蕗見 哲夫は沈まない

シロクジラ

第1話


 □ □ □


 数ヶ月前。俺は海難事故に巻き込まれたらしい。

 らしいというのは、俺は記憶を失っているんだ。

 目が覚めた時にあったのは、病院の白い部屋と家具。そして包帯塗れの体だけだ。

 服も戸籍に関する事も、何も見つからず歩く事も出来ず。

 将来はこの白いベットの上で終わるのかと毎晩、啜り泣いていた。

 と昨日までは思っていた。


「カイさん。戸籍が見つかりましたよ」

「はぁ?」


 昼。味の薄い肉じゃが定食を届けに来た中年のナースさんが、俺の仮の名前を呼びながら気軽に衝撃発言をした。

 何でも遺伝子検査をした所、子供の頃に受けた検査結果と合致したそうだ。

 蕗見 哲夫(ふきみ てつお)。

 天涯孤独の二十七歳。会社は海難事故が起きる一ヶ月前に辞職。

 海外に旅行に行った帰りに、転覆事故の被害に合い数ヶ月前に保護される。

 それが俺らしく、渡された免許証には平凡な間抜けそうな面が映っている。


「哲夫、テツヲ……これが俺の名前」

「これからは哲夫さん。とお呼びしますね?」

「何だか懐かしい気がします」


 ナースさんは皺のある頬を緩ませて。俺の頭を撫でる。

 俺が家に帰れる日も近いと、未来のある話をしてくれた。


 □ □ □


「へぇ、良かったじゃないか。Kくんもこれで退院できるね」

「まだ数ヶ月、先の話だよ。記憶だって戻って無いし」


 夜。天井の暖色系の灯りが照らす室内で、俺はKと名乗って、冷たいキーボードでチャットアプリに文字を打ち込んでいく。

 タブレットは碌な娯楽が無い病院で俺に与えられた物で、チャットの相手は友達であり同じ海難事故の生き残りである、別の病院に搬送された沼さんを名乗る人物だ。

 当たり前だが、沼さんとはハンドルネームであり本名では無い。

 しかもチャットなもんだから、彼なのか彼女なのかも俺は知らなかった。


「そうだ。Kくんが退院したら、迎えに行くよ。車も無いんだろ?」

「あれ、沼さんも車持ってないんじゃなかったっけ?」

「だねぇ。金はあるんだけど都市部だから駐車場代が高くて」

「へぇ。ってそれじゃぁ電車で行くしかないじゃんか」

「話相手にはなれるじゃん」


 毎日のチャット相手である彼は気が合うし話も合う。

 記憶が無いから何とも言えないが、こういう相手を親友と言うのだろう。

 沼さんが同い年らしい事も拍車をかけている。


「でも俺の見た目はまんまミイラだから、驚かないでくれよ」

「良いじゃん。アメコミのヴィランみたいで」

「コスプレ扱いすんな」


 その後も沼さんは気を使って、明るい話題を振ってくれた。お陰で将来の不安や退院後の事を考えずに済む。

 結局、今日も長話をしてしまい、病院の消灯時間が近づいた事でチャットを終えた。

 俺はすっかり暗くなった廊下をベットの上で見つめた。

 昼間は廊下の壁に貼られたポスターが見えるのに、今は真っ暗で何も見えない。

 有る筈なのに何も無い暗闇の空間が怖かった。


「俺はここに居る。此処に居るんだ……」

 

 不安に押し潰される自分を抱きしめ、自分の体温を感じて落ち着こうとする。

 沼さんは大事な友達だ。ある意味、俺が生きてる唯一の証と言っても良い。

 そんな彼と会うのが楽しみな反面、恐ろしかった。

 彼に否定されたらどうしようか。

 家族も仕事も無い俺に残ってるモノは何も無いんだ。沼さんを除いて。


「……」


 怖かった。真っ暗闇な廊下の先がまるで自分の将来の様で。

 知識があっても記憶の無い俺には、何も無い事を思い知らされるから。

 あんなにベットの上で人生を終える事が嫌だったのに。今は退院する事が怖かった。


 □ □ □


 なのに時間は過ぎる。

 俺はこの一ヶ月で行き慣れた主治医の診療室で、担当医のデイヴさんに入院中の最後の診察を受けていた。

 診療室には椅子が二つにベットが一つに机が一つ。

 机の前には中年の白人であり、日本人とは恰幅の違うデイヴさんが座っている。

 彼は机の上のパソコンに、俺の診療結果を記入しながら問いかけてきた。


「哲夫さん。体調はどうですか?」

「相変わらずです。五感に問題は無いんですけど……」

「それを情報としか感じられませんか」

「はい。すみません……」


 デイヴさんは眼鏡を外すと俺に向き合う。

 彼の表情は複雑そうで、悲しそうな興味深そうな……人によっては怒りそうで、人によっては慈悲深そうに見える表情を浮かべていた。

 

