第8話

 インターホンが鳴らされた。私の元に誰かが来ることなんてあまりない。最近はとある高校生が家を訪ねてきたが、それすら約2カ月ぶりの来客であった。


 私は緩慢な動作でテレビドアホンへ向かい、来客者の顔を確認した。そこに居たのは最近来た高校生であった。確か名前は「白夜 雪奈」。黒曜石のような瞳と無機質さを孕む表情、そして過去に馴染みのある制服と見慣れないオペラグローブを身に着けている。当時、私が学生だった頃、オペラグローブをはめた生徒を見たことはなかった。前回来た時も同じようにオペラグローブをはめて、外さなかったことを見るに隠したい何かがあるのだろう。


「ちょっと待ってね」


 そう言って私は玄関の扉を開いて、彼女を迎え入れた。


 丁寧な所作で彼女は靴を脱いで家へと上がった。彼女はやはりいい所の出身なのだろう、マナーひとつとっても美しく、雅やかだ。


 彼女を食卓椅子へ案内し、座ってもらって話を振った。


「で、今日の本題は何かしら?」


 彼女は相も変わらず無機質な表情で私を見つめながら、一つ質問をしてきた。


「佐伯さん、何故あなたは嘘をついたのですか?」


「何のことかしら?わからないわ」


 私の回答に彼女は残念そうに目を伏せて、再び向き直った。その視線はまっすぐ私へ据えられており、私は直視できず、目を少し泳がせてしまった。


 白夜さんは何を言っているのだろう。私は嘘なんてついていないのに、前回の話で彼女に真摯に話したはずなのに何故だろう。


「あなたは習字の授業の日を皮切りに、一週間姿を見なかったとあなたは言いましたよね?『峯岸 妙』さんはその後の一週間、ちゃんと学校に来て、あなたと話をしていたようですが」


「知らないわ、どうしてそう考えたの?」


 私は不審に思いそう聞いた。私は嘘なんてついていない。ついていないの、彼女は本当に居なくなったの。先生もそう言っていたのだから。


 白夜さんが持つポーチの中から一冊のノートを取り出し、卓上へ置いた。


「ご存じとは思いますが、彼女は既に亡くなっています。そして、これは『峯岸 妙』さんの残した日記です。高校一年生の11月26日を最後に更新が止まっています。推測ですが、彼女が亡くなったのは11月27日だったのではないでしょうか?」


 彼女は死んでいる?彼女の残した日記?何のことだろう、わけがわからない。


「ふふ、何を言っているの?彼女は死んでいないわ」


「…もう、やめませんか?受け入れませんか…事実を」


 彼女は私の目をしっかりと見たまま、悲しそうにそう言った。たかだか一度会って話をしただけではあるが、そのような表情をするとは思っていなかったので、驚いた。


「何故悲しそうにするの?」


「あなたは忘れたふりをしている。あなたは自分の罪としっかりと向き合おうとしていない。それは何より『峯岸 妙』さんを傷つける…私は今のあなたの行いを、亡くなってしまった彼女に対する冒涜とすら思います」


「…あなたに、妙の何がわかるの」


 机の下に伏せた拳に力が入った。声は怒りで震えてた。彼女の言葉に私は反射的に嫌悪感を露わにした。会ったことも、話したこともない彼女が何故妙を語ることができるのかがわからなくて、私は苛立ちを感じた。


 白夜さんの表情が段々と変化する。悲しみが蔑みへと変化して、私に向ける視線は軽蔑を帯びていた。


「佐伯さんの心情も、『峯岸 妙』さんの心情も私にはわかりません。何故なら私自身の感情ではないからです。ですが、『峯岸 妙』さんの心情はこの日記の中に記されてる、だからわかるんです。彼女がどういう人で、どう考えていたのか」


 それでもなお他人事のように話を聞く私の様子を見て彼女は完全に私を侮蔑した。彼女の向ける新線がもう人を見る目ではなかった。白夜さんからすれば、私はもうウジ虫のようなものなのだろう。いや、多分そんな大層なものでもないのかもしれない。


