第13話
足はあるが、触れるものすべてがすり抜けるため、トランプもめくれず、自力で本も読めない。そんなヒカリは夜になると現れる。今日も部屋で待っていると、どこからともなくすっと彼女の輪郭が浮かんできた。
こんばんは。佐野さん。
「こんばんは。待ってたよ」
僕は彼女を出迎えた。そしてこの晩がおそらく、彼女と過ごす最後の日になるであろうことは、薄々直感していた。
佐野さんのカレーだ。いい匂い。
味わうことのできない彼女への最後の晩餐だった。僕はカレーの香りを堪能するヒカリの愛くるしい表情を、しばらく見守っていた。今日だけは、缶ビールを開ける気分ではなかった。
「ヒカリ、返事をもらってきたよ」
ぴくりと彼女が固まる。答えが出たんですね、と改めて座り直し、僕に向き合った。
僕は覚悟を決め、山内の言ったことを、正直に、嘘偽りなく伝えた。ヒカリは口を挟むことなく、終始真剣な表情で聞いていた。そして、僕の報告が終わると、彼女は一度大きな瞬きをしたあとで、はにかんだ。
そっか。彼女がいるんだ。あーあ、振られちゃったんだ、わたし。
ヒカリの涙を拝むのはもう何度目だろう。それでも僕は最後の最後まで、彼女の頬を伝う涙を拭ってはやれなかった。代わりに、山内から預かったものをセットする。
それはCDだった。プレイヤーにかけると、乾いたギターの音色が聞こえてきた。弾き語りらしい。そして、メロディに合わせて山内の優しく力強い歌声が奏でられる。
相変わらず、下手くそなギターだなあ。
ヒカリは目を閉じて、山内からのプレゼントを受け取っていた。彼女につられて、僕も涙を流していた。きっと、この曲が終われば彼女は……。別れは目の前にあった。
「本当に、世界が変わってしまいそうだよ」
これから先、君がいない世界を、光なき世界を、僕はどうやって歩いていけばいい?
ギターの音が止む。僕は恐怖に目を瞑っていた。ヒカリを見失いたくはなかったのだ。ヒカリとの毎日を失いたくはなかったのだ。
佐野さん? 寝ちゃったんですか?
不意討ちの彼女の声が、僕の視界を明るくした。二、三度瞬く。思わず、言葉が漏れる。
「どうして、成仏してないんだ」
彼女の願いを叶えたはずなのに、これで晴れて、安らかに眠らせてやれると思ったのに。
すぐ目の前に、ヒカリはいた。そして彼女はにこりと微笑むと、驚いたことに突然僕にキスをしたのだ。触れることができないはずの彼女の熱を、僕は確かに唇で感じていた。
いつの間にか、わたしもしてたんですね。心変わり。……ありがとう、佐野さん。
一人取り残された世界で、僕はヒカリがさっきまでいた場所をじっと眺めていた。カレーの匂いが目に沁みて仕方がなかった。
サン=テグジュペリは言うのだ。ものごとは、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは目に見えない。僕の心には、しっかりと彼女の笑顔が住みついていた。
君と過ごした日々を決して忘れまい。僕は、少しだけ広くなった六畳間に独りごちる。
「さようなら、ヒカリ」
ヒカリ sharou @sharou
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