けれど、俺は虎になれない

春海水亭

始まることもなく終わっている

***


 世界には約八十億ほどの人間がいるらしいけれど、こんなものはただの数字だ。

 約一億三千万人、これが日本にいる人間の数。これもまだまだ数字だ。

 H県の人口が五百四十七万で、俺の住んでいる市がおおよそ百五十万人。

 俺が通う高校に在籍する生徒の数は九百人ほどで、二年生が約三百二十人。

 そして、俺の所属する二年C組は四十人。

 けれど、誰かに決められた数というのはどこまでも他人事で、周りに何人の人間がいようとも、俺には関係ないことだ。

 俺には友達はいない。

 ただ、認めさせたい人間が一人だけいる。


「うーっす」

 どれほど長い間交換されていないのか、部室棟の廊下を照らす電灯の明かりはだいぶ弱くなっていたが、今扉を開いた文芸同好会の部室はそんな薄暗い廊下より、なおも暗い。

 太陽を憎んでいるかのようにカーテンは締め切られ、電灯は存在そのものを忘れ去られてしまったかのようである。真っ暗な部室にパソコンの光だけが光源として存在している。


「ああ」

 俺の挨拶におざなりな返事をしたのは、神山だ。

 ちらりとでも俺に目をやることはなく、ひたすらにキーボードを打ち続けている。

 俺は手探りで電灯をつけると、神山の向かい側に座った。

 神山は部屋が明るくなったことにも特に反応を見せることもない。

 今度は何を書いているのかはわからないが、俺にはその集中力が何よりも羨ましい。家での作業量を考えると、睡眠の時間も食事の時間も何もかもを執筆のために捧げているのではないだろうか。

 俺にそれだけのことが出来るのかわからない。

 神山はすっかりと温まっているようだが、俺は次に何を書くかすら決まっていない。何か良い書き出しは無いものかと思いながら、ぼんやりとスマートフォンの画面を眺めている。


「神山」

「なんだ?」

「何書いてんだ?」

「読めばわかる」

「じゃあ、早く読ませろよ」

「完成したらな」

「早く完成させろよな」

 俺はなるべくぶっきらぼうに聞こえるようにそう言った。

 目の前の男の作品はいつだって、そしてどんなプロの作品よりも面白い、けれど……それを楽しみにしているだなんて知られたくはない。

 素直になれ――他人が聞けばそう言うかもしれないが、俺にもそういうくだらない意地のようなものがある。俺が神山のファンであることを認めれば、神山が上で俺が下、そのような上下関係を生んでしまうような気がする。

 それだけは認められない――俺は神山と対等でありたい。

 神山はおそらく将来プロに……それも、日本、いや世界中で読まれるような小説を書くであろう男だ、その才能は誰よりも俺が認めている。

 けれど、俺だって小説家になりたいと思っている。

 いや、それだけじゃない――出来るならば、神山に勝ちたいと思っている。

 だから、始める前から負けを認めること、それだけはしたくないのだ。


「あ~……わかった、よし」

 俺は独りごちながら、スマートフォンで文字を打ち込んでいく。

 淀みなくキーボードの音を響かせる神山に比べれば、そのペースはかなり遅い。

 俺はプロットを書かない。書いたほうが良いことぐらいはわかっているが、どうにも向いていない。頭の中で大体の流れをぼんやりと思い浮かべて未来へと文章を打ち続けていく。

 神山もプロットを書かないらしいが、あいつはおそらく頭の中に完成したものが既に存在しているのだろう、あいつにとって執筆とはそれをひたすらに出力していく行為なのだ。

 


「なぁ」

 書き始めるまでは時間がかかるが、書き始めてさえしまえばこっちのものだ。そう思いながら順調に書いていたその時だ。珍しく、神山の方から俺に声をかけてきた。


「お前のクラスでも山月記やったのか?」

「あぁ……虎になる奴か、やった、やった」

 山月記――漢文と勘違いするほどに漢字が多いが、なんとなく読めてしまう。

 主人公の李徴は才能のある男だったが、詩作で結果を残すことは出来ず、劣等感の中就職したが、その日々にも耐えられず、何者にもなれないまま虎になった。

 その声は、我が友、李徴子ではないか?――そんななんでもないような台詞がやけに印象に残るから不思議だ。


「お前は山月記を読んでどう思った?」

「どうって……そんな先生みたいなこと言うなよ」

「僕は……」

 神山は何かを言いかけて「いや、いい」と己の言葉を殺した。

 何を言いたかったのだろうか、俺は神山に聞こうと思ったが、再び流れ出したキーボードの音が、神山が俺の言葉を遮る防壁のように思えて、俺は疑問の言葉を腹の中で殺して、代わりに「早く完成させろよな」ともう一度言った。

