御前試し合い粛々と進行中に候

@isako

御前試し合い粛々と進行中に候

 年初めには御前ごぜんためいが行われる。


 戦士たちが帝の御前にて決闘を行い、国随一のが決まるまで戦い合うのである。優勝者には最高の誉が帝より直々に与えられる。金品が供されることはない。それは戦士への侮辱に値する。ただ優勝者が得るその誉は、副次的に彼にあらゆる富の機会を与えたことを、ここでは多く語らないことにしよう。


 予戦では八名の戦士が選出されることになっている。そこに名を連ねたのは常連の戦士が六名、無名の者が二名と過去に類を見ない状況になった。大抵は名の知れた戦士が本戦に上ってくるわけだが、今回ばかりは他国より参じたものが二名、予選で爆発的快挙を成し遂げ本戦に参加する運びとなった。そしてそのうちの一人、「アラヤマド・ププ・ミーンミーン・カレラ」は、この正体、先月即位した帝その人である。


 それに最も早く気づいたのが忠臣と名高い私臣ししんクサカベノであった。本戦開催の礼式のときなど、腹痛を訴え御簾みすの奥に代役である弟君を据えた帝であったが、半裸の覆面格闘家アラヤマドとして闘技場に立つ彼を見たクサカベノは含んでいた茶を激烈に噴出し、近くにいたメデタシ伯爵の純白の礼服を汚すなどした。


 礼式ののち戦士控え室に急行したクサカベノはすぐさまアラヤマドを呼び出し、人目につかぬ場所で彼を詰問した。覆面戦士であったアラヤマドの正体を見抜くことができたのは、クサカベノだけであった。


「まことに信じられぬことでございます。御簾奥にお戻りなされ。アラヤマドの抜けた穴はいくらでも替えがききまする」由緒正しき血統を持ち、条件がそろえば帝位相続権を獲得する立場さえあるクサカベノが名実ともに忠義をつくすのは目の前の格闘家ただ一人である。最上級位の貴族が異国の旅人に平伏する姿がそこにあった。戦士控えの小屋、その裏手はむき出しの地面であったが、クサカベノは躊躇ちゅうちょなく両膝を着き礼服を汚した。


「断る」帝はまだ幼さの残る声で断固拒否した。当時二十歳、歴代では十四番目に早い即位である。


「いかにして」忠臣は静かに、しかし力強く帝を見つめた。


 これほどまでに敬語装飾を省いた言葉を帝に吐けるのは、帝国広しとはいえこの男だけある。ただそのクサカベノにも言い分はある。何と言っても頂戴が平然とまかり通る御前試し合いである。御前のはずが当の帝が試し合いに参加し、怪我をすれば、あるいはそれこそ最悪があれば、まつりに大きな障りがある。下界で身分を偽り民と触れ合う遊行ゆうぎょうなどとは話が違う。


 帝もまた、クサカベノほどの男に理なくして我を通せるとは思わない。帝自身がクサカベノを今の立場まで引き立てたのは確かだが、それで通用するかどうかはクサカベノ自身の力による。私臣就任からひと月と経たぬ間に、先代以来の臣下たちを相手取り侃侃諤諤を駆け抜け、初級教育の間口を広げる施策を実行に移したことは記憶に新しい。帝はこの男相手に小賢しい誤魔化しは無用と、それどころかかえって失望を招くことになると判断した。


「妻が見ているからだ。ムツタ」


 クサカベノにとっていみなを呼ばれることはごく久しい。主君とはいえ帝は彼を諱では呼ばない。ごく私的な会話でのみ――しかし帝が成人の儀を迎えて以来、そんなものがあっただろうか――帝は彼をその優しい響きを持つ名で呼んだ。当然その意味を掴み損ねるクサカベノではない。


「これから話すことを戯れと思わず聞いて。同じ乳を飲んだただ一人の兄よ」

 宮中では周知の事実であるが、帝はクサカベノの実母を乳母として育っている。幼少よりともに過ごした彼らが、実の兄弟よりも強い絆で結ばれていることは語るべくもない。


***


 カドミシル朝第五代皇帝マキダイの正妻、皇后アミラは異国の姫であった。先代の帝が侵略した遠国の第一王女。その美しさは童貞を失神させ、女どもを鏡から遠ざけ、老人たちに再び熱い血をたぎらせた。悪魔たちはなんども彼女を外道に誘い、また伝説から這い出してきた自然の神々は彼女をめとろうとした。それらを足蹴にできたのは彼女の美しさ、なによりその気高さによる。