「見ないのなら、私が読み上げましょうか?あなたはこの中身を知る義務があります。権利じゃありません、これは義務ですから」


「…待って。それはいい、私が読むから…」


 私は卓上に置かれた一冊の日記を開いて、読み始めた。


 私の知らない妙の姿がそこには書かれていた。私が知っていたのはあくまで妙の一側面だけで、他の視点での彼女というものを私はしっかりと把握していなかった。彼女の家庭の事情や本心が、私の思う妙の人物像とは少し乖離していて、私は彼女を理解した気になっていたことをしっかりと認識させられた。


 全然強い人じゃなかった。習字なんて楽しいと思っていなかった。そして、私のことを好きでいてくれた。なのに、私は彼女を不気味だと感じて真摯に向き合おうとせず、彼女から出されたSOSを意識的に無視し続けた。


 …いや、そうじゃない。私は知っていた。当時から知っていたのに、私は知らん振りをした。私の臭い物に蓋をする人間性が彼女のことを自身の理想像に近づけて、本来の彼女をしっかりと認知しようとしなかったのだ。


 彼女を傷つけたのは私だ。そんなこと、心の奥ではわかってた。だからこそ、あの時の妙の顔や妙が空気を切って落ちる音、地面に叩きつけられた時のぐちゃりとした音や、綺麗だった髪が赤に濡れ、瞳は潰れていて、もう見る影もない。…そんな姿が脳裏に焼き付いていて、17年間ずっと忘れられなかった。何故そこまで焼き付いたのか、それは責任が私にあると知っていたからだ。


 なのに、私は見たいものを見ようとするから、私のせいじゃないと思い込み、先生の都合のいい甘言を受け取って、真実を無視し続けていた。


 当時からどこかで気付いていた、なのに無視し続けた。今はもうどうしようもない。起きたことは変わらない、死者は蘇らない。


 妙は、帰ってこない。


 事実を直視すると、途端に涙が溢れてきた。年端もいかない少女の前で泣きじゃくった。泣いても何も変わらないのに、自分のせいなのに…わかっているけれど、溢れる雫を抑えることはできなかった。


「ごめんね、妙。ごめんね…」


「…全部が全部あなたのせいではないと思いますが、心の支えになっていたあなたが彼女に自殺を決意させてしまったことは事実だと思います」


 その言葉は非常に冷徹で、人の優しさやぬくもりは感じなかった。今の私にとって、先の彼女の発言は鋭利な刃物で胸を裂かれるような感覚を与えた。


 私は事実を今まで見ようとしなかった。その理由は、事実は時に心を殺すほどの威力を持つからで、妙が飛び降りるあの光景が、スローモーションで永久的に流れ続けることは、私の心を殺すには十分すぎた。


 ずっとこびり付いて離れないあのワンシーンが、私の事実を拒む悪癖をより一層悪化させた。





 私は泣いていた。落ち着くまでどれだけかかったかもわからない。それを彼女は何もせず、ただこちらを眺めて落ち着くのを待っていた。


 落ち着いて話せるようになったのを確認してから彼女は私へ質問をした。


「では、あなたが隠していたところを聞かせてください。まず、彼女が飛び降り自殺をするその前日までの様子です」


「妙は…私にずっと謝ってた。ごめんねって言ってたわ。だけど、私は彼女のことがよくわからなくて、気味が悪くて…無視を続けたわ。今思えば妙は、日を追うごとに憔悴していたように思うの。当時はそれすら気付かないほどに私は彼女を『居ない人』として扱ってた…」


 白夜さんは不快感を顔に出しながらその話を聞いていた。当然だ、親友だと思う人間に対する仕打ちじゃない。その酷さに私自身、嫌悪感で気がおかしくなりそうだ。


「…次に、自殺の当日はどのような様子でしたか?」


「……酷い顔をしていた。クラスに来た時から、顔が青かったような気がする。あの日は私に謝りに来ていなかったように思う。ただ、習字の授業が始まる前に、彼女が屋上へ行くのが見えたから、私は後を付いていった。流石に様子がおかしいと思っていたから、どうしたんだろうと思って、後を付けたの。そこで、彼女は振り返って私にこう言ったわ。…ありがとう、ごめんね。さよなら」


