ユメ堕ち

脳幹 まこと

ユメ堕ち


 確かに君と僕はそこまで親しくはなかったのかもしれない。でも、それにしたって決して少なくない回数一緒にいたのだから、僕が意識していたとしても特段おかしくはないだろう。

 別に何か疚しいことを考えているわけじゃない。ただ一緒にいる、それ以上のことをやってみたかっただけなんだ。だって、世間にはそういうお手本みたいなものが陳列してあって、資格を手にした人達はみんなこぞってやりにいってるのだし。

 それとも君にとっての僕というのは、他人の意見に対して一様に「そういう見方もできる」だなんて、肯定的とも否定的とも取れる、要するに何にも言ってない同然な返答をしていて、それでいて、自分の・・・見方はと聞かれたら、それすら「かのマルクスは語った――」なんて引用なしでははぐらかすことも出来ない、要するに居るだけの、物凄く空っぽなものに見えていたのかな。

 だとしたらそれは、とても大きな誤算だったのだと思うよ――お互いにとって。



1.

 俺は現在、自分の欲望について悩んでいる。

 一般的なサラリーマンとしての人生を歩んできたつもりだ。自他共に「良くも悪くも普通」の評価を得ている俺にとって、出世欲や色欲、物欲というものは、お節介な隣人のような……定期的に「良かれ」と思って声をかけてくる存在だった。流石に高価な壺を押し売るなんてことはしないが、それでも、ポジティブな言葉とともに、「幸運を与える」だろう選択を強いてきたのだ。その助言が当たったこともあるが、外れたことの方が明らかに多いし、文句を言おうにも、その時には隣人は顔も背丈も変わっている。同じなのは善意の売り言葉だけだった。

 とは言え、俺は自分の短慮が嫌いではなかった。社会をしばらく生きれば大体の人は知るだろう、人が想像以上に弱いことを。正確に言うのなら、惰性や雑念といった、人が「弱さ」と評する概念が想像以上に強いことを。それらはひっきりなしに人を弱くしようとする。正面を固めても、背後左右から入り込んでくる。全身を覆っても無駄だ。彼らは永遠にだって待つことが出来るのだから、いずれは飢えの前に投降することになる。その上、彼らに負けたとしても、別段何か大きな損失が起こるわけでもない。ほんの少しだけ弱くなるだけなのだから――自分を打ち負かした彼らに近づくだけなのだから。

 だから部屋に自己啓発の本や、変わったデザインのモニュメントがあったり、毎夜のようにアダルトサイトを見ることも、俺にとっては「通過儀礼」のひとつであるのだと思っていた。埃を被ったダンベルや試験問題集や一昔前に流行ったゲームソフト達が、ほんの少し恨めしげな視線を送ってくるのも、やはり同様の通るべき道であると思っていた。

 しかし、ここ最近、自分自身がこの道を踏み外していることを自覚し始めたのだ。

 

「――キマイラはギリシア神話に登場する怪物である。ライオンの頭、ヤギの胴体、毒蛇の尻尾を持ち、口から火炎を吐く。グリフォンはワシの頭と翼を持ち、ライオンの胴体を持つ。ペガサスは馬と鳥の……」


 合成獣キメラ。複数の生物の特徴を持った怪物。

 ある日から、何故か合成獣に目覚めていた。そして色々なものを混ぜるようになりだしたのだった。猿とウサギ、蜘蛛とコオロギ、鯖にタコ――動物のみだったものが、昆虫、魚、植物、鉱物にまで広がり、混ぜる種類も日がすぎるごとに多くなっていった。それらの容貌や生態はすべてノートに収められ、本棚の隅にしまわれていた。捨てようにも、それらの想像には魅力があるように見えてしまうのだった。

 酒の力を借りて、理性を弱くすれば勢いで捨てられると思ったが、むしろ、悪趣味な筆の勢いが強まるだけで意味がなかった。

 俺は強く困惑した。が、その理由は、グロテスクな趣味が突然として芽生えたことに思い当たりがないからではなく、その逆であった。


 裸婦とタコの合成獣をかき終えた俺は直感した。

 あの時に戻ろうとしている――ユメと一緒だったあの時に。


2.


