謎の女

日野原 爽

謎の女

「遅くなっちゃった」

 亜子は薄暗い通りをせっせと家路に向かっていた。夜の十時をまわって、両側の商店はすべてシャッターを下ろしている。街灯の明かりはその下2メートルばかりを照らすだけ、次の街灯までは暗く闇が澱んでいる。人通りもなく、亜子は心細い思いでコートの襟をたてて、小走りに道を急いだ。

 こんなに遅くなる予定ではなかったのだ。テレワークが終わって久しぶりに出社すると、課長がいきなり明日の会議の資料を作れと言い出した。もちろん、断っても良かったのだ。「すみません、今日は都合がありまして残業は・・」だがそれは建前上だ。昨日今日働き始めたばかりではあるまいし、会社組織がどういうものかぐらいはわかっている。にっこり笑ってはい、と答えてパソコンに向かった。

 資料ができたのが七時過ぎ。人数分をコピーして片付けを終えて7時半、それからジムで日課の自転車こいでシャワー浴びたらこの時間になっていた。ああ、せめて家がもう少し会社に近かったら。片道一時間四十分はひどすぎる、やはり無理しても都内にアパートを借りた方が良いのだろうか。

 亜子は通りを右に曲がって細い路地に入った。と・・。

 目の前に赤い光が飛び込んできた。パトカーが一台とまっていて、屋根の回転灯を赤く光らせている。その周りに数人の人が集まってぼそぼそと何か話している。

 事件だろうか?

 自宅へ帰るにはどうせその横を通らなければならない。急いではいたが、好奇心に駆られて亜子は、人の輪の後ろから中を覗き込んでみた。

 アスファルトの路上に、女が一人仰向けに倒れていた。

 まだ若い女だ。二十五、六歳、自分と同じくらいだろう、と亜子はとっさに鑑定して、すぐに、いや、三十代かもしれない、と訂正した。パトカーの赤いライトに照らされて、妙にものすごく見えるばっちり化粧した女の顔。厚いファンデーション、細く描いた眉、閉じたまぶたに塗られた金色のアイシャドウ、真っ赤な厚ぼったい唇、頬骨の上にぼかされた濃い紅、きっちりとアップに結い上げ髪を見ると、若づくりはしてても存外年食っていそうだ。女はたっぷりした銀色の毛皮のコートを着ている。柔らかそうな毛が密集していてフェイクファーには見えなかった。もしかして、これが本物のミンクのコートとやらかもしれない、と亜子は思った。コートの下、女の広く開いたドレスの胸に金色の鎖に緑色の宝石をちりばめたネックチェーンが見えている。もし本物の毛皮のコートならば、宝石もイミテーションではなく、金鎖もメッキじゃなく本物の18金か20金だろう。薄いストッキングに包まれた女の脚は、慎ましく膝をそろえて地面の上に投げ出されていた。その先には柔らかそうな白い革のピンヒールのパンプスを履いている。女の左手の傍にはバッグが落ちている。LとVを組み合わせた商標を持つ有名な高級品だ。左手の手首の華奢な時計は、ここでは暗くて文字面が読めない。もっとよく見ようとして一歩前に踏み出すと、「近づかないでください」と、警察官に制止された。

「誰なんですか?」

 亜子は、野次馬の中に顔見知りの近所のおばさんを見つけて聞いてみた。高級住宅地でもない、こんな薄暗い路地に倒れているのが場違いな女のように見える。

「さっぱりわからないんだよ」

 おばさんは声をひそめて言った。「わたしはコンビニに行くんで十分ほど前にここを通ったんだ。浴室の電球が急に切れちゃったもんだからね。その時は誰もいなかった。電球を買って戻ってくると、ここにこの女が倒れてたんだよ。で、急いで警察を呼んだ。道の真ん中に倒れてちゃ、迷惑だろう?」

「酔っ払いですか?」

「いいや、酒のにおいはしないよ。なんか、甘ったるい気持ちの悪いにおいがする」

 これも顔見知りのおじさんが、マスクを外して、鼻をすすりあげるような音をさせた。

「香水だよ、バカだねえ」

 おばさんの言葉に亜子もマスクをはずして、においをかいでみた。確かに、空気中に甘い香りがする。

「あんた、今、帰りなの?」とおばさんに言われて、亜子は「ええ、残業で」とだけ答えた。あまり余計な詮索をされたくなかった。あそこの家の娘は夜遊びが好きでなどと噂がたってはたまらない。

 うまい具合に、その時、赤いライトをピカピカ光らせながら救急車が路地に入ってきた。完全防護服に身を固めた救急隊員が飛び出してきて、手際よくストレッチャーの上に女を載せる。

