人魚姫の泡のように、僕はあなたを忘れ去る ~マーメイドシンドローム~

雨色銀水

第一話:人魚姫症候群

 人魚姫症候群。

 そう呼ばれる病が広がり始めたのは、ここ数年のことだった。


 それは発症すれば治療法もない不治の病だ。日本全国に広まったその病の罹患者りかんしゃは、全人口の三分の一にものぼる。三人のうち一人は病にかかっているという現実は、決して楽観できるものではないはずだった。


 だが、街を歩いていても、状況を悲観する声は聞こえてこない。

 以前と変わらず、人々は隣り合う人にも無関心な顔をして、道を歩き去っていく。


 灰色の空の下、少しずつ開き始めた花弁のように、傘が開かれる。

 頰に冷たい雫が当たって、顎を伝って落ちた。手で拭うと、濡れた跡が少しだけ温かい。足元に雨粒が落ちて、アスファルトを濡らす。


 僕は足を止めて、手にしていた傘の開閉ボタンを押した。軽い音とともに開かれた傘は、透明な膜の向こうに灰色の空を映している。水滴がビニールに当たるたび、ぽつぽつと音を響かせた。


 傘をさしながら、僕は道を歩いていく。スクランブル交差点の信号は青だ。多くの人が、肩がぶつかりそうなくらいの距離で歩いている。


 親しい人なら気にならない、パーソナルスペースは15センチだという。この交差点の人々は、それに近い距離をぶつからずに歩いていく。傘をさしても、ぶつかる人はないに等しい。


 15センチは手を伸ばせば触れられる距離だ。本当に近くに誰かがいる。そういう光景は僕の中にはない。もしあったとしてもそれは——横断歩道を渡りながら、独り苦笑いする。


 通り過ぎる人波の中で、立ち止まったら振り返る人はいるかもしれない。

 しかし、僕に気づいて手を伸ばしてくれる人はいない。そんな奇跡みたいなことは、望んでも降ってこないのだ。靴音を響かせて横断歩道を進めば、嫌でも独りなのだと思い知らされる。


 これだけ人がいても、自分にとって必要な人は一握りなのだ。あと少しで横断歩道を渡りきる頃、雨が激しさを増す。歩くに従い、靴が水に濡れる。不快な湿度が腕にまとわりついて——。


「——あの」


 かつん。と、ヒールの音が響いた。どうしてその瞬間、わずかな音に気づけたのかわからない。

 僕は、傘を揺らして振り返る。緩やかに、長い黒髪が目の前を通り過ぎた。


 その人は——は、僕の斜め後ろに立っていた。あと少しで手が届くほどの、本当に近しい距離。そんな場所に立っていた彼女は、傘も差さずに僕を見つめていた。

「……何か?」


 我ながら味も素気もない問いかけだ。けれど、見知らぬ女性に声をかけられる理由は、どうしても思い当たらない。首を傾げて眉を下げた僕に、彼女は何故か、悲しそうな笑みを向けた。


「なにも、覚えていないんですか」


 雑踏の中でも、その言葉は僕の耳に届いた。悲しげな声は問う。覚えていないのか、と。


 雨は立ち止まった僕たちの間に降る。彼女の黒髪が濡れ、白い額に張り付いていた。それでも大きな黒い瞳は、こちらを見つめたまま離れていかない。


「僕は」


 横断歩道から人が消えていく。信号が点滅し始めても、彼女は動こうとしなかった。手を伸ばせば触れられる距離に立ち、僕に問いかけ続ける。


「もう、忘れてしまったんですか。あなたはもう、私のことを——」


 信号が、あと少しで赤に変わる。僕は首を振って、彼女に自分の傘を押し付けた。


「僕は、あなたを知らない」


 それだけを告げ、彼女に背を向け走り出す。激しい雨が足音をかき消し、髪や頰に雫が降り注ぐ。


 信号は赤になり、車が動き出す。けれど僕は振り返らない。知らない人だった。しかし、彼女は僕を知っているのだろうか。だとしたら、それは——。


「僕は、知らないんだ」


 傘を差さずに走り続けても、どうせ何も思い出せない。

 それは仕方がないことだと、そう諦めてしまうのは容易かった。だが僕は知っている。


 思い出せないのは、きっと、彼女が——。


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