 たとえ祖国が滅びようとも彼女は屈しなかった。戦の終りに自室で服毒せんとするその場を取り抑えられた彼女は先代に見初められる。が、やはり開かれることはない。先代は日記に「ここまで複雑な鍵のかかった扉は初めて見る。これを叩き壊して開くようでは、政をはじめとした一切の扉が閉ざされることを覚悟せねばなるまい」としている。


 父がついに解き損ねた扉に、息子が挑むことに誰が疑問を抱くだろうか。先代が夜食の麦餅を喉に詰まらせ死んだ次の朝から、帝は彼女を正妻として迎えたいと告げた。誰のものにもならない一人の女は目の前の青年に冷たく応じた。


「あなたがたの言葉の組木細工くみきざいくに私を組み込むのは勝手ですが、そんなものが愛を独占する理由になるとは思わないことです。あなたのお父様にも初め、同じことを言いました」


「して、父はどのようにのたもうたか」


 くすりと女は笑う。

「次にわたしの手を取るのはどんな方なのか、楽しみで仕方ありません。その様子ではあなた様はすぐにお餅を喉に詰まらせるでしょうから」


 遠国の慣用句かと思ったが、すぐに皮肉だと気づいた青年は、何も言わずに女の部屋を出る。クサカベノのもとに向かおうとしたが、止めにした。先代は彼女を扉であると評したがとんでもない。天に棲まう龍よりも凶暴で、世の果てにあるかの大迷宮よりも深く、そしてどんな冬の夜明けよりも眩しい。まさしくあれこそが女である。そう思った。


 帝は毎晩皇后のねやを訪れるが、やはり相手にされない日々が続いた。一年以上である。皇后は石女うまずめであるという噂さえ宮中にはのぼった。先代から続けて毎夜抱かれていながら、この一つも孕まぬ女が石女でなくてなにか、と。父と子しか知らぬことであったが、この女、現世でもっとも富と力を持つ親子を前にして、扇を横に振ることしかしなかったのである。ただ、父はその後他の女の閨に向かったが、子はそうしなかった。今日もないと判ずると、静かに自分の閨に戻る。それが若き帝の日常になった。


 ことが大きく変わるのはちょうど一年前、前回の御前試し合いの時である。いつも通り退屈そうに催し事を眺める皇后が、その決勝戦で「ほ」と息ついたのである。宮中入りしてからというもの、まったく感情的な姿を見せなかった皇后がついに、心のゆらぎを見せた。すぐ咳払いなどして、それをごまかしたが、微かな呼気の乱れを帝は見逃さなかった。これだ。そう見つけ出した。ここに己が立つほか、この女を振り返らせる方法はない。どんな手を使ってでも、この闘技場に勝者として立たねばならない。


***


 すべてを主君の口から聞かされたクサカベノは、言葉を失っていた。


 彼には分かる。たとえ帝がすべての試し合いに勝利したとしても、あの女が身も心も開くことはない。試し合いの壮絶な闘争に心打たれることがあったとしても、女が女として男を受け入れるのはまったく別の次元の話である。帝という立場上、女を口説くという過程を、つまり心から女と通づる瞬間というのを経験することのなかった帝の思い立ちはあまりにも幼稚であった。


 しかしだからこそ、帝の野心がこれほどもクサカベノの心を打ったのである。帝ともあろうものが、ただ一人の女の心を手に入れるために、下卑た見世物勝負の場に身を降すと覚悟したのだ。死すらありうるふざけた遊びに勝ったところで、女は微塵も気にしないかもしれないというのに。クサカベノがそこに見たのは、ただ一人の男が一世一代の大勝負に出るその姿である。


 止められない。なんといっても、赤ん坊のころから一緒に育った愛すべき弟が、どうしても彼女を手に入れたいと言うのだから。


 試し合いの開始五分前を告げる喇叭らっぱが響いた。さて、とアラヤマドは覆面をかぶり直す。その身体を見て、クサカベノは息をのむ。はて、ここまでの肉が果たして帝にはあっただろうか。いつもは衣の下に隠れて、体系などははっきり見て取れないものであったが、この人物はここまで筋骨に優れた肉体を持っていただろうか?