 亜子はそこまで見て、家に帰った。


 数日後、亜子はゴミ出しに出た時に、おばさんから事件の後始末を聞いた。

「あの女は病院から消えちまったそうだよ」

「消えたって?」

 おばさんは得々と話した。ここ数日間、出会う人間ごとに話して聞かせてきたらしい。

「病院につくと女は目を覚ました。どうやら軽い脳震盪だったんだと。女はショックのせいだって言い張った」

「ショックって?」

「時間旅行のショック。女は過去の世界からやってきたんだ」

 亜子はポカンとしておばさんを見つめた。聞き違えたかと思った。

 期待通りの反応に、おばさんは嬉しくてしょうがないような顔をしている。

「もちろん、そんな話、だれも本当にしやしないさ。誰かに襲われて頭を殴られたんじゃないかと医者は言ってる。殴られたショックで頭がおかしくなったのかもしれないね」

「で、どうしたんですか?家族に連絡したんですか?」

「いいや。どこの誰ともわからなくちゃ、連絡のしようがないだろう?女の財布の中には免許証も、保険証も、マイナンバーカードも入ってなかった。一万円札が五十枚入ってただけで」

「五十万円」

「そ。それも聖徳太子の。手の切れるようなピン札だったそうだよ」

 おばさんは何がおかしいのかクスクスと笑った。

「病院じゃとりあえず女を個室へ入れた。PCR検査の結果が出るまでそこらをうろうろされちゃたまらないってね。女は大人しく検査には協力したけど、煙草とライターの没収には文句を言った。病院内は禁煙なんだって説得しなきゃならなかったそうだ。検査の結果が出てから、警察官が事情聴取しようと行くと、部屋の中には誰もいない。誰も女が部屋を出るところは見てない。文字通り、ドロン、と煙のように消えちまったってわけさ。女が言うには、知り合いがタイムマシーンを発明したんで、こっそり使ってみたんだそうだ。女がいたのは昭和三十五年で、そこから未来の日本を見物に来たってわけさ」

「まさか」

 亜子はその一言を押し出すのがやっとだった。「そんな話誰も信じませんよ」

「信じるもんかね。なあに、後ろ暗いところがあるから、あわてて逃げ出したのさ。ああいう連中はみんな同じだ」

「そうかもしれませんね」

 どんな連中かは知らないが、馬鹿話に付き合ってはいられない。亜子は話を切り上げると、ゴミの袋を置いて家に戻った。

 過去から来た女。

 おとぎ話やSFじゃあるまいし。

 あの女は薄暗い路地で誰かに襲われて脳震盪をおこし、記憶喪失になって、妄想を抱くようになったのだろう。

 さもなければ手の込んだ詐欺だ。大昔の一万円札まで準備して、「ああいう連中」が何か企んだのだ。

 わたしの知った話じゃない。亜子はさっさと会社へ行く身支度を整えた。今日は定時退社するぞ。

 だが。

 満員電車に揺られながら、亜子の心は女の話に戻っていった。

 だが、もし女の話が妄想でなかったら? 計画的な詐欺じゃなかったら。

 もし、女の話が本当だったら。

 強盗の仕業じゃない。

 女は贅沢な身なりをして、宝石を身につけていた。財布の中には現金が入っていた。もし、強盗に襲われたのだったら、宝石も現金も時計も奪われていたはずだ。

 女は何一つ奪われていなかった。

 ミンクのコート。贅沢なドレスに高級そうな靴。今時の日本で、そんな恰好で出歩く若い女がどれほどいるだろう。亜子は足元に目をやった。かかとの低いローファーの靴が目にはいる。外反母趾を嫌って、今時の女は足に優しい、歩きやすい靴をはく。ドレスは動きにくい。パンツスーツの方が活動的だ。ミンク! 動物愛護が声高に叫ばれているこのご時世に? 高級バッグにアクセサリーは金の無駄、トラブルの元、襲ってくださいと言わんばかりじゃないか。煙草? この嫌煙の時代に?

 だが、過去から来た女なら?


 亜子は考えた。

 いや、女は一つだけあるものを奪われていた。

 亜子が人々の後ろから覗きこんだ時、すぐに気がついたもの。

 真っ赤な唇。

 女はマスクをしていなかった。その辺に落ちてもいなかった。

 もし女が襲われたのならば、その人間は、女のマスクを奪っていったのだ。

 財布もヴィトンのバッグも宝石も時計も残して、ただ、マスクだけを。


 そんなことありうるだろうか?

 それより、女が初めからマスクをしていなかったと考えた方が普通じゃないか?

 今の日本でマスクをせずに出歩く女。

 マスク反対派? たった一人のデモ活動?

 亜子は周りを見回した。すし詰めの乗客は一人残らず、顔の下半分を布で覆っている。

 やっぱり、あの女は昭和三十五年から、コロナなんて聞いたこともない過去の世界からやってきたのかもしれない。

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