 私は気付いていた。それを無視した結果が、その言葉だった。


 それに対して彼女は少し考えこんでから、呟くようにこう言った。


「そうですか」


 そうして暫くの沈黙が流れた。彼女は今もなお考える素振りをやめていなかった。まだ何か彼女の中でつながっていない何かがあるのだろうか、彼女の思考は読めないしわからない。だから、怖い。


「『助けて』を書いているのは佐伯さんで合ってますよね?」


「えぇ、そうよ。私が毎年書いている。妙のために、妙を虐めていた誰かへ向けて、私が書いていたの」


「誰か?」


「…おかしいでしょう?確かに誰かは虐めていたかもしれない。だけれど、その誰かは誰なんだろう。…それすらも私はわからないまま、知ろうとしないまま、先生の言うままに作品を書き続けたわ」


「その先生は東野先生ですね?」


「えぇ、その通りよ。彼女が飛び降り自殺をしてから、私は気を病んでしまった。心の奥では、私が彼女を死に追いやったと理解していたから…その時、先生が私に教えてくれたの。妙が死んだのは私のせいじゃない、私のクラスの生徒が虐めていたのが原因だって…おかしいでしょう?確かに彼女は酷い虐めを受けていたわ。だけどね、それなら誰が主犯かまで理解しているはずよ。でも、それを知ろうとすらせず、盲目的に先生の言葉を信じたの。私が悪いという事実を否定し、先生の嘘を正しいと思い込んだの」


「東野先生のその言葉が、どのように『助けて』につながったのですか?」


「先生は私に教えてくれたの。みんなに妙の思いを伝えればいいって教えてくれたわ。その時の文字は私が考えたの。彼女は苦しんでいたと思った、誰かを呪うような人ではないと思った。だから、彼女は助けてほしいと思っていると勝手に推測して、私が作品を作った。それが、高校2年の時の話」


 私はそこで一度話を止めた。緊張と涙でカラカラになった喉を濡らすために机の上にあるコップを持ち、一口含んだ。


「そこから私は高校3年まで書いたわ。そして、卒業に差し当たって、先生が聞いてきたの。妙の思いはみんなに伝わった?と、私は伝わってないと思ったわ。それはそうよね、だって下の代の子には微塵も関係ないもの。そうして、この『助けて』という作品は学校の七不思議として定着してしまったわ。本当に関係のある人には伝わらず、関係のない人間には娯楽の一つとして消化された」


 私はその時の心情を思い返していた。酷い憤りを感じ、唇を噛んだ記憶があった。


 私の二年間は無駄だった。書いた作品には娯楽以上の価値が生まれることはなかった。なのに、何故私が作品を今に至るまで書き続けたのか。それは…


「私はね、先生に聞いたの。私の『助けて』に価値はあったのかなって。先生はこう言ったわ。意味はあるし、継続する価値もあるって」


「それはどうしてですか?」


「それはね、同じクラスの人間の中にこの高校で先生をしたいという人がいるからって先生は言ったの。先生は、その人間が教鞭を振るうその時まで行為が継続されることに意味があり、帰ってきてもなおその作品が新鮮であり続けることが妙の思いの強さを物語るって言っていたわ」


 彼女は下を向いて考え込む。狂気的なことを語る東野先生と、それを鵜呑みにして信じ切った私の異常さを…その心理を読み取ろうとしているのだろうか?


 彼女はやはり何を考えているのかわからない。わからないという点では柊君もそうなのだが、彼との差は明確だった。彼は、仮面を被るからわからない。常に飄々としていて、何を考えているのかがわからない。唐突に核心を突く意見を発言する様子から彼は何も考えていないというわけではないことは読み取れる。だが、その思考が外に一切漏れない。考え事をしているのかすらわからないこともある。それはまるで仮面を被ったようで、まるで本心が分からない。翻って白夜さんは考え事をしているのはわかる。だけれど、それについていけないのだ。思考が深いという表現で合っているかはわからないが、そのような印象で、彼女と話をしていても彼女がどこまで計算されているのかがわからないのだ。