「まぁ見ておれ」帝は闘技場へ向かった。


 試し合いは勝ち抜き戦の形式で進行する。一回戦第三試合は異国の覆面拳闘士アラヤマド・ププ・ミーンミーン・カレラ(偽名)と、帝国屈指の巨人バルバライの対決となる。半径十メートルほどの円形闘技場に両者向かい合った。戦士たちは事前に説明されているが、観客たちのために改めて試し合いのルールが読み上げられる。


「試し合いに反則はない。ただ一つ、降参の意を示した相手に過剰に攻撃を加えた場合、その行為は特別決闘法第21条により罰せられる可能性がある。また――」


 バルバライが先に語りかけた。


「立ち振る舞いを見れば貴殿がただの格闘家でないことはすぐにわかる。どこぞの貴族の出であろう。しかしてまたその所作は、一方で猛虎のそれさえ思わせる。何者かは知らぬが、なぜ面を隠し、古の武人アラヤマドの名を借りるのか。己の名も誇れぬものに真の勝利はなかろうに」


 アラヤマドは答える。


「私も貴殿と同じように、ただここに立ち続けることだけを誉れとしておるからです。バルバライ殿」


 間をひとおき。バルバライはにやりと笑った。


 銅鑼どらが鳴った。


 巨人バルバライはいわゆる畸形きけいである。その身の丈は二メートル五十センチを超え、腕の長さは片方だけで二メートルに少し足りないほどとなった。重すぎる腕のバランスをとるために鍛えられた下半身は不均衡の先細りを印象付けるが、それは上半身が大きすぎるための錯覚である。これを彼の弱点と狙い、文字通り強烈な一蹴を受けたものは数知れず。徒手空拳の戦いにおいてバルバライの先に立つものなしとの評判は伊達ではない。


 一方アラヤマドは身長一メートル七十センチと、バルバライにとっては子供のような丈であった。しかし丹寧に仕込まれたであろう背筋から始まる格闘用の肉体は、すべての武道家が惚れ惚れするような美しさがある。

威力のための重さと技のための軽さ、この二つの分配が見事に均衡をとっていた。そして放たれる打突を支える関節の柔軟性は、バルバライが見て取ったように彼の一々の所作から現れている。純粋な膂力・体重を重視したバルバライと、機動性や体軸移動といった技巧に重きをおいた肉体設計のアラヤマド。この両者の戦いに拳闘の歴史が変わる可能性を感じた者も少なくなかった。


 バルバライは腰を低く落とし、両手をやや広げた。側背面にアラヤマドが身を翻し回る可能性をまず潰したわけである。低姿勢をとったとはいえ、アラヤマドの上段蹴りは弱点となる顎には届かない。それほどにバルバライは大きい。この腕に絡めとられれば最後、鯖折から腕槌、あげくは児戯のような地面への叩きつけのなどの一撃必殺の大技がやってくる。自身の身体的優位を完全に理解した者の構えであった。


 鍬形虫くわがたむしの大顎を思わせるその構えに対抗するアラヤマドは、ごく一般的な縦拳の構え。ただ頭部を防御せず、どちらの拳も胸より低い位置にとどめられている。足は大きく開かれ、十分に支えられた上半身からの攻撃を意図しているのがわかる。ただバルバライの腕の長さを考えれば、拳、あるいは肘による打突を第一打に選ぶのは愚策であったかもしれない。


 動いたのはバルバライだった。じりじりと間を詰めたかと思うと、突如の突進である。彼を知らぬ者がまず驚くのはその速度、足運びの素早さである。巨体から意外の速度で繰り出される突進は初見では回避不可能に近い。腕に掴まれれば負け。二つの大顎をくぐり抜けたとしても、そのまま超重量級の体当たりが待っている。そしてこの速度、アラヤマドはコンマ一秒単位の世界での判断と行動を要求された。


 アラヤマドが選んだのは回避、しかもであった。見事な体捌きで腕二つを逃がし、体当たりとの勝負を選ぶ。しかしここで策がなければ直撃。その先に待っているのは容赦なき抱っこホールドである。だがバルバライにも弱みがある。両の手をかいくぐられた今、その身体は無防備かつ速度がついている。アラヤマドの勝機としてはこのカウンターがある。狙うは三分の一。顎か、腹か、金的か。


