第一部エピローグ 勿忘草をくれた彼女へ
夏の終わり、夕暮れの弱まった日差しの中、彼は一枚のレポートを読んでいた。
「事の経緯はわかった。東野先生の辞めた理由もわかった」
目の前の胡散臭い男は神妙な顔つきで私の報告書を見終えた。
『助けて』に起因する謎を全て解き終えた。佐伯さんは『峯岸 妙』さんの思いを背負い、前を向いて生きていくと連絡をくれた。裏で操っていた東野 久志は教職を辞め、今やどうなったかは分からない。東野 久志を問い詰めてから一週間、彼は家庭の事情という理由ですぐに辞めていった…嘘であることは言うまでもないだろう。急な連絡で引継ぎもできていなかったのか、東野 久志と関わりのあった先生は仕事で忙しそうにしていた。そして、その中の一人が柊先生であった。今、何とか時間が取れるようになり、私は予め纏めていたレポートを先生へと提出し、説明を行った。
「あの人はそういう人だったのか。意外ではあるけれど、言われてみれば納得か」
「何故ですか?」
「なんとなくだよ。当時授業を受けていた時を思い出しても、生徒を褒めたことはなかったなぁ、とね」
そう言いながら、彼は空を眺めた。まるで遠い過去に置いてきた何かを救い上げるような行動に、私は意外性を感じて暫く釘付けになってしまった。それに気付いた彼は流し目にこちらを見ながら質問をする。
「何かおかしなことでも?」
「えぇ、あなたは過去より未来を指向する人だと思っていたので、そんな風に過去の思い出に浸ると思っていませんでした」
「誰だって、古いものに惹かれることはある。ノスタルジックな感傷に浸りたい時があるだろう?それと同じさ」
彼の横顔には郷愁の念はなかった。私にはそれが儚げで、淡く仄かな安堵であるように感じた。
ありがとう、そう言うと彼はそのまま屋上を後にする。そして、思い出したようにこう伝えた。
「兵藤さんに伝えるかどうかは任せるよ」
そのようにして、この話をどうするかを委ねられた。それは私がどうするものでもないというのに────────
翌日、美術室へ向かった。夏休みも終わりに差し掛かったのでじっくり休みたいところではあるが、身体が慣れてしまってついつい学校へ足を運んでしまった。
「雪奈~!久しぶり!」
「そうね、久しぶり。髪の毛黒染にしたんだ」
久しぶりに見た彼女は紙を黒に染めて、ピアスも付けていなかった。髪型は変わらずロングの髪をサイドで束ねているが、髪色が違うだけでこうも印象が変わるものなのかと少しばかり驚いた。
私の発言にふふん、と得意げになり、手で髪を触りながら挑発してきた。
「あら?雪奈はわかんないか~」
それに苛立ちを覚えて、もう少し注意深く彼女を観察する。
彼女の髪はやはり黒であった。ピアスだって付けていない、だが違和感がある。黒の質感が、普通に染めたものとは思えない。まるで何かで塗装したような……
「…わかった。ヘアカラースプレーね」
「大正解、これ暁美ちゃんからもらったんだ~」
「…東雲先生、絶対元ヤンかなんかでしょ…」
得意げにバッグからヘアカラースプレーを取り出した彼女にも呆れるし、それをわざわざ渡す東雲先生にも呆れた。何故こうも校則を破ろうと躍起になるのか、わからなくて少し吹き出した。
「やっと笑った。最近ちゃんと笑ったとこ見てなかったからね~。意外と心配してたんだよ?」
彼女は朗らかで温かい笑顔を湛えながら私にそう言った。
彼女と話をしながった時間も、私は心から笑うことはなかった。向き合っていた『助けて』がそのように笑顔を生むようなものではなかったから…あれだって最後の最後まで後味の悪い話だったからなおのこと笑うことはないだろう。
『助けて』から連想するように柊先生の言葉を思い出した。鼎はこう見えても人の表情の変化などには敏感だ。できるだけ顔に出さないようにしながら私は逡巡する。これを彼女に伝えてどうなるのだろうか、当事者は前を向いて歩きだしたのなら、これはもう触れないほうが良いのではないだろうか?
そんな無益な思考を回していると、彼女は柔らかさを感じる声音で質問してきた。
「何を考えているの?辛いことがあったら言いなよ」
「辛くはないわ。少し、思うところがあってね」
興味を持って私の話を聞いてくれる彼女を見て、話したくなった。彼女がどう思うのかを聞きたくなった。この話を広めるつもりはないし、凌斗にも報告するつもりはない。だけど、私のエゴが彼女の感想を求めた。
そうして、一通り話し終えると彼女は怒りを滲ませて一言こう言った。
「…最低」
「ね、後味の悪い話でしょう?」
いつもヘラヘラしている鼎には珍しく怒りを完全に露わにしていた。普段なら表面でも繕って楽しげにする彼女がここまで怒りを表現するのは本当に珍しかった。
「何より、登場人物みんな最低じゃん。妙さんは思ったこと言わないし、佐伯さんは都合良いことしか聞かない、東野先生は自己中過ぎるし柊先生は何もしなさすぎ!」
「そうね、私もそう思うわ。みんながみんな自分の思う何かに縋っていたように思うわね」
私は相槌を打ちながら、彼女の話に耳を向けた。こうなった彼女は止まらない、愚痴が次から次へと飛んでくる。
「そもそも、雪奈は『助けて』見た時から嫌そうだったし!なんか知ってたんでしょ!」
「気のせいよ、そういう風に鼎が勘違いしただけ」
嘘、初めから知っていた。しっかり調査するまではこのような結末だとは思わなかったし、後味の悪さだって想像以上だ。ただ、良いものではないということだけは予感していた。そんな気持ち悪さを回避しようとしていたのだが、成行きでここまで調べてしまった。
…後味、なんでここまで悪いのだろう。…それは少し考えればわかるような簡単なことだ。理由は、東野 久志が反省していないからだ。この先彼が何をするかは知らないが、どこかでまた同じような問題が起きる可能性だって否めない。世の中、勧善懲悪が完璧に成されることは少ない。結局、法に抵触しない限りはルール上の善人だから、悪人ではないのだろう。彼はきっと犯罪を犯さない…ただ、こんな風に後に残るスッキリとしない不快感だけを残してまたどこかへ消えていくのだろう。それが私には何より悔しい。
「…東野はまたどこかで同じことをすると思う。それを止められなかったことが心残りになってるわ、悔しいけれどね」
「それは、雪奈の背負う責任じゃないと思うよ。雪奈が見るべきはそこじゃない、解決することで佐伯さんが前を向いて歩けるようになった。これじゃない?」
それが私の見落としていた事実であり、心に残る不快感を少しだけ払拭してくれたような気がした。
悪夢 @siki_hakanasi
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