 多感な思春期であっても、通過儀礼の門は広く高くそびえ立っているものだし、弱さもまた少年の傍に寄り添っているものだ。

 俺は喧嘩が弱かった。口の方も身体の方も弱く、他人と衝突すれば、砕け散る方であった。だから砕け散った俺は、ホウキではかれ、チリトリでまとめられて、掃き溜めにいた。

 そんな中にいたのがユメであった。ユメは俺や他の奴らと違って、衝突を回避出来るのにも関わらず、自ら望んでここに来たらしい。だから綺麗なままだった。

「混ざろうとしても混ぜてもらえない子なのだ」と砕け散ったクラスメートが言っていたし、俺も「半端ものが下っ端を見下すために来た」のだと考えていた。極力寄りつかないように心がけていたし、向こう側から特に干渉してくることもなかった……偶然目が合うと、いつも微笑みを浮かべてくるくらいで。

 時間は何事もなく過ぎていった。掃き溜めに、時たま今朝の新聞が流れ着いてくる。それをすっかり砕けた仲となったみんなで見る。それは彼らには縁のない幸せな連中のニュースであり、次の指令書でもある。少年少女は現代に食らいつかなければならない。現代以外に覗ける穴がないのだ。幸せな連中の調子に合わせることで、もしかしたらこの掃き溜めから拾ってもらえるかもしれない。

 ふとした拍子に後ろを振り向いてみると、ユメは少し遠くにいて、画用紙に何かをかき込んでいるのだった。

「あの子は何をかいているんだろう」

「知らないよ、いつもあんな調子だから。それよりも今は流行のマンガについて学ばなくちゃ。”きょーよー”がないと、またバカにされてしまうよ」


 その日の終わり。

 俺の自宅の前にユメが立っていた。右手に例の画用紙を持ったまま。

「僕が何をかいていたか、知りたい?」

 俺の返答を待たずして、画用紙の中身をゆっくりと見せていく。それは、俺をはじめ、砕けたクラスメート達が一緒くたになった合成獣だった。数多の顔、手、足、それらがすべて一つの姿に無理矢理に詰め込まれていた。

 あまりの衝撃にしばし呆然とする俺に、ユメはさも愉快そうに笑う。

「あげるよ」

「嫌がらせのつもりなのか」

「嫌がらせだなんて。これは願望だよ、みんな仲良くなってひとつになるんだ。僕もそこに混ざれるなら、もっと良いなあ」

 それからユメと色々な話をした。正確にはユメがする様々な話を、相槌を打ちながら黙々と聞いていただけだが。宇宙の話、哲学の話、胎児の話、手術の話、道徳の話――それらの話は突拍子がない上に、すべてが悪趣味な方向に進んでいって、話せば話すほどに、ユメの不気味さは増すばかりだった。

 すっかり日が暮れて、いよいよ家の中にいるであろう母に助けを呼ぶべきかと考えたとき、ユメが手を差し伸べてきた。反射的に払いのけようとするが、受け止められてしまった。

「僕の話。最後まで聞いてくれて、ありがとう」

 驚くほどに冷たい掌が、俺の背筋に冷や汗を流させた。混乱しっぱなしの俺をそのままにして「また明日」とユメは去っていった。


3.

 

 それからというもの、俺とユメは一緒に過ごすようになった。友好関係というわけでもなく、ユメの一方的な主義主張をひたすら受け止めるだけの関係ではあったが。

 掃き溜めの更に片隅で、いつも二人でこんな話をしていた。

「コウノトリは赤ん坊を運ぶというけど、そのうち半分は途中でお腹が空いたからって、食べてしまうんだ。だから、受精したからって必ず産まれるわけでもない……」

 ユメの話はいつも突拍子がなく、品性もなく、救いもなかった。例えばミキサーに入れられたハムスター。あるいは、無視され続けた人が壊れる様子、倍増し続ける毛ジラミの群れ。ジャンルは様々だったが、どれもこれも似たようなものに聞こえた。

 それは絵に関しても同じであった。継ぎ接ぎで作られた混沌じみた合成獣。リアリティなど蚊帳の外、想像もしたくないような作品の数々。見せられる度に生理的な嫌悪感が湧き出て、そんなものを黙々とかき続けるユメの思考が、俺には心底不思議なものに見えた。理解など少しも出来なかったし、掃き溜めに来るのも納得と言えるような変人であったのは間違いなかった。