 巨人は腹へのカウンターを予想し、脚を止める。アラヤマドがくぐり抜けの選択肢を選ぶことは構えの足幅をほとんど変えなかったことから読めていた。それからカウンターの発動までに突進の慣性を抑えるのは、バルバライにとって余裕である。腹へのカウンターが来ること予想したのは打撃面積の広さによる。金的や顎などの、狭いが一撃で勝負の決まる弱点を的確に突くというのは、案外難しい。少しでも外せばほとんどダメージのない攻撃になる。その点、腹は広く打ち込みやすい。お手頃な急所である。ただ歴戦の格闘家であるバルバライにとって、覚悟さえ決めれば、腹部への攻撃は勝負を決するほどの一撃にはならない。


 ずん、という音がした。まだ誰も倒れていない。それはアラヤマドの地面を踏む音だった。彼が選んだのは腹部、水月への肘打ち、頂肘ちょうちゅうによる正確無比の狙撃である。つま先から足首、膝、腰、背、肩、肘と連なる駆動部を一斉に回転させ打点到着の瞬間に全ての関節を固定させる。完璧な体術だった。自分の体重と相手の体重の終着点を頂肘と水月の奥に運んだ。爆音を鳴らす足踏みの反作用の働きさえ肘へと流れ込んでいる。

 

 バルバライは顔面に備わる七つのこうからの噴血を以て絶命した。強打に備えた腹筋の収縮は腹圧及び血圧を一気に高め、そこに打ち込まれた一撃は巨人の想定をはるかに超える威力によって、血流を暴走させた。一回戦第三試合は大番狂わせとなる。勝者は異国の闘士アラヤマド。


 二回戦第二試合。アラヤマドが準決勝戦で迎えた相手は魔術師イーワンであった。試し合い唯一の非格闘家であり、本業は医師・占術師である。しかし彼は帝国における最初で最後のほんものの魔術師だった。奇術・弁術・呪術・錬金術の四術を以て魔術とする彼独特の魔術哲学の深奥はついに彼の代のみで途絶えることになったが、現代でも多くの哲学者たちがそのことばについて深き知恵の端緒を探している。


 紙幅の都合及びその苛烈な試し合いの残酷さを理由として、ここでは魔術師イーワンと闘士アラヤマドの対決の詳細を省かざるを得ない。アラヤマドの猛攻を避けきったものの体力の限界に触れたイーワンが降参を宣言した。イーワンはその後「あれは純なる格闘家ではない。死んだバルバライが浮かばれぬ」とこぼした。ほとんどのものが負け犬の遠吠えを聞き流したが、若き忠臣ひとりが、老いた魔法使いの言葉に興味を持った。


「この国にはまだ、いくらかの神々が残っておる。おおかたその力を借りたのであろう。人の業か神の業か、その区別がつかぬのでは魔術師はじゃ」と言い残すと、拗ねたように寝台に転がりぐうぐうと寝息を立て始めた。よほど疲れているらしい。


 帝が試し合いでの勝利を発起し一年。たった一年間では、どれほどの才能と鍛錬があったとしても、試し合いを勝ち抜き本戦に出場するだけの力を得るには足りない。確かに不自然であった。アラヤマドの強さは神がかり的である。


 クサカベノの追及に、アラヤマドはあっさりとそれを認めた。


「いかにも、このはカドミシルに密として伝えられる神によって与えられたものである。イーワンはそれを認めてあったか。いやはや。流石は魔術師。彼奴は本物じゃ。クサカベノ、要あればかの魔術師を重用せよ」


 クサカベノにとってはそれどころではない。密として伝えられる神。そんなものが神でもなんでもないのは、神学を専門としないクサカベノにもわかる。存在を隠され、そしてこのように明らかな力を授けるもの。それは神ではなく、悪魔である。


「一体なにを捧げなされたのです」恐る恐るクサカベノは尋ねた。


「なに。易いものよ。今日一日と引き換えに、これほどの力に達するまでの鍛錬の時間を先払いした。それでも余の寿命はあと六年もあるのだから」


 忠臣は愕然とした。これからさき二人で帝国を変えていくという夢はどうするのか。もっと強く、もっと豊かで、もっと偉大な国を創るという二人の野心はどこにいってしまうのか。たった六年では、その基礎を築くことさえできない。そしてなにより、あと六年という目の前にぶら下げられた時間に、血の混じらぬこの弟が、あと六年ほどで死んでしまうという哀しき予言に、クサカベノは打ちのめされた。