 …怖いのは、断然目の前の少女だ。


 私に恐怖を与える少女は厳かに口を開いた。


「…まるで分らない。東野先生の心理が、全くわかりません。ただ一つ言えることは、あなたに『助けて』を書いてほしかったということです」


「そうね、今思えばそうなんだと思う。先生は私に字を書いてほしかったんだろうなって、思うわ」


「…質問ですが、私はあの作品から憎悪のようなものを感じました。『峯岸 妙』さんは憎しみを抱かない人かもしれませんが、あなたはどうだったのですか?」


「えぇ、憎かった。これを誰かが見て、彼女の心の内を理解して震えあがってほしいと心底願ったわ。だけど、それが意味のないことだって言うことも理解していたの。だって、私が悪いってわかっていたから…」


 彼女の質問にばつが悪そうに答えてしまった。それを見て彼女は悲しそうな表情を浮かべた。


「あなたは知っていて、作品を作り続けた。自分の憎悪も、行為の無意味さも、何もかも知っていて、見ないふりで書き続けた。それも今年で終わりです。来年からは必要ないですよね」


 私はこくりと頷き、それに愁いを帯びた瞳で彼女は返した。それが、私と彼女が交わす最後のコミュニケーションであった。







 翌日、私は学校で東野先生と会話をする機会を得た。たまたまバスケ部の練習がなかったので、朝からでも話をすることができた。私は彼を書道室へ呼んで、そこで会話を試みた。


 彼は相変わらず手入れされた身だしなみで厳格さを放っているが、これまでの経緯から認識された彼のブラックボックスがその厳格さを打ち消した。まるでメッキしたようであり、それを考えると悍ましく醜い何かを隠すための装いであるようにすら思えた。


「先生、話してくれますか?『助けて』について」


「以前説明しただろう。私の知っていることは限りなく少ないと」


 彼の表情は変わらなかった。疑われ慣れているのか知らないが、あまりにも動揺していないので本当に黒幕ではないのかもしれないとすら思えた。だが、佐伯さんの発言から彼が裏で操っていたのは明らかになっているので、余計なことは考えず、単刀直入に質問をした。


「佐伯さんから聞きましたよ。東野先生から教えてもらった方法だって。何を考えているんですか?」


「佐伯?誰の名前かな?」


 いつまでもしらを切りとおす彼の心の奥に秘める真意に嫌悪感を覚えた。東野先生は本当に心の底から悪意を持っていないのだろう。何の悪意も持たず、ただ自分の目的のもとに、彼女へ提言したのだろう。それは、ある意味では純粋で、言うなれば子供のような無邪気さなのだろう。然し、それは到底褒められたものじゃない。人の心を一切持ち合わせていないと言っても過言ではない。先ほどの発言こそが目の前の男が自分本位な人間だという証左だ。そういう異常者が私はあまり好きではなかった。


「…『峯岸 妙』を死に追いやった人物の一人です。そして、あなたが指示して習字を書かせた人間です。しらを切りとおすのは無理があるかと思いますが」


 彼はなおも表情を崩さなかった。暗に証拠を掲示せよと言われているようで少し苛立ちを覚えた。


「あなたは私と初めて話をしたとき、20年以上前と断言できるって言ってましたよね?それはどう説明しましょう?」


「それか、私は本当に20年前だと考えていた。違ったのかな?」


「ええ、違いました。初出は17年前でした…正直、私の見立ても間違えていたのですが、少なくとも20年も前であることはありません」


 右手で顎髭を弄びながら彼は話を聞いていた。それは論理の抜け穴を探す様子で、次に何を言うかは私には容易に想像ができた。


「そうか、思い出した。私は思い違いをしていたようだ。そうだったね、17年前の話だった」


「嘘をつくのをやめないのは知っていたので構いませんが、できるだけボロを出さないようにお願いします…東野先生は『峯岸 妙』さんの字を覚えてらっしゃりますか?」


 東野先生は私のボロを出すなという言葉に不快感を示し、その後、思い出す素振りをする。必死に目を泳がせていることから、何か考えを巡らせているのだろうと推測できた。その後、彼が何を言うかは私も考えてはいるものの、正直どうだって良かった。何故なら、次に来るセリフは私の予想の範囲内で収まっているという確信があったからだ。