 返事の代わりにただ部室にはキーボードの音だけが響いていた。


「……なぁ」

 下校時刻を五分前にひかえて、再び神山が口を開いた。

「なんだよ」

「……僕はプロになりたいよ」

「……俺もだ」

 神山の言葉に、俺はそれだけを返した。


「小説を書き続けたいよ」


***

 

 それから俺高校を卒業し、大学に進学することは出来た。

 馴染むことは出来なかった。

 高校で出来なかった友達が大学に入って出来るということもない。

 そして大学を卒業して、正社員に就職することは出来なかった。

 高校を卒業してから十年、俺は未だに実家で暮らし、バイトで日銭を稼いでいる。

 口では親に対して就職活動をする、就職活動をする、と言っているが、実際のところ就職の意思はない。

 バイトの仕事は責任がなくて、楽だ。

 それに俺は小説家になるのだ。

 そうだ、子供の頃から抱いていた小説家になりたいという夢は、小説家にならなくてはならないという強迫観念となって、俺の中に存在している。

 バイトが終われば、俺は小説を書いている。 

 小説家になるという夢のために、日々、小説投稿サイトに投稿しているのだ。


「……やっぱ、わかんねぇな」

 投稿サイトのランキングは見ないようにしているが、なんとか流行に乗れないものかと思ってたまにチェックすることもある。

 だが、流行のなんとなくの流れを理解してそのようなものに挑んでも、結局自分はそういうものを書けないのだと実感するだけだ。

 だから流行から外れたような小説ばかりを今日も書いている。

 いつかデビューをするその日まで、そのような平坦な日々が続くと思っていた。


「……ん?」

 作品宣伝後のツイッターをチェックしていると、新しいダイレクトメッセージが届いている。

「なになに……?」

 バイト中に話すことはない、家族との会話もめっきり減った、話し方を忘れないように俺は独り言を増やしている。

「貴方の作風に見覚えがあります、もしかしてH県K高校の……」

 メッセージを読み上げる声が止まる。

 だが、俺の脳はそのメッセージの意味をしっかりと認識している。

 神山がどうだったかはわからないが、俺は結局高校在学中は自分の作品を神山以外に見せることはなかった。

 だから、もし俺の高校時代の作風などというものを知っている人間がいるのならば、それは神山以外にはいないのだ。

 メッセージの送信アカウントを確認する。

 アカウント名、ID、アイコン、それらから神山であると判断することは出来ない。


『神山か?』

 俺は端的なメッセージを送った。

『久しぶり』

 返ってきたメッセージもやはり端的なものだった。

『まだ小説書いてるんだな』

『お前は書いていないのか?』

『良かったら、会って直接話さないか?』

『わかった』

 同級生に久しぶりに誘われた場合、宗教か怪しいビジネスの勧誘――ネットではよく聞く話だ。

 高校卒業以降、俺は神山に一度も会っていない。

 俺は神山の連絡先を知らなかったし、同窓会に参加することもなかった。

 だが、良いだろう。

 俺は結局、神山の書くもの以上に面白い作品に出会えなかった。

 もしも、もう一度神山の書く作品が読めるのならば、騙されたって構わない。

 通っていた高校の近くの喫茶店で待ち合わせをして、俺はベッドに入り込んだ。


***


 週末。約束の日。

 普段ならば十時ぐらいになってようやく目覚めるというのに、今日は鳥の声と共に目覚めた。

 大学入学と同時に仕立てたスーツはとっくに入らない。

 別にスーツを着る必要はないのだが、神山に現状を知られたくはない。

 なるべくまともに見えるような服を選んで、家を出た。

 待ち合わせの喫茶店には歩いて向かう。

 かつての通学路に対して懐かしい気持ちもあるが、それよりも変わってしまったものの多さに気がつく。

 知らない店や無くなった建物を横目に俺は考える。

 俺も変わってしまったものなのだろうか、それとも変われなかったものなのだろうか。

 

「うーっす」

「ああ」

 喫茶店のオープンテラスでは、神山がほとんどあの頃の姿で椅子に座っていた。

「変わらないな、神山」

「お前は太ったな」

「うるせぇ」

 神山の前では言葉が淀みなく流れ出ていく。

 俺はコーラを注文し、席に着いた。


「お前……小説、まだ書いてるんだな」

 目を細めて、神山が言った。

 懐かしむような口調が、嫌でたまらない。

 鼓膜に焼き付く言葉はセピア色で、俺は鼓膜を剥ぎ取ってしまいたかった。

 懐かしい思い出なんかにするなよ。

 