「失望したか?」


 クサカベノは嘘偽りなく答えた。「はい」


 帝にとって、その正直さが、クサカベノのこころが何よりも美しく見えた。そしてそれを見せてくれたことに、生涯の喜びを感じた。


 にっこり笑って、詫びの言葉を述べた。クサカベノは頭を垂れた。彼は帝の顔を見れなかった。帝が詫びたという事実に畏れを感じたわけではない。


 弟の顔が今にも泣きだしそうで、とてもそれを見ていられなかったのである。


***


 庶民から帝まで、国中が大騒ぎしてその行方を見守る御前試し合いの決勝戦は前代未聞。残る二人の戦士はそのどちらもが異国を故郷とする者であった。東国より参じた百年に一人の武人アラヤマド。そして一切合切正体不明の若き剣士ヨハン。御前試し合いでは武器の使用も許可されている。


 両者相立つ。観衆は最大級の歓声を以て二人を迎えた。


「下らぬ」ヨハンが言った。


「楽しんでこそですぞ、ヨハン殿」アラヤマドが笑う。


「私はこの国のすべてが気に入らない。貴様もそうだ。誰の許しを得てアラヤマドの名を名乗るか」ヨハンは憎悪に満ちた目を相手に向けた。闘いにはある程度の敵意は不可欠であるが、剣士の持つそれは、試し合いのような場にはふさわしくなく、むしろ戦場でこそ映える暗い輝きがある。


 その眼光に、思わず帝はアラヤマドを演じることを忘れた。


「まぁ、奪ったものは使いたい性分でな」


 史実上の武人アラヤマドの名は、皇后アミラの祖国において崇め奉られる武神アラヤマドを由来とする。亡国では当世でもっともすぐれた武芸家に与えられる称号でもあり、その名を冠することは国家の英雄になるに等しい。


「殺す」ヨハンは低く呟いた。そのあまりの殺気に、神の力を得たアラヤマドでさえ慄いた。これは本当に死ぬやもしれんな。そう思った。


 銅鑼が鳴る。そして静寂。この戦いに余計なものを差し込みたくない。誰もがそう思ったのだ。


 アラヤマドは相変わらずの縦拳中段の構え。対するヨハンは剣を一向に抜く気配を見せない。柄に手を添えているが、刃の煌めきはいまだ鞘の中である。ただ、その眼はすでにアラヤマドを喰い殺さんとしている。


 アラヤマドが先に出た。構えた縦拳を射出する。そして即座にの動き。その額には玉汗が浮かんでいる。奇想天外の動きであった。拳がヨハンに跳ね返されたかのように見える。実際、そうであった。


 ヨハンはすでに剣をさやから抜いていた。粘り強いはがねを何度も鍛え、丹寧に研ぎ澄ませた細身の剣――かたなである。鞘に納めたままの刀を超速度で繰り出し、間合いに飛び込んできたものを一刀のもとに斬り捨てる秘剣。これこそが亡国の剣士が一対一の戦いにおいて編み出した最終答案だった。その名を居合いあい。自ら動くことなく、して相手にわす刃である。帝国にはこのような速度と切れ味を重視した剣は存在しなかった。その重量で鎧ごと叩き潰すような大剣が主流であったため、帝国の戦士たちはこの居合の餌食になった。


 紙一重で刀をいなしたアラヤマドであったが、隙だらけのように見える刀を抜いた後のヨハンに追撃することができない。刀を振り切ったヨハンの体勢には、このまま返す刀で斬り返すという動きが残っていた。残心ざんしんである。


「わかっていれば避けられる、というほど私の刀は容易くはない。その感性だけは本物。よき師さえあればよき武術家になれたであろうに」


「本物の戦士にそこまで言われるとさすがに照れる。ただが一介の武術家で終わるというのは、運命がそれを許さぬよ」


 言ったが早いが、アラヤマドの腹に一筋の赤。流れ出すは命の色である。アラヤマドは居合を避けきれてはいなかった。臓腑には届かないものの、肉は断たれている。血は止まらない。時間が経つほどにアラヤマドの技は肉体の調和を失い、錆びていく。刀剣との闘いにおいて拳士がもっとも避けなければならないのが、ささいな刃傷からの出血である。アラヤマドは時間の限りを突き付けられる。血は失われ、技は輝きをなくしていく。


