていれば……いつか思い出すかもしれない」
「違うの」
××は悲しげな笑みを浮かべる。僕が手を伸ばすと、その手を簡単に掴むことが出来る。互いの手の温かさが伝わっても、××の笑みの悲しみは消え去らない。
「忘れるっていうことは、本当に死ぬことと同じなの。死んだ人は戻らない。それと同じように、人魚姫症候群で忘れてしまったことは取り戻せない。だから」
××が強く手を握った。痛いくらいの力は、二度と離さないとでも言うかのようだった。
「お願い、私のことを忘れないで。忘れられるくらいなら、一番じゃなくたっていい」
――――――
――――
――
大切な何かがあった気がする。部屋の日向に寝転がっていると、そんな想いに襲われた。
暖かな日差しにまどろんでも、何一つ記憶は蘇ってこない。忘れているのか、それとも初めから存在していないのか。僕の視界に映る世界には、それを証明してくれるものはない。
久々の休みを、寝て過ごすのはもったいない気がした。暇つぶしに本を読もうとしたが、積んである本を手にとってみたら『人魚姫』だった。
何故、こんなところに童話があるのか。しばらく考えても、何も思い浮かばなかった。よくよく部屋を見回してみると、見覚えのないものがいくつかある気がする。
「……まさか、知らないうちに誰か住んでいるなんてことはないよな」
それはそれでホラーだ。それこそまさかだろう。
気を取り直して身支度をすると、僕は部屋を出た。先日は雨が降っていたが、今日は見事に晴れ渡っている。青い空を見上げながら、ゆっくりと初夏の街を歩き出す。
緑の葉を茂らせた街路樹の下を通り過ぎ、緩い坂を下っていく。
木々が穏やかな風に揺られ、光がキラキラと地面に降り注いでいる。今日は暑くなく、過ごしやすい日だ。思わず伸びをしてしまうと、その瞬間、背後に気配を感じた。
「——あの」
かつん。と、ヒールの音が響いた。
僕は緩やかに振り返る。すぐ触れられる位置に、光を受けて輝く黒髪が見えた。
「この前は、傘をありがとうございました」
ビニール傘を差し出して、彼女は静かに笑っている。
僕は言葉もなく、佇む彼女を見つめていた。綺麗な人だった。艶やかな黒髪も、大きな黒い瞳も、かすかに漂う日向の匂いも、強い印象を残す。けれど、僕は——。
「すみません」
頰が痙攣する。彼女が差し出している傘に手を伸ばすこともなく、僕は困惑とともに首を振る。
「あの、どこかでお会いしましたか?」
——時が止まった気がした。
彼女は微笑んだまま、傘を持った手を下げた。刹那、僕は大きな間違いを犯したと気づく。
「……そう、ですか……やっぱり」
悲しい笑い方だった。忘れてしまったのね。彼女は短く呟くと、僕に背を向けて歩き出す。
遠ざかる背中を見つめながら、僕は言葉を探していた。胸がざわつく。何かを言わなければならない。しかし、彼女の名前さえわからないのに——。
「あの!」
声を張り上げる。澄んだ空気に、僕の声が響く。彼女は足を止めた。振り返ることはない。だから僕は、最後の答えのようにその言葉を投げかけた。
「——あなたは、僕のことを知っているんですね?」
きっと、彼女は知っている。だからこその悲しい笑みであり、あの言葉なのだ。
彼女は静かに振り返った。その顔に浮かんでいたのはやはり、どこか悲しげな寂しい笑みだった。
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