「お前はもう小説を書いていないのか」

「……ああ」

「なんでだよ」

「高校の時、僕にとって小説は全てだった。小説を書くことが何よりも楽しくて、プロの小説家になりたくて……大学に行っても書き続けるつもりだった、けど」

「けど……なんだよ」

 俺は答えを聞きたがっていながら、答えを求めていなかった。

 今すぐにでも席を立ってこの場所から離れたいと思っている。

 なのに、俺の足は地面に縫い留められてしまったかのように動かない。


「恋をしたんだ、人生で初めて」

「は?」

 懺悔するように、神山が言った。


「大学在学中に出会って……俺から告白して、付き合うようになった」

「……別に恋人がいても小説が書けないことはないだろうが」

「……ああ、そうだよ。恋人がいても小説は書ける。けど……恋人が出来て、小説が僕の全てじゃ無くなってしまった」

 神山の表情は悲しくもどこか晴れやかだった。

 今の俺にとって小説は――否、小説家になることは全てだ。

 俺と同じ呪縛に高校時代の神山も縛られていたのだろうか。

 そして、勝手に――解き放たれてしまったのだろうか。


「僕の存在意義は小説を書くことだと思っていた、面白い小説を書いて他人に……お前に認められる、いずれはより大勢の人に。そして何よりも自分を認められるようになる……そのはずだった。けど、違った。彼女と過ごす日々は楽しかった……楽しかったんだよ、小説を書かなくても。認めてもらえるんだよ」

「…………」

「不特定多数の誰かに認められなくても彼女と幸せに暮らせればそれでいい、そう思った」

「それでいいのか?」

 答えはわかっている。それでも抗うように俺は尋ねた。


「それでいい、良くなってしまった。もう一度小説を書くことはあるかもしれないけれど、けれど僕は書かなくてもいいんだ」

「……俺は、一生書き続けるよ」

「そっか、いいな」

 もしかしたら、神山は俺の言葉にかつての俺を見ているのかもしれない。

 何も変わらないものを、見ているのかもしれない。

 けれど、違うのだ。

 俺にとっての小説は目的ではなく手段になってしまった。

 どうしようもない人生から救われるための手段に。


「なぁ、僕はさ、お前に山月記の話をしただろう?」

「……ああ」

 少し時間は掛かったが、思い出すことが出来た。

 神山から話題を振って来るのは珍しいことだったから覚えている。


「僕があの話を初めて読んだ時、李徴が虎になったことよりも……家族のために詩作を辞めてしまったことのほうがずっと恐ろしかったよ」

「……俺も」

 続く言葉を飲み込んで、俺は黙って頷いた。

 李徴と違って俺に妻子はいない、それでも俺は生物として俺自身を生かさなければならない。だから、いつか諦めてしまう日が来るのだろうか。慰みの小説家という夢を見ることすらも諦めて。

 それとも俺は小説と心中するのだろうか。出来るのだろうか。

 高校の時の神山ならばきっと迷わず心中していただろうに。


「神山、俺……お前の小説が世界で一番好きだったよ」

「そうか」

「うん」

 もう高校の頃の神山の小説は、神山自身ですら書くことが出来ないのだろう。

 あいつはもう小説と死ぬことが出来ない、一緒に生きる人間を見つけてしまった。

 もう、俺は神山に勝つことは出来ない。

 神山の小説は美しい思い出になってしまった。

 美しい思い出を塗りつぶせるほどの眩い未来を、俺は書くことが出来ない。


「なぁ、神山」

「ん?」

「李徴は虎になれて幸福だったと思うんだ」

「何故だ?」

「……凡人は虎にすらなれない」

 もしも俺が虎になれたのならば、神山を殺していただろう。

 いや殺すだけならば、人間のままでも出来る。

 神山を殺せないことが、そのまま凡人の証左なのだ。

 良くも悪くも李徴には虎になるほどの情念があったということだ。

 李徴は日々虎に近づいていく、けれどそれは人間時代の苦悩を忘れてしまえるということだ。

 俺は何も忘れられないまま、人として生きていくことしか出来ない。


「結婚式には呼んでくれよ」

「ああ、勿論。僕にはお前ぐらいしか友達がいないからな」

 そう言って、俺達は別れた。

 祝福などしたくはない、それでも――俺は結婚式に行くのだろうか。

 目を閉じ、俺は神山の結婚式を想像する。

 そこには神山の顔をした幸福そうな普通の人間がいる。


「……人間になんかなるなよ」

 話し方を忘れないように俺は独り言を増やしている。

 だから、俺は誰もいない帰り道でひとりごちる。

 けれど、今だけは。


「ずっと……ずっと……虎も喰うような怪物でいてくれよ!!」

 話し方を忘れたように、俺は叫んだ。

 けれど、それは獣の咆哮には程遠い人間の言葉だった。


 俺は虎にはなれない。

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