「記憶を失った君には思い出というモノが無い。だから夕日を見ても美しいとは思っても感動は出来ず、郷愁を感じる事は出来ないだけだ」

「でも……自分の名前には懐かしさを感じたんです」

「そうだね。だからこそ言わせて貰うが、五感と情動がリンクして居なくても問題は無いのだよ」

「……」

「私だってそうだ。皆が感動する映画に泣けない時だって有る。君は辛いだろうが、その内に気にならなくなるだろう」

「そうでしょうか……」

「あぁ、君の体調はもう大丈夫だ。後は時間が解決してくれる」


 デイヴさんはそう言って、キーボードでカルテに何かを記入した。

 彼の打つタイプ音は随分と規則的で物々しく、冷たかった。


 □ □ □


「では、哲夫さん。お大事に」


 診察さえ終わってしまうと、後は何と言う事も無い。

 定期検査の日程を決めたら痛み止めや包帯の替えを渡されて、はいさようならだ。

 俺は受付から言われた「お大事に」という言葉を聞いて、退院したのだと実感した。

 受付が次の患者の相手を始めたので振り返れば、病院の出入口が見えた。

 出入口はガラスで外界と区切られ、外には沢山の車が走っている。

 道路の先には沢山の建物が日射しに照らされて輝き、色とりどりな配色で客を誘っていた。


 この病院から出た場所に、俺の友達である沼さんが待っている筈だ。

 彼は俺よりも遙か北方で保護され、三日前に退院して南下しながら家に帰るらしい。

 正直に言えば羨ましくあった。

 彼には帰るべき日常が有り、頼りになる友達が居るのだろう。

 それに比べて、俺には家も友達も記憶も無い。

 あるのは数ヶ月の記憶と人間関係だけだ。

 

 それでも生きねばならない。


 俺は意を決して、初めて病院の敷地を越えた。

 その一歩と共に吹いた暖かな風に背を押されると、不思議と肩の荷が降りてすぅっと体が軽くなり、眩しかっただけの世界が美しく感じた。

 相変わらず俺には色の濃淡が理解出来ないが、人生の記念すべき第一歩である。

 俺は沼さんが待ってる筈の、高速バス停へと急いだ。


 □ □ □


 なのに歩道を歩くのにも、俺は一苦労していた。

 理由は簡単。病室よりも遙かに身近に感じる車の所為だ。

 車の駆動音と勢いに俺はタジタジで、冷や汗が止まらない。病院からバス停までは歩いて十分程だが、既に後悔し始めている。

 なんで沼さんに病院まで迎えに来て貰わなかったのか。というかこんなに車が恐ろしい物だとは思わなかった。高速バスに載っても大丈夫だろうか?


 なるべく車道を見ずに、歩道の脇にある商店を眺める。

 歩道の脇には延々と個人店舗が並んでおり、受付ではあんなに輝いて見えたのに近づいて見ると寂れていた。

 中の電灯は病室よりも薄暗く、無機質に並んでいる商品はどれも見栄えが悪くて購買意欲がそそられない。

 だが車の恐ろしさに比べればマシだ。

 俺は商店の方をなるべく見る様にして歩き続ける。

 何度か歩行者とすれ違った。

 誰もが俺の包帯姿を見て、驚いた顔や見ちゃ行けない物を見た様な顔をする。

 めげずに歩いて行くと、団地の裏手にあるバス停へと辿り着いた。

 高速バス停には既に何人かが待っていて、その中の一人が沼さんの筈だ。

 腕時計を気にしながら、貧乏揺すりをしているサラリーマン。

 片手に重そうな買物袋を吊るしている、小太りの主婦。

 お洒落な格好で和やかに会話しているアベックの姿もある。

 その中に紛れる様にして、一人の男性が此方に気づいた。

 白いYシャツにスラックスを履いて、スポーツバックを肩に吊るした彼は帽子を深く被って居たが、男性なのは間違えようが無かった。

 彼が小走りで俺の前にやって来る。

 俺は彼こそが待ち人なんだと知って、緊張で引き攣りそうな笑顔でこう言った。


「沼さんだよね? 俺がKこと……本名は蕗見 哲夫です」

「えぇ……? 俺が沼だけど。本当にKさん?」

「こんなミイラ男が二人も居るんなら、会わせてくれよ」


 俺の挨拶に彼は戸惑った様な素振りを見せた。

 首を掻いて目線を反らす。少し不快さと困惑さが混じった声音だった。

 だがすぐに普段のチャットの調子を戻して、言葉を返してきた。


「奇遇だね。俺も蕗見 哲夫って言うんだ」


 そう言って笑った彼は、帽子を脱ぐ。

 その顔はあの日。俺の本名と共に渡された免許証と同じ顔だった。

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蕗見 哲夫は沈まない シロクジラ @sirokuzira1234

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