 東野先生は本当に書道が好きなんだろう。今までの話の経緯からその様子はうかがい知れていた。そんな彼がほぼすべての人から美しいと称される『峯岸 妙』の字を見てどう思うか?きっと同じで感動したはずだ。


「あぁ、峯岸さんは私が担当した中で最も美しい字を書いた生徒だ。あの繊細さや鮮烈さを今なお覚えている。本当に感動したよ、15か16の少女がここまでの作品を生み出せるとは思っていなかった。あれは正しく芸術家と呼ぶにふさわしい生徒だった」


「そうですか、では彼女がどうなったかも知っておられますね?」


「あれは不幸だった、天才とは誰にも理解されないものだ。家庭環境や学校の人間関係にも恵まれていなかったからね」


 虫唾の走る言葉を平然と述べた。彼は『峯岸 妙』の家庭環境や普段の様子までしっかりと調べていたのだろう。その上で、見て見ぬふりをした。何もしなかった傍観者の一人に過ぎなかったのだろう。何より、先の発言が本心からの言葉であることが私により一層の不快感を与えた。


 彼の人間性、人物像が私の中で正確に固まった。


「そうですか、では佐伯 望さんを知っていますか?」


「それも知っている。彼女は峯岸さんの友人だね。非常に仲が良かったと覚えている」


「彼女の字はどうでしたか?」


「峯岸さんに負けず劣らずの美しい字だったと記憶しているが、それは何か関係のあることなのかな?」


 彼は少しずつ余裕を見せ始めた。私の知っている情報からは真意を見抜けないだろうとそう踏んでいて、それがそのまま余裕へ繋がったのだろう。だが、それは違う。十分に論理は組みあがるのだ。あとはそれを上手く使って彼を問い詰めればそれでいい。


「では、両者には何が足らなかったと思いますか?何があれば、より良い作品へと昇華されたとお考えでしょうか?」


「そうだな…峯岸さんの作品はあれで完成されていた。良い作品ではあったものの、彼女は完成してしまっているからあれ以上というのは求めても出てこないだろうとそう考えていた。だが、佐伯さんはそうじゃなかった。彼女はまだ伸びしろがあった。だから、真摯に字と向き合う時間があればより人の心に訴えかけられるような作品を生み出せるだろうと考えていた」


「…先生は本当に習字が好きなのですね」


「あぁ、大好きだとも。自分の思いや考えを筆に乗せて、技術を以てそれらを和紙の上へ表現する。日本が昔から行ってきた美しく幻想的な自己表現だ。この素晴らしさに私は心を奪われたのだよ」


 思いを語る眼前の男は活き活きとしていた。好きなもの、突き詰めたい何かを持つ人間というのはここまで煌びやかに映るものなのかと少し驚いた。だが、それは正しい行いの下でのみ得られる評価に過ぎない。手段を選ばずに目的を達成する人間の放つそれはただのエゴイスティックな欲望の発散に他ならない。


「…あなたは一度佐伯さんに謝るべきだと私は思います」


「それは何故か、説明していただけるかな?」


「あなたは嘘つきだ。あなたはこの件について恐らく誰よりも詳しいと考えています。なので、事前の説明などは中略しつつ、手短に進めていきましょう」


 私は東野先生の眼を見つめ、覗き込むように話を始めた。


「では本件のあらすじから、『峯岸 妙』さんが本校へと入学し、習字の授業を選択した。その時、あなたは彼女の書く字を見て本当に感動したのでしょう。何故なら関係者全員、「字が綺麗だった」と発言し、あなたに至っては「芸術家」と呼称した。そして、その親友である佐伯さんもまた、優れた腕前を持たれていた。恐らくですが、佐伯さんの話を聞く限りでは『峯岸 妙』さんが居なければ、1番の腕前だったのでしょう」


「間違いない、峯岸さんの次に綺麗な字を書く生徒だった」


「ただ、『峯岸 妙』さんと佐伯さんの取り組み方には大きな差があった。『峯岸 妙』さんは習字を書くことを嫌っていた。佐伯さんは親友に追いつくという目的から精力的に授業にも取り組んでいた…あなたはその二人を見たときに、佐伯さんに期待したのではありませんか?」