 返す刀の形を保ちながら刀は鞘に収められようとしている。鞘に刀が収まれば居合が飛ぶ。むき身の残る間は返刀へんとうが控えている。この攻防一体の居合戦法の唯一の隙は刀が鞘に戻り、刃がその半身を鞘、また半身を外に晒してある瞬間のみである。アラヤマドは当然そこを突く。


 居合の制空圏を潰すのは頂肘の必殺距離のみ。極至近の砲弾を撃ち込むほかない。腕や脚といった中途半端の間合いは半抜きの居合の餌食である。そして流れ続ける血。アラヤマドのこの瞬間の一撃に全てを懸ける。


 そして相手は本物の剣士ヨハン。戦いはいかに相手の裏の裏をかくべくものかということを熟知している。その瞳が迫りくるアラヤマドに語る。


「避けなされ。アラヤマド殿」


 一級品の刀の柄。そこに仕込まれたるは爆薬と鋼鉄の杭である。収めた刀の尻から機械仕掛けで発射される一度限りの猫騙し。ただし当たれば腹を抉り骨を砕く。


 そしてヨハンの狙いはアラヤマドではない。位置取りは絶好。アラヤマドの背後には、御前試し合いを御前たらしめる存在が御簾の奥に鎮座している。ヨハン・フーリーン・チャカ・パプリカは誇り高き剣士ではない。祖国を滅ぼされ、最後の血統である姫を奪われた哀しき暗殺者である。


 ――当たる。アラヤマドならこれを避ける。私が狙っているのは彼ではなく御簾奥のあの影だからだ。この至近距離で居合よりも速い「飛び杭」だが、アラヤマドほどの戦士ならば避ける!


 ヨハンの読みは外れる。アラヤマドは左手で飛び杭を押さえた。火薬で撃ちだされた杭はアラヤマドの手のひらを切り裂き、腕骨を縦に引き裂きながら肩で外に抜けた。当然、軌道も勢いも乱され、それは闘技場の外にさえ出ない。左腕さわんは壊滅的であり、あと十秒も立っていられないほどの出血があった。しかし一撃を見舞うのであれば、一秒で事足りる。


 年始恒例の大騒ぎ。地から天まで轟かすどもの夢はかくして一人のおんなに捧げられた。優勝者はアラヤマド。異国の拳士であり、運命の冒涜者。大国の行く末を担う男。アラヤマド・ププ・ミーンミーン・カレラである。


***


 半年後、宮中警衛隊に特別招聘されたヨハンは、帝の忠臣クサカベノの茶話に付き合わされていた。


「この国のすることはわからん。私のことを調べつくしたうえでの徴用であろう。これは」


「調べとはなんのことであろうか。あなたは異国より参りし一人の武芸家。帝はよき国のよき兵にはよき師が必要であるとおおせられた。御前試し合いで破竹の活躍をみせたあなたに声がかかるのも当然のこと」


「御前もなにもあるまい。帝は目の前で私の力を計っていたのであろうが」


「過ぎたことよ」


「して、かの殿はいかがされておるのだ。聞いたところ、あの試し合いは姫の気を引くための一芝居であったそうだが」


 年初めの帝の企みを知るのは、宮中でもごく一部の人間のみである。そしてクサカベノは眉間に皺をよせ、深々と息を吐いた。


「かの試し合い。肝心の御方が見ておらなんだ。どこぞで遊んでいたのか、帰ってきたのはアラヤマドが意識を戻してからよ。御付きの女官どももこぞって何も知らぬときた。そのようなわけもあるまいに」


「女官どもは口を割るまい。姫の女好きはわが祖国でもたびたび噂されたものよ」ヨハンは茶を啜る。


 クサカベノは絶句した。口の端からばたばたと漏れ続ける茶は彼の平服を汚している。


 当の帝は茶を飲みながら思案している。左腕は利かなくなり、皇后がいまだこちらを見向きもしないが、国はよき師を迎え入れた。残された時間は五年と半年。ますます足りなくなった時間は惜しいが、これでなにより人生が楽しくてしょうがない。


 しかも、アミラはなにも無反応というわけではないのだ。この棒切れとなった左腕の傷をみせると、ほんの少し、口端を吊って微笑むのである。


「ばかなひと」


 ますますいことこの上なし。帝はそう日記に記している。

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