5
あのときの彼女はひどく酔っていたのだと、直後の私たちは知ることになる。すぐ近くにあったからと雨の中駆けこんだファミレスで、久慈岡は私たちの言うことにろくな受け応えもできず「ふへへ」と笑うだけだったので、こりゃだめだとみんなで水を飲ませまくった。幸いにもすぐに正体を取り戻した久慈岡は開口一番「やばいトイレ行きたい漏れそう」と発言し、私たちは涙を浮かべて大笑いしながらトイレに向かう久慈岡を見送ることになる。
そのまま三時間近く喋り続け、みんなで名残惜しげにファミレスを出たときにはもう終電が近くなっていた。私と久慈岡はJRを使い、ほかのふたりは地下鉄を使うようだった。
「じゃあね」
そう言いながら友人たちに手を振る久慈岡は、なぜかしつこく「楽しかった」と口にしていた。
「雨、弱まったね」
車通りの少ない道を駅まで辿りながら、傘を傾けて空を窺う。まだぽつぽつと降っていたが、クラス会が始まったときと比べるとずいぶん優しい雨になったように思う。
「そうだね」
静かな声音で久慈岡が言った。雨よりも静かなそれは、耳をよくそばだてないと聞こえない。
「久慈岡は、今日楽しかった?」
「楽しかった」
私がそう尋ねると、久慈岡は食い気味に答えた。最後にあんなことがありながらも断言できるなんて、よほどそれ以外が楽しかったのだろう。
「私はね、『楽しい』を守れたんだよ」
「は?」
隣を見上げるが、久慈岡の表情は傘に隠されて見えない。その声には危険な陽気が見え隠れしていて、私はなぜか慄いた。
「私は『楽しい』を脅かす障害から『楽しい』を守り切ったの。だから心の底から『楽しかった』の」
言っていることがよくわからない。「楽しい」がゲシュタルト崩壊を起こしていて、私までひどく酔っ払っているような気にさせられる。
混乱のさなかに、久慈岡の傘が飛んだ。正確には、立ち止まった久慈岡が傘を投げた。私は目をしぱしぱさせながらその様子を見て――逆に冷静になった。
「濡れるよ」
あんたが悩んで買ったのであろうドレスが。道の端に転がった傘を見つつ指摘すると、久慈岡は「そうかも」とこれまた冷静な声で返してきた。しかし、続く台詞は重なるごとに冷静さを失い、逆に興奮を帯びていった。
「今日の私は負けてなかった。誰よりも勝っていたとは思わないけど、特別見劣りもしなかった。ある程度強そうに見えてたんだよ。それって私にとってはすごいことなんだよ、小柴わかる?」
「わかるわかる。濡れるよ」
「信じられる? もう彼女たちの言葉に感情を振り回されなくていいんだよ。彼女たちの言葉はもう私を動かせないんだよ。信じられない。夢みたいだよ」
「うん、そうだね。濡れるよ」
「自分で勝ち取った『楽しい』って最高だね。あー疲れた、こんな靴!」
続いて彼女はワンツーのリズムで、履いていたピンヒールを両方とも高く高く飛ばしてみせた。これには私も「えっ!」と驚いたので、慌てて拾いに行く。こいつはなにをやっているのだろう。
アスファルトの上に転がったピンヒールを回収し、急いで汚れを落とす。妙なハイテンションで脱ぎ捨てた靴だが、これからもきっと華やかな場で使えるだろう。「こら」と言いながら久慈岡に振り返ると、ちょうどそこに奇跡のようなタイミングでタクシーが通りかかった。
空車マークの出ているそれを停めると、久慈岡は靴も傘も置いてそのタクシーに乗り込んだ。
「ちょっと」
「小柴」
慌ててタクシーに駆け寄った私のために、久慈岡がパワーウインドウのスイッチを押す。少なからず雨に濡れているはずなのに、その姿は少しもやつれて見えなかった。笑顔ははちきれんばかりだし、イヤリングも変わらず上機嫌。
「今日は楽しかった。ほんとにありがとう」
とてもシンプルな言葉だが、久慈岡が言うと非常に重たい意味が込められているような気がしてならなかった。
「――私のほうこそ」
「またね」
簡素に締めくくった久慈岡は、そのままタクシーの運転手に言って車を発進させた。
あとに残された私は、とりあえず彼女の傘を拾ってから、手元に残された靴を見下ろすしかなかった。ところどころに汚れがついてしまったが、それでも白くてきらきらしているのが見て取れる。
もう立っていられなかったのだろう。こんなヒールを何時間も履き続けるのは、久慈岡にはまだ難しい。
紫は雨に笑う 工藤 みやび @kudoh-miyabi
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