「何故?」


「簡単です。あなたは『峯岸 妙』さんの家庭環境や学校での人間関係までしっかりと調べていた。彼女の母は書道の先生であり、彼女自身、母親からしっかりと書道を教わっていた。あなたのような熱意と執着心がある人間から見て、彼女は理想的ともいえる人間だったのではないでしょうか?あなたなら家庭環境まで首を突っ込んで向き合わせるまでしてしまいそうに思います…なのに、あなたは佐伯さんを選んだ。と、言うことは逆説的に『峯岸 妙』さんは自分の思う理想へは辿り着かないと考えたのだと思いました」


「…続きを聞こうか」


「佐伯さんに期待を抱いた辺りから、どのように彼女を自分の理想へ近づけるかを考えていたのでしょう。その期待を抱いてすぐか後かは知りませんが、日々の重圧に耐えかねた『峯岸 妙』さんが命を絶ったことで精神的に不安定になってしまった佐伯さんへ、あなたはすり寄った」


「それは否定させてもらおうか。私は一教員として真摯に生徒と向き合っただけだ」


「…生徒ではなく字と向き合った、そう言い換えなくてもよろしいのですか?」


 彼の歪んだ人格から零れる虚言に辟易としながら私は冷たく切り捨て、話を続けた。


「そして彼女へ適当なことを吹き込み、彼女はあなたの言う通り字を書き始めた。あなたの思い通りになる、望みを叶えてくれる人形ができたような、そんな気分でしょうか?私には分かりかねますが…ただ、そんなあなたにまた一つの困難が訪れた。それは、彼女が卒業してしまうということです。彼女が卒業してしまえば彼女の字を見れなくなってしまう。そう考えたあなたは、教師になりたいという生徒がいると佐伯さんに吹き込んでまだ書かせようとした。違いますか?」


「…そんなことで人をだませると本気で考えているのか?」


 東野先生は苦し紛れの言い訳でそのようなことを言った。その顔には先ほどまで浮かべていた余裕を湛える笑みが消え、代わりにずっと抱えていたであろう焦燥感が顕在化した。


「えぇ、考えています。佐伯さんは都合の悪いものには蓋をするような性格だった。それを知っていたあなたは都合のいいこと、聞こえの良い言葉を伝えれば思い通りになるだろうと、そう考えて彼女へ伝えたのでしょうね」


「これは何の確証もない推測になりますが、恐らくその生徒とは柊先生のことでしょう?彼が教師を志望し、この高校で働きたいという言葉を誰かから聞いたのではありませんか?」


 その場には沈黙が流れた。私はそれが正解であると認識して話を進めた。


「これを乗り切ったあなたはもう安心したのでしょうね。何せ学生には学校の七不思議と言われ、柊先生がこの学校に来たとしても気にしないと踏んでいたから。だけど、イレギュラーが発生してしまった。それは二つ、一つは私を含む数名の生徒が本当に興味本位で調査を始めてしまった。それを知って焦ったあなたは、私と初めて話した時に嘘をついて適当に流そうとした。所詮は学生で、十数年も前のことを深堀しても大した情報は出てこない、そう踏んでいたのかもしれませんね。実際、その通りだったのでしょう。普通に調査をしても時間がかかりすぎるから、勝手にあきらめてくれる…だけど、ここで二つめのイレギュラー、柊先生は関心を持っていてなおかつ真相につながる重要な証拠を握っていた」


 それを聞いた東野先生は目を見開いてこちらを凝視した。その証拠はなんだ、そう言いたげな目だったので口で軽く説明した。


「今は持つべき人の元へ返したのでここにはありませんが、端的に言いましょう。それは『峯岸 妙』さんの残した日記です。これが、すべての謎を審らかにする重要なファクターとなりました」