 ある日、自分自身の行動の源泉について、それとなくユメに確認したことがある。

「やりたくてやるものでもないかな。元々、どんな形にしようかは考えてなくて、やった結果がこうなるだけのことだし」

「なら、俺に見せる必要もないだろ。そんなのはチラシの裏にでもかけばいい」

「確かに、そうだね」

 ユメは発言をあっさりと認めた。情熱もなく、目的もない。ユメにとって自分の行為は無意味な時間潰しであると分かっている。わざわざ、人に見せつけて迷惑をかける必要はないということだった。

 俺はこの時、悪趣味な行動を窘めようとは思わなかった。ユメの発言や振る舞いこそは物騒であるが、結局は何も起きることはないし、そもそも何も出来やしない。これもまた通過儀礼、世間に対する反発の一種であるのだと思った。


 ユメとの付き合いは高校三年の終わり、掃き溜めが取り壊しになったことで幕を下ろした。

「ストーカーっていうのは、捕まってはじめて自分の異常さに気づくケースが少なくないらしい。それどころか『善意』でやったことを否定されて怒りだす人までいる」

「最初から最後まで、そんな暗い話をよくもまあ用意できたもんだな」

「その気になれば何でも出来るさ」

 いつものように話をするユメの姿を見て、俺は不思議と感傷を抱いていた。結局、こいつのことは判らずじまいだった。そして、もう二度と会うこともない。

 ユメから友好の証にと渡されたスケッチブック――合成獣の作品集は、帰宅してすぐ押し入れにしまいこんだ。

 

 大学生になると、喧嘩に巻き込まれることもなく、順調に友達との生活を送ることができた。

 程よく学び、程よく遊んだ。友達は動物や人間を手当たり次第に混ぜるようなことはしないし、弱さや不幸に対して適切なアドバイスをしてくれた。

 そんなことだから、思春期の痕跡なんて思い返すのも馬鹿らしかった。が、話の種としては悪くなかったので、呑み会の場ではユメの話をよく出した。

「不思議な子もいたもんだなあ」

「見るだけなら面白そう」

「自分の近くにも、似たようなのいた気がする」

 評判はまずまずだった。あるひねくれものが「作り話なんじゃねえの?」なんて横槍を入れてくることもあったが、思春期は特別なことがあって然るべきという期待、幻想が満ちていて、大多数は非常識なユメの存在を信じていた。

 いや、信じていたというよりか、わざわざ疑うほどの関心がなかった、という方が正しいかもしれない。学生時代の俺がそう思ったように、ユメはその程度の存在でしかなかったのだ。

 

4.


 就職してからも、俺は一般人であり続けた。都会の満員電車は俺を揉みくちゃにして、会社に到着しても自分の仕事や他人の仕事が俺を揉みくちゃにする。時間はあっという間に奪われ、土日は専ら体調の回復……という名のネットサーフィンをはじめとした暇つぶしに消えていった。

 親元から離れ、家事の経験もせずに一人暮らしとなった俺の食事が、コンビニ頼みとなるのにそう時間はかからなかった。アイロン掛けが億劫おっくうになり、靴磨きが億劫になり、掃除が億劫になり、洗い物が億劫になり、それらはある日を境にやらなくなり、その分だけだらしなくなっていく。明確な課題も目標もなく、ただ何の意味もない作業を延々繰り返し、消費を積み重ねていくような、そのような感覚が俺を取り巻く。

 まったく危機感を抱かなかったわけではない。数年経って、友人の結婚報告や同年代の輝かしいニュースの眩しさに煩さを感じた時に、過去の自分を振り返るのだ。その度にぞわりとして、このまま麻痺するのは嫌だ、これがラストチャンスだと思って、ダンベルや自己啓発本や自動売買ツールを買う。注文後は本当に晴れ晴れとする。これから人生を逆転しようと心の底から思う。しかし、どんな特急便を使っても、商品が届くまでにはあの気怠さがやってくるのだ。俺は打ちひしがれて、ネットで調べ物をする。

「まだまだ若いし、これからだ!」

「上手く行かなくても生きていけるよ!」

「全く動けない人よりは前進してる!」

 スウェット姿の俺は皆様方の励ましの言葉を受け辛うじて笑みを浮かべる……これで何度目だ?

