覗く女
真花
覗く女
春のすんとした精が空気中に漂う、風がそれを押し流してその奥の温もりを運ぶ。日曜日、ボンゴレビアンコをゆっくり食べる、手早くお皿を洗い、手をフキンで拭く。今日は彼は来ない。今日も来ない。小さくため息をついた。台所からソファに移る、女性誌をペラペラ捲る、「恋に年齢差は関係ない!」の見出しに皮肉な笑いが零れる。彼は十五歳、私よりも若い。夫に先立たれ娘達も独立して、その後に稲妻のように始まった恋。自分の年齢なんて忘れて夢中になった。彼もきっと同じだったのに、最近会えることが少ない。彼は私に会いたくないのかな。思い切り首を振ってそれを否定する。だって、仕事が忙しいって言っていた。頻度は減っても私のところに来るし、いつだってセックスは最高だし。
でも、もしかしたら少しずつ心変わりしているのかも知れない。彼はまだ若いし、魅力的だし、モテない筈がない。仕事をしながら描いている絵だって素敵だ。彼の軸足はむしろ画家の方にあるのかも知れないとよく思う。いつか私のことを描いて欲しい。でも彼はいつだって「まだ」と言う。
「はぁ」
待つ女になってしまっている。別に彼の家に突撃して行ってもいいのだけど、疎まれそうで出来ない。連絡はこっちからだってするけど、大体留守電だし、彼の都合のいいときの返信をやっぱり待つ。女性誌の内容が頭に入って来ない。そもそも頭に入れるようなものが書かれてもいない、これは有料のカタログだ、感覚的にフィットした服や靴を見つけるため以上のものではない。出す側はファッションのトレンドを作っているつもりでも、読む側との温度差はひどいものがある、私にとっては熱中するようなものじゃない、時間を潰すためのツール。
コッコッ。
玄関の方から。雑誌を置いて、そっちに向かう。宅配便なら呼び鈴を鳴らす筈だ。誰かが来てもそうだろう。
だから無視してもよかった。無視した方がよかったのかも知れない。だけど私はフェロモンに誘引される蜂のように玄関に至り、覗き穴から外を覗いた。
そこには彼がいた。でも、ドアの前に立っているのではなく、若い女と腕を組んで歩いているのが斜め上から、ドローンのカメラから映したように見える。私は幻影かと思い目を離す、左右を見れば自宅の玄関で間違いない。もう一度、覗く。
彼は女と楽しそうに喋っている。音は聞こえないから何を話しているのか分からない。私との顔とちょっと違う顔、もしかしたら、私とよりももっと恋なのか。二人はホテルに入って行く。
「嘘でしょ」
チェックインを待つ女の顔が潤んでいる。ヤる気満々だ。彼の顔がチラリと映る、こっちも同じ。エレベーターに乗り込み、もう我慢出来ないと言った風に二人がキスをする。彼が女とキスをしているのに、私は壁に張り付いてそれを覗いている。これはもう、裏切りだ。私と言うものがありながら、どうしてそんなことをするんだ。胸の内側に黒い雲が満たされてゆく。それは水蒸気なんて軽さではない、重金属の重みを携えている。だから発生した雷鳴はずっと深く、稲光りはさらに激しい。ホテルの部屋に入った二人は服を脱ぎ始める。
「何を」
胸の色は悪化の一途を辿るのに、覗くことがやめられない。いつも見ている彼の体。女の形のいい胸。その二つがベッドの上で抱き合い始める。やめて。二人は秘部を愛撫しあい、女が小さく痙攣する。やめて。それなのに覗くことがやめられない。いきり立った彼が女に入る。優しく、激しく、ぶつかり合う。私の胸の中は真っ黒になって、なのに、目は釘付け、私も興奮している? 触れてみたら濡れていた。それ以上をしたくない、でも、手が勝手に動いていた。覗き穴の向こう側とこっち側で同時に果てて、彼は女から離れ、シャワーに向かう。彼が何を言っているのか読み取れない、彼は何かを女に語りかけている。
急に疲れが来て、私はふらふらとソファに戻る。
「不安が現実になってしまった」
気持ちは最悪だ、だけど、気怠さに身を任せている内にうたた寝をして、電話の鳴る音で目が覚めた。彼だった。
「今日これからそっち行っていい?」
どの口が言うか。私は全部知っているんだ。……面と向かってとっちめてやる。
「もちろん。待ってる」
三十分後、呼び鈴が鳴る。
私は覗き穴から彼を確認した、さっき女といたときと同じ服装だ、こんなひどい男だったのか、締め出そうか、いや、やっぱり直接対決をしよう、ドアを開ける。そこに彼は立っていた。だけど、覗き穴から見たのとは別の服装。
「あれ?」
「ん? 何かおかしい?」
「ううん、どうぞ」
彼はソファのいつもの場所に座る、何も変わらない様子で煙草に火をつける。私は私の場所に座って、やっぱり正面に行こうと立ち上がる。女性誌がドサッと落ちた。彼の前に立って、立ったままで、私は始める。
「今日、浮気してたでしょ?」
彼は狼狽と言うよりも混乱した表情で、私の言葉を咀嚼するのにしばらくの時間を要した。
「いや、してないけど」
白々しい。私は首を小さく振る。彼は「いやいやいや」と手を伸ばして来て、「そんなことするわけないだろ」と私の肩を掴もうとするから、私は素早く避けた。
「私は知ってるんだから」
「どうやって知ったんだよ?」
「それは……」
「胸糞悪い。帰る」
彼は私の横をすり抜けて、出て行ってしまった。彼が車に轢かれたりしたらどうしよう、あんな乱れた状態じゃそう言うことだってある。私はだけど、どうしてか、ベランダでも彼を追うのでもなく、覗き穴を見た。
そこにはしっかりと彼が映っている、不機嫌そうな顔をして足速に歩く、車が突っ込んで来る、彼は轢かれた。私は悲鳴を上げる。さっきの彼よりも混乱して、オロオロしているのが自分でも分かる、そうだ、彼のところに行かないと。でも、どっちに行けばいいの?
呼び鈴の音。
覗き穴を覗くと血だらけの彼が立っている。死んでなかった。
ドアを開けると、そこには無傷の彼。……。
「やっぱりちゃんと話そう」
戻って来てくれた彼に私は頷く。
ことのあらましを聞いた彼は、俺も覗いてみたいと立ち上がる。
「宇宙人がUFOからたくさん襲来して来てる」
そして振り返って私の頬を両手でそっと包む。
「俺は無実ってことで、いいよね?」
「ひどい覗き穴」
言い訳をたんまりしようとした私の唇に、彼のそれが重なる。
(了)
覗く女 真花 @kawapsyc
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