 それに不信感を抱いている東野先生に対して彼の周囲を回りながら解説を入れる。


「今回の問題を複雑化していたのは極端に言えば一つだけ、それはです。それを先ほど言った『峯岸 妙』さんの残した日記を読むことで情報の精査が可能となりました。あれがなければ、佐伯さんの証言に交じる嘘もあなたの発言の嘘も判別できず迷宮入りしていたでしょう。あの日記が私の立てたストーリーの現実性を高めました。そして、佐伯さんの対応をきっかけとして彼女の心が壊れてしまったことがわかり、佐伯さんからあなたに付け込まれた経緯を聞くことができたというわけです…その前から粗方推測はしていたのですが」


 東野先生は憑き物が落ちたような様子で私に質問をしてきた。


「…そうか、そうだろうとは思っていたがね…いつから私が怪しいと踏んでいた?」


「先ほど申しましたが、あなたが20年以上前と言った時です。その話をする前に柊先生と少し話をして、当事者であるような様子が見られました。柊先生が当事者であるとした場合、概算でも15年前くらいのはずなので、あなたが嘘をついているのではないかと疑いました。先ほども述べましたが実際は17年前のことだったので、私の推測も外れていたのですが…ただ、それだけです。それ以外はあなたは上手く隠されていた」


 そうか、彼は絞り出すようにそう言った。感嘆や恐怖などが入り混じったような声音で、表情には出ていないものの何か言いたげな様子であり、続く言葉を私は沈黙の中で待ち続けた。


「…私は昔から字が好きだった。誰にも理解されないかもしれないが、心の底から書道が好きで、魅入られていた。だが、人には微塵にも興味を示さなかった。どれだけ優れた作品を書き上げる人が居ようと、私はその字を称賛することはあれど、その人間を称賛することはなかった。私は、作品の為ならば人の思いを踏みにじることは簡単だと考える人間だ」


 彼は悲しみと貼り付けたような笑みを浮かべながら自分の人間性を吐露した。私はそれを聞いているだけで相槌も打たず、ただ聞いていた。彼の人間性はとうにわかっていた。人を何とも思わない人間性であるともわかっていた。だからこそ、真剣に話を聞いているふりをした。彼がそれを露わにするまで、私はそれを続けるつもりでいた。


「私も、少しは申し訳ないと思う心がある。佐伯さんには本当に申し訳ないことをした。そう考えている」


 悲しげに語る彼を見て、呆れた。彼はわかっていないようだった。だから、指摘した。


「あなたは今もなお嘘をついている。思ってもいないことを口にしないほうがいいですよ。何が悲しいのですか?」


 先ほどまでの表情が途端に消えた。それは取り付けた仮面を取り外すようなもので、やっと素顔が見られたと私は対話の準備をした。


「君は賢い人間だ、何を言っても見抜かれる。君と私は同類だろう?私の心理を言い当ててみてはくれないか?」


「…あなたは『峯岸 妙』さんも佐伯さんもどうでもよかった。要は作品、良い字を書ける人間を探していたに過ぎなかった。あなたが悲しそうに話していたのは簡単で、惜しがったのでしょう?ここまで仕上がった作品がもう見れないから」


「素晴らしい、見込んだ通りだ。君は非常に面白い」


 彼は満足そうに拍手して私を称賛した。それに私は嫌悪感を浮かべながら睨みつける。称賛されることも、彼と同類として扱われることも私にとっては屈辱的で非常に苛立たしい。


 目の前の男は非常に危険だった。あまりにも自分本位で目的、欲望に恐ろしいほどに素直であった。彼は人を人と認知しているが、その認知はそこらに転がる机や紙などの消耗品と同じような認識であり、正しく救いのない人間であった。


 この手の怪物は世の中ごまんといる。だが、その大多数は上手く人間に擬態して日常を営んでいる。ただ、眼前の男が擬態しきれずに正体を現しただけに過ぎない。強いて言うことがあれば、怪物の本性は有体にして醜いということだ。


「そうですか、あなたはこの後どうするのですか?」


「学校はやめる。もう目的がなくなってしまった。ちょうど飽きたところだ」


「…お好きに楽しんでください。ただ、私や佐伯さん、柊先生には今後一切関わらないでください」


「ああ、問題ない。もう興味もないからね」


 その会話を最後に、私と彼との話し合いは終わった。

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