 チャイムが鳴った。

 出世欲や色欲、物欲というものは、お節介な隣人のような……定期的に「良かれ」と思って声をかけてくる存在だった。流石に高価な壺を押し売るなんてことはしないが、それでも、ポジティブな言葉とともに、「幸運を与える」だろう選択を強いてきたのだ。

 それだけじゃない。叱咤も、激励も、どいつも、こいつも、自分の都合ばかり押し売ってくる。俺の都合も考えてくれよ、そもそも俺は都合なんて便利なモン、作ってなかった気もするが。

 押し出されている。俺が、中心から押し出されている。受け取った段ボール箱の分だけ外へ、あの掃き溜めへ向けて、押し出されている。


 そんなある日だった気がする。

 前に買ったゲームを同期に貸すことになって、部屋を漁ってたらあのスケッチブックが見つかった。実家に置いたものと思ったから驚いた。それを気まぐれで何枚か見て更に驚いた。なんだろう、敢えて表現するなら「しっくりときた」。あれだけ嫌悪感があったはずのユメの絵が、すごく馴染んだ。何故だろう。理由は分からなかった。特に印象的だったのは絵の中でサラリーマン数名があべこべに混ざった合成獣。構成員は皆惚けた顔を浮かべていて、そんな獣の傍を死んだ目をした子供達が通り過ぎている。

 眺めているうちに、ふと思った。

 一番最初にライオンと山羊を混ぜようとした人は、何を考えていたのだろうか。俺はシャープペンを手に持つ。よほどの事情があったのか、それともなんの気無しに混ぜてみようと思ったのか。違和感は大きかったはずだが、それを以て何を示したかったのか。スケッチブックの最後のページは狙ったかのように空白だった。当時の人はどう思っただろうか。化け物に対して畏怖や嫌悪を覚えていただろうか。生き物どうしが馴染まずに混ざる様に、従来にはない美しさを感じたのだろうか。俺は様々考えて、結論は出なかったけども、それは不思議と面白かった。

 気付いたら、強情な上司と生意気な後輩を混ぜていた。彼らはお互いをひどく憎み合い、ひとつの身体で取っ組み合いをしている。俺の背筋を興奮が跳ねていった。ソワソワとする。「君はろくに仕事もできないのかね!?」「それはこっちの台詞だっての、給料貰ってなけりゃ、とっくにボコボコにしてるわ」「クビだ、それか、打ちクビだ!」「上等だよ、脳みそぶちまけるか!? 豚と一緒にミンチになるか!?」

 上も下も役立たず、揃いも揃って醜い奴ら。ゲラゲラと笑う。楽しい時間、こんなに笑ったのは、随分久しぶりのような気がする。そうだ、お前ら両方潰し合ってミンチになれ。

 携帯電話に着信が入る。浮かれた俺に入った連絡は「お袋が倒れた」とのことだった。


 ……


 久方ぶりに会った親父の背中は小さくて、そんな親父から「お前、随分やつれたな」と言われ、随分久方ぶりに鏡を見て、自分の顔が人間とは似ても似つかないことを知った。


 あーあ、こんな世界ぶっ飛べばいいのになあ。

 何度も願ったことだった。でも、叶うことはないし、叶うはずもない。せめてもの憂さ晴らしに口に出してみただけだ。 


5.


 いつからか、身体が言うことを聞かなくなった。

 埃をかぶる部屋の中、朝の日差しが出るまで俺は、下手くそな絵をかき続けていた。ゴミめ、クズめ、駄目だ、クズ、寝なくちゃ、うるせえ、仕事が、黙れ、お前が悪い、単語を放ちながら、俺はかいていた。祈るように、縋るようにかき続けていた。

 会社に出ても余裕なんてない。遅刻は常習となり、仮に出勤しても仕事はしていないも同じ、給料泥棒だの、臭いが堪えられないだの、またブツブツ言ってるだのと勝手気ままに奴らはのたまう。今じゃ、混ぜてた上司と後輩、すっかり仲良くなって俺をけなし始めるのだ。もちろん、スケッチブックのことは明かしていない。それでも違う課にいる同期だけは定期的に連絡をくれた。ブラックな会社にいると、同期は戦友になるんだ。こいつだけは失ってはいけないんだ。

 いくつかの月を経て、流石に駄目だと思った。今じゃ赤の、とびきり高い絵の具ばかり注文するようになった。食事は喉を通らない。食べてないのに胃がもたれる。どうしたらいいか分からない。思い切って捨てても捨てても収まらない、とっくにユメのスケッチブックは捨てているはずなのに、冊数が増えている。お節介な隣人は画材や資料、前向きな本、後ろ向きな本を段ボールにして渡してくる。

 混ぜるな混ぜるな、そう呟きながら俺は混ぜていた。その内容は少しずつ悪趣味に醜くなっていった。リアルさを追求するために外を歩く人達を、学生からカップル、親子、浮浪者まで物陰から撮っていく。雑誌には様々な国のモデルが映っているので、世界中の顔を集める事は難しいことではなかった。最近は色々な図鑑の電子書籍もあるので、動物も植物も機械も凶器もいくらでも用意できた。

 携帯電話に着信が入る。うるせえ、黙ってろ。

 それらの素材で何をどのように混ぜ、結果、どのような表情を浮かべるかを想像し、抱擁ほうようとともに潰される蚊イケメン、回転椅子、電気椅子が混ざり、事務員をケーブルとシリコンの濁流に呑み込む。空が落ちてくると悩む原始的老人はしし座流星群を内包するだろう。流石にアインシュタインの舌べろも、まさかモーツァルトのケツを綺麗に舐めることになろうとは思うまい。

 それからも何日間も考え続けた、かき続けた。気付くと俺は何かの虫をすり潰して作られたとびきり高級な赤の絵の具を吸おうとしていた。うわあああと叫ぶ、もう勘弁してくれ、これはどういうことなんだ。どこからこんなことになってしまったんだ。辛い助けて外に出よう。外に出て病院に行こう、親にも会社にも体調が悪いと伝えよう。

 チャイムが鳴った。

 何か注文したのかなと思った。なんの気無しに外に出たら、なぜか同期がいた。彼は声を上げて去っていった。


 蜘蛛の糸がぷつんと切れた。


 俺はへたりこんで「あーあ」とだけ呟いた。携帯電話はとっくに電池切れで、今日はどうも水曜日で、前に見たときとは外の景色が随分違って見える。おひさまが温かくて、おそらが青くて、俺は泣いた。分かった気がした。昔の人がなんでライオンと山羊を混ぜたのかは結局分からずじまいだけども、少なくとも、俺にとっては、混ぜることで、みんな台無しにしてやりたかったのだ。互いに潰しあってくれ、互いに打ち消しあってくれと、乞い願った。なのに、おひさまもおそらもまざらず、こんなにきれいだった。


 目を開けると、俺は掃き溜めにいた。

 昔懐かしいワックスの匂いがする、当時と同じ学校の片隅。違うことと言えば、自分以外にはたった一人しかいないという点か。


「ずっと待ってたよ」


 ユメの姿は当時と何も変わっていなかった。俺はどうにも出来ずに見ることしかできなかった。

「顔、洗ったらどう?」

 ガラスに映る自分の顔は赤まみれだった。洗面台で顔を洗って、廊下から校庭を眺めてみる。誰もいない、人の気配はない。手渡されたタオルで顔を拭いていると、ユメはゆっくりと話しだした。

「君が僕のこと、そんなに好きだと思っていないのは知っていたよ。会う度に見せる引きつり笑いも、常に一定の距離を保ちたがるのも、話を打ち切りたがるのも、みんな余所者に対する態度だったし……以前の僕との関係も通過儀礼のようなものだってことも、知っていたよ」

 俺は黙って聞いていた。ユメの言うことに間違いはなかったし、言い訳の余地もなかった。だって、そうだろう。とびきり悪趣味で、執念深くて、暗くて、何よりもユメには心が感じられない。例えるなら黒い粘液を垂れ流す機械だ。そんなやつにどう向き合えというのだ。一緒にいたのだって成り行きもあったが、無視したら何されるか分かったもんじゃなく、ハムスターの代わりにミキサーに押し込まれるのはゴメンだったからだ。

 そんなこともお見通しだったのか、ユメは俺の顔を見て、さも愉快そうに笑った。あの時のように。

「でも、関係ないじゃないか。それは君の気持ちであって、僕の気持ちは依然変わりない」

 俺は震えた。

「今まではずっと陰ながら見守ってたけど……もう頃合いだろうから、言っておくね」

 取り返しがつかなくなる。

「お願いだ、僕と一緒に――」

 俺は一目散に走り去った。


6.


「どこへいくのかな?」

 ユメは愉しげだった。当時の流行曲の鼻唄が聞こえる。

 俺の中にはひとつの疑問と、それに対するひとつの答えがあった。

 疑問。なぜ、今になって再びあらわれたのか。子供時代の単なる思い出であったはずのユメが、長い時間を越えてやってきたのか。

「話したいことが沢山あるんだよ。癌細胞の話、不幸の話、共食いの話……そうだ、お父さんの余命の話にしようか」

 思い出とは基本的に家族や友人、上司部下といった、人との関係によって薄れてゆく。痕跡を見られて恥ずかしい思いをしたりはするが、それが現在にまでは影響しない。だとすると、なぜ出てきたのか。

「もしかして、僕が出てきたのは突然の出来事のように思った?」

 答え。スケッチブックを見たから。普通なら思い出として終わっていたものが、精神的に追い詰められた時に見たことで、こじれてしまった。一種のトリップ状態になってしまったのだ――

 ならば目を覚ませ。ここはもう掃き溜めではない。俺は一時こそは辛さから逃げて、悪に満ちた知り合いを作った。だが、今は普通のサラリーマンになれたじゃないか。乗り越えてきたのだ。これまでの経験を忘れるな。


 ……


 目を開けると、そこは、いつもの自宅だった。部屋はひどい有様だった。壁も床も天井までも、全部赤と白のまだら模様がこびりつき、食器もテレビもオブジェもゴミ袋に詰められている。もちろん、機械類は大半が動かない。郵便受けには書類の束が山ほどある。これは、元に戻すのに幾らかかることか……ああ、その前にまずは驚かせてしまった同期に連絡しないと。

 声が聞こえた。

 いつものお節介な隣人。今日は何のお裾分けだろうか。今回はちゃんと顔を洗って、身なりも整えてから出よう。試しに作った笑顔はぎこちないが、仕方がない。少しずつ慣れていこう。

 ドアを開いた俺の腕を冷たい手が掴んだ。ギョッとする。だが、姿は隣人だ。ただの怯えか。しかし、しかし、手の感触は身に覚えがある。

 嘘だ。違う、違う、違う……!

「違うんだよ。こうなったのは突然でも理不尽でもない、ごくごく自然の流れなんだよ。君は人生の中で何度も願ったはずだ――突拍子もない・・・・・・出来事が起きて、この現実を吹き飛ばしてほしいと」 

 そんな、馬鹿な。

「この姿に見覚えは?」

 別の隣人の姿。

「この姿は?」

 また別の隣人の姿。

「これは?」

 少しばかりお節介な隣人の姿。

「ちゃんと周囲に溶け込めていたでしょう。練習したからね」

 俺は……


 声も出ず、何も出来ない、玄関先でへたり込む俺の隣に、ユメもかがみ込んだ。

 その後の話は、今まで聞いた中で最も悪趣味なものだった。

 高校の終わりに離れてからも、色々な形で干渉をしていたこと。人生の岐路になるたびに、半歩だけすくませるように仕向けたこと。

 弱さ、通過儀礼と称して俺から選択肢を一つずつ消し去っていたこと。

 その先にあるのは、自分と混ざり、永遠にあの時のように語らいあう未来であるということ。

 長い話は終わった。おひさまもおそらもとっくに黒ずんだ。

 ユメは俺の背中をさする。気持ちが楽になるのを感じた。

「今までだって、君は僕と一緒だった。それが……ほんの少し、長くなるだけさ」



 彼の変化は、誰の目にも留まることはなかった。

 社会には彼抜きで成り立たないものはひとつもなかったし、そもそも他人に興味関心を与えられる程の存在でもないのだ。彼が一般人として良く成長した証だ――彼が失われても、誰も気がつかないくらいに。

 今もなお、彼の精神は自分自身の深層で合成させられているので、世間に見せる彼の振る舞いは、過去の仕草を基に作られた機械的人格ルーティーンである。定められた刺激が来れば定められた応答を返し、そうでなければ呆けているだけの存在。学習も反省もしないので、いつかはどこへ行っても持て余されて、社会から弾かれるかもしれない。

 弱り果てて、最後には死ぬことになるかもしれない。


 ……


 ……


 ……


 でも、そんな君の傍にいられて、僕はとても嬉しいよ。

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